旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

極地探検

2016年03月16日 20時56分32秒 | エッセイ
 極地探検

 大航海時代に次ぐ近代的・科学的な探検の時代。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、地理学上、考古学上の重要な発見が相次いだ。ナイル川の水源を探り、ヴィクトリア瀑布を発見したリヴィングストン博士がアフリカで行方不明になった。博士の捜索に向かい、ザンベジ川の畔で苦心の末にイギリス人ジャーナリスト、スタンリーが博士と出会ったのは1870年のことだ。
 フランス人の博物学者アンリ・ムーオが、カンボジアの密林の中でアンコール・ワットに出会うのは1860年。砂に埋もれたボロブドュールの仏塔の発見は1814年、意外と早い。マチュピチュは1911年に発見。中央アジアではスウェーデンの地理学者スヴェン・ヘディンが、砂の中から楼蘭の遺跡を1900年に発掘。イギリス人のスタインが1902年、日本の大谷探検隊が三次に渡って調査・発掘した(1902~1914年)。同じころに敦煌では、壁の中に封印された大量の文書が発見された。日本人僧侶の河口慧海は、周到な準備の後に単身でチベットに潜入した(1900~1902年)。イギリス人カーナヴォン卿の援助によって、アメリカ人のカーターがツタンカーメン王墓を発見するのは1922年のことだ。
 そして極地探検、先に探検が始まったのは北極だった。アジアとヨーロッパ間の航海を、もし北極海を通れば大幅にショートカット出来る。可能だろうか。この北西航路の探索が最初の動機だった。また北極圏ではアザラシの毛皮、北極くじらの鯨油、セイウチの牙などの資源が取れる。ところが南極と違い、北極圏には人が住んでいた。ロシアがアメリカにアラスカを720万ドルで売り飛ばしたのは1867年のことだ。そこに住んでいるイヌイットの人々には断り無しだ。ロシア帝国としては、クリミア戦争で敵国のイギリス(カナダ)に取られるくらいなら、中立国のアメリカへ渡した方が良かった、という事情がある。当時アラスカを買ったアメリカの大統領は、無駄な冷蔵庫と酷評された。
 デンマーク出身のベーリングは1728年にシベリアとアラスカ間に海峡があることを発見、その後コマンドルスキー諸島やアリューシャン諸島を発見した。日本の間宮林蔵は1808-9年、樺太探検によってこれが半島ではなく島であることを確認した。最上徳内は1785-6年に千島・樺太・エトロフ・ウルップを探検、その後も何度も探検行を重ねた。
 19世紀以降は北極点到達への競争となり、1895年ノルウェーのナンセンは北緯86度14分迄行き、北極が海洋であることを立証した。1909年、アメリカの軍人出身のピアリーが北極点に初到達したとなっているが、実は極点に到達していないのではないか、と当時から批判の声が上がっていた。渇望されていた北西航路だが、最近の温暖化の影響で北極の氷が大量に溶けたため開通しそうである。しかし船が高速化した現在、敢えて流氷の危険のあるこの航路を使用するメリットは無くなってしまった。もし19世紀に北西航路が開通していたら、日本は植民地になっていたのではないか。北極を抜けて南下したら直ぐ日本だ。欧州の船舶は石炭が必要なので、北海道や新潟の開港を迫られたに違いない。軍艦も欧州から直ぐに派遣出来るようになったはずだ。危なかったー。

*フランクリン遠征隊
時代をちょっと巻き戻すが、1845年に英国海軍は頑丈で最新式の装備を備えた2隻の船に士官24人、乗組員110人、計134人の遠征隊を組織して北極圏に派遣した。ヨーロッパとアジアを結ぶ北西航路の中で、まだ航海されていない未踏部分を横断して航路を完成させることが目的だった。また当時極点近くに開けた海面が広がる、という説があった。この遠征隊の隊長の人選は難航した。有力候補の二人から断られ、結局59歳のフランクリンが選ばれた。フランクリンは過去3回北極海に遠征していて、その内2回は隊長であった。クロージャー大佐が副官となったが、この人を隊長にした方が良かった。この人も隊長候補に挙がったようだが、生まれが卑しい、アイルランド人だからという理由で却下されている。このことでも分かるように海軍が組織したこの探検隊にはおごり高ぶったところがあり、それが後に足を引っ張る。
フランクリン遠征隊は3年分の食糧を積みこんでいるはずだった。ところが当時先端技術だった缶詰で不正があった。急な大量注文で納期に間に合わなくなった缶詰工場は、多くの缶の中身に腐った肉や石を詰めた。また缶の溶接に使った鉛が内側に溶けだし、フランクリン隊は鉛中毒にかかった。この鉛中毒に関しては、船の蒸留水製造装置にも原因があったらしい。使用した材料から非常に高濃度の鉛を含有した水を大量に生産したようだ。
極地の探検で1年2年、船が氷に閉じ込められるのは最初から織り込み済みだ。ところがフランクリン隊は3年分あるはずの食糧が、半分以上使えなかった。また壊血病予防の為に用意した果汁が極く初期の段階で腐敗してしまった。ともあれフランクリン隊は、1845年5月にテムズ川河口グリーンハイスを出港し、7月にグリーンランドで5人が解任され2人が帰国したため、総勢は129人になった。7月下旬に捕鯨船が帰国する2人と出会って以来140年、遠征隊は消えた。
予定の3年が過ぎ、フランクリンの妻の訴えもあって、初めて捜索隊が組織された。1850年にはイギリス船11隻とアメリカ船2隻がカナダの北極海に向かった。この大規模な捜索隊からも遭難者が出たが、貴重な地理的情報も得ている。1850年の捜索でフランクリン隊の1845-6年の冬季宿営地と3名の墓を発見したが、後にこの遺体を調査し直接の死因は肺炎だが、高濃度の鉛が体内に蓄積されていることが分かった。
次の発見は1854年、測量中に失踪した隊の遺物が発見された。またイヌイットに遇い35-40人の白人一行がバック川河口近くで飢えて死んだということを聞いた。このことは他のイヌイットの証言にもあり、遺体には人肉食の跡があったと報告している。測量隊はイヌイットから譲り受けたフランクリン隊の銀のフォークとスプーン数本を持ち帰った。
別の測量隊はカヌーでバック川河口まで北上し、船名の刻印のある木片を見つけ、また船医の名が刻まれている木片も見つけた。この時点でイギリスは乗組員が公務中に死亡したと公式に判断した。そこから政府・海軍の腰は重くなり、フランクリン夫人は私費で捜索隊を組織した。この捜索隊が重要な発見をする。ついに文書を発見したのだ。
イギリス海軍の記録用用紙に、2つのメッセージがびっしりと書かれていた。紙が不足していたのだろうか。船の図書館には1,000冊の蔵書があったのに。最初のメッセージは1847年5月28日付けで、この時点で2隻は流氷の中で越冬していること。それまでの隊の行動が記され、フランクリンの名で『全て順調』と書かれている。2つ目のメッセージは、同じ用紙の余白に書かれていて不吉なものだった。1848年4月25日付けで、2隻が1年半氷に閉じ込められた末、乗組員は4月22日に船を放棄したこと。1847年6月11日に死んだフランクリンを含め、その時点で24人の士官と乗組員が死んでいたことが記されていた。フランクリンが死んだのは、全て順調のメッセージが書かれてから僅か2週間後だった。
クロージャーが遠征隊を指揮しており、残り105名が翌日に出発して南のバック川方面に向かうと記されていた。しかしこのメモには重要な誤りがあった。ビーチー島で冬宿営した年が1845-6年ではなく、1846-7年とされていた。この遠征隊はメモを発見した所より南の地点2ヶ所で、計3体の人骨と大量の遺物を載せた救命ボートを発見した。長靴、絹のハンカチ、石鹸、櫛、多くの本などだ。人力で本などを運ぼうとしてはいけない。
1860~69年の間にホールが2回の遠征を行い、キングウィリアム島の南岸でキャンプ地・墓・遺物を発見した。ホールはイヌイットの中で生活した人物で、イヌイットから多くの聞きとりをし、フランクリン遠征隊はイヌイットの中で生き残っていないと考えた。イヌイットの話には彼らがフランクリンの船を訪れた証言や、餓え疲れた白人の一隊に遭遇したというものがあった。
別の遠征隊は1880年にイヌイットを含むチームを編成して、徒歩と犬ぞりで島へ行った。この隊は結局フランクリン隊の痕跡を見つけられなかったが、1852~58年の間にクロージャーともう一人の隊員が400km南の地域にいたという証言を得た。その後1948年に「通常のエスキモーが作ったのではない大変古いケアン」がその400km南で発見され、その中に硬い木材で組み立てた箱の断片を発見したが、文書は無かった。1981-2年に人類学者が組織した遠征隊はキングウィリアム島に行き、1859年にボートを発見した場所の近くで6~14体の遺体と人工物を見つけた。骨には人肉食の跡が見られた。骨を研究所に持ち帰って調べたところ、壊血病の原因であるビタミンC欠乏の場合に見られる孔食やスケーリングが多く見られ、また高濃度の鉛が含まれていた。
その後1992年にも発掘が行われ、さらに多くの骨が見つかった。最初に埋葬されたビーチー島の3体の遺体も発掘され、慌ただしい埋葬であったことが分かった。またこちらの遺体からも高いレベルの鉛が検出されている。その後別のキャンプ地で錆びた缶が見つかり、沈没した船の場所が特定されたとかの話は出るが、クロージャーの率いる本隊の行方は全く分かっていない。イヌイットの長老の夜話に、幽鬼のような白人の一隊が凍った荒野をさまよう姿が出てくるだけだ。日本人の探検家、角幡唯介氏が、フランクリン隊が目指したであろうカナダの居留地北限から北へ向かう旅を行っている。興味のある人はどうぞ。『アグルーカの行方(129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極)』アグルーカとは隊を率いて氷原を彷徨う白人の隊長、おそらくクロージャーのことをイヌイットが怖れと尊敬の念を込めてそう呼んだ。彼は相当長い間、生きていて南下を試みていたようだ。
また日本人では植村直己氏が1978年、初めて犬ぞりによる単独での北極点到達を果たし、女優の和泉雅子氏が女性による二番目の北極点到達を果たした。和泉さんは今真言宗の僧侶になっているそうだ。

南極探検でも悲劇が起きた。1911年12月14日、ノルウェーの探検家アムンゼンが初の南極点到達を果たした。イギリスの軍人出身のスコットは、アムンゼン到達のわずか1ヶ月後、翌1912年1月18日に極点に到達した。アムンゼンは当初北極点を目指したが、初の北極点到達をピアリーに先んじられたため、
目標を南極に変更し犬ぞりを使って成功した。
 スコット隊は学術調査を兼ねていたため、アムンゼンより距離が長く難所のマクマード湾に基地を設営しなければならなかった。スコット隊は雪上車で先発隊を出し本隊は馬ぞりで進んだが、雪上車は走行してまもなく故障、馬は次々に凍死した。人力によってそりを引き、苦難の末に到達した極点にはノルウェーの国旗が刺さっていた。失意の中、本船に戻るスコット隊に猛烈なブリザードが襲いかかる。スコットと同行の4人は全滅した。遺骸は10ヶ月後に発見されたが、食糧・燃料のデポジットの直ぐ近くであった。アムンゼンはその後、北極で飛行機により遭難者の救援に向かい消息を絶った(1928.6)。皮肉なことに遭難者は助かった。
 日本では白瀬矗(のぶ)が1910年、「開南丸」で極点到達を目指し南極に上陸した。1912年南緯80度5分まで達して付近を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名している。しかしこの白瀬隊の探検は内紛続きで、白瀬は後半生を探検の借金返済に費やした。

*シャクルトンの帝国南極横断探検隊
1914年8月~1917年、イギリスが20世紀中に派遣した南極探検隊のうち、4番目の探検隊で南極大陸初横断を目指し失敗した。しかしながらこの探検隊には壮大なドラマが待っていた。アーネスト・シャクルトンはアイルランド生まれ。1914年の探検の前に1902年、スコットの第一回南極行と1907年に個人的に組織した探検、計2回の南極経験があった。
国家が全面的にバックアップしたスコット隊と違い、シャクルトンの探検は常に資金難に苦しめられた。使用した船は木造の帆船である。おまけに探検の時期が悪い。ちょうど第一次世界大戦(1914-1918年)の真っ最中だった。それにしてもシャクルトンの隊員募集が恰好よい。
Men Wanted : For hazardous journey. Small wages, bitter cold, long months of complete darkness, constant danger, safe return doubtful. Honour and recognition in case of success. ― 求む男子 : 危険な旅。微々たる報酬、極寒、完全な暗黒の長い日々、不断の危険、安全な帰還の保証無し。成功の際には名誉と知名度を手にする。
この広告が本当にロンドンの新聞に掲載されたのかは不明だが、探検隊へは5,000を超える応募があった。探検隊の帆船エンデュアランス号は1914年8月9日にプリマスを出港し、ブエノスアイレスに短期間停泊したあとサウス・ジョージア島を訪れ、最終的に12月5日28人の乗組員と共に南極大陸の海岸へと出発した。砕氷艦ではないただの帆船では、よほどの幸運に恵まれない限り南極大陸までは到達出来ない。  シャクルトンもある程度近づいたら、流氷の上に物資と犬ぞりを上げる予定であったと思われるが、最終的に1月中旬氷に取り囲まれ身動きが取れなくなった。船を解放する努力は無駄に終わり、1915年2月末には計画を変更して船で越冬することにした。船は流氷と共に北上したので、南極の春が訪れれば氷から抜け出ると思われた。ところがそれほど容易には脱出できず、7月にはシャクルトンは船長に氷から脱出する前に壊れてしまうに違いないと伝えた。
 そして10月末、船の右舷は大きな浮氷に強く押し付けられ、ついに船体は曲がって大音響と共に裂け始めた。氷の下から海水が船内に流れこみ、ポンプで排水を試みるが流入する海水の方が多く、シャクルトンは数日後に船の放棄を決断した。その後乗組員は船から出来る限りの物を運び出した。そして1915年11月21日、エンデュランス号は氷の下へ沈んでいった。この時写真やカメラを運び出したため、この探検隊の記録写真は現在でも見ることが出来る。
 船の物資無しでは、計画されていた探検を続けることは不可能で、今や主たる目的はイギリスへ帰還することそのものとなった。無線は積んでいたのだが、当時の性能では人の住む所までは電波が届かず、探検隊の消息は全くどこにも伝わらなかった。本国も戦争中で、探検隊どころではなかった。誤算は続く。救命艇と物資を曳いて行けるような平らな地表はなかった。氷はいたる所隆起し、その高さは3mに及んだ。更に気候が暖かくなり、流氷は薄くなって犬ぞりでの移動の危険性が増した。
 シャクルトンは一番近いと思われるボーレット島を目指したが、速度は遅く7日間で18kmしか進めない。行進の負担を軽くしようと船荷の多くを置き去りにしてきたため、物資は不足した。一行は後々に備えて持参の保存食には手を付けず、アザラシやペンギンを主要な食糧とした。またあらゆる燃料をアザラシの脂肪でまかなった。しかし氷上のアザラシやペンギンはどこかへと消えてしまった。キャンプの周りで殺し過ぎたのではないか。食料は割り当てにして減らされ、最終的にはそり犬まで食べた。また食糧物資を、出発地点に戻って取ってきたりした。
 見込み違いが重なり、隊員の不平不満は相当溜まったものと思われるが、シャクルトンは隊長として厳しい指導力を発揮した。1916年4月、浮氷が裂けて隊のキャンプが二つに分断された。隊員達は全員3隻の救命艇に乗り込み、結果的に行動力が増した。しかし覆いのない救命艇はアザラシの肉や脂肪はおろか、氷でさえ手にするのか困難だった。また夜の気温は摂氏マイナス30度まで低下し、荒れる海で隊員達は常に海水でずぶ濡れになった。多くの隊員が凍傷にかかり、士気は地に落ちた。このためシャクルトンは、最も近いエレファント島へ帆とオールで向かい、7日後にやっと到着した。
 エレファント島は剥き出しの岩や氷で出来た、完全に不毛の土地で付近に船の通る航路はなかった。南極の冬、暗黒の季節は急速に近づいている。シャクルトンは隊を分け、自らが率いる6人で捕鯨基地のあるサウス・ジョージア島へ向かう事にした。3隻あった救命ボートの中で、一番ましなジェイムズ・ケアード号(遠征の出資者の名前からとった。)を選び、真に合わせの道具と材料でボートを改装した。舷側の高さをあげ竜骨を補強し、木財と帆布で間に合せの甲板を作った。油絵の具とアザラシの血で防水加工を施した。2本のマストを立て、約1トンのバラストを足して重くし、転覆する危険を減らした。この悪条件の下で腕の良い船大工だ。とはいえ長さ7mの救命ボートである。
 この船で世界の中で最も荒れ狂う海域に乗り入れるのだ。船乗りは何世紀も前からこの海域のことを、「吠える40度」「狂う50度」「絶叫する60度」と呼んできた。エレファント島は南緯61度にある魔のドレーク海峡の南側境界にあり、目指す南緯54度にあるサウス・ジョージア島までは1,500kmだ。波は普通で7m、しばしば20mを超える。風速は度々20mになる。シャクルトンは信頼出来る若者、天測の名人、船大工と問題を抱える2人を選びきっちり1ヶ月分の食糧を積んだ。1ヶ月を過ぎたらどのみち生き残れない。天測は日の出前の僅かな時間、縦に横に揺れるボートの上で目視で行われた。悪天候の中観測出来たのは4回だけだったが、実に正確であった。一度真夜中に見たこともない大波が被り、船はほとんど水没した。全員で必死になって海水を掻き出して沈没を免れた。
 3人づつで交替し、舵と帆と水の掻い出しを行い、非番の3人は船首の小さな覆いのあるスペースで休んだ。衣服はそりの旅を想定してデザインされたもので耐水性はなく、凍るような海水は容赦なく浸みとおった。気温が急速に低下し、凍った飛沫が蓄積されて転覆する危険性が出てきたので、斧を持って横揺れする甲板にはい出て氷を落とした。
 そしてついに14日目に島を見つけた。そこでこれまで経験したこともないような最大級のハリケーンに襲われ、9時間の苦闘ののちかろうじて上陸を果たした。捕鯨基地は島の反対側にあったが、何人かの隊員は弱っていて船で島を廻りこむのは不可能だった。シャクルトンは海岸にボートを引っ繰り返して待機所を作り、まだ歩ける3人の隊員で山越えをして島の反対側にある捕鯨基地を目指した。山の尾根、氷河を横切り36時間連続で旅を続け、体力のぎりぎりのところで基地にたどり着いた。
 探検隊が消息を絶って2年、初めて文明社会と連絡が取れた。島の反対側の3人は翌日救出された。救命ボート、ジェイムズ・ケアード号はその後ロンドンまで持ち帰り、現在はシャクルトンの母校ダリッジ・カレッジで保存されている。シャクルトンはエレファント島に残した、信頼する副隊長以下22名を救出すべく、基地に着いた3日後から航海に出たがそう簡単にはいかなかった。その間、島に残留した22名は暴風によってテントがずたずたに引き裂かれたため、2つの救命艇を屋根として使い、海岸の石を用いて小さな小屋を建てた。テントの残骸を壁に使い側面に雪を積み上げた。この小屋はひんぱんに起こる地吹雪や時折吹くハリケーン級の暴風にも耐えたが、天候が良くなると凍らせておいたペンギンやアザラシの肉が溶けて腐り始め、断熱のために積み上げた雪が溶けだして床が海水であふれた。
 シャクルトンは残された隊員の救出を何度も試み、実に4回目にして漸くエレファント島に戻ることが出来た。一、二、三回の挑戦は、ウルグアイ政府や個人の援助で行ったが、浮氷群と悪天候に阻まれて失敗した。そして遂にエレファント島を発ってから四か月後の1916年8月末、シャクルトンはチリ海軍の船を借りて取り残された22名全員を救出した。
 摂氏マイナス30度を超える極寒の地、荒れ狂う暴風の中で2年間、誰に知られる事もなく苦闘した探検隊28名はシャクルトンの指揮下、全員が生還した。

 しかしシャクルトン探検隊の、ロス海支隊では犠牲者が出た。もともとシャクルトンの帝国南極横断探検隊は2つの隊で構成されていた。第一の部隊はシャクルトン自身が指揮し、エンドュアランス号でウェデル海に行きそこに基地を設立し、選抜隊が南極点を経由してロス海のマクマード入江まで大陸を3,000km横断する。第二の隊はイニーアス・マッキントッシュの指揮下に、オーロラ号でロス海の基地に向かい、シャクルトンが通って来ると考えられるルートに補給物資を置いておく。
 マッキントッシュはシャクルトンから全面的な信頼を得ていた。彼がオーストラリアに着くと財政と組織の問題が待ち受けていた。オーロラ号は堅牢な捕鯨船だが、船齢40年の老いた船で別の航海から帰ってきたばかりだった。修理の為に出港が遅れ1915年1月にマクマード入江に到着した時には、予定より3週間遅れていた。マッキントッシュは一等航海士のステンハウスを船の指揮官に残し、自ら犬ぞり隊を率いて見事補給所の設置を成し遂げた。
 ステンハウスは残りの陸上部隊と物資の陸揚げを、マクマード入江が冬に向かって凍る前の数週間で成し遂げなければならない。ステンハウスは何度も失敗した後でオーロラ号を所定の位置に操船し、2つの大きな錨を投じて海底に固定した。戦艦でも保持できるほどの太綱と錨が使われた。しかし冬の厳しい気象に晒されたオーロラ号は4月半ばまでに難破船のような状態になっていた。
 食糧の一部は岸に揚げられたが、陸上部隊の個人備品、燃料、装備の大半は未だ船内にあった。船は冬の間もそこに留まっている予定だったが、5月始め激しい風が吹き、太綱が錨から切れた。オーロラ号は大きな氷の流れに乗り、湾の中に漂い始めた。この時点でオーロラ号には18人の乗組員が乗船し、岸には10人が残された。オーロラ号は脱出の努力むなしく氷に閉じ込められたまま北へ流され始めたが、悲惨なのは衣類や食糧もろくに無いまま取り残された陸上隊だ。
 オーロラ号は結局312日間漂流を続け、その間舵が壊れやっとニュージーランドにたどり着いた時は、沈没寸前の状態だった。オーロラ号は1916年4月にNZに着き、6月にシャクルトンが突然フォークランド諸島に現れた。1917年1月、修理が終わりほとんど新しい乗組員に入れ替わったオーロラ号がエバンス岬に到着し、陸上部隊の生存者7人を収容した。マッキントッシュ始め3人が死んでいた。
 シャクルトンは1922年、新たな南極探検を組織する。しかし彼はサウス・ジョージア島に着いて直ぐに心臓発作により急死し、その地に葬られた。この探検隊は隊長の死後、ほとんど見るべき成果をあげずに引き返した。これをもって極地探検の英雄時代は終わりを告げた。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ギリヤークとオロチョン | トップ | 深圳と珠海 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

エッセイ」カテゴリの最新記事