旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

邯鄲の夢 - 第二夜

2014年12月05日 16時44分14秒 | 夢十夜
2. ボテランィア、目ィからウロコ一の言

 25歳の時、井戸掘りのボランティアとして、タイとカンボジアの国境に行きました。
会社を休職して約4ヶ月、持っていった金が無くなり、日本に帰ってきた時には残り数千円になるまでタイにいました。
 バンコクに着いて、今でいうNGOのボランティア団体から指示され、カンボジア国境の町アランヤプラテートへ行って、井戸堀りチームに参加するためバスに乗り込みました。真東に約5時間、その時は誰かと一緒に行ったのだろうか?覚えていません。
 アランヤプラテートは正に国境の町で、柵がある訳ではないが、国境にある2車線の道路の向こう側は沼やジャングルで、ベトナム兵の鉄カブトが遠くに見える日がある、という話しもありました。平和な時代は人や物の往来の盛んな宿場町なのでしょうが、カンボジアの領土の大半がベトナム軍に占領され、ベトナム傀儡のヘン・サムリン政府軍と、東北部の山岳地帯で抵抗を続ける三派連合(ポル・ポト派、ソン・サン派、シアヌーク派)軍と激しい内戦状態にある今、国境はすっかり閉ざされています。それではさぞかし町はさびれているだろう、と思いきやアランヤプラテートは戦争特需で沸きかえっていました。町は日々膨張し、バンコクよりも遥かに新車や高級車が多く、免許が簡単に取れるため、毎朝道ぞいに車がひっくり返っていたり、半分にちぎれて燃え残っていました。速度制限なんてないからメーターも引きちぎれ、とばかりアクセルを踏み、追い越しは命がけのチキンレースでウィンカーなんか使う奴は見たこともない。
 なんで?何故そんなに景気がいいの。その答えは2つ。ひとつは町にタイ軍の兵隊が大勢駐屯していたこと。TASK FORCEなんてアメリカ軍みたいな名前で1ヶ月置きに部隊が交代し、緊張に顔を強張らせて最前線に出ていく。タイ軍が交戦している訳ではないが、前線には至る処に地雷(対人、対車両)が埋まっているし、実際偶然からベトナム軍との間に戦闘が発生して半日間に渡ってタイ軍が負け続けたことがありました。ちなみにタイの兵隊は国境に出て最初の2~3日は緊張しているが、一週間後には村娘をナンパし、パンツ一丁で沼に入って小魚を取っていました。
 町が景気のよいもうひとつの理由は、宿舎になった家の隣にたむろしている兄ちゃんたちを観察すると分かります。昼間は酒を飲んでごろ寝、ギターなんかボロボロ鳴らして全くのプータロー集団なのだが、夕方から急にゴソゴソ動き始めて、ダンボール箱をトラックに積み込んだりし始めます。そう、兄ちゃんらは密輸団なのです。酒・タバコ・食糧・衣料・生活雑貨に医薬品。タイにいて普通に金を払えばいくらでも手に入る品々を、何もかも足りないカンボジア側に持って行って何倍にもして売るわけです。代金は金、宝石、アヘン、アンコール時代の骨董品なども含まれていたのでしょう。これは相当に儲かると同時に極めて危険な商売です。前線には地雷がいっぱい、商売相手はいつ強盗に変わるか分からない。
 アランヤプラテートの夜は、毎晩打ち上げ花火のように遠方でロケット砲が炸裂し、音と光が地平線でビカビカし、酔っぱらったタイ兵が空に向けて撃つピストルのパンパンパンパンという乾いた音がしょっちゅう鳴っていた。実際自分がここに来るきっかけとなった事件は宿舎のすぐ裏の小さな木橋でおきていて、その記事が小さく日本の新聞に載りました。夕方NGOの女性リーダーをかばって、メンバーの日本人男性がタイ人の強盗に撃たれて死んだ、という事件です。
 宿舎は木造一軒家で高床式。一階は洗濯物を干したり井戸端会議をするスペース、屋根
から落ちる雨水を大きなかめに溜めて水浴や炊事に使っていました。水道水もありますが、フレッシュな雨水の方が冷たくてきれいです。大家のおばあちゃんとその娘たち、子供と犬がいっぱいいます。食事と洗たくは大家のおばちゃん達がやってくれます。
 国境井戸堀りチームのボスはミノダさんといって、30代後半、厚木辺りで工場の機械修理をしていた人で、ここの前はバングラデシュで仕事をしていて、もう何年も日本に帰っていないそうです。他のメンバーは大学生中心で女の子が一人、元過激派の無口な男性、貧乏旅行中に参加した旅人などで、サラリーマンから参加したのは自分が始めてだったそうです。後に勤め人はちゃんと連絡をする、とほめられました。最初にその家に着いたのは夕方で、早速作業から帰ってきたばかりのメンバーに紹介されました。そこでボスのミノダさんと話しましたが、説明と雑談の後、「何からやりましょうか?」と聞いた時にミノダさんの言った答えがこれでした。
 「君さあ、自分で金払ってここに来たんだろう。何をするか自分で考えて、仕事は自分から作り出していくように。」「へっ」これには驚きました。意表をつかれた。この日まで、仕事は決まっていて上から与えられ、それを的確にこなしていくものだと思っていた。そこに創意工夫を加えるにしても、仕事そのものを自分で考えて作り出す、なんて発想はなかった。学校の勉強だって、大学の卒業論文以外は全て与えられてきたものばかりだった。
 昼間は井戸掘りの作業でしたが、休みの日も含めてたくさんの余った時間で僕らが考えて作った(ほとんど作ってもらった)のは、宿舎の警報装置(周りがぶっそうなので、2ヶ所あるドアを夜開けると接点が外れブザーが鳴る。誤作動が多くてうるさかった。)と、
水の濾過器(雨水がきれいなので実際に使う必要はなかった。けれども満足)でした。

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