旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

邯鄲の夢 - 第四夜

2014年12月05日 17時12分05秒 | 夢十夜
4. 昔、亜細亜の映画館

 〝昔亜細亜の映画館〟、ウンいいタイトルだ。この中に小さいころ、よく連れて行ってもらった横浜の戸部映画館も入れて欲しい。
 高度成長以前、戦争の焼け跡がまだちらほら残っていた昭和三十年代の日本はアジアの国だった。地理上のものじゃあなくて、自分が旅したアジアと同じ匂いがした、ということ。あれほどスパイシーではないにしても。戸部映画館には、自分が3歳の時に死んだおじいちゃんと一緒に入った記憶がかすかに残っている。でもその記憶は後々語られた笑い話から形作られたものかもしれない。おじいちゃんが買ってくれたチョコを映画館の中で食べた3歳児の自分が、口の周りを茶色くして出てきた、というたわいもない話し。さて、戸部映画館はいつごろ迄あったんだろう。つぶれてからも、長いこと空き家だった。天井の高いあの大きな空間は、結局再利用出来ずに取り壊された。
 ここで見た映画は奇妙によく覚えている。東宝のゴジラと、その裏番として加山雄三の若大将シリーズをよくやっていた。今覚えているのはゴジラよりモスラ、モスラより若大将、若大将より田中邦衛がやっていた青大将である。記憶の中の戸部映画館はいつも混んでいて、次回上映、近日上映の絵看板にわくわくし、僕らの生活の中にはいつも映画館が在った。その時代の後には生活の中心はTVになり、プロレス、大相撲、「ララミー牧場」「シャボン玉ホリデー」、その後のTV番組へと続いていく。家の外で過ごす時間がだんだんと少なくなっていった。
 あア、道草を食いすぎた。自分が最初に入ったアジアの映画館は1978年、2度目のインド旅行で、カルカッタだった。映画館の外が、大袈裟に言えば、旧約聖書に出てくる永遠に呪われた町、ソドムとゴモラのような様相を呈しているのに対し、映画館の中はここが印度?という位近代的できれいでエアコンがきき、スクリーンもいつものアクション付きミュージカルだけれど、芝生の庭を持った邸宅が出てきて、ふっくらしたお母さんとでっぷりしたお父さんが娘と一家団欒を楽しむシーンなどは、表の世界では百年たっても有りえない。第一このギンギンギラギラ太陽の下では芝生は一日で枯れちまう。
当時のカルカッタは汚水が吹き出し、あらゆる病人、脚がアザラシのように膨れた象皮症、手の指がすべて爛れ落ちて生姜のようになったハンセン氏病者がいて、あらゆる乞食が纏わりついてきた。「バクシーシ、バクシーシ」と言って追いすがる子連れの女乞食は、赤ちゃんのお尻をつねって泣かしていた。町中には痩せこけたノラ牛が残飯をあさり、痩せた人々の目も太陽もギラギラしていた。飯屋の水はコップの中にボーフラが浮き沈み、ご飯にはアリが出入りしていた。まあそんなインドも今は昔、ずいぶん変わったことだろう。いい所も結構あったんです。例えば、何だっけ。ま、とにかく、最初の洗礼が強烈だったんだね。
 次はフィリピン。この国の映画館にはマニラでもセブでも何度も入った。マルコス大統領とイメルダ夫人がまだ若くて元気な時代で、映画の上映前は観客全員で起立、国歌の演奏をバックにマルコスの斜め横顔が、左45度上空を見据えて浮かび上がる。
場末の映画館では幕間にみんなモソモソ動いてタバコを取りだしたりする。防火も嫌煙権もあったものじゃあない。その場で根本まで吸って、吸いがらは床に投げてゴムサンダルで踏み消す。ところがマッチを持ってる奴が全然いない。百円ライターは日本以外ではまだ普及していなかった。自分がその百円ライターを使ったら、貸してくれ、という訳で、手から手に次々渡っていって、アレよアレよという間に映画館の端の方へ消えていった。こりゃあイカン、まず戻らないな、とあっさり諦めたのだが、映画が再開して三十分もたったころ、肩をトントン叩かれて戻ってきた。
 フィリピン、台湾、タイ、どこでも洋画の封切は日本より3ヶ月ほど早かった。日本は大体半年後でしょ。まだやっていないのか、とよく馬鹿にされたものです。マニラで見た国産映画は面白かった。田舎者の女の子がだまされ、虐げられた復讐の念から自分を磨き、男どもを手玉に取って上流社会にのし上がっていく話だった。元々きれいなんだろうけれど、その女性がプールのシーンで深紅のガウンを身につけて登場し、それをパッと脱ぎ捨てると真っ白いワンピースの水着になる。理想的なプロポーションに思わずハッとなると、水の中にスっと飛び込む、といったシーンがあったのだけど、周りで感情移入して食い入るように見つめている女の子達、女工さんやウェイトレスといった感じの、がその場面で一斉にフーッとため息をついた。何か、とっても分かりやすくてかわいい観客でしたっけ。
タイの映画館でも当時は始まる時に全員起立、国歌の演奏、こちらはプミポン国王(とお后もいたかな)が写し出された。タイの青春映画はアクションたっぷり、庶民派のヒーローが恋人や家族をいじめる金持ちの悪党と戦い、ついに打ち負かすという単純なストーリー物が多く、言葉が解らなくても十分ついていける。但し決まって悪党の親玉はアメリカ人、その使いパシリの薄汚い小悪党は日本人なのだ。
ラオスとの国境の町、チェン・ライの小さな映画館で観た「ジョーズ」も面白かった。字幕にタイ語が出て、おまけに吹き替え版(タイは方言の差が大きい)なのだが、男性・女性の声優がそれぞれ一人づつでやっているとしか思えない。おばあちゃんも子供も明らかに同じ人が声を高くしたり、低くしたり、いくらなんでも手を抜き過ぎだろ、と思うが他のひとはどう考えていたんだろう。
そんな風に人々の生活の一部で夜の娯楽の中心であった、昔アジアの映画館。最近(2008年)カンボジアとベトナムを訪れてみたら、映画館はすっかり寂れていた。ベトナムは近年目覚ましい経済発展をとげつつあるが、以前は貧しかった。サイゴン(ホー・チ・ミン市)の空港は今では立派な作りで高級ブランドの店が並んでいるが、十五年前は場末の駅の待合室のような所で、土産店には爬虫類の標本のように、やたらコブラ酒、サソリ酒のビンが立ち並んでいたものだ。当時はハリウッドの洋画の配給権が買えないので(あるいは社会主義の建前か)、サイゴンではよく東欧諸国の映画や香港のB級作品が上映されていたが、映画館は町の中心に立ち並び、その周りも屋台に埋め尽くされて活気があった。今はしゃれたブティックとやらに変身、フランス映画専門にやっている一軒と、場末の化け物映画館(スパイダーマンならぬ、くも女とか)位しか残っていない。これはカップルでしけ込むためにあるんだろうね。カンボジアでは近年、タイの映画が人気だったが、タイの女優が「アンコール・ワットはタイの遺跡よ」と言ったとか、言わないとかでケンカ別れし、最近ではこれも国産の化け物映画くらいしかやっていないらしい。カンボジアの国産化け物映画、これはこれで見てみたいものだ。
両国ともDVDの普及によって、欧米の話題作が家にいて簡単に見られるようになり、映画館がすっかり寂れた。今は昔、華やかなりし、昔亜細亜の映画館なのだ。

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