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福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

大阪城周辺の秋 外濠にOBP 高層ビルの反射が映す出す影 ❣️

2017-11-19 04:00:51 | ★大阪城もメチャ面白い😄
外濠側道の
最高に色付いた銀杏の木 大手門は左に曲がる

左に曲がり側道からOBP を望む

✳️乾櫓

濠に反射の光が・・・・・何処で反射?

反射ビルは、クリスタルタワーの奥の白いビル

反射ししてる水面に何か影がある
撮って見たら

ビルの反射光が岸の桜の木を映してるんだなあ❣️面白いなあ〜
少し進むと ビルの屋上辺りで反射している

反射光の影が水面に映る

★200mmしか持っていなかったのでこれが拡大限度

pm 16:00. 丁度だ

この位置まで進むと

★影絵のシーンでしたわ(笑い

✳️千貫櫓

櫨の木が

大手門 大阪城は24時間フリーだからドンドン来てる

西の丸庭園は4時でストップ 隙間から

桜門

JAL. JA623J. ボーイング B763. 東京から カラスが多いんです

夕焼けをと来て見たが無理でした
府庁関連ビルでダメ




帝国ホテル方面


2017.11.15. 大阪城周辺の秋の情景 早歩きスナップです。
チョット、足首に負担。 減量したいけど食い意地が抜けない。
大阪城周辺は、春夏秋冬楽しめる。午前は東から、午後は西から 。
OBPビル群もあり、面白いゾーンだ。


ご覧頂き有難うございます。


余談 1

✳️ ●乾 櫓(重要文化財)
乾櫓は西の丸の西北角に立つ二層の角櫓である。「乾(いぬい)」とは西北を指す戌亥(いぬい)と同義であることからこの名で呼ばれることになった。元和六年(1920)、徳川幕府の大坂城再建工事の第一期に建造された櫓であり、大阪城内では千貫櫓とともに最も古い建造物である。昭和33年(1958)に解体修理を受けているが、その時に「元和六年 甲(申)ノ九月吉日 ふかくさ作十郎」と篦書された輪違瓦が発見されている。
大手口から京橋口までを見渡せる戦略上重要な櫓であるとともに、堀の外側は高麗橋から京街道へ至る道筋だったこともあり、江戸期の大坂市民にとっては一番身近でなじみの深い櫓だったという。

✳️ ●千 貫 櫓(重要文化財)
 2層の隅櫓で、元和6年(1620)小堀遠州の設計で造営された。西の丸庭園の西南隅にあって、多聞櫓のすぐ北側に位置している。西の丸庭園西北隅の乾櫓とともに現存最古の建造物である。千貫櫓の名は、石山本願寺時代に織田信長の軍勢が攻撃を繰り返したとき、この付近にあった隅櫓からの横矢攻撃に悩まされた攻め手の将兵らが「千貫文払ってでもあの櫓を手に入れたい」と話し合ったことに由来すると伝えられており、その頃から続いた呼称と考えられる。

余談 2

大阪城
●重要文化財
大手門 - 寛永5年(1628年)創建、嘉永元年(1848年)修復[24]
塀 3棟(大手門南方、大手門北方、多聞櫓北方)
多聞櫓(渡櫓、続櫓) - 嘉永元年(1848年)
✳️千貫櫓 - 元和6年(1620年)
✳️乾櫓 - 元和6年(1620年)
一番櫓 - 寛永5年(1628年)
六番櫓 - 寛永5年(1628年)
焔硝蔵 - 貞享2年(1685年)
金蔵 - 江戸時代(寛永2年(1625年)創建、天保8年(1837年)改修と伝えるが定かでない)
金明水井戸屋形 - 寛永3年(1626年)
桜門 - 明治20年(1887年)
登録有形文化財
「大阪城天守閣」(天守)- 昭和6年(1931年)

天守閣の色 『豊臣』『徳川』 を巡る臆説は⁉️

2017-11-18 15:00:54 | ★大阪城もメチャ面白い😄
現在の大阪城天守閣は昭和6年竣工なので今年11月で81年となる

昭和3年2月の大阪市会で、関市長が“秀吉時代”の天守閣復興を提案して満場一致で可決され、全額大阪市民の寄付金により昭和6年11月7日に現在の天守閣が竣工した。
豊臣時代、徳川時代、に次いでの三代目の天守閣は当時の最新技術を駆使して鉄筋コンクリート製で建設された。
大阪夏の陣図屏風に描かれた天守閣の概観復元を目指して
設計段階で当時の担当者は全国に残る桃山時代の城郭を研究して設計図を完成させた。
”大阪夏の陣の陣図屏風“の天守閣は5層全ての外壁が黒塗りであるのに対して、復元天守閣は最上層のみ黒く、他は白壁であることが大きな特徴となっている




“大阪夏の陣図屏風”に描かれた天守と復興天守閣の外観が異なる??事になる。

★豊臣天守の黒と徳川天守の白色を折衷したとか?
★天守台の石垣は徳川幕府製であるのを承知で上に豊臣時代の天守を復元したとか?

✳️天守台の石垣は・・・昭和6年の時点では、石垣は秀吉以来のものと考えられていたが、昭和34年学術調査で徳川製であることが判明した。

✳️平成18年オーストラリア、エッケンベル城で発見された豊臣時代の大阪城と城下町を描いた屏風絵には、最上層だけ黒塗りで、他は白壁だった。

復元設計への情熱、思い
当時の実務設計者の調査・研究に基づく考えがあったのだろう・・・・・・

✳️設計者は、自身の考案した桃山方式の鯱の図案が採用されず、鯱が江戸時代風になった事に耐えきれず、大阪市を退職したとの事から、豊臣時代の天守再現に情熱を注いだ。にも関わらず“大阪夏の陣の陣図屏風”に描かれた天守と復興天守閣の外観は異なる。・・・・でも・・・

天守閣館長北川さんの書籍を参考に

この様なエピソードに

天守閣を眺めると

ジンと来ますね。

京橋口からの天守閣が大好きだ




2017.11.15. 大阪城周辺 散策



大阪城周辺の秋 No.1

2017-11-17 08:04:49 | ★大阪城もメチャ面白い😄
北外濠周辺から青屋門・大阪城周辺へ
北外濠から天守閣



青屋門周辺 多い人にビックリ

青屋門前の銀杏も綺麗 写真スポット


青屋門の影絵

東外濠を望む

極楽橋からOBPを望む 本当に多い観光客

山里丸 銀杏の木も黄色

危ない

広場


隠し曲輪 櫨の木がピークアウト



西の丸庭園を見下す

黄金船もフル


さて、西の丸庭園へ行くか🏃京橋口方面へ行くか🏃‍♀️ 京橋口方面に行こう
ばけもの屋敷跡


周辺




この角度が好きだ

大きな銀杏 ソロソロ散るか


京橋口を出て

北外濠側道を大手門方面へ進む
側道の銀杏



大阪城外濠へ
乾櫓


これから大手門方面へ進みます

次回へ

2017.11.15. 大阪城周辺 散策


真っ赤❣️大阪城公園の桜の紅葉はチョットした穴場です。東外濠周辺。

2017-11-17 04:00:40 | ★大阪城もメチャ面白い😄
昨夜(14日)の雨も上がり、今日は回復予想
大阪城公園の紅葉も雨上がりなら綺麗かなぁと思い立ち寄った
JR大阪城公園駅 下車してグランドを横切る
グランドから天守閣 太陽は雲の中
am 8:23

遊歩道を横切り

東外濠遊歩道に出る



森之宮方面へ 行って見る。逆光気味となる

濠の方


朝陽が射し込む(薄日)



振り向けば昨夜の雨の名残


林に朝陽が差し込む

矢張り朝陽が差し込むと一段と映えます


振り返ると


濠の向こうは



濠の端からOBP方面


森之宮方面

周辺



この辺りから引き返そう

OBP方面へ


濠を横目に



グループで野鳥を見に来た様ですね〜〜


さあ
切り上げよう
am 9:40

すっかり 雲も消えて快晴となりました

メチャ 早歩きスナップです

JR 森之宮駅からの方が良かったかなぁ?反省。

午後の部は次回アップする

2017.11.15. 大阪城公園 東外濠周辺



旧第四師団司令部庁舎跡が大変身の『MIRAIZA OSAKA-JO 』は流石に重厚な雰囲気だった❣️

2017-10-26 04:00:23 | ★大阪城もメチャ面白い😄
今月の19日オープンの #MIRAIZA OSAKA-JO.
戦災を潜り抜けた貴重な歴史建造物
建物の中に入ってみた。勿論、初めてだ!



横から入ってみた

入ると大きなシャンデリア


1階のゾーン

二階へ



玄関

二階から3階ゾーン 写真混在
















ライト






手摺は大理石?

装飾






見応え十分ですね〜
重量感のある建物
ライトアップはどんな雰囲気だろうか?
コーヒーを一杯飲んで
大手門から

千貫櫓・多聞櫓

谷町4丁目地下鉄へ
通り抜けはチョット距離がある



✳️余談・・・コピー

●第四師団 概要
★佐賀の乱・西南の役
第4師団の前身は大阪鎮台。創設時の歩兵連隊は、第8、第9、第10及び第20連隊からなる。創設間もない鎮台時代から佐賀の乱・萩の乱・西南の役に従事。隷下連隊は江戸や地方と違って士族や農民が少なく商人の割合が多い大阪連隊だったが、西南の役では示現流で斬り込んで来る薩摩武士相手に多大な損害を出すも奮戦し、明治天皇直々にその勇敢勇戦さを賞されている。
★日清・日露戦争
日清戦争時には遼東半島に上陸、同地の警備に当たる。日露戦争時には小川又次を師団長として、南山の戦い、遼陽会戦、沙河会戦、奉天会戦に参加した。
★中国戦線
1937年(昭和12年)2月、師団は満州に駐屯し、まもなく盧溝橋事件が勃発。支那事変(日中戦争)では北支や満蒙を転戦していたが、1940年(昭和15年)7月に中支に派遣され、漢水作戦、予南作戦、江北作戦等に参加。1941年(昭和16年)9月には、第一次長沙作戦に従事。

この後、師団は大本営直轄となり、来るべき南方作戦に備えて部隊の集結と再編成を行った(編制を4単位制師団から、3単位制に移行。篠山の歩兵第70連隊は第25師団に編入された)。

★太平洋戦線
1941年(昭和16年)12月8日勃発の太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦では、フィリピン攻略作戦に参加し、第2次バターン半島攻略作戦に従事。第4師団はコレヒドール島上陸に成功し同攻略戦の勝利に大きく寄与した。その後は本土警備に当たり、1943年(昭和18年)9月、再動員されることとなり、スマトラ島警備やビルマ方面を担当する第15軍の隷下に入りタイに移動、同国のランパンにおいて終戦を迎えた。

司令部
★同い年の大坂城天守と旧司令部庁舎
(2006年3月)
鉄道唱歌の東海道第1集57番の劇中にて、「三府の一に位して 商業繁華の大阪市 豊太閤の築きたる 城に師団は置かれたり」と歌われた第4師団司令部は、大坂城本丸に置かれていた。前身の大阪鎮台本営も本丸に置かれ、1885年(明治18年)より本丸に移築された和歌山城二の丸御殿の一部(紀州御殿)に入り、第4師団創設以降も司令部は紀州御殿に入っていた。1918年7月1日、兵器部が大阪陸軍兵器支廠内仮事務所を閉鎖し司令部内に移転し事務を開始

●1931年(昭和6年)に大坂城天守の再建と同時進行で本丸南東角に新庁舎(写真建物)が建設され、移転した。これは、昭和御大典記念事業として大阪市が本丸の公園化および天守再建を計画したことによる。同年11月6日に大手前公園(1924年開園)と本丸を合わせ大阪城公園が開園。司令部庁舎の建設には市民からの募金のうち80万円が充てられた。設計は第4師団経理部によるもので、欧州の古城を模した重厚なロマネスク様式である。紀州御殿は大阪市に移管され、1932年(昭和7年)の陸軍特別大演習の際に昭和天皇の行幸があり、翌年に天臨閣と改称された。

一方で司令部庁舎には1940年(昭和15年)より、中部軍(兼中部軍管区)司令部が入り、第4師団司令部は二の丸南曲輪(現在の豊國神社鎮座地)に移転している。大坂城の東側には当時東洋最大と謳われた大阪陸軍造兵廠(大阪砲兵工廠)もあり、大戦末期の1945年(昭和20年)8月14日にアメリカ陸軍航空軍から集中的な爆撃を受けた。工廠の大半は壊滅し、城郭も石垣の一部が崩落する等の被害が出たが、司令部庁舎は頑丈なつくりであったため大きな被害を受けることなく大戦を生き抜き、天守と共に大坂城本丸の二大建造物かつ貴重な戦争遺跡として残っている。なお司令部庁舎は最終的には、1945年2月1日に旧中部軍を改編し編成された第15方面軍(兼中部軍管区)司令部となり、敗戦を迎えている。

敗戦後は占領軍に接収され、1947年(昭和22年)に占領軍の失火により天臨閣が焼失したが、司令部庁舎は1948年(昭和23年)から1958年(昭和33年)まで大阪市警視庁(のち大阪府警察本部。現在は大手前に移転)、1960年(昭和35年)から2001年(平成13年)まで大阪市立博物館(現在は大阪歴史博物館に改称され大手前に移転)として使用された。2017年(平成29年)秋にレストラン等が入居する複合施設として再オープンを予定している。