旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

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チェコ・スロバキア、ビロード革命  

2016年09月21日 17時35分31秒 | エッセイ
チェコ・スロバキア、ビロード革命   

 先日、外国人の女の子に道を聞かれた。「xx公園はどこですか?」それって反対方向じゃん。もう随分と離れているよ。彼女日本語で聞いてきたが話せない。英語で話すと喜んで流暢な返事が来たが、ネイティブとは思えない。ヤンキー娘を批判する積りはさらさらないが、全くタイプが違う。美人とは言えないが、生真面目さが前面に出ていて感じが良い。大きめのリュックを背負っているから旅人なのかな。
 自分も駅に行くので道々話しをした。xx公園は駅の反対側で、駅から結構遠い。「どこから来たの?」「チェコです。」「ほー、プラハの春か。」「えっ、チェコを知っているのですか?大ていの日本人は知らないって言います。」「ウソだろ。ビロード革命を知らないの。」でもそうなんだ。サッカーの国際試合で中南米の国が出てくると、「パラグアイってどこ?」「アフリカだろ。」「トリニダード&トバコってヨーロッパかな。」
 日本の若者(バカ者)と違って、しっかりして頭の良さそうな彼女が教えてくれた。「最近チェコとスロバキアはとても仲がいいんです。もう一度一緒になろうかって話しも出ています。」ビロード革命、ビロード離婚で一度は分かれた両国が、メリット・デメリットを考慮した上で合併するなら素晴らしい。両国は2004年からパスポート無しで往来、特別な許可なく就労、2007年には国境の検問を廃止した。国が分離してからの方が、関係が良くなっている。共にEUにもNATOにも加盟している。元々チェコはビール、自動車、兵器等で有名な工業国だったが、最近ではスロバキアの経済もすこぶる好調なようだ。
 ルーマニアの独裁者チャウシェスクは政権末期、ソ連に戦車隊を送ってくれと泣きついたが、ゴルバチョフはそれを拒絶した。最期は国軍にまで見はなされ、夫婦で銃殺された。チェコ・スロバキアのビロード革命は、それに先立つこと1ヶ月、緊迫した1週間だが血を流すことなく民主化を勝ち取った。実際は際どく流血・弾圧の危機をかわしているのだが、見た目がスムーズだったのでビロード革命と呼ばれるようになった。
 1985年に始まったソ連のペレストロイカの影響で、1989年にはハンガリーで民主化が進み、西ドイツへの越境を求める東ドイツ市民が大勢チェコ・スロバキアに流れ込んだ。自由を求める機運は高まっていた。最初はスロバキアの高校生・大学生のデモ、次いでプラハで5-600人の学生が集まった。そのうわさを聞き、夕方までに1万5千人の学生が大学に集まり、ろうそくを掲げてプラハ旧市街を行進した。
 公安部はデモ隊を警棒で蹴散らしたが、翌々日大学と劇場が無期限ストに入り、市民のデモ参加者は10万人に達した。体制側(共産党)は民兵4千人を集め、デモ武力鎮圧の指令を出したが実行の直前に中止された。TV局は民主化デモを生中継し、カトリック教会はデモ支持を表明し政府を批判。国防大臣は「陸軍は国民に対して武力行動は起こさない。」と演説。駐留ソ連軍は武力介入しないことを発表し、ここで共産党幹部全員が辞任して政権が崩壊した。1989年11月16~27日のことだ。その日デモ参加者はプラハで80万人に達し、ゼネストには全国民の75%が参加した。市民の雪崩をうった民主化支持が、体制側に手を出すのをためらわせたのだが、この国が「プラハの春」という悲劇の歴史を持っていたことと無関係ではあるまい。新生チェコ・スロバキアの指導者として、あのドユ(小さいウ)プチュク氏が登場し市民の熱烈な歓迎を受ける。
 その後チェコとスロバキアは、1993年1月1日午前0時をもって平和的に分離する。なお1991年のノーベル平和賞は、ミャンマーの軍事政権によって自宅軟禁中のアウンサンスーチー氏が受賞した。当時孤立無援だったアウンサンスーチーさんは、あの受賞によって国際的に注目されるようになった。本当は終わったばかりのチェコ・スロバキアのビロード革命の主導者に与えられる予定だったのだが、彼らはこう言って辞退した。「すでに終わった革命より、今命をかけて弾圧と戦っている人が受賞すべきです。」

*「プラハの春」: 1968年1月、共産党第一書記のドュプチェク氏を中心として、「人間の顔をした社会主義」を唱える民主化運動がプラハを中心として自発的に始まった。インターネットの無い時代、東側社会(ソ連を中心とする東欧の衛星国家)には、西側の情報は全くと言っていいほど入って行かなかった。後に「プラハの春」と呼ばれる民主化は、文化・芸術面を皮きりに急激に花開いた。それは西側の模倣ではなく独自の、ある意味グロテスクな方向に進んだが、市民はこの自由を大いに楽しみ大胆に発言するようになった。しかしその時、ドュプチェクら指導者はソ連(ブレジネフの時代)からの度重なる恫喝を受けていた。
   そして同年の8月、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が一斉に国境からなだれ込んだ。市民は最初、アメリカによる侵略かと思ったそうだ。「プラハの春」は戦車によって踏みつぶされた。市民は戦車を停めようとキャタピラの前に横たわり、石を投げ戦車兵を非難する。最後の抵抗の場となったTV局から流された音楽と自由の声。ドュプチュク氏は処刑こそされなかったが失脚し、投獄されたのかビロード革命まで姿を消した。ソ連のご機嫌取りが書記長となり、民主化を推進した市民を投獄し職場から追放した。一部の知識人は亡命、秘密警察による監視、拷問、密告の奨励、ビロード革命に至るまで、暗くて長く陰気な24年間が続いた。

*マルタと「ヘイ・ジュード」: 「プラハの春」で一躍人気を得たアイドル歌手がマルタ・クリショヴァだ。マルタは著名な映画監督と結婚したが、彼は軍事介入の後、弾圧の映像を持って西側に亡命した。西側も東欧で一体何が起こっているのか、実はよく分かっていなかった。マルタは祖国に残り、工場の地下に秘密のラジオ局を作って秘かに抵抗を続ける。マルタは、当局による厳しい追及と監視を受けた。歌手はもちろん工場で働くことも当局の嫌がらせで出来なくなり、内職で食いつないだ。後から分かったことだが、アイドル歌手は秘かに革命の闘士になっていた。
   西側は心情的にはプラハの春にシンパシーを送り、弾圧に抗議するが、政治的には全く何もしない。ジョンソン大統領のアメリカは、ベトナム戦争が泥沼化し、とてもソ連と事を構える状況にない。そのベトナム戦争では、優秀なチェコ製機関銃に苦しめられている。中国が激しくソ連の介入を非難するが、自国民やチベットを激しく監視・弾圧している中国の非難では。日本共産党は形ばかりソ連を批判し、ソ連の軍事介入を容認・賞賛した日本社会党は消えた。
   ビロード革命で新生チェコ・スロバキアの指導者となった連中は、皆マルタに秘かに匿われたり、監獄に差し入れをしてもらったりしていた。新国家を立ち上げる際、マルタは政府の要職に誘われた。首相にならないか、とまで言われたが彼女は断っている。彼女はずっとやりたかった事、歌手に戻る道に進んだ。
   マルタ達はソ連の介入前、西側のラジオ放送をゲリラ的に聞き、ビートルズのヘイ・ジュードの旋律に魅せられた。歌詞は聞き取れないのでメロディーだけを借り、女性戦士の反戦の歌詞を付けて唄った。マルタの歌う反戦歌、ヘイ・ジュードはチェコ・スロバキアで空前のヒットをし、レコードは60万枚を記録した。そしてソビエトの戦車による弾圧、レコードは破棄された。持っていたら投獄されるから、皆棄てた。
   そして四半世紀経ち、ビロード革命。驚いたことに多くの市民はマルタの「ヘイ・ジュード」を隠し持っていた。ビニールと布に包んで畑に埋めたり、床下に隠したりしてきた。20数年もの間、あの春のことを忘れていなかった。民主化されたチェコ・スロバキアで真っ先に流されたのは、マルタの唄うヘイ・ジュード。そしてマルタ自身が唄い始める。エキゾチックな少女のような美女は、生活の苦労からか岩のようなおばさんになっていたが、その歌声は少しも衰えていない。中年から初老になった市民は、「プラハの春」のつかの間の自由の想い出と、失われた20数年に思いを馳せてマルタの歌を聴く。
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