旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

異文化激突(番外編)- ワールシュタットの戦い

2017年02月25日 13時49分24秒 | エッセイ
異文化激突(番外編)- ワールシュタットの戦い

 この戦いにイスラムは出てこない。13世紀のヨーロッパ人にとって、イスラム教徒は良くも悪しくも知りつくした敵だ。受け入れられないが、交渉することは出来る。だがモンゴル人となると、話し合う余地が全く無い。果たして彼らは人間の言葉をしゃべるのか。1241年4月9日、会戦場はポーランド西部のレグニツァ(独語でリーグニッツ)、ワールシュタットとはドイツ語で「死体の山」を意味する。これほど異質な民族が相まみえる戦いも珍しい。
 ヨーロッパ側には、モンゴル人に関する知識が皆無に等しかった。犬かと思う子馬に乗った、子供のように小さいが醜悪な悪魔たち。東方から突然やってきて、ロシアでは残虐の限りを尽くした。戦闘には滅法強い。一方のモンゴル軍は、緻密な情報収集を行っていた。モンゴル軍が来襲する何年も前から、侵攻する都市には奇妙な帽子を被った目つきの鋭い雑技団が、ひょっこり現れたという。その関連は後になって分かったことだが。
 モンゴル帝国の第2代皇帝オゴタイは1235年のクリルタイで諸国への遠征を決議した。西方に向かう遠征軍の総大将は、ジュチ家の当主バトゥだ。バトゥは5万のモンゴル精鋭騎兵、2万の徴用兵と漢族、ペルシャ人の専門兵(攻城戦用か)を率いてモンゴル高原を出立した。モンゴル軍は機動力に優れている。疲れないように数頭の馬を乗り継ぎ、空腹になると馬体を傷つけ、傷穴に口をつけて生き血を飲んだ。タルタルソースの語源はタタールだ。タタールは勇猛なモンゴルの一支族名である。生肉と野菜を革袋に詰め、鞍の下に置くと袋の中で十分に撹拌され、馬体の熱で蒸され夕刻に食すのによい一品となる。モンゴル軍の行軍を見ると、一見家畜の移動かと思われるほど馬の数が多い。
 バトゥはキプチャク草原やキエフ大公国を始めとするルーシー諸国を征服しつつ、矢のように西に進んだ。時に2隊に分かれ、また合流し効率よくハンガリー王国を蹂躙して、黒海沿岸のワラキアを破壊。凍結したヴィスワ川を渡り、サンドミェシュを掠奪した。多数の捕虜、戦利品を携え一時軍を退いたが、追撃に出てきた諸侯をことごとく粉砕した。
 圧力に押されたポーランド軍は後退し、レグニツァで各地の諸侯を招集したシロンスク公・ヘンリク2世の軍に合流した。ヘンリク2世が中心となったドイツ・ポーランド連合軍に参画したのは、ポーランド王国・神聖ローマ帝国・ドイツ騎士団・聖ヨハネ騎士団・テンプル騎士団、民兵と徴用された歩兵、封建騎士とその従者たち。弱兵と強兵が混在していた。兵力は2万5千程度と推測される。モンゴル軍は2万騎だった。
 ヘンリク2世は軍を4つに編成した。主力のドイツ騎士団と騎士たちを中央に、また前衛と後詰に騎兵を分配し、歩兵はまとめて一つの部隊として騎士の後方に配置した。対するモンゴル軍は全て騎兵で、前列中央に機動に優れた軽装騎兵、その後方に重装騎兵、両側面には騎射や槍での近接戦闘が得意の軽装騎兵を置いた。
 モンゴル兵の装備は本当に軽く、絹の肌着の上に革製の防具を着るが、それも前面だけだ。彼らは馬を走らせながら、振り返って弓と射るのが得意だ。絹の肌着と革の防具の組み合わせは、矢の刺さりを浅くするのに効果がある。ヨーロッパ側は、蒙古馬の3倍はありそうな大型馬に防具を付け、その馬に数十キロはある鎧を身に付けた騎士が跨る。鎧を纏った騎士は、地面に倒れたら一人では起き上がれない。視野は顔面を覆った兜の僅かな隙間からで、極めて悪い。何もかも対照的で、大人と小人の戦いのような滑稽さがある。キリストの騎士達は、早朝から僧侶による敬虔なミサを行い、異教徒の殲滅を誓った。
 騎士団の戦い方は極めてシンプルだ。敵の中心部への一直線の突撃である。矢も刀も撥ね返す分厚い鎧を身に付け、楯と槍を持つ。鎧が陽光を反射して眩しく、従者の持つカラフルな旗が風を受けてはためく。これだけの数の騎士の集合は壮観だ。その正面破壊力には凄まじいものがある。案の定、前面に陣取ったモンゴル騎兵は、衝突する前から反転して逃走を始めた。それを騎士が集団となって追う。モンゴル兵は振り返って短弓を射るが、楯と鎧に阻まれて効果がない。
 騎士はモンゴル兵を突き刺そうと遮二無二前進するが、両者はスピードが違う。モンゴルの軽装騎兵は演習でも行っているように、時折振り返りながら槍先の届くぎりぎりの所を走り去る。また固まっていた騎馬隊がワっと左右に散る。騎士の隊列が長くなると、両翼からモンゴル兵が近づき弓を射かけ槍を入れる。騎士は横からの攻撃に弱い。並走する従者が最初のターゲットとなった。戦場は東へ東へと進み、後方に置いた歩兵部隊と騎士団とも距離が開くと、モンゴル軍は騎士団の背後に煙幕を焚いて分断した。
 騎士団は翻弄されて疲れ果て、バラバラになった所をモンゴル軍の重装騎兵の攻撃に遭い、粉砕されて一人一人取り囲んで嬲り殺された。煙幕の向こうにいた歩兵隊は、逃げ惑う騎士とそれを集団で襲うモンゴル兵の姿を見て怖気づいた。彼らは戦わずして逃走したが、容赦のない追撃にあって夥しい数の損害を出した。
 戦闘は一方的で、モンゴル軍の損害はごく軽かった。総司令官のヘンリク2世は戦死した。モンゴル軍はこの翌日、別働隊がヘルマンシュタットでトランシルヴァニア軍を、3日後にはバトゥ本隊がモヒの戦いでハンガリー軍を撃破した。この三つの戦いと掃討線で15万人の兵士を殺したバトゥは、オーストラリアのウィーン近くに迫る。ヨーロッパに侵入したら、遮るものは無かっただろう。
 しかしモンゴル皇帝オゴタイの急死により、バトゥは進撃を止め撤退した。戦闘慣れしたモンゴル軍にとって、ヨーロッパのキリスト教国など敵ではなかった。西夏やホラズム帝国との戦いの方が、よほど手こずった。キリスト教側は、モンゴル騎兵が縦横に動き回れない森林地帯や、丘陵等の起伏と障害を利用して戦うべきだった。
 なおモンゴル軍はオゴタイの後継者争いで分裂し、それ以上の西進は行わなかった。モンゴルからロシアを経てポーランドに至る広大な草原で充分。ドイツの森林地帯などには、遊牧民の食指が湧かなかっただろう。ヨーロッパにとっては幸運なことだった。
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