旅とエッセイ 胡蝶の夢

横浜在住。世界、50ヵ国以上は行った。最近は、日本の南の島々に興味がある。

うわなり打ち 

2016年09月21日 17時38分59秒 | エッセイ
うわなり打ち   

 いやー、最初にこれを知った時にはブッ魂消た。昔の日本人、面白過ぎだ。「うわなり(うはなり)」とは後妻のこと。古くは第二夫人(妾等も)のことを言ったが、のちに先妻を離縁して新たに迎えた女性のことを「うわなり」と呼ぶようになった。この言葉は現在では死語になっているが、良いイメージは湧いてこないね。うわばみ、とかうらなりとかを思い起こす。この後妻を先妻が集団で襲うのが、うわなり打ちだ。
 うわなり打ちは中世から江戸時代初期にかけて行われ、江戸中期には廃れていた。戦国の世から離れて、男も女も大人しくなったのね。うわなり打ちにはルールがある。原則として、男が妻を離縁して1ヶ月以内に後妻を迎えた時に行われる。ならちょっと我慢して30日を過ぎてから後妻を入れればよいのに。あと刃物は厳禁。不意打ちも禁止だ。
 前妻方から後妻のもとに使者を立てる。この使者は家老役の年配の男性が行うことが多い。男が出るのはここだけだ。口上は「御覚悟これあるべく候、何月何日参るべく候」後妻の方は、「xxxx何月何日何時待入候」とか返事をする。竹刀とか箒とか持参する道具をとり決めて、いざ合戦。歌川広重の『往古うはなり打の図』を見ると、横長の画の中に20数人の歌川美人が、色鮮やかな着物にタスキを掛け箒や摺りこ木、お櫃などを振り上げて両陣入り乱れて戦っている。鉢巻きをしている女もいて勇ましい。
 うわなり打ち請負人といったババアがいて、彼女に加勢を頼むと、「任せなさい。あたしゃ今度で十x回目だ。」手配を整え、作法を教えてくれる。いざ打ち込む時は先妻だけが籠に乗り、竹刀を持ったり腰に差したりした加勢の女達が廻りを取り囲む。門を開かせて台所より乱入し、中るを幸いに打ち廻り、鍋釜障子打ち壊す。迎え打つ後妻とその仲間たちと打ち合いになる。特に両妻の婚礼の時から付いてきた女中同士が、お互いを激しくののしり合う。頃合いを見て、予め手配していた仲人等の仲裁人が出てきて相方手を引く。新妻の家材は滅茶苦茶に壊れている。初期の頃はエキサイトし過ぎて大けがや死人が出たが、江戸に入ってからは、こんなのが主流になっていたらしい。では寛永15年(1636年)、関ヶ原の合戦の36年後のうわなり打ちを見てみよう。
 主役は二人、先妻の名は志乃、後妻即ちうわなりはくにと云う。このおくにさんは滅法気が強く、二人は以前からの知り合いだったから、余計に憎い。くには「仲裁人は不要だ。」という強気の返事を出し、返り討ちにしてくれるわ、と人を集めた。一方志乃は何故自分が突然離縁されたのか、見当もつかない。実は旦那が、くにの父親が近く藩の重役に就くのを知り、出世目当てに妻を乗り換えたのだ。こんな奴、旦那打ちにすれば良いのに。
 二人は親類縁者や知り合いを尋ねて次々と参加者を集める。特に志乃側は、参謀格の染物屋のトメさんの顔が広くて70人もの参加者が集まった。それを知ったくには、麻疹に罹ったという噂を流したため、志乃側の参加者は次々に辞退し、身内と親友だけが残った。それでも意志堅く、志乃軍団は打ち入る。門前で開門を求めるが返事がない。ええい、ままよと扉をこじ開けて雪崩れ込んだ。
 するとたちまち志乃を含めて数人が落とし穴にバタバタと落ちる。卑怯!志乃側は、何故か整然と並べられた調度品を手当たり次第にぶち壊す。書画は引き破る。すると穴からはい出た志乃が悲鳴を上げる。自分が嫁入りに持ってきたなじみの品々だったのだ。更に鴨居は落ちるし階段は抜けるが委細構わず、ふすまを蹴破って奥に入ると、くに側の助っ人が得物を持って待ち構えていた。怒声のあがる乱戦の中をかき分けて志乃は奥に突進する。くにはどこだ。くには本当に病気なのか、奥の間に臥せっていたが、志乃を見るなり起き上がってきた。悪態をついて短刀を抜く。やり過ぎじゃ。ギョっとした志乃が、抑えようと揉み合う内にはずみで短刀がくにの胸に刺さり、血潮が噴き出す。
呆然とする志乃と助っ人。どう責任を取るんじゃ!責めるくに側の助っ人。すると志乃がいない。探すと隣室でなんと、志乃が自害をしてしまった。これにはくに側が蒼白になった。形勢逆転、死んでいたはずのくにが起きだしてオロオロしている。すると志乃陣営の女たちが大笑い。「お前は死んだはずじゃ。」今度は自害したはずの志乃が立ち上がる。女達は安心して腰から力が抜けた。悔しいやらホっとするやら。ここで志乃たちのうわなり打ちは終わり、意気洋洋と引き揚げていった。
実は染物屋のトメが情報を得ていて、大量の紅を買い込んだ者がいる、それならこんな事を仕掛けてくるかもと、対策を練っていたのだ。どちらが勝ったとも言えないが、ここまで派手に暴れまわれば、少しは溜飲も下がるだろうよ。

* これを書いていて思い浮かぶのは、ベトナム女性だ。彼女たちの買い物は、毎日が勝負だ。なめられたらお仕舞い、とことんカモにされる。市場での値引きに口角泡を飛ばすのは、ささいな金が惜しいのではない。あの奥さんはしたたかだ、手強いと思わせるのが目的なのだ。

チェコ・スロバキア、ビロード革命  

2016年09月21日 17時35分31秒 | エッセイ
チェコ・スロバキア、ビロード革命   

 先日、外国人の女の子に道を聞かれた。「xx公園はどこですか?」それって反対方向じゃん。もう随分と離れているよ。彼女日本語で聞いてきたが話せない。英語で話すと喜んで流暢な返事が来たが、ネイティブとは思えない。ヤンキー娘を批判する積りはさらさらないが、全くタイプが違う。美人とは言えないが、生真面目さが前面に出ていて感じが良い。大きめのリュックを背負っているから旅人なのかな。
 自分も駅に行くので道々話しをした。xx公園は駅の反対側で、駅から結構遠い。「どこから来たの?」「チェコです。」「ほー、プラハの春か。」「えっ、チェコを知っているのですか?大ていの日本人は知らないって言います。」「ウソだろ。ビロード革命を知らないの。」でもそうなんだ。サッカーの国際試合で中南米の国が出てくると、「パラグアイってどこ?」「アフリカだろ。」「トリニダード&トバコってヨーロッパかな。」
 日本の若者(バカ者)と違って、しっかりして頭の良さそうな彼女が教えてくれた。「最近チェコとスロバキアはとても仲がいいんです。もう一度一緒になろうかって話しも出ています。」ビロード革命、ビロード離婚で一度は分かれた両国が、メリット・デメリットを考慮した上で合併するなら素晴らしい。両国は2004年からパスポート無しで往来、特別な許可なく就労、2007年には国境の検問を廃止した。国が分離してからの方が、関係が良くなっている。共にEUにもNATOにも加盟している。元々チェコはビール、自動車、兵器等で有名な工業国だったが、最近ではスロバキアの経済もすこぶる好調なようだ。
 ルーマニアの独裁者チャウシェスクは政権末期、ソ連に戦車隊を送ってくれと泣きついたが、ゴルバチョフはそれを拒絶した。最期は国軍にまで見はなされ、夫婦で銃殺された。チェコ・スロバキアのビロード革命は、それに先立つこと1ヶ月、緊迫した1週間だが血を流すことなく民主化を勝ち取った。実際は際どく流血・弾圧の危機をかわしているのだが、見た目がスムーズだったのでビロード革命と呼ばれるようになった。
 1985年に始まったソ連のペレストロイカの影響で、1989年にはハンガリーで民主化が進み、西ドイツへの越境を求める東ドイツ市民が大勢チェコ・スロバキアに流れ込んだ。自由を求める機運は高まっていた。最初はスロバキアの高校生・大学生のデモ、次いでプラハで5-600人の学生が集まった。そのうわさを聞き、夕方までに1万5千人の学生が大学に集まり、ろうそくを掲げてプラハ旧市街を行進した。
 公安部はデモ隊を警棒で蹴散らしたが、翌々日大学と劇場が無期限ストに入り、市民のデモ参加者は10万人に達した。体制側(共産党)は民兵4千人を集め、デモ武力鎮圧の指令を出したが実行の直前に中止された。TV局は民主化デモを生中継し、カトリック教会はデモ支持を表明し政府を批判。国防大臣は「陸軍は国民に対して武力行動は起こさない。」と演説。駐留ソ連軍は武力介入しないことを発表し、ここで共産党幹部全員が辞任して政権が崩壊した。1989年11月16~27日のことだ。その日デモ参加者はプラハで80万人に達し、ゼネストには全国民の75%が参加した。市民の雪崩をうった民主化支持が、体制側に手を出すのをためらわせたのだが、この国が「プラハの春」という悲劇の歴史を持っていたことと無関係ではあるまい。新生チェコ・スロバキアの指導者として、あのドユ(小さいウ)プチュク氏が登場し市民の熱烈な歓迎を受ける。
 その後チェコとスロバキアは、1993年1月1日午前0時をもって平和的に分離する。なお1991年のノーベル平和賞は、ミャンマーの軍事政権によって自宅軟禁中のアウンサンスーチー氏が受賞した。当時孤立無援だったアウンサンスーチーさんは、あの受賞によって国際的に注目されるようになった。本当は終わったばかりのチェコ・スロバキアのビロード革命の主導者に与えられる予定だったのだが、彼らはこう言って辞退した。「すでに終わった革命より、今命をかけて弾圧と戦っている人が受賞すべきです。」

*「プラハの春」: 1968年1月、共産党第一書記のドュプチェク氏を中心として、「人間の顔をした社会主義」を唱える民主化運動がプラハを中心として自発的に始まった。インターネットの無い時代、東側社会(ソ連を中心とする東欧の衛星国家)には、西側の情報は全くと言っていいほど入って行かなかった。後に「プラハの春」と呼ばれる民主化は、文化・芸術面を皮きりに急激に花開いた。それは西側の模倣ではなく独自の、ある意味グロテスクな方向に進んだが、市民はこの自由を大いに楽しみ大胆に発言するようになった。しかしその時、ドュプチェクら指導者はソ連(ブレジネフの時代)からの度重なる恫喝を受けていた。
   そして同年の8月、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が一斉に国境からなだれ込んだ。市民は最初、アメリカによる侵略かと思ったそうだ。「プラハの春」は戦車によって踏みつぶされた。市民は戦車を停めようとキャタピラの前に横たわり、石を投げ戦車兵を非難する。最後の抵抗の場となったTV局から流された音楽と自由の声。ドュプチュク氏は処刑こそされなかったが失脚し、投獄されたのかビロード革命まで姿を消した。ソ連のご機嫌取りが書記長となり、民主化を推進した市民を投獄し職場から追放した。一部の知識人は亡命、秘密警察による監視、拷問、密告の奨励、ビロード革命に至るまで、暗くて長く陰気な24年間が続いた。

*マルタと「ヘイ・ジュード」: 「プラハの春」で一躍人気を得たアイドル歌手がマルタ・クリショヴァだ。マルタは著名な映画監督と結婚したが、彼は軍事介入の後、弾圧の映像を持って西側に亡命した。西側も東欧で一体何が起こっているのか、実はよく分かっていなかった。マルタは祖国に残り、工場の地下に秘密のラジオ局を作って秘かに抵抗を続ける。マルタは、当局による厳しい追及と監視を受けた。歌手はもちろん工場で働くことも当局の嫌がらせで出来なくなり、内職で食いつないだ。後から分かったことだが、アイドル歌手は秘かに革命の闘士になっていた。
   西側は心情的にはプラハの春にシンパシーを送り、弾圧に抗議するが、政治的には全く何もしない。ジョンソン大統領のアメリカは、ベトナム戦争が泥沼化し、とてもソ連と事を構える状況にない。そのベトナム戦争では、優秀なチェコ製機関銃に苦しめられている。中国が激しくソ連の介入を非難するが、自国民やチベットを激しく監視・弾圧している中国の非難では。日本共産党は形ばかりソ連を批判し、ソ連の軍事介入を容認・賞賛した日本社会党は消えた。
   ビロード革命で新生チェコ・スロバキアの指導者となった連中は、皆マルタに秘かに匿われたり、監獄に差し入れをしてもらったりしていた。新国家を立ち上げる際、マルタは政府の要職に誘われた。首相にならないか、とまで言われたが彼女は断っている。彼女はずっとやりたかった事、歌手に戻る道に進んだ。
   マルタ達はソ連の介入前、西側のラジオ放送をゲリラ的に聞き、ビートルズのヘイ・ジュードの旋律に魅せられた。歌詞は聞き取れないのでメロディーだけを借り、女性戦士の反戦の歌詞を付けて唄った。マルタの歌う反戦歌、ヘイ・ジュードはチェコ・スロバキアで空前のヒットをし、レコードは60万枚を記録した。そしてソビエトの戦車による弾圧、レコードは破棄された。持っていたら投獄されるから、皆棄てた。
   そして四半世紀経ち、ビロード革命。驚いたことに多くの市民はマルタの「ヘイ・ジュード」を隠し持っていた。ビニールと布に包んで畑に埋めたり、床下に隠したりしてきた。20数年もの間、あの春のことを忘れていなかった。民主化されたチェコ・スロバキアで真っ先に流されたのは、マルタの唄うヘイ・ジュード。そしてマルタ自身が唄い始める。エキゾチックな少女のような美女は、生活の苦労からか岩のようなおばさんになっていたが、その歌声は少しも衰えていない。中年から初老になった市民は、「プラハの春」のつかの間の自由の想い出と、失われた20数年に思いを馳せてマルタの歌を聴く。