内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

痛みに対する積極的態度(十)純化(その四) ― 受苦の現象学序説(29)

2019-06-09 13:41:42 | 哲学

 苦艱から癒やされることは、魂にとってその内的転回である。この内的転回は、ほんの僅かでも思い出すだけで私を苦しめるのに十分な誤ちの記憶なしには生じ得ない。このとき、苦しむことは、そのまま浄化・純化でもある。自分の過去の所業について何も苦しまない人は悪から解放され得ない。
 苦しみは、このとき、反省の結果である。改悛や悔恨の中には、たとえそれらがほとんどひとりでに生まれたものであっても、反省の場合と同様に、自己への回帰、過去の事実と所業についての再審問が含まれている。何も苦しまずに自分の過去を振り返ることは誰にとっても簡単なことではない。
 過去を振り返るとき、悔恨と改悛とを区別することが大事だ。悔恨は、過去の誤ちが引き起こす痛みの中に私たちを閉じ込める。これから先についてのなんの展望もない。他方、改悛においては、過去を振り返るのは、未来はこれまでとは異なったものであってほしいと思うからこそである。このような改悛のみが私たちを変える苦しみである。この苦しみは、これからのすべての再開、すべての再生の始まりにある。
 改悛は、ここで、意志と感受性との間のきわめて緊密な結びつきを示す。誤ちは、それが為された過去のある時においては、一つの自由意志による行為であった。しかし、今、それは過去に属する。私はその過去の行為に手が届かない。私になおもその過去の行為との関係があるとすれば、それは現在の感受性へのその影響によってである。つまり、私自身の受動的な部分においてである。私が自分のうちに今見出すのは、その過去の行為が遺しっていた痕跡だけである。
 しかし、この痕跡が痛みを伴うのは、現在の私の意志によることであり、この意志は、過去に誤ちを犯した私と今の私とを同一化することを望まない。確かに、誤ちを犯したのは私だ。しかし、私が今苦しんでいるのは、過去のままの自分であることを受け入れないからだ。苦しみは、かくして、私を再生させる所為と一つに成る。それは効果的な苦しみである。つまり、私自身がそれを受け入れることで効力を発揮する苦しみである。悪しき者はこのような苦しみを知らない。善良な者は、その苦しみを消し去ろうとはせず、養い育てる。
 ここに至って、痛みは、最初そうであったわけのわからない災厄であることを止める。痛みは、精神的苦しみとなり、私たちを悪から解放する。外から押し付けられたものではなく、自らの意志で引き受けられたものとなる。誤ちと苦しみとはそこで一つになる。誤ちの自覚、それが苦しむという存在様態なのである。誤ちの自覚は、解放力と浄化力をもっている。誤ちの自覚はすでに誤ちを超えているのだから。












痛みに対する積極的態度(九)純化(その三) ― 受苦の現象学序説(28)

2019-06-08 18:19:42 | 哲学

 痛みを魂の浄化・純化の一つの手段と見なす考え方はいつの時代にも俗信としてあった。例えば、悪いことをすれば必ず罰が当たるといった考え方の中にそれは見られる。しかし、罰は、応報や功利といった考え方に尽きるものではない。何か意図的に悪いこと・間違ったことをするとき、痛みを感じるのは、意識が不可分の一体であるからだけではない。乱された調和に対するいわば報いによってバランスを回復しようというわけでもない。古くからの俗信にあるように、痛みには何か浄化作用があると私たちは漠然と信じていないであろうか。何か不幸が身に降り掛かったとき、それが迷信以外のなにものでもないと知っていながら、いったい過去に何をしたから自分はこんな目に遭うのかと自問せざるを得ないのは、魂の自然な動きなのだ。良薬口に苦しと言われるように、痛みの苦さが魂の病を癒やすのだと思われる。
 何ら光をもたらすことなく私たちを失意の裡に閉じ込めつづける誤ちが昔からずっとあったということで話は済まない。痛みが私たちを浄化・純化するとしても、痛みがどのようにそうするに至るのか、浄化・純化がそれによって実現される魂の動きに痛みはどのように付きそうのか、そう問うてみなくてはならない。そもそも、痛みそのものが浄化・純化作用を行うわけではない。薬の苦味が病を治すわけではないように。あらゆる浄化・純化、あらゆる治癒は、魂あるいは体の反応によって実現される。痛みはその反応の徴に過ぎない。
 しかも、意識が働いているとき、被った痛みだけで誤ちが帳消しになると私たちは考えないだろう。痛みは、過去の誤ちを帳消しにするどころか、私たちをさらに悪い状態に陥れないともかぎらない。怒りをつのらせたり、恨みを懐いたりしないともかぎらない。
 痛みが私たちを浄化・純化することができるのは、痛みが受け入れられ、痛みと誤ちとの間に本当の繋がりがあり、誤ちそのものが反省を通じて痛みを生じさせ、痛みを別のものに変容させ、結果として、痛みが被ったものであると同時に欲されたものでもあるときだけである。これはまさに改悛、悔い改めの定義にほかならない。
 そうなると、体に加えられた罰は、魂が誤ちを犯したとき、映し・影のごときものに過ぎない。体罰がかなりはっきりと示しているのは、あらゆる痛み必ず有しているその有限性と受動性という性格である。しかし、罰は癒やしも治しもしない。罰は、誤ちを犯した者自身が己のうちに生じさせなくてはならない、いわば痛みの補填である。罰は、誤ちを犯した者に呼びかけ、覚醒させるためにあるのだ。ところが、罰はしばしば逆にその覚醒を妨げてしまう。
 痛みが浄化・純化作用として機能するのは、痛みを受けた者がその痛みを科す者でもあるときだけである。












痛みに対する積極的態度(八)純化(その二) ― 受苦の現象学序説(27)

2019-06-07 23:59:59 | 哲学

 延々と続けてきた今回の連載も、今日の記事を含めてあと四回で終わりにする。それでちょうど三十回になるし、毎回だいたい同じ長さの記事で結論にまで到達できそうだからだ。
 痛みは、私たちにとって、その存在から余計なものを削ぎ落とすのに与って力がある。しかし、それが痛みの最初の効果ではないだろう。最初はむしろ逆だ。痛みは、まず、私たちに襲いかかる暴力であり、その痛みのせいで奪い取られた私の所有物への、それ以前には感じることのなかったほど強い執着を感じさせる。
 痛みによる純化の過程が始まるのはその第二段階においてである。そこにおいて、失ったものの現前感を取り戻そうとしながら、そのものの価値を魂の全力を挙げて量ることを私たちは強いられる。ここで、精神的活動が始まる。
 痛みによって失ったものが、結局ごくつまらないものだと思えるときがある。そのとき、痛みは鎮まり、私たちは解放感を得る。その場合とはまったく逆に、その感覚的現前が私たちから奪われた今になって、そのものの価値がいや増しに増大し、高められ続けるということがある。
 例えば、友人の死の場合である。失ってはじめて、その友人のことを知りはじめたとまさに痛感する。それまで、その友人のことをほんとうには愛していなかったと気づくことがある。そのとき、私たちが感じる痛みは、その性質を変える。痛みは深化し、精神化される。
 それは不毛な後悔ではない。その痛みは、私たちの魂をまるごと動かす。私たちにおけるその人の存在を生けるものとする。その痛みは、私たちがかつて探し求めていた、その失われた人との絆を今実現している。それ以前のあまりにも幸福で容易かった関係はそれを妨げていたのだ。なぜなら、その関係がほんとうの絆の代わりをしていたからである。












痛みに対する積極的態度(七)純化(その一) ― 受苦の現象学序説(26)

2019-06-06 17:51:41 | 哲学

 ようやく痛みに対する積極的態度の最終階梯、純化(purification)に辿り着いた。ここに、ラヴェルの精神の形而上学とそれと不可分の道徳哲学のエッセンスがある。ラヴェルにおいて両者は表裏一体であることがよくわかるところである。そこにいささか行き過ぎた精神主義を感じる人もあるだろう。
 第二階梯である深化の段階で、痛みは放下(dépouillement)と純化の手段であることがすでに示されていた。精神的生と放下・純化とがいつも結びつけられ、果ては両者が区別のつかないまでに同一化されるところまでしばしば行くのはなぜだろうか。それは、私たちの自発的生は、自然のあらゆる衝動と環境のあらゆる影響とに私たちを委ねてしまうのに対して、精神的生は、本来、それとは反対に、私たちの注意をそれらの自然的衝動や外的影響とは別の方向に向けさせ、私たちを存在させている活動の純粋に内的な実践へと私たちを向かわせるからである。
 ところが、一般には、意識そのものの性質は、意識が高次のものになればなるほど、私たちを豊かにするものだとほぼつねに考えられている。しかし、豊かになることは、ほんとうに本質的なことだろうか。豊かになることは、内的統一を脅かし、新たな獲得は、新たな危険を生み出すことでもある。
 いかなる領域においても、たとえそれがどんなに純粋なものであっても、魂は所有欲によって導かれてはならない。物質的財産を語るときのように精神的財産を語るのは、どのような場合も不都合な語り方である。肝心なのは、私たちが所有しているものではなく、所有物に対する私たちの態度である。所有物から自己満足や気晴らしの種を引き出してはならない。なぜなら、そうしてしまえば、私たちの人格は、成長するかわりに、解体されてしまうからだ。
 私たちが執着するどのような財産にも、私たちの所有物ではあるが、私たち自身ではない何かがある。それが私たちを私たち自身の外に引き出し、そこから私たちの虚栄も生まれる。確かに、所有物を放棄することは容易ではない。それが目に見えない自己財産であればなおのことである。例えば、知識、知性、徳性などがそうである。なぜなら、それらから私たちが引き出す満足は、物質的財産の場合に比べれば、利害得失とは無縁であるように思われるからだ。しかし、その満足は、多くの場合、より深く巧緻な虚栄でしかない。
 放下は、存在をその所有物から離れさせ、己自身へと内向させることにその意味がある。












痛みに対する積極的態度(六)共感(その二) ― 受苦の現象学序説(25)

2019-06-05 17:09:11 | 哲学

 人が人を苦しめる仕方、人が人に苦しめられる仕方は、千差万別である。苦しみは、苦しめる者と苦しめられる者とが親しければ親しいほど大きい。苦しみは、個の多数性そのものにその根拠がある。この多数性ゆえに、人々の間にはけっして無化できない距離がいつもある。しかし、この距離こそがコミュニケーションを可能にしてもいる。苦しみは、また、個の多様性にもその根拠がある。この多様性ゆえに、個々それぞれのもっとも独自なものが個々の間のコミュニケーションの障碍になる。私たちがそのうちに入り込みたいものには入り込めず、私たちが与えたいと思っているものは受け取ってもらえない。
 私たちのうちにある誰かと繋がりたいという気持ちが大きければ大きいほど、私たちを分断するものによる苦しみもまた大きい。私たちの絆が強ければ強いほど、その絆によってもたらされる苦しみもまた大きい。苦しみを共にする共感がそのよい例だ。
 私たちは、不完全や不十分の徴、挫折のあらゆる印に苦しむ。それらは、私たちの中では、自分が愛されるに値しないことの証であり、他者にあっては、私たちの愛の無力の証だからだ。
 共感が可能なのは、最初は離れ離れだと感じているからこそである。共感は、お互いがそれぞれの孤独の裡に閉じ込められていると確信しているときからしか始まらない。それ以前のいかなるコミュニケーションも無効だ。それぞれのもっとも侵し難い部分においてしか、お互い相手に対して働きかけることはできない。その部分において、与えるもの、受け入れるものは、羞恥の殻を破る。
 異なった存在同士の個別性は、まず、物質的な作用として感じられる。触れられているのは他ならぬ私の体であり、私の個別的存在である。もっとも繊細な人たちにとって、触れられるということは、すでに身に傷を負ったと感じることでさえある。
 二つの意志の間に生じうる接触についてはどのように言うべきだろうか。一種の慄き、溢れんばかりの期待、それに伴う身を苛むような不安なしに、他者が入り込める私の孤独も、私に開かれる他者の孤独も、考えられない。二人の人間の間のもっとも高次な共感の諸形式においては、ほぼ絶え間ない信頼と喜びがその主調である。しかし、そこにもなお、不安は残っていなくてはならない。なぜなら、その不安こそが、孤独の聖性の刻印であり、その孤独を乗り越える奇跡の徴だからである。
 かくして、意識の頂点において、それまで互いに対立していて、意識の上昇の条件であった諸状態がすっかり融合する。別離は共感と一体であり、苦しみは喜びと一体である。












痛みに対する積極的態度(五)共感(その一) ― 受苦の現象学序説(24)

2019-06-04 13:12:00 | 哲学

 痛みに対する積極的態度の次の階梯は共感(communion)である。
 一応「共感」と訳した « communion » というフランス語は、とてもデリケートな取扱いを必要とする。辞書を引けばすぐにわかるように、この語は中世ラテン語の communio に由来し、もともとキリスト教世界で「聖なる共同体」「聖体」「キリスト教徒の共同体」「聖徒の交わり」「聖体拝領」等を意味する著しくキリスト教的含意の強い言葉である。一般の共同体や共感などの意味で広く使われるようになるのは、後の時代からである。
 この語は、現代フランス哲学では、例えば、メルロ=ポンティが『知覚の現象学』の中で、「感覚とは文字通りコミュニオンである」(« la sensation est à la lettre une communion », Phénoménologie de la perception, Gallimard, 1945, p. 256)という使い方をしているが、これも聖体拝領(communion)の説明として用いられている。この語を、宗教性を抜きにして、共同・一致・交感・共感という一般的意味で使うことは、いわばフランス料理にノンアルコール・ワインを供するようなものである。
 二十三年前、メルロ=ポンティについての博士論文課程資格審査論文の執筆中、ある草稿の中でこの語を使ったら、指導教授のジャン=リュック・ナンシー先生から「この語を安易に使うな」と厳しく注意を受けたことを今もよく覚えている。
 ラヴェルは、特にキリスト教的意味でこの語を使っているわけではない。しかし、それは、この語をいわば中性化して使っているということではない。むしろ、苦しみという問題をカトリック世界の精神的気圏の中で普遍的な経験の問題として考察しようとしていると見るべきだろう(そこにラヴェル哲学の限界を見て取ることもできよう)。
 これらのことを前提としつつ、ラヴェルの論述を追っていこう。
 私たちを他の人たちから孤立させかねない痛みは、私たちの自由意志がその支配下に置くとき、人と人とを結ぶ絆をもたらす要因とならなければならない。この変換が可能であるのは、反対物同士こそ互いに固く結ばれているからである。
 別離が深刻であったならば、それだけ絆も強くなるだろう。なぜなら、一度別離が克服されると、絆はわたしたち自身のもっとも内奥な部分において生まれるはずだからである。痛みがその内奥に籠もることを私たちに強いたのだから。
 痛みは、私たちの存在の受動的な部分に関わり、事物や人々が外から私たちにもたらす作用につねに結びついている。その結果として、苦しむ者は、自分を苦しませるものとつねに結びついている。私たちがこの外との結びつきを断ち切ってしまうにつれて、他なるものへの無関心の場合がそうであるように、私たちの苦しむ力も減退する。しかし、確かに痛みは私たちを弱らせるにしても、その経験によって私たちが証しているのは、私たちに痛みを与えるものとの分離であるよりも、私たちとその痛みを与えるものとの結びつきである。
 痛みとのこの関係は矛盾しているのだろうか。いや、それは見かけに過ぎない。自分に痛みを与えるものから自らの意志で離れようとするとき、人は痛みにまったく自分勝手な性格を与える。このとき、痛みからの離脱が実現されるとすぐに、痛みとの精神的な結びつきはたちまち断ち切られ、痛みはその強度を失う。ところが、私たちは、自分たちがもっとも愛する人たちによって、もっとも大きな喜びを感じるように、もっとも愛する人たちによって、もっとも大きな痛みを感じる。痛みが大きければ大きいほど、絆は強く、絆が強ければ強いほど、痛みは大きい。












痛みに対する積極的態度(四)精錬・深化(その三) ― 受苦の現象学序説(23)

2019-06-03 19:08:09 | 哲学

 痛みが私たちの存在をよりきめ細やかで深みのあるものにするには、どのような条件が必要だろうか。それは、痛みを抑圧すべきもの、あるいはその言いなりになるだけのものと見なすかわりに、痛みを受け入れ、私たち自身の一部となし、私たち自身の発展の手段とすることである。
 痛みは、つねに欠乏や不足といった観念と結びついている。痛みは、私たちの困窮のあらゆる形を意識させる。だから、痛みに捧げることができる最大の賛辞は、もっとも惨めなのは、痛みを感じられないことだ、と言うことである。
 しかし、私たちにとって、痛みからの解放が問題なのではなく、痛みがその徴である不足を補うことが問題である。そのとき、痛みは、私たちの内的進歩の条件となる。というのも、意識は、何も安定的に保持することはなく、移行と通過でしかないからである。意識は、何ものによっても完全に満足することがない。意識がもっているものすべて、それを意識は自分に与え続けなければならない。
 痛みをただなくなればいい悪しきものと考えるときに私たちが容易に陥る最悪の幻想は、唯一大事なことは、何も苦しまない状態に戻ること、つまり、痛みが始まる前の状態に戻ることだと考えることである。しかし、そのようなことがありうるだろうか。意識は、すでに通過した状態を現在の欲望の対象とすることはできない。意識は、無-痛のような否定的な対象に全面的に己を方向づけることはできない。それでは、有よりも無を好むということになってしまうだろう。
 痛みが私たちにとって意味があるのは、痛みが、耐え難いものであるからこそ、私たちにそれを乗り越えた状態へと向かわせるときだけである。痛みを乗り越えたとき、それは、私たちにとって一歩前進であるが、その状態がそれだけの力や豊かさでありうるのは、私たちが痛みを経験したからこそである。
 どれだけ苦しむことができるかが、それぞれの存在にとって可能な上昇力の一つの尺度になる。
 もっとも低次な苦しみの次元では、人は身体的苦痛しか知らない。せいぜいそれを避けることしか頭にない。その苦痛をただ被ることしかできない。そのとき、苦痛の限界は、感覚の及ぶ範囲にとどまり、生命の抵抗力の限界を超えることはない。
 その対極である高次の苦しみにおいては、ほんとうに重要なのは精神的苦痛だけだと考えられる人たちがいる。精神的苦痛の可能性には限界がない。その可能性の増大は意識を伴う。苦しみが入り込むことができないような私たちの内的生の領域などない。何かを新たに獲得するとき、それは新たに傷つく機会でもある。
 私たちが持っているものと私たちが望むものとの間にこそ、苦しむ力がある。この力は、私たちの上昇力の裏面にほかならない。












痛みに対する積極的態度(三)精錬・深化(その二) ― 受苦の現象学序説(22)

2019-06-02 10:01:29 | 哲学

 本題に入る前に一言。
 2013年6月2日に開始して、幸い今日まで丸六年間一日も休まずに投稿を続けることができた拙ブログは、今日から七年目に入る。もはやすっかり習慣化し、生活の一部となった思考日誌である。これまで通り、無理をせず、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつけ、かと言って、ものぐるほしくはならずに、淡々と寂々と続けていく所存。
 さて、ラヴェルの話に戻ろう。
 痛みの精神的意味は、その痛みの原因となった出来事の重大さには拠らない。その意味あるいは価値は、私たちが痛みをどう用いるかに拠る。何が理由か分からない、取るに足りないほんの僅かな痛みでさえ、すでに一種の形而上学的深みをもっている。すべては苦しむ者次第である。
 身体の痛みは、まず、私たちに対して自己身体を顕現させる。私たちの身体感覚をこの上なく繊細なものにする。私たちの自己身体は、そのとき、モノとしてでもなく、障碍としてでもなく、その身体を生かしている生命の中に現前し、その生命は、私たちが自己自身についてもつ意識と不可分である。
 私たちのうちのこの生命意識は、私たちにつねに伴っているのだが、しばしば不分明なままである。痛みがその生命意識を賦活する。痛みが私たちに発見させるのは生命そのものだ。痛みの変動、その増大・減少、激化・鎮静などを通じて、生命への激しい執着の中で、そして、痛みが私たちに今からすでにその準備を求め、いつの日か私たちに要求する諦めの中で、私たちは生命そのものの経験をしている。
 つねに私たちに真の啓示をもたらす精神的苦痛については何と言うべきか。それは、私たちが愛するすべてを私たちに明らかにする。私たちの存在のもっとも秘された部分に潜む神秘的な力、冥闇な執着を明るみに出す。そうすることで、私たちの限界を収縮させるのではなく、逆に、それをたえず押し広げる。しかし、その役割は、私たちを拡大することよりも、むしろ深化させることにある。
 精神的苦痛が私たちに与えるのは、対象認識とはかけ離れた認識である。対象認識はつねにある点まで私たちにとって外的なものに留まる。純粋な知は、つねに意識の表層にある。ところが、痛みは、私たちの内を下降し、価値と不可分な本質にまで至る。痛みは、そのときまで私たちの魂が委ねられていた他愛もないただの慰みごとに属する諸状態を一掃する。
 痛みは、つねに厳粛なものであり、生命に厳粛さを与える。それは、しかし、痛みそのものがそれ自体によって善きものだということではない。痛みはむしろ何か善きものが奪い取られたということだ。しかし、何かを剥奪されたという意識そのものが、私たちの内的存在を穿ち、その内的存在の所有物を奪い、その存在自体へと退却させ、失ったものの意味をそこで発見させ、よりいっそうの意味を無限に惜しみなく与える。
 痛みは、剥き出しのまま、私たちの意識に入って来る。痛みは、私たちの意識をその根っこまで抉る。痛みは、私たちが生命に与えることができる真摯さを測る尺度となる。その痛みの記憶はもはや残っていないとしても、痛みが与えた経験によって変わることができた人たちがいる。













痛みに対する積極的態度(二)精錬・深化(その一) ― 受苦の現象学序説(21)

2019-06-01 23:59:59 | 哲学

 痛みに対する積極的態度の第二階梯は、精錬と深化である。それらについてのラヴェルの論述はかなり長いので、今日・明日・明後日の三回に分けて見ていく。
 痛みは、ときどき発生するそれだけを切り離すことができる状態であり、それだけを排除し、残りは、何らの損失を被ることなく、そのまま保存できると考えることは、私たちの意識についてのきわめて表面的な見方だとラヴェルは言う。ラヴェルによれば、私たちのすべての内的状態は互いに連関しており、私たちの存在の全体的統一を損ねることなしにそれらの状態を分別することはできない。私たちの価値は、私たちに与えられた喜びによってと同じくらい、耐えた苦しみによって決まる。
 それだけではない。喜びと痛みとは、私たちが思っている以上に、相互に緊密に依存している。痛みの受容力は喜びの受容力と一体である。両者は感受性の分離不可能な両面である。麻酔剤を使用したときの状態がよく示しているように、痛みに無感覚になるときは、喜びにも無感覚になる。私たちがどれだけ苦しめるかは、私たちの繊細さの指標そのものである。
 ほんの些細なことで人は傷つく。このつねに感じられる傷が、事物への接触に実に微妙な意味を与える。例えば、指先を怪我したとしよう。すると途端に、それまでは無意識にその指で触れていた諸事物が痛みとともに感じられ、私たちの注意を引く。痛みを感じないようにするためには、それだけ注意を払ってその事物に触れるようにしなければならなくなる。傷が与える痛みによって、事物の存在・意味・価値がより顕になる。知性と意志が働くすべての意識過程において、この直に感じられる痛みこそが、知性と意志とをかくも注意深くするのであり、知性と意志とに事物への接触と浸透を可能にする。
 かくして、私たちは以下のことを理解する。痛みが私たちに顕にする諸感覚点、そして私たちの意識において感じられる痛み全体は、私たちの内なる切断されるべき冥闇で忌まわしい部分ではない。それらは、私たちにより多くの光を与え、私たちを取り巻く事物のもっとも上質な諸価値を明らかにすることによって、私たちの精神活動をより研ぎ澄まされたものにする。
 しかし、ここで注意しなくてはならないことは、痛みそれ自体が原因として自動的にこれらの結果をもたらすのではないということである。つまり、多くの人にとって、痛みはつねに敗北であり、僅かな人たちにとってのみ、つねに新たな勝利の機会だということである。












痛みに対する積極的態度(一)警告 ― 受苦の現象学序説(20)

2019-05-31 01:14:07 | 哲学

 痛みに対する最初の積極的態度は、痛みを身に迫る危険に対する警告として捉えることだ。
 私たちが身体に感じる痛みは、私たちを脅かす危険を知らせる一種の警告として機能している。このことだけをとっても、痛みそれ自体が悪いものではないことがわかる。痛みは、差し迫った危険に対して、身を守るために有効な反応であり得る。我が身に危険が差し迫っているのに、それを察知するのに知識によるほかなく、痛みを感じるという本能的な反応によって自己防御できないとしたら、無知な生体はまったく無防備なまま環境世界の中に投げ出されていることになる。痛みは、一つの兆候であり、私たちの身体にそれに対する抵抗を引き起こし、私たちの身体に備わる諸力を自己防衛のために動員させる。
 一応はこう言えそうだ。しかし、実のところ、事はそれほど単純ではない。痛みの大きさは身に迫る危険の大きさに対応しているとは限らない。命に関わる危険が迫っているのに痛みを感じないということさえある。痛みの役割が私たちの身体を自己防衛のために動かすことにあるとしても、私が致命傷を負い、それによる激しい痛みを感じても、もはや為す術がない。
 痛みは、差し迫った危険に対して、自己防衛のために持てる力を動員するように身体を仕向ける身体の自発的な反応だと定義することは、したがって、本能と存在の目的性を過大評価することになるだろう。生体の自己保存本能という目的ための生得的手段として痛みを定義することには無理があるのだ。
 痛みの中に身に迫る脅威を察知するのは、ほかならぬ私たち自身だ。私たちがそう解釈するのだ。つまり、痛みそのものが警告なのではない。痛みが警告として機能するようにしているのは私たちの意識なのだ。
 他方、危険は私たちの身体の外にあるとは限らない。私たちの内に痛みを伴わずに潜んでいることもよくある。逆に、歯痛の場合のように、痛みに苦しんでいるのに、命に関わるような危険はそこにないという場合もある。
 痛みが私たちのうちに引き起こすのは、私たちの身体に害を与えるものと私たちが望んでいることとの間の葛藤である。この葛藤のうちに長く留まることに私たちの意識は耐えられない。
 そんな状態にあるとき、痛みによって失われた内的統一を回復しようとするのは個々の精神の働きだ。痛みは私たちに考えさせる。それは、単に痛みを取り除く手段を見つけるためだけではない。その痛みが何なのか、外界と自分との間の調和が崩れた理由は何なのか、どうしたらこの不調和を乗り越えられるか、さまざまなことを考えさせる。
 そうすることで私たちの生はより豊かにされ、私たちの運命に意味が与えられる。