旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

大坂夏の陣 – 毛利勝永

2016年02月04日 20時34分31秒 | エッセイ
大坂夏の陣 – 毛利勝永
   
1.大坂の陣、前夜
 家康もえげつないことをする。関ヶ原の一戦で天下は決ったのだから、豊臣に大坂一国(河内、摂津、和泉の三カ国65万石)くらい与えてもよかろうに。豊臣側から勝ち目のない戦を仕掛ける積りはない。彼らは待っていたのだ。家康のジジイの死を。何しろ大坂の陣が始まった時、家康は71歳で陣の終わった翌年に死んだ。戦国時代の男子の平均寿命は37歳、何故か女子は29歳だ。女性が何故早死になのかは分からない。一方の秀頼は21歳、身長の高い堂々たる美丈夫だが、ちと太り過ぎか。家康が二条城で成長した秀頼に遇い、慌てたのも無理はない。何しろ我が息子、二代将軍秀忠は稀代の戦下手なのだ。
 ともあれ、言いがかりをつけて豊臣殲滅戦、大坂の陣は始まった。将来の禍根を断つ。十中八九どころか、負ける要素が己の寿命だけという戦さをしない方がどうかしている。家康の頭脳は明晰で気力も落ちない。秀吉のように半ボケの老醜をさらさないところは見事だ。
 豊臣秀吉は一兵卒から成り上がった人物だから、信長や家康のように父の代からの家臣団などいるはずがない。親戚縁者も多くはない。天下人になってから少ない親族をフル活用している。小牧長久手の合戦で、家康に思わぬ苦戦をさせられた秀吉は、すでに結婚していた大年増の百姓オバさんである妹を離縁させ、家康の正妻に送り込む荒技をみせた。いくら戦国の世でもこれは酷い。旭姫(朝日姫)と呼ばれたこのオバちゃんは44歳、家康45歳。押しつけられた家康も苦笑するしかない。まあ人質だと思えばよい。これでは全国の姫さんが泣きそうだが、肖像画を見ると意外に品のある女性だ。本当かな。画家の想像力なのか。そのような中で秀吉が天塩にかけて若い時から育てた武将がいた。加藤清正、福島正則、加藤嘉明たちだ。それぞれ「虎」「市」「孫六」と呼ばれていた。秀吉もさることながら秀吉の妻、北政所寧々にお母ちゃんのように世話をされた。また部下ではないが、下っ端時代から家族ぐるみで付き合ってきた友人が前田利家だ。利家夫人の松と寧々は姉妹のように仲がよい。ついでに言えば、大坂の陣で家康の内通者として追い出された片桐且元は「助作」として秀吉、寧々に世話された。
 福島正則などは関ヶ原では総大将が毛利輝元で、実質のリーダーは憎い石田三成であったから、さして抵抗なく東軍に参加出来たのだろう。この男、勇猛だが脳みそがちと足らず家康にいいように利用され、利用価値が無くなると改易された。福島には秀頼様に弓を引く意識はなかったのだ。清正も九州で東軍に加担した。しかし今回は違う。大坂方のリーダーは秀頼だ。福島正則は留守部隊という口実で江戸に留め置かれた。加藤嘉明も冬の陣は留守部隊だ。もちろん監視付きだ。福島の勇猛さは異常だ。しかし福島は大坂方が兵糧を強奪するのを黙認し、自身の蔵屋敷から八万石も譲り渡している。忸怩たる思いで江戸から大坂の戦況を見ていたんだろう。
 加藤清正は大坂の陣の3年前に急死した。生きていたら大坂方に加担したかもしれない。清正の武勇は徳川にとり脅威だ。また清正は信望がある。清正が秀頼の側に立てば、豊臣恩顧の他大名も動揺する。黒田長政もどう動いたか分からない。薩摩の島津も不気味だ。となると大坂の陣は、清正の他界が契機になっているふしがある。大坂方はしきりに前田家に接触するが、三代目の利常は動かない。家臣の中には豊臣に味方をしたい者達がいたのだが、利口な利常は家康の力を見極めている。鼻毛を伸ばしてバカ殿の振りをしてまで野心を見せない。こうなると豊臣の援軍はいない。
 豊臣側の強みは天下の堅城、大坂城。この地は織田信長と一向衆が死闘を繰り返した石山合戦の地だ。雑賀の鉄砲隊が織田軍を撃ちすくめた場所だ。信長もついに武力によっては開城させられなかった。それと豊臣には豊富な軍資金がある。大坂が落城した後からも2万8千枚の金(28万両)と2万4千枚の銀(24万両)が没収されている。
 弱みは淀殿だ。秀頼をマザコン男に育て、政治や軍事、人事に口を出し、冬の陣では武将達の反対を押し切って和議を結んでしまった。女なのに、というのは言いわけにならない。この大坂の陣では、講和の使者として多くの女性が活躍している。まあ淀にも言い分はあろう。浅井長政を父に、お市の方(信長の妹君)を母にもつ淀は、茶々と呼ばれた少女時代に二度に渡って落城に遇っている。父を義父を、そして母を自害に追い込んだのは秀吉だ。その秀吉が自分を妾にした。秀頼は世の噂通り大野治長の子だったんだろうな。小男で不細工な秀吉から、あれほど長身で秀麗な秀頼は生まれまい。秀吉は数多くの女を寝屋に引き込みながら、淀が二回子を産む他は、一度しか子を仕込んでいない。おかしいだろ。淀殿にとって我が子、秀頼はかわいいものの豊臣なんぞは滅びてしまえ、という気が無かったのか。ウーン、分からん。淀自身でも分からないかもね。
 大坂の秀頼を攻める徳川側の顔ぶれは代わり映えしない。徳川家臣団と、家康の飼い犬になりすがった大名達だ。おっと徳川の犬になりきれない男が一人参加している。東北の雄、天下の伊達男、独眼竜正宗だ。この男何やらきな臭い。本心では娘婿の忠輝を擁して、天下獲りを目指したいのじゃなかろうか。ここで豊臣が滅んだら、チャンスは永久に潰える。戦国の世は終わる。
 正宗は冬の陣で幸村に苦杯を飲まされ、夏の陣では真っ向から激突する。正宗、婿殿の松平忠輝(家康六男)の出来が悪くていらいらしていたんだろう。幸村隊に当たる前に、敗走してきた味方の一隊約300名が前を塞ぐと、あろうことか鉄砲隊に一斉射撃を命じる。主人も主人なら家来も家来、命令一下撃ちすくめて味方を全滅させた。家康は戦後不問に付している。
 豊臣の援軍はいない。天下の趨勢は定まっているのに、豊臣に味方して家も財も失うことはない。集まった面々は失うものは名声と男気だけよ、といった連中だ。だがそれが10万人もいた。関ヶ原の生き残りや戦国の世に死にはぐれてしまった牢人衆の平均年齢は高い。キリシタンも含めて、この先徳川の天下を生きていってもジリ貧、良い目はない。大坂の陣とは、戦国の世を生き残ってしまった不遇の中高年職業軍人や傾き者の始末をつける場だった。今から始まる管理社会にお前たちはいらないよ。
 「おー、お主も来たか!」「生きていたのか、驚いたな。」死に花を咲かそうと集まった牢人衆には、突き抜けた明るさがあった。戦い振りもいさぎが良くて華麗だ。仲間を出し抜いたり、大将にアピールする必要がない。赤で統一した牡丹の花のような幸村隊は首を獲らない。狙うは家康の狸首のみ。どうせ今日で終わりなんだから。そして彼らは正規軍を相手に、意外なほどの善戦をする。

2.豊臣方武将列伝
 豊臣方の顔触れは楽しい。世に言う五人衆とは、真田幸村(信繁)、長宗我部盛親、後藤基次(又兵衛)、毛利勝永、明石全登。木村重成と大野治長を加えて七人衆とも言う。
1. 真田幸村は、幕府の管理下に幽閉されていた九度山を脱出して大坂に参戦。その知らせを聞いた家康は震え上がり、「入城したは親か子か」と叫ぶ。幸村の父、昌幸が三年前に他界している事を一瞬失念する程のショックを受けたのだ。こりゃよほどの真田アレルギーだ。しかしこの家康の悪い予感は見事に的中する。幸村という人はとても温厚な人物で、怒った顔を人に見せた事がない。九度山の住人も幸村を慕い、一緒に何人かの猟師や村の若者が大坂についていった。生活には困窮していたが、幸村の妻(大谷吉継の娘)にとっては案外幸せな14年間だったのではなかろうか。5人の子を作っている。しかもお妾さんもいたようだ。金が無い、髪は抜けるし髭も白くなったと嘆いている割りにはやるもんだ。幸村の奮戦は庶民の心に届いた。江戸期を通じて密かに、講談師などが幸村の赤備え軍団、炎の突撃を高座で行い喝采を浴びている。見つかった講談師は罰せられている。また大坂の陣の後、巷ではこのような童歌が流行った。「花のようなる秀頼さまを、鬼のようなる真田が背負い、引きも引きたり鹿児島へ。」一説によると身長197cm,161kgsの秀頼は背負えないけど。
2. 長宗我部盛親は土佐一国の大名だった。関ヶ原で優柔不断な動きをし、戦をしないで敗走し土佐を召し上げられた。今回は期するものがあった。京で寺子屋の師匠をしていた彼が大坂へ近づくと、旧長宗我部の旧臣が続々と馳せ参じ、ついには千人の行軍になったという。盛親は若い頃は怒り易くキレやすい性格だったが、14年の牢人生活で人格が練れ、大坂の陣では立派な大将になっていた。そして盛親は関ヶ原のうっぷんを晴らす痛快な戦いをする。
3. 後藤基次(又兵衛)は河原乞食をしていた。又兵衛は天下に聞こえた武将だが、旧主、黒田長政にうとまれ〝奉公構い〟にされていた。ヤクザの破門状のようなものだ。もし又兵衛を召し抱えるなら、黒田家と敵対することになるものと心得よ、というものだ。又兵衛は長政の父、戦国の怪物官兵衛(如水)に引き取られて愛され、長政とは兄弟のように育てられた。又兵衛は幼時に父と死別したが、その父は如水の親友であった。長政は又兵衛に嫉妬していたのだ。又兵衛も長政に遠慮がない。一本木な人間だからうまく立ち回ろうとしない。長政にはその又兵衛の長所を汲みとる度量がない。如水の死後、二人は決別した。又兵衛を召し抱えたい大名は数多くいたが、長政の執念が煩わしくて手が出せなかった。又兵衛が黒田家を辞する直接の原因は母親だったという。又兵衛は母をとても大切にし良い暮らしをさせていたが、その母親が生まれ故郷の大坂に帰りたい、大坂で死にたいと泣いて訴えた。心やさしい又兵衛は母の願いを叶えてあげようと思い、長政に黒田家を辞する許しを乞う。ところが又兵衛のことになると、人が変わったように意固地になる長政は許さない。又兵衛は密かに母を連れて黒田家を退去する。それを知った長政は討っ手を出して又兵衛を殺そうとする。さてその母だが、大坂に向かう船の中で亡くなったそうだ。
4. 毛利勝永は関ヶ原で西軍にいた。鳥居元忠のこもる伏見城攻めで戦功を顕した。関ヶ原当日は南宮山の安国寺恵瓊の部隊にいた為、不完全燃焼で終わってしまった。戦後改易され山内一豊に身を寄せた。一豊は勝永に何か恩があったようだ。千石をもらっていたというから、まずは優遇されていたようだ。勝永は森可成、蘭丸の森一族に連なり西国の雄、毛利一族とは何の関係もない。毛利の名は秀吉から授かった。秀吉が何故褒美として毛利の名を与えたのかは分からない。毛利の名などは、俺の一存でどうにでもなる、という事だろうか?勝永、大坂の陣で男盛りの38歳。遅れてきた戦国武将だ。大坂から密かな招聘を受け、最後の死に花を咲かす為長男を伴い一豊の元を脱出した。
 その際妻に相談した。「自分が秀頼様のもとへ行けば、残したお前達がどのような目に遇うかと思い迷っている。」妻は、「お前様の思う通りになさりませ。私達が重荷に思うなら、今直ぐにでもそこの海に飛び込みましょうほどに。」その一言で迷いが晴れたという。残された妻子を山内家が家康に差しだしたところ、「あっぱれな親子である。丁重に扱え。」と家康が言ったというが、結局妻子ともに斬罪にした。息子は10歳だった。
5. 明石全登の大坂入場は派手だ。キリシタンのジョアン全登(たけのり、掃部守=かもんのかみ)はキリシタンの生き残り(小西行長や高山右近の残党)を引き連れ、黄金の十字架とキリスト像、聖ヤコブの像を印した長旗六旈を先頭に、花クルスの旗を立てて大坂城に入城した。城中の男女はその行軍を見てわき上がったという。掃部守率いるキリシタン兵は最終的に八千人に及んだ。
 そもそも明石掃部守は関ヶ原で戦死したものと思われていた。関ヶ原の一戦で彼は宇喜多秀家の一隊八千名を預かり、福島正則の部隊と真っ向からぶつかった。小早川の裏切りに遇い万事休したが、それまでは押し気味に展開していた。掃部守は秀家の姉を妻とする宇喜多一族である。戦後一時遠縁の黒田家に匿われていたが、その後の消息は消えていた。明石は全国にキリシタンの地下ネットワークを築いていたんじゃないかな。
 キリシタン兵は天下を取るのが徳川であれ、豊臣であれ構わない。徳川幕府がキリシタン信仰を迫害し、教会を破壊して神父を海外追放するので、信仰の継続のために戦う。冬の陣の際、大坂城にはポルロ神父等がいた。キリシタン兵は明らかに周りから浮いている。しかし彼らは実に勇敢で結束力が強く礼儀正しい。明石はよく兵をまとめていた。
 明石全登は大坂の陣後、再び忽然と姿を消す。キリシタンは決して自決はしない。18年もたってから全登の息子、小三郎が鹿児島で捕まっている。全登がマジックの如く世の中から消えるカラクリには、隠れキリシタンのネットワークの存在があるように思えてならない。そのネットワークは海外との繋がりを持ち、高山右近がマニラに逃れたように全登もベトナムなどに行ったのかもしれない。全登の南蛮逃亡説は当時からあった。なおカンボジア和平で活躍した前国連事務次長の明石康氏は明石一族の末流である。
6. 織田有楽斎、この男信長の弟で淀の叔父である。兄と少しも似ていない軟弱な男で、戦国の世をフラフラと生き残った。あろうことか家康のスパイに成り下がり大坂城に潜入した。これでは大坂方の最高機密が筒抜けで、弱い方が手の内をさらけ出してしまったら戦争に勝てるはずがない。暗号を米軍に解読されていた旧日本軍と同じだ。木村重成などはそれを見抜いていて、有楽斎にきつい事を言っている。それでも有楽斎は、周囲の冷たい視線を受け流してノラクラと居座り、夏の陣が始まる直前に城を抜け出した。
 だが有楽斎は趣味人としてはなかなかの人物で、千利休の弟子。茶の湯で〝有楽旈〟を編みだした。山手線で東京駅の次は有楽町。有楽町の地名は有楽斎(うらくさい)の屋敷があったところから来ている。しょうーもない男だがどこか憎めない。最初から「ごめんねー、俺ってこんなだからサー」と言っている風情があるんだな。この人に戦は似合わない。
7. 木村重成21歳(一説では19歳)。大変な美男で気品があったという。大坂の陣はこの若者の登場で一気に輝きを増す。重成の父は秀吉から関白秀次の後見役に任じられた。そして秀次が成敗された時に自害した。母は赤子の重成を連れて大坂に来て、旅籠にいたところをスカウトされ秀頼の乳母になった。つまり秀頼と重成とは乳兄弟なのだ。秀頼が〞重成〝と呼ぶ時は特別な情感がこもっていたという。
 大坂城には透き通るような美女がいた。青柳というこの美女は大野三兄弟の母、淀殿の乳母である大蔵卿の局の姪だった。青柳は重成に恋い焦がれ、二人は結ばれた。夏の陣で重成の出撃前夜、二人の打つ鼓の音が城に鳴り響いたという。身ごもっていた青柳は陣後子を生み、しばらくして自害したという。
8. その他の武将
・塙団右衛門直次 – 加藤嘉明の武将で昔気質の豪傑。又兵衛と同じく、主君と喧嘩をして〝奉公構い〟となった。牢人して鉄牛という名の雲水になっていた。関ヶ原では東軍で戦ったが、今回はどうせ徳川で大勢で戦っても褒美はしれている、豊臣で手柄をあげればうまくすると大名に、と思い大坂に馳せ参じた。バン、ダンエモン。戦場で名乗りを上げ易い名前にした。
・大谷吉治 - 関ヶ原で友情から三成に味方し、鬼神の如く戦って死んだ大谷吉継の息子。いったいどこに潜伏していたのか、大坂に現れ一手の大将となる。夏の陣にて奮戦して戦死。
・薄田兼相(すすきだかねすけ) – 狒々退治伝説の武芸者、岩見重太郎その人だという。秀吉の馬廻り衆。冬の陣では女郎買いに行っている隙に砦を取られた。夏の陣で討死。
・安井道頓 – 道頓掘りの道頓。この人、商人であって武将ではない。大坂城に行く何の義理もないのだが、秀吉に一度声をかけられたというそれだけで参加し死んだ。秀頼の話し相手として城にいたらしい。こんな酔興なお人は江戸の世には出てこない。戦国の世は面白い。

*この章の最後に分かる範囲で夏の陣が終わった1615年を基準にして、満の年齢を記す。誕生日の検証はしていないから1-2歳の狂いはあるかも。
真田幸村 48、長宗我部盛親40、後藤又兵衛55、毛利勝永38、明石全登 生誕日不詳。淀殿46、片桐且元59福島正則54

3.大坂冬の陣
 夏の陣は家康の予想通り3日で終わるが、家康も自身が命からがら逃げ惑うことになるとは思ってもいなかったろう。冬の陣は籠城戦だ。前哨戦から数えて1ヶ月ほどの戦いであった。真田丸の攻防がメインで、城の南面に陣取った将兵以外はただの睨みあいに終始した。しかし真田丸での徳川方の損害は1万とも言われるので、打撃は大きい。しかも一方的な損害で豊臣方はほとんど戦死していない。これほどまでに鮮やかな戦果も珍しい。関ヶ原の合戦に赴く秀忠軍が受けた一方的な損害、上田城の戦いを思わせる。
 元来真田や後藤は東に前進して戦い、徳川軍をかき回し各地の武将の蜂起をさそう、籠城は最後の手段と良いと考えた。二段構えの戦法だが、大野治長等に却下されてしまう。まあチームプレーの出来ていない混成チームだから、組織的な攻撃は難しいと考えたのも無理はないが、夏の陣の牢人衆の活躍をみると、積極策を取った方が明らかに良かった。どうも大坂方の首脳部にはあふれる闘志が感じられない。意志の統一が成されない。大将格の大野治長は頭脳明晰だが、淀殿の言葉には逆らえない。そして淀は気まぐれだ。
 真田丸は、難攻不落の大坂城の唯一の弱点である南側をカバーするように、城の外に大きく三日月型に張り出した砦だ。ここを攻める徳川隊は、十分に引き付け満を持した真田鉄砲隊の一斉射撃を食らった。そして堀が埋まるほどの戦死者を出した。六文銭(真田の旗印。六連銭ともいう。三途の川の渡し賃。)は三度徳川を粉砕した。
 この時の真田隊は通常よりも大型の大狭間銃を、通常の鉄砲に混ぜて使用している。大狭間銃は重くて大きく野戦では使えないが、柵に設置して上から狙い撃てば効果は絶大、頭や手足がフっ飛ぶ。重量は20kgs、数人掛りで操作したらしい。射程は通常の2倍、300mに達する。この長い射程のために徳川軍の塹壕堀はしばしば中断された。
 貧乏牢人の幸村は、大坂城に招聘される際、金200枚銀80枚の軍資金を受け取ったという。しかし九度山からやっと抜けだした幸村がいつの間にこんな銃まで用意出来たのか。赤備えの甲冑はいつ注文したんだろう。大坂方の準備の周到なことが伺える。徳川は兵器製造工場を押さえなかったのか?それとも豊臣の金払いが異常に良かったのか。
 冬の陣における野戦を二つ。前哨戦として行われた小戦闘が木村重成の初陣となった。慶長19年(1614年)11月26日、今福の戦いである。大坂城東北、大和川の北岸に今福村、南岸に鴨野村がある。湿地帯で周りは田んぼなので堤防上のみ軍勢の移動が出来る。ここに徳川軍が押し寄せ、少人数の豊臣守備隊はほとんど全滅した。この敗報を聞いた重成は馬に飛び乗り、今福に向かった。木村隊の果敢な反撃により、徳川軍に奪われた四柵のうち三柵まで取り戻したが、増援に来た上杉軍の銃撃が凄まじく、第一柵に取りついたまま木村隊は身動きが出来なくなっていた。
そこへ後藤又兵衛が駆け付けた。又兵衛は兵から銃を借りると、銃弾がヒュンヒュン飛来するなか、堤の上に全身を晒しゴウと銃を放った。「見よ!戦さとはこうするものよ。」その剛勇に振るい立った重成と木村隊は次々に堤に登り、敵陣に突入する。重成は部下の差しだす楯を投げ捨て、敵方の将、渋江内膳と一騎打ちになりその首を取った。そしてついに徳川軍を押し戻した。
この後木村重成は、戦上手の後藤又兵衛に色々と教えを乞う。又兵衛はよほどこの青年が気に入ったのだろう。息子のように丁寧に教える。この二人は夏の陣の初日に別々の戦場で華々しく討死する。
もう一つは塙団右衛門の夜襲だ。冬の陣の講和が近づいた頃、塙右団衛門が蜂須賀軍に夜襲をかけた。敵の侍大将、中村右近を討ち取り夜襲は鮮やかに成功した。団右衛門は引き揚げる際、用意した木札をバラまいた。そこには「本日の夜襲の大将は塙団右衛門也。」と書いてあった。他にもこの夜襲に参加した武将はいたのだが、団右衛門の一人勝ちだ。この人物、豪傑風の外見に似合わず、漢文の素養のある風流人であった。
 このように戦いは豊臣方有利に推移していたが、意外な所から終わりを告げた。徳川軍の砲撃である。大御所家康は、この合戦を始める前に三浦安針を仲介としてイギリスから、またオランダからも大砲を輸入している。この時点で欧州の方がずっと優れた大砲を製造していた。イギリスのカルバリン砲4門、セーカー砲1門、オランダの半カノン砲12門は10mほどある大型砲だ。国産の大筒と石火矢を併せて100門以上、和議締結まで大砲撃戦を展開した。砲声は京にまで届いたという。
 砲撃の的は、今や徳川先鋒として参戦している片桐且元が図面を指さして教える。ここが淀殿の部屋、この豊国廟に故太閤の命日に秀頼が参拝する。且元、自分が情けなくならなかったのかね。大坂落城のわずか20日後に病死。淀は最初自らも武装して将兵を鼓舞して歩いたが、侍女8名が砲撃ですっ飛び肉片が柱にこびりつく光景を目にして震え上がった。和議じゃ、和議じゃ、聞く耳を持たない。
 冬の陣で家康は坑道を掘ったり、堀の水を抜く土木工事を行ったりした。しかし戦が11/30に籠城戦が始まり、12/20には和議を結んだため、効果が出る以前に終わってしまった。家康は元々力攻めを避け、一度和議を結んで堀を埋める策を考えていたようだ。駿府に戻る途中も堀の埋め立て工事の進捗状況ばかりを尋ねている。秀忠は真っ先に憎い真田丸を徹底的に破壊した。

Episode1.木村重成が幸村に会って話しをした。「私の守る城壁から敵陣を見ると、六文銭の旗が見えます。進退が鮮やかですが、御一族ですか?」「あれは甥の河内守信吉なる者です。」「そうでしたか。あたら勇者を鉄砲で撃ちとっては武人の名がすたります。配下の者に言いふくめておきましょう。」「かたじけない。」20歳そこそこでここまでの配慮が出来るとは。

Episode2.真田丸に押し寄せる前田軍。上から撃ちすくめる真田隊。立ち上る硝煙、沸き上がる怒号と、間断ない銃声。堀から砦を見上げる兵士にとっては、絶望的な高さに見えたことだろう。かろうじて生還した母衣武者が後で数えたら、母衣に空いた銃弾の穴は48あったという。
 こんな話しも伝わっている。主人を守って楯となり、次々に銃弾を浴びている大柄な郎党がいた。郎党はすでに身に19弾を受けていたが、強がって言う。「へん、こんなもん痛かねえや。」あきれた真田兵が声をかける。「オーイ、そこの御仁、名は何と言う。」声をかけられ郎党はハタと困った。名はあるが姓は無い。すると主が言う。「我が姓を名乗ることを赦す。」郎党はニッカと笑って叫ぶ。「今、ご褒美に名前をもらった。俺はxx,xxx」真田兵は銃撃を止め、手を叩き歓声をあげた。

Episode3.今福の戦いで、重成は部下の大井なにがしの姿が見えない事に気付いた。単騎で戦場を駆け巡り、手負いの大井を見つけた。これを見て重成は馬を飛び降りて大井を抱え後退しようとした。そこへ敵の4,5騎が迫ってきた。大井は「自分を捨ててお引き下され。」と言うが、重成は槍を持って敵に向かう。その後部下が追い付いてきたので大井ともども撤退した。秀頼は重成の奮戦を喜び、感状と脇差しを与える。しかし重成はそれを返上した。重成は笑って言う。このたびの戦の武功は自分一人の働きによるものではありません。御感状は他家に奉公する時に経歴の飾りになりますが、自分には二君に仕える気などありません。欲が無いなあ重成、脇差だけ貰っておけばよかったのに。

4.戦の合間
 12月20日に和議が結ばれ、徳川の騙し討ちに遭って堀が徹底的に埋められ5月には夏の陣が始まる。この休戦の間、両陣営の間で人の往き来が盛んだった。昔の事だから人の消息などなかなか知れない。一度別れたら永別になることも多かった。敵味方に分かれていても友は友、旧友との再会があちらこちらで展開された。戦国の武士の商売は戦争だ。休戦中は敵味方のわだかまりなどはない。
 豊臣代表として和議の席に出たのは木村重成だ。年は若いが気品のある姿、凛とした立ち居振る舞いは徳川方に強烈な印象を残した。誓紙を受け取った重成は言う。「この血判は薄いですな。」家康は顔をしかめてつぶやく。「年寄りだから血が薄いのじゃ。眼も霞んで思うようにつけぬのじゃ。」重成はどこ吹く風と聞き流す。仕方なく家康は指を切って血を絞り出した。ザマミロ。
 重成は最後の合戦の数日前からダイエットをしていた。傷口から食物が出たら見苦しいという。また首実験の時、重成の首からはえもいえぬ良い香りがした。武士のたしなみ、徳川の武将は和議の時の重成の颯爽とした姿を思い起こした。
 家康はこの停戦中にいやらしい手を打っている。後藤又兵衛と真田幸村に寝返りを何度も持ちかけている。一国を与える。十万石でどうじゃ。では五十万石を与えよう。いいかげんな空約束で、この二人が寝返るとは家康も思ってはいない。また今後の幕府に武力に優れた勇敢な男はいらない。必要なのは実務に長けた小心者だ。利でころぶ一芸に長けた小粒の男達だ。徳川譜代の武断派の武将達も、この陣後意外なほどの冷遇を受ける。何度も使者を送ることで、敵方に疑心暗鬼を生めばそれで良い。この汚い手は成功して二人を苦しめる。特に又兵衛は味方の疑心からその死を早めた感がある。

Episode1.諸侯の間を渡り歩き、諸国を遍歴した塙団右衛門には知人・友人が多い。冬の陣の休戦の間、塙の陣屋には毎日のように来客があった。塙の豪傑話は楽しいし、見かけによらず漢詩を作る風雅な心を持っている。ところが親友の林半右衛門が訪ねて来ない。半右衛門の消息を尋ねると、池田家に仕えているという。人を介して半右衛門の話しを聞くとこうだ。「かつて団右衛門と拙者はたとえ大国を領するほどの身になっても、手づから槍を振るって戦うようでなければ漢(おとこ)ではない、と言い合っていた。ところが団右衛門は橋の上に床几を据えて腰を下ろして采を振り、槍を手にしなかったと言う。約束を違えた団右衛門など顔を見たいとは思わん。」
 実は塙はかつての主、加藤嘉明から猪武者め、お前など将として兵を下知するなど思いもよらぬ、と言われた事があった。それがくやしくて自分でも采配くらい振れるわい、と夜襲に於いて先駆けしなかったのだ。「半右衛門が憤るのも無理はない。もう気が晴れたから、次の戦さでは半右衛門との約束通りこの手に槍を持って戦うまでよ。」これが夏の陣、前哨戦での戦死に繋がる。

Episode2.渡辺糺(ただす)。この人の経歴ははっきりしない。母は淀殿の側近、正栄尼。秀頼側近の中で、木村重成が皆に愛されていたのに較べ、大野治長とこの渡辺糺は牢人衆から嫌われていた。治長と糺が冬の陣の配置を巡って大げんかをし、刀を抜こうとした。後藤又兵衛はそれを見て言った。「悪党二人とも死んじまえばスッキリしたのに。」しかしこの人、なかなかどうして勇敢に戦っている。
 冬の陣、今福・鴨野の戦いで今福方面を木村重成と後藤又兵衛が押しまくり、鴨野の防衛では渡辺糺と他隊混成で、上杉・堀尾部隊と戦い、ついに撤退するまで糺は戦場に踏みとどまった。
 夏の陣では初日に真田隊と共に戦い、幸村が伊達正宗隊を撃破し大坂城に撤退した後も戦場に留まり、向うずねを撃ち抜かれた。負傷したまま茶臼山方面に布陣し、翌日真田隊、大谷隊と共に戦った。大谷吉治戦死、真田隊壊滅を見て大坂城へ帰り秀頼に豊臣軍が野戦において敗北した事実を告げた。これまでに受けた恩義に対する感謝を告げ、幼い子らと共に自刃した。正栄尼も自刃して糺の後を追った。
 また一説では、「豊臣家復興再起のため」近江に向かったが、道中秀頼の自刃を知り立ったまま切腹して果てた、ともいう。長男は乳母が隠し南禅寺に行き僧になったとも。
 ここで書くのも何だが、大坂城内の空気は良くなかった。淀殿中心で側近がいばり、牢人衆を軽くみた。最初は明石全登と後藤又兵衛を会議に加えなかった。共に陪臣であるという理由からだ。又兵衛が心根のきれいな若者、木村重成を可愛がったのはこんなところからでもある。




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