旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

骨つぼプカプカ

2015年08月17日 20時43分27秒 | エッセイ
骨つぼプカプカ

 子供の頃、墓参りがきらいだった。今でも好きではない。墓参りの後に外食しようね、と言われても差し引き行きたくはなかった。まあ歯医者ほど絶対に拒否していた訳ではないが。全然面白くないし、日本の墓地って陰気じゃん。あれは墓石の形状が良くないんかな。公園のように芝生に点々と並ぶ英領墓地や山手の外人墓地の方が明るい透明感がある。じめじめしていない。でもあの土の下にお棺に入った遺体がそれぞれ入っているのは、ちょっと不気味。
 印度北西部、パキスタンと国境を接するカシミール地方で、イスラムの葬式に参列した。えっ、ここって墓地だったの。土茶けた空き地に、そう言えば土がいくつも盛り上がっている。古いものはほとんど平らになっている。この時亡くなった人はおばあさんで、棺は無く布にくるまれすでに掘ってあった深い穴に横たえられ、土を盛られた。埋葬に立ち会ったのは男たちだけで、儀式は丁重だが簡素なものだった。
 バンコクのような都会ではどうしているのか知らないが、タイの田舎では庭に墓がある。最初は分からなかったのだが、言われてみるとあるある。どの家の庭にも片隅に石と立てたお墓が。中には写真を飾っていて、それが雨に濡れて崩れ、顔が半分溶けかかっていたりして相当に怖い。
 ならいっそ墓などなくしちゃえ。チベットのラマ教徒や、インドのムンバイにいるゾロアスター教徒の子孫、パルシー達が今でも遺体を砕いてハゲワシ、ハゲタカに食わす鳥葬を行っている。これはいいな。死んで鳥になるヤマトタケルの白鳥伝説みたいだ。印度では川辺で焼き、その遺灰を又は焼かずに布で包んでそのまま、聖なるガンガ(ガンジス川)に流すから墓はない。遠くからでも盛んに遺体を運んでくる。ガンガでは遺体は浮いているわ、洗濯はするわ、汚物は流すわ、その下流で人々は水浴をして口をすすぐ。大丈夫かいな、と思うよね。
 以前TVで見たのだが、ガンガの水は強烈に濁っているが、極めて強力な殺菌能力を持っているらしい。この国を1877年から1947年の独立まで支配した大英帝国の艦船は、遠洋航海にガンガの水を汲み飲料水として用いたという。さて話しがアジアを中心に地球儀をぐるぐる回ったけれど、日本のお墓の中には火葬された骨しか入っていないからドライだ。墓石はウェット、中はドライ。
 仏教は輪廻転生、本来抜け殻の遺体、遺骨に重きをおかない。まあ釈迦の骨は別だが。イスラム教・キリスト教・ユダヤ教のような復活の日とかは無いのだ。東北の即身仏は別だが、変な聖遺物信仰とかには陥らない。ただ我々日本人が本当に仏教を信仰しているとは、とても思えない。ビルマ(ミャンマー)は、大変熱心な上座部仏教徒が主流で、遺体はそこら辺の空き地を掘って埋めている。抜け殻の骨と肉に魂は宿っていない。日本人が大戦中の日本兵の遺骨収集に執念を燃やすのを、とても不思議に思っている。ビルマ人なら密林に分け入るより、パゴタへ行って静かにお釈迦様に手を合わせるだろう。おっとまた地球儀を回してしまった。
 我が家のお墓も陰気な墓石に囲まれた陰気な墓だが、高台にあるので、娘が働くみなとみらい地区のビルを見下ろしている。自分は死んだ後がどうなろうが、どうでも構わないが、ここに納まるよりは太平洋に散骨してもらった方が良いな。
 墓の穴がどうなっているのか、覗いた人はそう多くは無いだろう。1.5mほどの深さの穴にバラバラの骨の残骸が撒いてある。板で棚が渡され、そこに骨つぼが置かれている。その板の上には大きい骨つぼは3つほどしか置けない。自分の父はそんな事を気にしていたのか、古い骨つぼを整理してスペースを作っておいたと言っていた。だけどそう言っていた本人と母親の骨つぼを置いたら、また一杯になっちゃった。次は俺か?その時になってつぼを置くスペースが無くて困るのは気の毒だから、自分が整理することにした。墓地清掃を委託しているお茶や(石材店)に頼むのが普通なのだろうが、人の手を煩わせてしかも数万円を払うこともない。
 思い立って休日の或る日、早朝に墓に行った。小雨の降る寒い朝だったが、炎天下よりは良い。墓石前部の線香の石台を除け石板に手をかけたが、ムっ重い。こんなに重いとは、手で押すだけではびくともしない。こりゃーいかんぜよ。何かバールのような物がないと動かないな。車にシャベルが積んであった(骨つぼを埋めるかもしれないので)のを思い出し、往復20分ちょっとかかるが、駐車場から取ってきた。小型のシャベルを強引に押し込み、重い石板を少しずつずらした。また日を改めて来る気にはならないから、思い切り力を入れ、雨に濡れた地面で腕やひざが汚れるのも気にしない。
ポッカリ穴が開き、開いた穴に雨が降り注ぐ。ちょっとした遺跡の発掘だな。そういえば考古学の先輩が言っていた。江戸時代(土葬だった。時代劇に出てくる大きな樽に座って入れる。)の墓の発掘に行くといつも雨が降る、と。何で江戸時代の墓を掘るのかは忘れたが。
 穴は底が暗く思ったよりもずっと深い。オー、オー確かに骨が見える。匂いはしない。思わず鼻をクンクンしてしまった。骨はそんなに多くはないように思える。そして棚になった所に大きな骨つぼが二つ、小さいのは三つほど見える。あと一つは置くスペースがあるな。穴に半身を突っ込むようにして、大きなつぼを取り出しフタを開けて中身を穴の底にバラまいた。小さな骨つぼは邪魔にならないから、そのままでいいや。そういや親父もそう言っていたな。そう言っていた本人ともう一つのつぼを空にし、用意した袋に入れ石板を元に戻した。時間にして十五分位の作業だったが、フー大仕事だ。よしよしこれで三つ分のスペース確保。
 冬の朝の墓地では誰にも会わなかったが、もし出会っていたら墓荒らしかと思われちゃう。シャベルに大きな袋。さてこのつぼ、色々考えたが海に捨てることにした。山の中に埋めて万が一誰かが掘り返したら面倒だ。海はいいよー。タコでも入ってマイホームにしたらいい。横浜近郊では海岸に人が多いので、何時間も車を走らせ人気のない海岸を探した。まあ冬の海にそう人はいないが、太平洋に面した突堤を選んだ。立ち入り禁止の表札を横目で見て、その先端まで行った。小雨が降っている。海は適度に波があってザップンザップンきている。海面近くまで降りたいが、水に濡れたテトラポットがいかに滑りやすいかを良く知っているので、ちょっと遠くの足場が確保出来る所から、つぼの口が下になるように思い切り放り投げた。母親の方のつぼはうまく海に落ち沈んでいった。次に父親の方を投げたがこれが何と海に浮かんでしまった。あらら波に乗ってドンブラコ、沖に沖にと流されていく。しばらく見ている内に、ずいぶんと沖の方へ進んでいった。
 海は見渡す限りどこにも釣り船等は出ていない。あの調子では相当沖まで沈まずに航海していきそうだ。だちらかと言うと、旅行とかに積極的ではなかった父親の方がドンブラコとは面白い。しばらく見ていたが、つぼは波に乗って沖へ沖へ太平洋の彼方へ旅して、小さくなってついには見えなくなった。
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嗚呼、紫電改

2015年08月10日 15時45分23秒 | エッセイ
嗚呼、紫電改

 第二次世界大戦中のレシプロ戦闘機が好きだ。バトル・オブ・ブリテン、英仏海峡を挟んでイギリスのスピットファイアー、ハリケーン対ドイツのメッサーシュミット、フォッケウルフの制空権をかけた戦い。英国はここで負ければ後が無い、瀬戸際での際どい勝利だった。大戦の少し前の芬ソ戦争に於ける弱小フィンランド空軍の10対1をものともしない、粘り強い戦い。しかも他の戦場では二線級だった戦闘機を用いて祖国の空を守り抜いた。
 そして日中戦争から、太平洋戦争初期に於けるゼロ戦の活躍。日本が当時の世界の水準に抜きん出た兵器は、零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦。速力・航続力・炸薬力が大きく、ほとんど雷跡の出ない酸素魚雷。そして実戦ではあまり活躍の場が無かったが、爆撃機、晴嵐を積んだ海底空母イ400シリーズ。といったところか。戦艦大和・武蔵は無駄花だった。ドイツの大陸間弾道ミサイル、列車砲、ロケット/ジェット戦闘機、無敵のタイガー戦車等に比べると見劣りはするものの、開戦半年、一年の間に於けるゼロ戦の無敵振りは圧倒的なものだった。
 ゼロ戦の優れた点は三つ。小回りの利く格闘能力、驚異的な航続力、強力な武装だ。しかしゼロ戦のエンジンは1,000ccにすぎない。車で言えば日産マーチだ。軽量化を極限にまで追及したため、翼も燃料タンクにされ、操縦者への防弾装置は全く無い。一弾当たれば火がついてしまう。米軍はゼロ戦を研究しその優秀な格闘能力(いわゆる巴戦に強い。)を避け、編隊による上空からの一撃離脱の戦法を取るようになった。ゼロ戦は軽いので急降下の速力で負け、アメリカの鈍重で頑丈な戦闘機に追いつけない。アリューシャンの戦闘で、島の湿地帯に不時着したぼとんど無傷のゼロ戦が、米軍の手に入った不運があった。不時着したゼロ戦のパイロットは戦死していた。
 ゼロ戦は最高時速が585km/hで、その後に出てきた米軍の戦闘機に比べると、どうしても見劣りする。ゼロ戦は三菱製だが、三菱はその後、迎撃用局地戦闘地〝雷電〟を送り出すものの、ゼロ戦の後継機となる次期艦上戦闘機、〝烈風〟は終戦に間に合わなかった。インターセプター、雷電も一部の部隊での活躍はあったが、そのくまん蜂のような外見、操縦席からの視界の悪さ、着陸時の高速(殺人機とまで言われた。)からベストの戦闘機とはとても言えなかった。自分の父親は高専を出て、戦争中名古屋の三菱で働いていて雷電の設計に加わっている。なのであまりこの戦闘機の悪口は言いたくないな。父は戦争の話はあまりしなかったが、戦時中空襲以上に名古屋の大地震で工場が被害を受け、工員が大勢圧死したこと。乗用車にターボエンジンが採用されるようになった時、詳しい仕様を書いた記事を見て、頭では分かった積りでいたけれどこういう構造なのか、とうなずいていた。日本は戦時中航空機のターボエンジンの開発が間に合わなかったからね。
 陸軍の戦闘機は優秀だ。戦後解体された中島飛行機がメインで、一式戦、隼。二式双戦、屠龍。二式戦、鐘馗。三式戦、飛燕。四式戦、疾風(ハヤテ)。五式戦と次々に新鋭機を戦場に送り出し、ニューギニア、フィリピン、ビルマ、本土等の戦場でグラマンと互角に戦っている。ちなみに零式(レイシキ)とは、戦前に使っていた皇国史観に基づく暦で、皇紀2,600年(西暦1940年、昭和15年)に制式採用されたので零式という。2,601年採用なら一式、逆に2,597年採用なら97式。例えば97艦攻とは97式艦上攻撃機のこと。2,602年には巨大で優秀な川西製作所製の二式大艇が就航している。一度お台場の船の科学館で見たことがある。(今は置いていない。)想像を超える巨大さだ。これに乗ってアメリアのカタリナ飛行艇と一騎打ちで撃ち合ったらと思うとワクワクする。
 四式戦、疾風は優秀機でゼロ戦の撃墜王、板井三郎はテストパイロットとして乗り比べ,紫電改よりも疾風を海軍で採用するように具申している。五式戦には名称はない。言うなれば〝飛燕改〟である。日本では珍しい液冷エンジンを搭載した飛燕はエンジントラブルに悩まされ、またダイムラーベンツのライセンス契約で製造した液冷エンジンの製造も滞り、フィリピン等一部の戦場では活躍を見せたものの、整備士泣かせの機体であった。川崎航空機の工場にはエンジン待ちの首無し飛燕が並んでいた。これに空冷エンジンを取り付けたところ、意外なほどの高性能を発揮した。五式戦(キ100)の登場は敗戦の1945年の2月からで、遅すぎた。もっと早く登場していてもおかしくはなかっただけに悔やまれる。実戦でB29、P51を撃墜している。日本軍最後の制式採用機である。
 さて帝国海軍は、ゼロ戦を継ぐ優秀な戦闘機が欲しい。切実に欲しい。ドイツに派遣した潜水艦がシンガポールまで図面を運んだ、ロケット戦闘機、ME163のコピーを作りサイパン、テニアンから飛来するB29用のインターセプターとする計画も、終戦には間に合わなかった。邦名は〝秋水〟である。飛行機を1から設計したらどうしたって3~4年はかかる。そこで海軍が目をつけたのが、川西製作所製の水上戦闘機、強風である。水上戦闘機とはフロートをつけて水の上で離着陸する飛行機である。飛行場が無くても運用出来るが、ゲタばき(フロート付き)なので速力、運動性はどうしても落ちる。
 開戦当初、連合軍の島を占領していち早く進出する目的で作られたが、強風は十数機製造されただけだった。三菱のゼロ戦を基本としてフロートをつけた零式水上戦闘機の性能が良かったのと、負け戦でそんな景気のよい戦場が無くなったためである。しかし強風は良い飛行機だ。フロートを外して車輪をつけたらどうだろう。海軍は川西に開発させ、強風を基に陸上戦闘機、紫電を作らせた。改造だけだから開発は早い。川西も初めての戦闘機に張り切った。
紫電/紫電改 : 出力 1,990CC 最高時速 644km/時 武装は20mm x 2, 13.7mm x 2、これは20mm x 2, 7.7mm X 2のゼロ戦よりも強力で、携行する弾丸数もずっと多い。燃料タンクと操縦席の防弾対応も成されている。
 しかし紫電には問題が多かった。エンジンの不良が多い。車輪が長すぎるため、着陸時に折れる事故が続いた。視界が悪く着陸が困難。そこで紫電を改良し、中翼(胴体の真ん中から翼が出ている。)から低翼(胴体の下部から翼が出ている。ゼロ戦他日本軍機はこれが多い。)へ変更した。そのため車輪が短くなり着陸の難易度も軽減された。紫電を改造したので紫電改、これであのスマートな機影が完成した。
 紫電/紫電改の優れた点は、自動空戦フラップによる運動性、格闘能力の高さである。自動的に翼のフラップが働き、空中でブレーキが一時的にかかった状態になるので小回りが利く。これは当時日本だけが採用していた優れた装置だ。より小さな半径で回転出来れば、同時に回っても敵機の背後につける。戦闘機は後ろに回られたら、逃げるしかない。高速なのに運動性がよい。
 真珠湾攻撃に参加、指揮をとった源田実大佐が敗色濃厚な昭和19年、南方で生き残ったベテランパイロットを集め、343飛行隊を結成した。出来上がったばかりの紫電/紫電改を使って猛特訓を始めた。度重なる出撃要請を退け、満を持して昭和20年3月19日、四国松山上空でアメリカ軍の空母艦載機延べ160機に、紫電/紫電改54機が上空より編隊で襲い掛かった。数では勝っていたが、米軍パイロットは突如現れたエキスパートパイロットの乗る新鋭機に次々に打ち落とされ、悲鳴をあげて逃げ回った。帝国海軍快心の迎撃戦であった。と言いたいところだが、事実はそうではなかったようだ。
 日本側の戦果は撃墜59機(対空砲火による撃墜を含む。)、米側は撃墜50機と報告している。しかし実際の戦果は、日本側の損失が15機(敵機に体当たりした偵察機、彩雲を含む。)、米側の損失は14機(対空砲火によるもの、母艦まで帰還したが損害がひどいため海洋投棄した機を含む。)であった。また343空のベテランパイロットの割合は意外と低くて、大半は実戦を未経験な訓練兵だったようだ。ともあれ米側が警戒を強めたのは事実である。343空はその後も終戦まで迎撃を続け、また沖縄戦では特攻機の露払い、制空に努めた。瀬戸内海に沈んだ紫電改が1978年に引き上げられている。終戦となり、接収するために武装を外した紫電改にハイオクのガソリンを積んで、松山から調布へ飛ばしたところ、エスコートするグラマンF6Fをぶっちぎったと言う。
まともな燃料が十分にあれば、もっと性能を出せたに違いない。
 他に九州飛行機で開発したB29迎撃用の戦闘機〝震電〟は、プロペラが操縦席の後ろにある実にユニークな形状であった。最高速:740km/時(カタログ値) 上昇限度:高度12,000m 武装:30mm 機関砲 x 4門。 終戦時、試運転まで終わっていて実戦投入まで後一歩のところであった。これは素晴らしい高性能機だ。この震電は運動性など全く無視している。高空まで駆け上がり、空の要塞B29を撃ち落すことだけを目的として作られた。この速度では敵戦闘機はついて来られない。こんな独創的な飛行機が、超ローカルな九州飛行機で短期間に作られたのはすごい。震電の機種に据えられた30mm機関砲4門が、実戦で火を吹いていたら米軍は一時的にパニックに陥ったことだろう。不謹慎だが一度飛ばせてみたかった。
 さて現代、自衛隊の次期戦闘機が国産されると言う。名前は〝心神〟。ゼロ戦、紫電改以来の国産戦闘機だが、名前はどうかな。改造したら心神改になるんか
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My movie Top 10

2015年08月07日 14時42分44秒 | エッセイ
My movie Top 10

あのね、このトップ10に入ったからといって、今見ても面白いとは限らないのよ。当時は感動したのだが、今見返したら退屈に思うかもしれんよ。この間、ブルース・リーの『燃えよ、ドラゴン!』をTVで見たけれど、DVDで保存しようという気にはならなかったもんね。十代、二十代と四十代、五十代では見方も変わる。まあ何度も見たもんな、この10本は。
 しかしなんだね、名画の条件は明らかだな。せつない。これにつきるね。魅力的なヒロインもいいね。でも絶対条件ではない。カンフーや戦争映画では女はいらねえ。この十本順番は関係ありません。

・ローマの休日 :1953年 米 パラマウント
オードリー・ヘップバーンめっちゃかわいい、超せつない。
・カサブランカ :1942年 米
君の瞳に乾杯!イングリッド・バーグマンのきれいなこと。脇役の署長がまたいい。
・コナン・ザ・グレート 第一作 :1982年 米
何度見ても面白い、興奮する。テーマ曲に乗って、二人で三十人の騎馬隊を丘の上で迎え撃つシーンが最高!
但し二作目以降は駄作なので、見てもしょうがない。
・冒険者たち :1967年 仏
若いアラン・ドロンより、太った中年男リノ・ヴァンチュラの方が格好よい。ヒロインが選ぶのも納得。
・天空の城、ラピュタ :1986年 スタジオジブリ作品
  数あるスタジオ・ジブリ作品の代表として入れる。ジブリには随分楽しませてもらったが、駄作も多かった。
*ジブリ作品 ベスト5
1.天空の城、ラピュタ
2.もののけ姫
3.千と千尋の神隠し
4.平成狸合戦 ぽんぽこ
5.紅の豚、又は 風の谷のナウシカ(アニメ本、全7巻は秀逸。映画は要約しすぎ。アニメ本は新世紀エヴァンゲリオンに次ぐMy best second)
・ラスト・サムライ :2003年 米
渡辺謙が格好よくて小雪がきれい。トム・クルーズの演技もまあよい。真田広之には負けるけど。切れ味のよい作品。映画館で二回見た。
・ダンス・ウィズ・ウルブス :1990年 米
いい映画だが、トップ10にはちと弱い。数あるウェスタン映画の代表として入れておく。この映画長いよ。
本当は『ラスト・オブ・モヒカン』を入れたかったのだが、一度見たきりビデオ屋にもない。自分にとって幻の名作である。
・大地のうた 第一部 :1959年 印度
これは知らないでしょ。インドのサタジット・レイ監督の白黒映画。三部作だが、第一作しか見ていない。野生児のようなお姉ちゃんの死がせつない。その姉ちゃんがお金持ちの友達からネックレスを盗んだと疑われ、弟が姉の死後に隠してあったネックレスを偶然見つける。それを池に捨てるシーンがまたせつない。
・俺たちに明日はない :1967年 米
これは入れなきゃね。ついうっかり忘れていた。ボリビア政府軍に撃たれるっていや、チェ・ゲバラもそうだな。
・ブレード・ランナー :1982年 米
これは不思議な映画だ。見ると不思議な気分になる。見終わった後も変な気分だ。この映画、全編で雨が降っている。最後にビルの屋上で、死に瀕したアンドロイドが雨に濡れながら独白する。「俺は地の果てまで行って、人間が一生かかっても見ることの出来ないものをいくつも見てきた。冥王星の近くで、蟲に襲われ火を吹きながら落ちていく宇宙船を見た。また----」セリフは覚えていないがゾクゾクする。

後、お勧め佳作、コメントなし。順不同。
・ コールドマウンテン
・プリティー・リーグ
・パトリオット
・アバター
・酔拳 ⅠとⅡ
・道 :1954年 イタリア
・プランベート・ライアン
・ショーシャンクの旗の下で
・シコふんじゃった
・青いパパイヤの香り
・MUSAー武者ー: 2001年 韓国・中国合作
・初恋の来た道 :1999年 中国
・プラダを着た悪魔
・シックス・センス
・ダイハード Part 1
・ワイルド・ギース
・地獄の7人
・毛皮のエロス
・ターミネーター Part 2
・スピード
・ナバロンの要塞
・頑張っていきまっしょい
・セブン・イヤーズ・イン・チベット
・座頭市 - 勝新のもの
・マッドマックス 第一部
・サハラに舞う白い羽根

まだまだあるが、きりがない。

ついでにドラマ Top 10(順不動)
・あまちゃん
・アニーマイラブ
・名探偵モンク
・ドクターハウス
・ボーンズ
・チャングムの誓い
・メンタリスト
・ララミー牧場
・大草原の小さな家(初期の作品)
・ボディ・オブ・プルーフ

番外 ワイオミングの兄弟、実はどんなドラマか全く覚えていない。けれどもタイトル名と凄く面白かった記憶だけが残っている。

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2015年08月07日 13時41分25秒 | エッセイ


 何か最近upした文って、重いものが多いよね。文章に軽妙さと洒脱が無いな。自分の体験したことをずい分書いた。もうそろそろネタ切れだと思うでしょう。だけどこれがまだあるんだな。平凡な男の一生にも色々なことはあったんだ。だけどこれだけ書いて、俺死ぬんかな。昔のことを思い出し思い出し書いていると、遺書みたいだ。
 これだけエッセイを書くんなら小説を書けよ。フフ、実は一本応募中なのだよ。結果は来年の一月だけど、まず駄目だね。自信ねー、小説は難しいや。
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サンゲー村の天才少年 - 続き

2015年08月04日 16時48分40秒 | エッセイ
サンゲー村の天才少年 - 続き















それでなくとも戦時下の国境には変な奴らが集まってくる。プレスの連中とはあまり知り合わなかったが、ボランティアだけでも十分変だ。僕らのNGOはタイ在住の邦人、特に駐在員の奥さんがリーダーとなって始めたのだが、その後発展して活動範囲をアフリカ、ヨーロッパにまで拡げ日本を代表する海外難民のボランティア団体となった。しかしいかんせん資金がない。日本人の若者は、日本から或いは海外貧乏旅行中に次々と集まるが、井戸掘りの機械を購入するような資金はとてもない。そこでアメリカのNGOから機械(日本製だった。)を借り、我々は労働力を提供して井戸を掘った。ちょうど国際情勢と逆だな。日本は金だけ出して血と汗は出さないと批判されているものね。
 欧米系のボランティアは数百年の伝統を持ち、そのほとんどが各種キリスト教の団体である。頂点には国連、老舗の国境無き医師団、欧米だけでなく台湾から来た奉仕団もいたし、日本からは曹洞宗の団体が、国境だけでなくタイ国内の湿地帯にあるクロントイのスラム街で教育活動を行っていた。代表一人で来ていた日本人は、どういうバックアップがあるのか、米屋のトラックを雇って荷台一杯の米袋を難民村に運んだのは良いが、雨季のドロドロ道にトラックが嵌って動けなくなり、四苦八苦してゲリラ兵に助けられていた。
 さて我々に機械を貸し出したアメリカの団体は一体どんな連中なんだ?バンコク市内にしゃれたオフィスを借りていた。一度朝早く訪ねて乾燥肉に牛乳をかけた物を食わせてもらったが、おそろしくうまかった。普段朝は米粉のソバばかりだったからね。そのアメリカ、ボランティアの副長格の男が怪しかった。ヤンキーなのにタイ語がペラペラで、国境に四駆のピックアップトラックで頻繁に出没し、人工衛星でも打ち上げるのかと思うほど大げさな通信機器を積み立てて、どこぞと延々話していた。うわさでは元CIAとかだが、お前さん現役のCIAだろ。だとしたら人の少ない割にやたらと資金が潤沢なのもうなずける。当時敵(ベトナム軍?)が毒入りオレンジをばら撒いている、というネガティブキャンペーンの情報を集めていたようだが、オレンジもバナナもバンサンゲーでは見たこともない。
 後にこの団体から二人の米国人を送りこんできたが、一人はネイティブアメリカンのクウォーターのおじさん、四十歳位だろうが、若い僕らには相当なオジンに見えた。もう一人は身長2m15cm位の若者で、二人共いい奴だった。インディアン混じりのオッサンは工具に混ざっていた手斧(トマホーク)が気に入り、休憩時間に下から投げて木に突き刺す練習をよくしていた。いたずらでウメボシを食わせてみたら、ウマイねと言って出てきた種を二つに歯で噛み折って、中の髄のような部分まで食っている。ギャフンと言わせる積もりだったが、こっちが言わされた、ギャフン。2m15cmの男は気のいいアンちゃんだが、この身体では160cmのタイの強盗は手を出さない。ピストルの弾を2・3発食らっても反撃してきそうだもんね。本国で車を売って旅費を作って来たと言っていた。後街のコーヒーショップで何人もの欧米人に会ったが、古い事でもうよく覚えていない。ただ僕らのメンバーの一人が、タイの憲兵に脱走兵と間違えられて職務質問を受けたのには笑った。
 さて話しを戻すよ、バンサンゲー。バンは集落の意味だからサンゲー村だな。国道沿いにアランヤ・プラテートから一時間ほど北上して、国境にある水路を越える。丸太がかかっているだけだから恐い。下は泥の濁流だ。両手に道具を持ってバランスを取って渡る。そこからジャングルの中を20分程歩くとバンサンゲーに着く。密林の中に寄り添うように掘っ立て小屋が建てられている。ため池の横の小さな広場が僕らの井戸掘り現場だ。村の指導者の居る建物から近い。
 ここバンサンゲーはソン・サン派の集落だ。ソン・サン氏はロン・ノル時代の首相で、言ってみれば資本主義者だ。資本主義ゲリラとは珍しい。1982年当時、カンボジアに侵攻してきたベトナム軍に対抗する三勢力(クメール・ルージュ=ポル・ポト派、ソン・サン派、シアヌーク派)を国連が無理やり同盟させ、三派連合として西側が支援した。彼らは主にカンボジア北西部の山岳地帯を中心に国境沿いにベトナム軍と対峙して、薄氷の抵抗を続けていた。とはいえ実際の戦闘はほとんどポル・ポト派の残兵が一手に行っていて、一説ではソン・サン派は五千人、シアヌーク派は五百人の兵力しか持たないという。それにシアヌーク派とソン・サン派の住民の大半は、侵攻してきたベトナム兵よりもはるかにポル・ポト兵を憎んでいた。三派連合は西側が、援助がやりやすいように無理やり押し付けた、土台無理な同盟だった。
 クメール・ルージュ(ポル・ポト派)が国を治めていた悪夢の三年八ヶ月、150~250万人の国民が殺されたという。実に国民の3人に1人か4人に1人が虐殺で命を落とし、首都プノンペンは無人の街となった。他国の軍隊ではあってもベトナム軍はある意味救世手だった。それに無謀にも戦争を仕掛けたのはクメール・ルージュの方だった。最初はカンボジアがベトナムに侵攻したのだ。狂っていたとしか思えない。しかしながら一言云いたい。国境に追い詰められてからのクメール・ルージュ(ポル・ポト派)の粘りは驚異に値する。ポル・ポト兵を悪魔のカラスと言うのはたやすい。カラスというのは、彼らが黒服を着てタイヤのゴムから作ったサンダルを履き、首にクロマー(寝る時は体に巻く大きなマフラー、大抵赤と白の布)を巻いているところから来ている。ポル・ポト時代も軍管区によっては温情的な指導者もいたという話がある。映画『キリング・フィールド』にも、知識人の主人公をかくまうリーダーが出てくる。もっとも彼は映画の中で、少年兵にハエでも殺すように撃ち殺されるのだが。また実際にベトナム国境に近い軍管区は、ベトナム系の住民が多く反乱の疑いを持たれて虐殺されている。単純にポル・ポト派=悪と切り捨てることに一抹の不安を覚える。そんな単純なことなのだろうか。
 ベルリンの壁が崩れ落ち、ソ連が解体しなければカンボジアはベトナムに併合されていただろう。そうしたらアンコール・ワットはベトナム観光になっていた。現在カンボジアの都市郊外に、広大な敷地でベトナム兵の英雄墓地がいくつも目につくが、これらは今後どうなるのだろう。訪れる人も管理する人も年々減って行く。街が発展するにつれ不快なほど広いこのスペースに向かう視線が冷たくなるのは仕方がない。時代の流れとはいえ、開放の戦争から侵略へと評価が移った。本当にその時その時の国際情勢、国力等によって善は悪に、悪は善に。絶対なんて無いんだ。永遠なんてうそだ。だから常に謙虚であれ、人間。他国に英雄墓地なんて作らない方が良い。
 とはいえ本当に紙一重だったんだ。占領地(大半の平野部)は平和が戻り、駐留するベトナム兵に子供達は懐き、学校ではベトナム人の先生がベトナム語で教育をしていた。街を歩く外国人といえばロシア人だった。何しろ悪夢の三年八ヶ月(太平洋戦争中の日本と同じ期間だ、結構長い。)の間にカンボジアでは学校の先生、医者、公務員、銀行員、王族ほとんど全ての知識人が抹殺されてしまったのだ。猜疑心の強いエセインテリは始末に負えない。ポル・ポト、本名サロット・サルは根っからの悪党とは言い切れない。だいたいポル・ポトってPolitical Potentialの略だって、自分はインテリじゃんか。フランス留学崩れでまさか政権を取るなんて、本人ですら考えていなかったんじゃないか。最初は紙幣を印刷するところから始めようとし、デザインを決めていたが、何からどう国を運営するのか真っ白な状態で、何も出来ず結局破壊に走った。プノンペンから一人残らず住民を追い出し農村に移した。原始共産制を一気に実現するんだとか言って、最初に訪問した中国で毛沢東に煽てられ、持ち上げられてその気になった。しかし毛沢東は腹の中で舌を出していたに違いない。農業だって道具はいるし、知恵も肥料も水利の管理も必要だ。天候の予測、灌漑設備の建築、医療、衣食住、全てに於いて知識を持っている人間、物を考える人間を殺してしまったら社会は成り立たない。恐怖で支配して何が理想社会だ。ただ一つ。ポル・ポトがアンコール遺跡群を破壊しなかったことだけは幸いだった。
1956年8人乗りのレジャーボートに82人で乗り込み、キューバの開放を目指したフィデル・カストロ、上陸して直ぐにバチスタ軍に空と地上から追われ、12人になって山岳地帯に逃げ込んだ。しかし彼はそのような状況でも革命後のビジョンを練っていた。農地改革、工業化の促進と労働者の保護、家賃の大幅値下げと国営住宅の建設、電気・ガス・電話の国有化と普及。税制の改革、軍人・公務員の待遇改善、教育の普及、司法制度の改革、差別の根絶。アルゼンチン人の軍医、チェ・ゲバラは喘息に苦しみながらもジャングルの中で代数の勉強を続ける。革命が成った後に経済が重要なことを知っているからだ。サロット・サルには何のビジョンも見えない。人を疑い裏切りを恐れるだけだ。
 さて話しはバンサンゲーに戻る。ここはそもそも人が住むような所ではない。ただの不毛なジャングルで、近くに川はなく水はため池か水溜りにしかなく、水溜りの水は太陽にさらされ生ぬるく腐って、すえた臭いがする。僕らの足はこの腐水にジャブジャブ入るため、蚊に刺された痕からばい菌が入り爛れていった。毎日その水に入るので、薬をつけても効果はなく、足一面から尻の方まで潰瘍状に悪化した。痛くてかゆい。村の子供達にはモノモライが多く、またオデキの穴が爛れている。きれいな水で洗って欲しい。このジャングルの中ではキャッサバと少々の野菜しか育たない。ため池でゴムぞうりを千切って浮きにして釣りをしても、小指ほどの小魚しか釣れない。タイ側に行けば手の平サイズが入れ食いなんだが。
 この村の最高指導者はソン・サン氏で、一度お会いしたら日本語で「ありがとう。」と言われた。氏は『サイゴンから来た妻と娘』の著者である毎日新聞の近藤記者と仲が良いことを、近藤氏の本を読んで後で知った。ソン・サン氏と一緒に来た迷彩服の将軍は見るからに悪そうで、彼は英語で「この井戸はいつ完成するんだ。」と工兵を叱るように言っていた。村に常住している、いわば村長さんは意外にも三十代位の小柄なすこぶる美人で、自分はひそかに彼女に惚れた。凛として本当にきれいな人だ。この指導者一家(?)は中国系で台湾の奉仕団とつながりがあった。水面下で複雑な政治があるんだろうが、自分には関係ない。仲間の一人が麗澤大学中国語専攻の二年生で、彼は普通に中国語(北京語)で彼女達と話している。スゴイな。うらやましいな。二年生でこんなに話せるんだ。雑用をやっている妙にませた十二歳位の小僧がいて、自分は彼に陶淵明の「帰りなんいざ、田園正に荒れんとす。」の分からない漢字を○で書いた紙を渡したら、えらい達筆できれいに埋めて寄越した。ウーン、おぬし出来るな。
 一度村長さん達にお昼をご馳走になった。なけなしの野菜をいためたもの。卵、大きなタニシ、これは美味しかった。後ぐちゃぐちゃで何だか分からず気持ちが悪いもの。これは結局日本の缶詰、カツオのフレークを皿に盛ったものだった。本当を言うと禁止されていたのだが、自分はよくお金を預かって医薬品やセッケン、写真の現像等を請け負って街で用足しをした。彼女の役に立ちたかったんだ。街では品物があふれかえっているのに、バンサンゲーでは何一つないんだ。たった一度だけ私物、口紅を頼まれた時はうれしかったな。
 彼女は良くクメールの少年を連れ歩いていた。小学校五年生位に見える彼は、いわゆる天才少年だった。英語は僕らよりはるかに流暢に話し、フランス語、それと多分中国語を話す。その冷静な話し方はまるで先生かお坊さんのようだ。自分は水色無地のTシャツにマジックで「カンプチア」とクメール文字で書いてもらった。裏は斜めに「南無阿弥陀仏」と書いたから丹下佐膳だな。
 美人村長はこの少年をアメリカに送り出す計画を進めていた。国境のカンボジア側にいる難民が西側の国へ移住する事など、普通は考えられないが蛇の道はヘビ、協力する外部の人がいるんだろう。民族の希望は、優秀な子供に教育を与えることによって託す。彼は孤児だった。いつもおだやかで静かなハニカミヤさんだった。いつも井戸掘り現場に入り浸って僕らと遊んでいるモーパンやモーワットのような洟垂れガキとは出来が違う。
 井戸掘りの現場には、枝と竹を組んで葉をかぶせた即席のテントのような物があって、日よけになるので子供だけでなく大人も集まっていた。まさか僕らの護衛ではなかろうが、ゲリラの少年兵やおっさん兵、地雷で足を片方失くした兵士らがいつも休んでいた。中国製のAK47、ロケット砲、迫撃砲、手榴弾はお手製の竹に火薬を詰めたもので、底の部分に糸が巻いてあって糸の先端に金具の輪がついている。この輪に指を入れてぶん投げると糸が伸びきって信管が外れる仕組みだが、もし外れなかったら自分の所に戻ってきちゃうな。兵士、村人の中には足の先を失くして松葉杖をついている人がよく目につく。対人地雷にやられたのだ。地雷は埋めたのが敵か味方か、またいつ埋めたのか分からず、雨季になると水に流されどこに埋まっているのか誰にもわからない。小さな女の子が松葉杖をついているのはやりきれない。タイ国内の難民キャンプ、カオイダンの日本人医療チームに地雷でやられた足の写真を何枚か見せてもらったが、足くびから下が三倍ほどに膨れ上がっていて、これは切断する以外に手の施しようが無いことが良く分かる。敵は殺すより不具者にした方が負担をかけるし、士気を削ぐので効率がよいのだ。しかし片足を失くした少年兵のくったくの無さは、士気を挫くという目的を達したとは思えない。
 一週間に二度ほど、食糧等の配給が国連により行われる。しかし量が限られているので、配給は女性限定である。その為少年は髪を長くし、女装して配給に並ぶ。女子供で分類すると、子供の年の線引きが難しいのだろう。援助物資の受け渡しは一人一人に手渡しだから、炎天下に長い列が出来て時間がかかるが、皆行儀よく待っていて混乱はない。
 いつもパンツ一丁で遊んでいる少年達が、巻きスカートをはいて女の子の格好をしているのを横目で見て噴き出したいが、そこは武士の情け、見てみぬ振りをする。サンゲー村は一見数個の小屋しか無いように見えるが、ジャングルの奥へ奥へと広がっている。栄養失調で髪が赤茶け、腹の出ている子もいるが、住民は笑顔を絶やさない。村では学校を作って教育をしている。クメールダンスも教えている。ダンサーも踊りの先生もその多くがポル・ポト兵に殺されてしまった。彼らは子供たちにオンカー(党)への忠誠を要求し、親子の縁を断った。ポル・ポトは言う。「我々はこれより過去を切り捨てる。泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。笑ってはいけない。笑うのは過去の生活を懐かしんでいるからだ。」それだけにこの密林の中で必死に、文字だけでなくクメールの伝統であるダンス、料理、刺繍、昔話等を子供たちに継承する努力がなされている。断ち切られそうになった民族のアイデンティティーを子供たちに受け継がせるのだ。この村は子供たちの笑顔が素敵だ。特に小さな女の子の口元に、はにかんだ笑いがポっと浮かび、時間をかけて顔一杯に広がって行き、やがては顔が満開の蓮の花になる。見ているとうっとりとして幸せになっちまう。なんて素敵な笑顔なんだ。
 タイ国内の難民キャンプは、食い物には困らないがもっと無気力だ。ここは食い物も服も無いがずっと楽しそうだ。子供は他の世界を知らないから、自分たちが不幸だとかは思っていないな。とはいえ戦場は直ぐそこ。前線からハンモックで包んだ負傷兵を運んでくる。付き添う一人が点滴を高く掲げている。ハンモックは血をぐっしょり吸っている。雨季で毎日のように道が崩れる。時には一面が湖のようになって、どこが道だか分からない。援助物資を積んだトラックや給水車が村まで来られなくなったら死活問題なので、ゲリラ兵が道路を補修する。土を盛ってきれいに踏み固めるが、コンクリートも石材木材も使っていないので、次の雨までしか道はもたない。資材が全く無いので、これでは保たないと分かっていても仕方がない。そんな作業をしているゲリラ兵の一人が急に日本語で話しかけてきた。ロン・ノル時代、日本大使館で働いていたと言う。「田中さんは元気かな。」と言われてもね。その時は短い会話しか出来ず、その後彼に会うことは無かった。時間があれば、ポル・ポト時代をどう生き残ったのか聞いてみたかった。
 当時のタイは増え続ける難民に頭を抱えていた。タイ国内の難民キャンプは飽和状態で、カンボジア難民に加えて北からは山岳民族のモン族を主体とするラオス難民、旧サイゴンを命がけで抜け出してきたベトナムのボートピープル、ビルマからの難民もいる。タイとしては国境の向こうに留まっている大人数のクメール難民の、自国へのこれ以上の流入は何としても阻止したいところだ。難民は何十万人もいるのに、西側諸国の受け入れは中々進まない。日本などは数十人引き取っただけだ。五十万人の難民に対して五十人の受け入れでは、一万年かかる。
 僕らの井戸掘り作業は、金属パイプを継ぎ足し継ぎ足しすでに50mは掘っているのに、水のある層には容易に到達しない。雨季の地表は水にあふれているのに、ここの土地は地下までが貧しい、不毛の密林だ。普段は見捨てられているのも肯ける。あせりの色が出始めたある日、事故は起きた。その前日にボスのミノxさんが会議でバンコクに行った。残ったメンバーの中ではっきりとしたリーダーは決まっていなかったので、古株の二人が指導したが、何となく気のゆるんだ感じだ。最初の事故は、ポンプの上で作業をしていた若者のポケットからジッポのライターが落ち、下にいる作業員の頭をかすめて地面に落ちた。大事には至らなかったが危ない。3m落ちてきたジッポを頭に受けたらたまらない。ここでボスがいたら、いったん作業を中断してクールダウンしたこところだろうが、ストップをかける人はいずそのまま作業を続けた。
 その直後、パイプが落ちた。ジョイントが不完全だったのだ。普通なら接続を何度も確認してやっと手を離すので、そうそうは起きないミスだ。やはりこの日はおかしかった。次の日は戻ってきたボスと相談して、バンサンゲー行きを中止して、穴の底に落ちたパイプの回収工具を街の自動車修理工場で作成した。パイプを何度も何度もジョイントして穴の底まで先端を下ろす。パイプの本数を数えて底からの距離を測る。先端にはいつもの土を掘るドリルの代わりに、落ちたパイプを絡め取る金属具を取り付けてある。底近くで何かに接触したガリガリいう感触がした。そこで強引にパイプを少し下げ、ほんのちょっと回転させる。バリバリいう手ごたえにパイプを絡め取ったことを信じて巻き上げる。パイプを上から一本一本外していく。このジョイントと外しの作業が炎天下で続くので、いつも作業よりもきつい。やっと先が見えてきた。やった、ぐにゃぐにゃになったパイプが見事に金具に巻きついて上がってきた。広場を取り巻く見物人から歓声と拍手が起きる。井戸の完成への期待というよりは、娯楽のない村での格好の見世物なのだ。
 しかし回収したパイプは一本だけ、落としたパイプは数本ありその先端にはドリルがついている。折れ曲がったパイプは一本を残して落ち、未だ穴の底に残っている。その後残ったパイプは穴の土にめり込んだようで、ついに回収は出来なかった。回収金具を改良したり、落ちたパイプを無視してドリルを試したりしたが、うまくはいかない。その時点で水が出ないものか試したが、一度透明な水が出て廻りの皆から歓声が上がったものの十分な量はなく、井戸にはならなかった。僕らの二ヶ月を超える労働は失敗した。きれいな水で、ものもらいの目を洗ってもらいたかったのに。全く俺たちは何をやっているんだ。これなら絶対、自信があるという回収金具が完成し、これで駄目ならあの場所はあきらめようと決めた日、何故か連絡がうまくいかず、先行したアメリカ人二人が別の場所に機械を動かし始めていた。また一からの出直しだ。一ヶ月二ヶ月、30m、50m、70mと掘っても水が出るかは分からない。それ以上の深さはパイプの重みに耐えられず、機械が保たない。チームの士気は落ちた。
 自分はその後このチームを離れ、タイ・ラオス国境近くの街チェンライに行き、そこからさらに山奥の難民キャンプに行って、自動車整備の教材作りを手伝った。例えば『かなづち、オイル』という概念がモン語にあっても、『エンジン』とか『ブレーキ』とかはないからここは音訳するか、とかモン族の青年たちと一緒にマニュアル本を作っていく。手間と時間のかかる仕事だが、今までのように体は使わない。ここでモン族、リス族、アカ族等、様々な山岳民族と触れ合って彼らの食べ物を味わい、闘鶏に興奮して面白い体験をしたが、これはまた別の話しだ。
 バンサンゲーを離れ、美人村長や村の子供達、天才少年ともそれっきりになった。同じ団体でもチームが替わると、なかなか情報が入ってこない。バンサンゲーの井戸掘りがあれからどうなったのか、気にはかかるが分からない。その後数年してベルリンの壁が壊されソ連崩壊、ベトナム軍はついに自主的にカンボジアから撤退した。そして国連の指導で選挙が行われ、カンボジアにやっと平和が戻った。シアヌーク殿下は死ぬまで元国家元首としての影響力を保持したが、ソン・サン氏の政党は歴史に残らずやがて消えていった。現在プノンペンの王宮や虐殺記念館は、修学旅行なのか先生に連れられ制服を着た子供たちであふれている。ポル・ポト時代を知らない世代が、人口の半数を超えた。相変わらず貧しいが、農業を中心にした仏教国として人々は生き生きと暮らしている。アンコール遺跡群はきれいに整備され、観光客であふれている。日本人も三番目に多い。バンサンゲーは密林に戻ったことだろう。家屋は朽ち果てて土に返ったな。あの天才少年がその後どうなったのかは分からない。大人になって活躍をしていると良いのだが。

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