石田三成の略歴
永録8年(1560)頃 近江国坂田郡石田村の領主・石田正継の次男として生まれる。兄は石田正澄。
天正年間 このころ長浜城主となった、羽柴秀吉に仕える。
天正11年(1583) 秀吉の配下として、賤ヶ岳の戦いに参加。
天正12年(1584) 近江国蒲生郡今在家村(元・東近江市)で、検地を行う。
天正13年(1585) 治部少輔に任官
天正14年(1586) 堺奉行となる。
天正15年(1587) 秀吉の九州攻め。秀吉の取次役として島津氏と交渉。
天正18年(1590) 秀吉の小田原攻めに従う。
天正19年(1591) 近江犬上郡・坂田郡と美濃国の蔵入り地(秀吉の領地)の代官となる。
文禄元年(1592) 朝鮮出兵で総奉行として朝鮮半島へ渡る。
文録4年(1595) 関白豊臣秀次失脚後に佐和山城主となり、近江国伊香・浅井・坂田・犬上郡の領主となる。
慶長4年(1599) 加藤清正・福島正則・黒田長政ら7名の攻撃を受ける。
慶長5年(1600) 関ケ原の戦いに敗れ、東軍の攻撃を受けた佐和山城も落城し、父・正継と兄・正澄は自刃。
三成も京・六条河原で庄処刑される。
三成と佐和山城
・佐和山城主であったのは、最後の5年間だけで、それ以前は秀吉の代官であった。
・三成は豊臣政権の官領として秀吉の傍にいることが多く、領内に関する文書の多くは父・正継のもの。
湖灯塾、愛されて200回、三成と佐和山城語る
- 200回目の湖灯塾で石田三成と佐和山城について学ぶ参加者たち(近江八幡市出町・京都新聞湖灯ホール)
京都新聞主催の講演会「湖灯塾」(滋賀中央信用金庫協賛)が29日、滋賀県近江八幡市出町の京都新聞湖灯ホールで開かれ、1996年6月の初回からこの日で200回となった。彦根市教育委員会文化財課学芸員の林昭男さんと斎藤一真さんが「石田三成と佐和山城」と題して講演した。
湖灯塾は地域の魅力や課題を読者とともに考える場として始まり、年10回程度開いている。これまでにまちづくりや政治経済、歴史、環境、福祉などさまざまなテーマで講師を招いてきた。
200回目は、彦根市北部にあった佐和山城で1591年から5年間、城主を務めた三成に焦点を絞った。同城跡の調査に携わる林さんは、「最大の特徴は立地の良さ。東日本と西日本の中間に位置し、陸上交通だけでなく湖上交通も抑えられる」と指摘。「本丸の石垣は人為的に壊された跡があった。彦根城築城の際に使える石は持っていかれたのだろう」と語った。
斎藤さんは、三成が豊臣秀吉と大名の取り次ぎ役で政策実行責任者だったことを踏まえ、「立場的に不満が三成に集まった。大名は現実主義者なので、関ケ原の戦いで三成を嫌う大名が徳川家についたという単純な図式ではない」と述べた。
講演後に記念パーティーがあり、滋賀中央信用金庫の南井伝治専務理事が「地域の新聞社が200回も市民講座を開くのは珍しい。300回、400回と重ねていただきたい」と祝福した。
京都新聞【 2016年10月29日 22時40分 】