内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ながむる女の魂はいづこにありや

2022-12-08 23:59:59 | 詩歌逍遥

 和泉式部が「あくがる」という動詞をどれくらい使っているかちょっと気になって調べたら、『和泉式部続集』に収録された「人はいさわがたましひははかもなきよひの夢路にあくがれにけり」の一首のみであった。『日記』には出て来ない。これだけの事実から早急に結論づけることはできないが、式部はめったなことでは「魂があくがるる女」ではなかったとは言えるかもしれない。
 それに対して、唐木順三も『無常』のなかで指摘しているように、『日記』では「ながむ」という動詞が頻用されている。唐木はそれらの用例から式部における「ながむ」を「眺めながら物を思っている」ことだとまとめる。「この女性は視ることにおいて想っている」という。
 上掲の一首ではたしかに「我が魂が夢路にあくがる」のであるが、「物思へば」の一首では、沢の蛍を我が魂かと見ている式部がいる。
 『日記』における「ながむ」については2014年11月23日の記事で一度話題にしている。今回は「あこがれ」という言葉の使用例をきっかけとして、古語「あくがる」へと遡り、和泉式部の歌を久しぶりに再訪し、そこから唐木の『無常』を介して『日記』の「ながむ」へと再びたどり着いた。
 こんなふうに一つの言葉をきっかけとして古典の世界を「あくがる」ように旅するとき私は時間を忘れてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


貴船神社の魔界の只中で飛び交う螢として「あくがれる」和泉式部の魂

2022-12-06 23:59:59 | 詩歌逍遥

 「あくがる」という動詞が使われている和歌としてすぐに思い出されるのは和泉式部の有名な歌「物思へば沢の螢もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる」である。
 『後拾遺集』(雑六神祇)に見える。『和泉式部集正集』『和泉式部続集』いずれにも見られないが、『宸翰本和泉式部集』には採られている。この『宸翰本』は新潮古典集成の『和泉式部日記 和泉式部集』で読むことができる。
 仕事机右脇の書棚の、立ち上がればすぐに取れる位置に並べられている。その隣に並んでいるのが同じ集成版の『紫式部日記 紫式部集』である。それを見たら、日記で和泉式部に対して辛辣な批判を浴びせている紫式部はあまりいい気持ちはしないかも知れないが、どちらも私の愛読書なのだからお許し願いたい。
 さて、上掲の和泉式部の歌には、「男に忘られて侍りけるころ、貴船に参りて、みたらし川の、ほたるのとび侍りしを見て」と詞書が付けられており、どのような時にどのような場所で作歌されたかわかる(その信憑性はここでは問わない)。
 この「男」が誰かは不明とされるが、古来よりいろいろと詮索はされている。例えば、『俊頼髄脳』は、二十歳ほど年の離れた再婚相手藤原保昌とする説を採っている。中世の御伽草子『貴船の本地』でもそのように想定されている。現代では、寺田透が筑摩書房『日本詩人選』中の一冊『和泉式部』(昭和四十六年)でやはりこの説を踏襲している。
 ところが、この歌が貴船で詠まれたことには注目していない。しかし、歌の解釈のためにはこちらのほうが重要だと私には思われる。式部はなぜ貴船に行ったのか。
 貴船神社はすでに平安時代後期には、縁結びの神として知られていた。だが、同神社は、小松和彦氏によると、「洛中洛外の数ある魔界のなかでも屈指の魔界であった。」(『京都魔界案内』光文社、2002年)
 同書で小松氏は『貴船の本地』に見られる和泉式部についての伝承に言及している。その伝承によれば、式部は保昌を深く愛していたが、その保昌に女ができたことで、夫婦の危機が訪れる。思い悩んだ式部は、貴船神社に参詣して、巫女に夫婦和合を依頼した。その甲斐あって、夫婦はよりを戻す。
 一見美談のようだが、小松氏は、「このような縁結びには、新しい女との保昌の「縁切り」が必然的に伴っていた。こうした三角関係のなかから、やがて「復讐」=「呪い」の念がわき上がってくることになる」と述べている。
 この伝承を背景として上掲歌を読むと、男に捨てられた女の嘆きの深さが魂をあくがれさせたとばかりは言えないのではないかと思えてくる。深い「怨念」が魂を体から遊離させ、あくがれさせたのではなかったか。
 それに、歌に詠まれた螢は単数なのか複数なのか。私は複数説を採りたい。川面を飛び交う螢が千千に乱れる式部の魂の状態を表している。そう解釈したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「春におくれてひとり咲くらむ」― 人と花との相互浸透

2021-04-26 23:59:59 | 詩歌逍遥

 なんということもなく、手元の古語辞典をふと開いて読むことがある。たまたま開かれた頁に並んでいる語を順に読んでみることもあれば、現代日本語の中のごくごく普通の言葉をあえて引いてみたりする。その意味・用法が今日のそれらとは異なっている場合、それこそ高校の古文の授業のときからそのことはよく話題にされ、試験問題にも繰返しなってきたから、今更驚くような発見は少ないが、それでも、辞書を片手にそれらの語の意味の歴史的変遷を辿ってみるのは、あたかもガイドブックを手にしながら史跡を探訪し、遠い昔に思いを馳せるときのような楽しみがある。
 他方、万葉の時代から今日まで同じ或いはほぼ同じ意味で使われてきている言葉には、それはそれで深い感慨を覚えることがある。例えば、「ひとめ【人目】」。これは古代から今日までほぼ同じ意味で使われている。「人目を気にする」とか「人目がある」という意味での用法は万葉集にある。「ひとり【一人・独り】」もそう。「わが思ふ君はただ一人のみ」(万葉集・巻第十一・二三八二)はそのまま直に理解できる。「独り見つつや春日暮らさむ」(万葉集・巻第五・八一八)という副詞的用法もすんなりわかる。
 ただ、同じ副詞的用法でも、人以外について使う場合はどうであろうか。例えば、「あはれてふことをあまたにやらじとや春におくれてひとり咲くらむ」(古今和歌集・巻第三・夏歌・一三六。「すばらしいというほめことばを数多くのほかの花々にやるまいと思って、(この桜は)春が過ぎた後に一つだけ咲いているのだろうか」〔角川『全訳古語辞典』の訳〕)という歌の意を解するのに困難を覚えることはないが、同じような「ひとり」の使い方を今日でもするであろうか。
 『新明解国語辞典』(第八版 二〇二〇年)は、副詞としての用法を「他と切り離して、その人(もの)自身だけに限定してとらえる様子」と説明し、「ひとり日本だけの問題ではない」という例文を挙げているから、ものについても「ひとり」を使うことは今日でも通用すると見てよい。しかし、私自身はどうかというと、あえて擬人法を用いる場合を除いて、ものについては「ひとり」を使うことはない。
 上掲の古今集の歌に関して言えば、(桜の)花という生きものの有り様を人の心理になぞらえて捉えているようでもあり、あるいは、そもそも花を見る人の心とひとり花咲く桜の形姿とが相互に浸透し合っているようにも読める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


耳で読む歌

2021-01-11 23:59:59 | 詩歌逍遥

 母音優位の言語と子音優位の言語という分け方に言語学的にどこまで妥当性があるかはわからないが、日本語にとって母音がきわめて重要な要素であることは間違いないだろう。しかも、欧米言語に比べて極端と言っていいほどに母音の数が少ない。万葉時代には平安末中期にはすでに区別できなくなってしまった母音があったが、それを含めても八つしかない。今日の日本語には短母音は五つしかない。それでもなお「あおいいえ」(青い家)は有意味な表現であり得る。それに長母音を加えても、母音の数が少ないことにはかわりはない。ところが、その少ない母音の組み合わせが多様な意味の違いをもたらすのが日本語だ。日本語を外国語として学ぶ欧米人にとっては、この母音の優位性が聞き取り上の困難をもたらす。
 和歌と俳句を同断に論じることはもちろんできないが、形態上いずれも世界に例を見ない短詩形であるという点では共通する。これらの短詩形の中では、母音の有意味とその響きの固有性がなおのこと重要な意味をもってくる。
 この点に関して、一昨日の記事で話題にした竹内敏晴の『ことばが劈かれるとき』の中にきわめて示唆的な万葉歌の解釈がある。いや、解釈という言葉はおそらく適切ではない。和歌を音声的に感受すること、歌を耳で読むことの大切さがそこに見事に示されている。
 同書で取り上げられているのは、万葉集中の名歌中の名歌の一つである柿本人麻呂の「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ」(巻第三・二六六)である(一四一-一四二頁)。
 ご興味をもたれた方は、同書の当該箇所を是非読んでいただきたく思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


叙景の倫理 ― 永福門院を讃えて

2020-12-07 04:32:17 | 詩歌逍遥

百番歌合に、 山雪を

鳥の声松の嵐の音もせず山しづかなる雪の夕ぐれ

 昨日の記事に引いた歌と同様、『風雅和歌集』巻第八冬歌に収められた永福門院の一首である(八二六)。「鳥の声松の嵐」と、聞き慣れた音の世界を一旦感じさせておいて、それを「音もせず」ときっぱりと打ち消し、「山しづかなる」と風景を包む静寂をそれに対置し、「雪の夕ぐれ」によって単色の風景と時刻を示して歌を閉じる。普段そこに聞こえるはずの音が消された無音の山を現出させている雪が一面を覆う景色に夕暮れが迫る。音をすべて吸い込んでしまう山雪がもたらす静寂に包まれた冬の夕暮れは、どんな色合いだろうか。強いて想像すれば、暮れゆく空の下、薄墨を流して僅かに濃淡があるだけの墨絵のような光景だろうか。「山しづかなる雪の夕ぐれ」という表現には、静寂に包まれた鈍色の黄昏をそれとして受け入れる、何か深く心を落ち着かせるものがある。詠嘆を禁じ、叙景に徹する。控えめだが決然とした詠歌の倫理を私はそこに感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


冬雨が降り染みる枯野原の無音の風景、あるいは寂寥相の凛然たる受容

2020-12-06 06:54:07 | 詩歌逍遥

冬雨

寒き雨は枯野の原に降りしめて山松風の音だにもせず

 『風雅和歌集』巻第八冬歌に収められた永福門院の一首である(七九七)。
 何日か前から、なぜ私はこの歌に惹かれるのだろうかと自問している。『玉葉和歌集』『風雅和歌集』中の永福門院の歌には、同時代の他の歌人たちの類歌には見られない、際立った秀歌が少なくないのだが、今日は特にこの一首について、何が私に訴えかけてくるのか、言葉にしてみたい。
 永福門院の他の叙景歌でもそうだが、叙景に徹し、情意性を示す言葉がまるでないか、ほんのわずかしかない。詠嘆に流れる要素が厳しく排除されている。この歌の場合、「寒き」にわずかに情意性が含まれているが、それは院の心情の投影ではない。叙景そのものが院の心だとも言えるが、そこには湿潤な情念性が欠片もない。枯野原に染み込むように降る寒雨が枯野原から他の一切の音を遮断している。枯野原の向こうの山には風が吹き渡り、松風を起こしているのに、その音は聞こえない。「音だにもせず」と勁く言い切られたこの無音の世界は、その彼方に何らかの希望を託すことを許さない。その寂寥たる眺めを嘆ずるのではない。その寂寥相を凛然と受け止める器量の奥深さを私はこの歌に感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「木の葉なき空しき枝に年暮れて」― 京極為兼の光芒

2020-11-21 19:18:00 | 詩歌逍遥

 自分の心に向き合い続けるのは、ときにしんどい。そうすること自体が心を蝕んでしまう。扉も窓もない部屋のような心の中で人は生きることはできない。考えることは、それが心的閉鎖空間を突き破るかぎりにおいて意味がある。だが、それだけのエネルギーが身心に充填されていないときはどうすればいいだろう。
 そんなとき、私は詩歌に救いを求める。それは、和歌だったり、連歌だったり、俳諧だったり、近現代詩だったりする。救いを求める頻度からすると、万葉から新古今までの和歌が多い。数百年、いや千年を越えて心を遊行させたいのだ。
 先月末に刊行された渡部泰明の『和歌史 なぜ千年を越えて続いたのか』(角川選書)は、千二百年以上も続いている和歌の持続力の不思議さを正面から問うた一書である。本書で取り上げられている古代から近世までの十数人の歌人のうち、額田王から定家まではそれなりに親しんできたが、それ以降の京極為兼と京極派、頓阿、正徹、三条西実隆、細川幽斎、後水尾院、香川景樹については、これまであまり関心もなかった。それだからこそ、本書のその部分に特に惹きつけられた。
 十三世紀の終わり頃から十四世紀の半ばにかけて、一目でそれとわかる特異なスタイルの和歌を詠む一派が登場し、和歌史の上で燦然と輝く活躍を見せた。彼らは、この一派の指導者京極為兼の名を取って「京極派」と呼ばれた。この党派が主導して遺したのが『玉葉和歌集』『風雅和歌集』である。
 本書の著者渡部泰明氏によれば、「為兼は「詞」との関係では「心」の自由を求めたが、それ以上に、「心」と自然や景物との関係性を大事にしたのであり、それによって、人間とこの世界との合一という理想を体現しようとした」。

露おもる小萩が末はなびきふして吹きかえす風に花ぞ色そふ(玉葉・秋・五〇一)

 「露に靡いていた萩を、風が吹き返し、ぱあっと露が散ったその瞬間を捉える。宝石のような露のきらめきが、萩の花の美しい色合いを反射させる」(渡部泰明『和歌史』の注釈)。その瞬時の光景を今まさに目の当たりにするかのごとき清新さに心が震える。
 塚本邦雄の『清唱千首』(冨山房百科文庫 1983年)にも選ばれている待春歌に今の自分の心を重ねる。

木の葉なき空しき枝に年暮れてまた芽ぐむべき春ぞ近づく(玉葉・冬・一〇二二)

 「枝の空しさは、わが身の空しさ、初句はいかにも丁寧に過ぎるが、願ひをかけながら、近づく春も恃めぬような暗さを帯びるのも、上の句の強調によるのだ」(『清唱千首』二六六頁)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「一日物云はず」― 詩人の境涯について(下)

2020-05-27 11:52:08 | 詩歌逍遥


いちにち物いはず波音

 この山頭火の句は、『草木塔』以後の生涯最後の一年間に作られ、未定稿のまま残された句中の一つ。その句作は昭和十四年十月六日から十一月にかけての四国遍路の旅の途上でのことである。
 山頭火は大正五年に『層雲』の俳句選者の一人にもなっていたから、同誌の大正十三年八月号に掲載された放哉の句「一日物云はず蝶の影さす」を知っていたかもしれない。しかし、昨日の記事で見たように、「いちにち物いはず」という表現を最初に用いたのは山頭火の方がずっと早かったから、両者の間に「本句取り」の関係はなく、「いちにちものいはず」という表現の期せずしての一致は、両者の詩人としての境涯の共通性を示している。もっと踏み込んで言えば、「いちにちものいはず」は詩の生まれ出て来る沈黙の生ける姿を表している。
 昭和十四年十二月三日、山頭火は五十七歳の誕生日を迎え、翌年、十月十一日、一草庵で死去する。ちくま文庫版『山頭火句集』(1996年)巻末の村上護編の年譜には、「一〇月一〇日夜、一草庵にて句会、庵主は参加せず隣室で休息。酩酊はいつものことと庵主に挨拶もせずに散会したが、一〇月一一日午前四時(推定)死亡、心臓麻痺と診断」とある。
 死の前年の四国遍路の旅中、香川、徳島、高知の霊場を巡拝している。いずれの地でこの句が詠まれたか。この遍路日記によると、十一月六日に室戸岬を訪ねている。

室戸岬の突端に立ったのは三時頃であったろう、室戸岬は真に大観である、限りなき大空、果てしなき大洋、雑木山、大小の岩石、なんぼ眺めても飽かない、眺めれば眺めるほどその大きさが解ってくる[…]。

 室戸岬の先端近くの山の上に第二十四番目の札所東寺(ひがしでら)がある。そこで詠まれた句が日記に記されている。

うちぬけて秋ふかい山の波音

 『山頭火俳句集』(夏石番矢編 岩波文庫)では、この句の前に「野宿いろいろ」という小見出しの下にまとめられた五句があり、その中の一句が冒頭に掲げた「いちにち物いはず波音」である。

波音おだやか夢のふるさと

 これはその五句のうちの最初の句である。もっともこの配列は編者によるものであり、実際の句作の順序通りかどうかは推測の域を出ない。それはともかく、その他の句を脇にのけて、いずれも「波音」という一語を含んだ三句を並べて読み直してみよう。

波音おだやか夢のふるさと

いちにち物いはず波音

うちぬけて秋ふかい山の波音

 この三句を遍路の道行としてこの順番通り読むとどんな風光が見えてくるか。
 第一句は、おだやかな波音を聞きながら、もはやそこに帰ることはない瀬戸内海に面した故郷山口県防府市の海を夢想している。第二句は、遍路を一日黙々と歩く間、聴覚が波音に満たされ、歩行のリズムと海の階調とが同期し、詩人の身体は波音に融け入っている。第三句は、海辺から山頂への道を登りきったところに広がる晩秋の景色の中に波音だけが下から響いてくる。人声無き心身景一如の一句。
 波音がここではない懐かしい過去の場所を想起させる。黙する自己身体が波音と協和する。そして、波音をもそこに包み込む無限の風光の中に詩人の心身は透入する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「一日物云はず」― 詩人の境涯について(上)

2020-05-26 11:43:39 | 詩歌逍遥

 

一日物云はず蝶の影さす

 尾崎放哉の代表句としてよく引かれる句の一つである。この句については、拙ブログでもすでに二回、2013年8月10日2015年2月9日に取り上げている。この句の私の鑑賞についてはそれらを参照していただければ幸いである。
 放哉は、大正十三年六月、神戸の須磨寺大師堂の堂守となる。上掲句は俳誌『層雲』同年八月号に発表されているから、この句が作られたのは六月か七月である。
 興味深いことに、この句の前半「一日物云はず」とまったく同じ表現が種田山頭火の句にも使われている。一つは、大正四年作の句である。

一日物いはず海にむかへば潮満ちて来ぬ

 この時期、山頭火は、防府俳壇の中心的存在として活躍する一方、脚気に苦しみながらも、酒造場経営にも努力している。同年十月に酒倉の酒が腐敗し経営危機に陥るまで、山頭火の生涯の中では、比較的精神的に安定した生活を送っていた時期に相当する。
 夏石番矢編『山頭火俳句集』(岩波文庫 2018年)に収録された一〇〇〇句の大半は、「句集や雑誌に発表されたものではなく、日記に眠っていた作品」である(同文庫解説485頁)。この句もそのような句の一つである。つまり、放哉がこの句を目にした可能性はない。
 さらに興味深いのは、岩波文庫版でこの句の前後に再録されている句に蝶々が出てくることである。これはおそらく編者が意図してのことであろうとは思う。

蝶々もつれつゝ青葉の奥へしづめり

酒倉屋根に陽は渦巻きて蝶々交われり

 この二句の間に上掲句を置いてみると、詠まれた季節は放哉の句とほぼ同じはずだが、放哉の句に表現された「恬淡無為」(荻原井泉水評)の境地とはまったく別の風光が立ち現れて来る。
 そこに感じられるのは、複数の生命体の交歓と生命の充溢である。山頭火の眼は、もつれ合うように飛翔する番の蝶々を追い、それらが生い茂る夏の青葉の奥に入っていくまで見届けている。終日海辺に立ち、潮が満ちてくるのを待っている。それは生命の充溢が己のうちに流れ込んでくるのを受容する姿勢である。自らが経営する酒造場の酒倉の屋根に夏の陽光が渦巻く。その光の中で蝶々が交合する。
 山頭火は、死の前年、昭和十四年に、もう一度、「いちにち物いはず」という表現を使っている。その句が表す風光は上掲句とはまた別の句境である。それについては明日の記事で書く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夏休み日記(13)― 「風さへ暑き夏の小車」

2019-08-15 16:25:27 | 詩歌逍遥

ゆきなやむ牛の歩みにたつ塵の風さへ暑き夏の小車

 『玉葉集』中の「夏歌の中に」の詞書が添えられた藤原定家の一首。「行き悩む牛の歩みにつれて舞い上がる塵、その風までもが暑苦しい夏の日の牛車の歩みよ」(『日本古典文学全集』)の意。『歌苑連署事書』は、この歌を、「いと耳を驚かせリ[中略]かの藍田には玉も石もあれども、石をすてて玉をとり、麗水には金も砂もまじれども砂をのぞきて金をひろふなり[中略]捨つべきをば捨て、とるべきをばとるならひは今更いふべからず」、つまり、こういう詠みぶりは好ましくないと非難している。雅を事とする和歌にはふさわしくない題材だというのである。確かに、夏の暑苦しさなど、伝統的歌学が理想とする王朝美からほど遠い。実際、夏の暑さそのものを主題とした和歌は中古から中世にはきわめて乏しい。近世以降の俳諧、近代俳句において夏の暑さを詠んだ佳句が少なくないのと対照的だ。それだけに、行き悩む牛車と熱風に舞い上がる土埃というおよそ美の規範からかけ離れた素材を巧みに組み合わせ、炎暑を見事に形象化してみせた異色作として上掲歌は目を引く。