旅とエッセイ 胡蝶の夢

ヤンゴン在住。ミラクルワールド、ミャンマーの魅力を発信します。

今は、横浜で引きこもり。

お茶目な人

2018年03月01日 20時37分30秒 | 写真館
お茶目な人

 前回、自分は変な人だってほんのちょっと(one episode only)披露したけれど、それが遺伝だとしたら、その85%は母親から受け継いだ。素敵な女はぶっ飛んでいるもんだ。

 お袋は確か昭和4年の生まれだった。真珠湾奇襲攻撃が昭和16年で12歳、敗戦が昭和20年1月生まれで17歳か。昭和20年5月29日の横浜大空襲(B29x517機、P51x101機、死傷者約1万人)では、焼夷弾の降る中をモンペ、鉢巻で逃げ回り、機銃掃射も受けたと言っていた。P51(第二次大戦最高傑作と言われる戦闘機)が100機もいたのね。
 女学校の時には勤労奉仕で工場で働いていたから(風船爆弾を作ったらしい)、ほとんど勉強をしていない。英語教育は無かったし、ローマ字も知らず、自分は小学校4年で習った時に一緒に覚えていた。
 こういう時代の巡り合わせの悪さはあるんだよな。第二次大戦後でも、文化大革命の時の中国の若者、チトー後のユーゴスラビア、ポル・ポト(クメール・ルージュ)支配下の狂気の4年弱とかね。でもお袋は少なくとも加害者の側には立たずに済んだ。

 彼女は、自分の美しさに密かに自信を持っていたようだが、それが発揮出来る時代ではなく、少女時代の写真は全て空襲で灰燼に帰した。「私は女優になりたかった。大部屋の端役でもいいから挑戦したかった。」とよく言っていた。
 でも結局は女ばかりの大姉妹の長女として、婿取りをして洋服屋(紳士服仕立て)を継いだ。自分が中学生位の頃、一度働いて稼いでみたい、と言い出し桜木町の喫茶店で働きだした。といっても1ヶ月ほどだったんじゃないかな。お店に来るお客さんに誘われたって自慢していた。普通子供に言うか、そんなこと。その時の給料でポットを新しく買い、それで満足したのか、また働くとは言わなかった。

 さて、ここから彼女のお茶目なミーハーなエピソードを3つばかり紹介しようと思っていたのだが、急に気が変わった。もったいない。教えるのが惜しくなった。俺だけが知っていればいいや。
 彼女には人を引き付ける魅力があった。子供の時、夕飯の買い物に一緒に出掛けると、店の人や近所の人によく話しかけられた。晩年になり養護施設に入っても、お袋の部屋にはよく若い職員が、お母さんといって集まっていた。彼女は、毒は吐かないが(悪口はあまり言わない)大胆なことを平気で口にするから面白いんだよ、発言が。
 中年から病気をいくつも抱えて可哀そうだったが、お気に入りの嫁と孫を持てたから、全く不本意な人生だったとは、言えないんじゃないかな。

コメント
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