「のぞきちがい」
その木は、とても大きな木なのです。
たぶん上海万博会場くらいの太さがあります。
高さだって半端じゃありません。
きっと空を突き抜けて、ずっと空の高いとこの天辺の膜を突き破っていると思うのです。
だから木の天辺は空を串刺しにしているのです。
葉っぱだって、まるで、果実のようにぶ厚いのです。
数え切れない、それらの葉っぱたちがいっせいにユサユサと揺れる様は背筋が凍るような豪快さです。
もちろん、どんな遠くからでも、その木は見えるんです。
関東の端っこからでもハッキリと見えます。
たぶん、隣の国からでもちゃんと見えると思うのです。
なんだか、その木は空を落っこちないように支えているような気さえするんです。
以前、疎開中に関東の端っこから、母と一緒に、その木を見ていた事がありました。
ワタシは、そうして母と手を繋いで、その木を見ているうちに、昔、どこかで同じような場面があったような気がしたのです。
とてもとても古く、あちこちが剥げてハレーションを起こしてガタガタ揺れているような映像です。
“お母さん、ボク、これ、どっかで、こんな感じで、見た気がする”
とワタシは母に言いました。
“ああ、お前が見てるはずはないよ。だって、お前は産まれていないからね”
やはりそうなんだ、とワタシは思い、聞きました。
“何?お母さんは、知ってるの?ボクが見たような気がするソレの事”
“色も何だか似てるしね。あれは母さんが子供の頃だよ。ここの丘から見えたのは”
“あの木が見えたの?”
“違うよ。十二階だよ。”
“十二階?あの木じゃないの?”
“あの木じゃないよ。浅草に十二階っていう建物があったんだよ。色も似てるしね。それがここから見えたんだよ”
“でも、それ、お母さんが子供の頃でしょ?お母さんが見たんでしょ?どうして、ボクが見た気がするの?”
“あはははは!遺伝かねぇ!”
と母は朗らかに笑いました。
と。ワタシは、そんな事を思い出しながら、今朝、早くから家を出て、その木に向かって歩いているのです。
四つ角を抜け、町を抜け、畑を抜け、そういえば母の言ってた十二階というのも、あんな色をしてたのかなあ、と思うのです。
ワタシが向かっている、その木の色は奇抜なんです。
何色とか分かりません。
見た事もない色です。
黒ずんだ赤と言えばそんな感じもしますけど、紫に濃いオレンジ色を混ぜたような感じもしますし、火照った肌の上に黒っぽい紫色を重ねたような、まあ、とにかく良く分からない色なんです。
説明できない色です。
奇怪と言えば奇怪ですし、鮮やかと言えば鮮やかで、しいて言えば人間の皮をはいで暫らくしたらあんな色になるような気もするのです。
母の言ってた十二階というのも、あんな色だったのでしょうか?
だとすれば、やはり、さぞかし目立ったことでしょう。
そりゃぁ、遠くからでもハッキリと分かったに違いありません。何しろ母の子供の頃なんて高いビルなんて、その十二階以外、この関東に一つだってありゃしませんよ、きっと平屋だらけだったはずです。
そんな事を考えているうちに着きました。
たぶん正午頃だと思います。
あたりはピッカピカです。
素晴らしい青空です。
こんな綺麗な青空をワタシは見た事があったでしょうか?それほど美しいのです。
空は限りなく透き通るように晴れ渡り、日差しが当たり一面をクッキリと輝かせ、空の青は見た事もない鮮やかで綺麗な青です。
突き抜けるような空とは、こういうのを言うんだな、と思いました。
こんなに綺麗にクッキリと輝いた突き抜けるような青空は、はじめて見ました。
とても良い気分で見上げていると、その木が、その突き抜けるような空を、さらに突き抜けていて、何だか罪深いような気がしてきます。
ワタシはとても爽やかな気分で、その木に近付いていって、覗きました。
その木の表面はでこぼこしていて、穴がいっぱい開いています。
ワタシは、こうして地面に立って、その木の穴を覗いてるのですが、穴はずっとずっと、上の方、たぶん空の天辺を突き抜けているところにも、いっぱい開いています。
いったい、その木の穴はいくつあるんでしょう。
たぶん、人間の頭では勘定できないくらい、いっぱい無限にあるように思えます。
でも、ワタシは、その木の上の方に昇って確認するなんて出来ませんので、そんな穴が幾つ開いてるかなんて考えただけで、ボゥっと気が遠くなります。
でも、その木のずっと上の方の穴から覗いてみたいなぁ、と思う事があるんです。
無理だとは、分かっています。
地面の根っこの上の場所から覗くのとは違うような感じがするのです。
でも、そんな事はやっちゃいけないと、ワタシのどこかで黄色い信号が点滅するのです。
上の方の穴から覗けないからといって、別に不満なわけじゃありません。
だって、地面から覗くだけでも、ワタシが生きてる間には絶対に覗ききれないくらいのたくさんの穴があるのですから。
そうして、久し振りにワタシは、その突き抜けるような素晴らしい青空を突き抜けてそびえ立つ、その木の穴を覗き続けました。
その木の穴の中は、狭かったり広かったり色々で、覗く穴によって全部違います。
からくりだと思うのです。
でも、どういうからくりなのかは分かりません。
ワタシが覗いたどの穴の中にも、ワタシがおります。
色んなワタシの影法師が見えるのです。
広い荒野を旅する青年のワタシが見えたり、子供の頃に家の中で誰かと双六をしてるワタシが見えたりします。
とにかく、たまにこうして、その木の穴から色んなワタシの影法師を覗かないと、ワタシは生きてる事がとても辛いようなのです。
いつからか、ワタシは生きている事が辛くて苦しくてたまらなくなると、その木の下に、こうしてやってきては一日中、穴からワタシの影法師を覗くようになりました。
いつもは、それほど穴から穴へと、そんなにたくさん覗きません。
幾つか覗くと何だか、スッと気持ちが軽くなって抱えていた重いものがスゥッと穴の中に吸い込まれていく、そんな感じで気が済むのです。
しかし、今日のワタシはどうしてか、次から次へといくら覗いても気が晴れません。
病気で伏せているワタシが見えます。
明るく輝かんばかりに破顔してる10代の頃のワタシが見えます。
恋人と連れ込み旅館で抱き合っているワタシもおります。
白髪だらけで足を引き摺って苦痛に満ちた表情で歩いてる老人のワタシがおります。
どこかの木造の事務所で鉛筆を舐め舐め貸借対照表を書いてるワタシが見えます。
友人と夜を徹して酒を飲みながら語り合っているワタシもおります。
ガタゴトと揺れる帝都の路面電車の中で何だか暗い表情で俯いてるワタシが見えます。
そうして、その木の穴から無心に覗き続けていると、次第に覗いているのが本当のワタシなのか、穴の中のワタシが本当のワタシなのか、良く分からないような、変な気持ちになってきたのです。
空は相変わらず素晴らしい見た事もないような透き通った綺麗な突き抜けたような空のままです。
良く見ると、余りにも明るく鮮やかな周囲の風景の中にクッキリとした黒があります。
なんだろうと思って見ると、影です。
今日の奇跡的なまでに美しい青空がワタシの周りの地面のところどころにクッキリとした真っ黒の影を作っているのです。
あっちの草むらの一つ一つの草がクッキリと真っ黒な影を作っています。
草むら自体の影も真っ黒でクッキリとしています。
その草むらの底無しの穴のようなクッキリとした真っ黒な影の中に、草むらの無数の草たちの影がやっぱりクッキリと真っ黒に底無しの穴のようにハッキリと見えるんです。
むこうの丘もクッキリとした真っ黒い影を伸ばしています。
ワタシの近くに転がっている石ころたちも、それぞれ真っ黒な底無しの穴のようなクッキリとした影を伸ばしています。
その石ころたちの影の上から、ワタシ自身の影が、やはり真っ黒な底無しの穴のようにクッキリと延びています。
そして、そのクッキリとした底無しの穴のような真っ黒の影たちの輪郭の外側は、やはり信じられないくらいの明るい日差しを浴びて美しく色鮮やかに輝いているのです。
こんな極端な明暗の世界は今まで見た記憶がありません。
しかし、そういえば何時間くらい覗いていたのでしょう?
空は相変わらず信じられない程、美しく透き通って輝いて、それに照らされた地上も眩いばかりに鮮やかに明るく輝いていますが、こんな真っ黒な影があちこちに伸びているという事は、陽が傾いてきたということでしょう。
もう、そろそろ帰らないと日が暮れてきます。
ワタシは、ここにいるワタシが、ワタシではないという妙な感覚に囚われながらも、しょうがない、今日は後、一回だけ覗いて帰ろうと思います。
最後だからと、ワタシは今まで覗いていた場所から、かなり離れたところまで行って、その木の穴を覗いてみました。
目が合いました。
そこの穴の中には、その木の穴を覗いているワタシがいたのです。
穴を境に、ワタシとワタシが同じ風景を覗きあっておりました。
どっちも同じです。
どっちのワタシも、その木の中のワタシの影法師が、その木の穴から覗いているワタシの影法師を見ているのです。
そして、感じるのです。
その木の穴を境にした、どっちのワタシも無数の、その木の穴から誰かに覗かれている。
ワタシは、てっきり、自分が覗いていると思い込んでいたのですが、無数の穴から覗かれているのは、実はワタシ自身だったという事に、どっちのワタシも気づいたのです。
ワタシは、ぞぉ~っとしました。
どっちのワタシも、ぞぉぉ~っとしました。
そして、一目散に覗いてた穴から目を離し、猛スピードで帰り道を走りだしました。
もう、覗いてないから分かりませんが、どっちのワタシも同じように草原を抜け、畑を抜け、ぜいぜいと息を切らせながらワタシの家を目指して走り続けたと思うのです。
畑を走ってる時に、思いました。
この世界。この空間。空と地表に包まれた巨大な空間。
ここは女の中だ。
この巨大なビーカーの中のような世界は女の中なんだ。
それが、どうしてなのか全然分からないのですが、そういう風に思えてなりません。
ワタシたちは、この世界の色々は全て、女に内包されていているんだ。
その木は、事もあろうに、その女の空間の中に生えてきて、巨大に屹立して、女の中の空間の天辺の膜を破っているんだ。
それは、たぶん、いけない事なんだ。
母が言ってた十二階は、だから、もう無いんだ。
母は震災で無くなったと言っていたような気がするが、違うんだ。
女が怒ったんだ。母は知ってたんじゃないんだろうか?だから笑ってごまかしたんだ。
息を切らせて家に帰ると、あたりはもう、すっかり夕間暮れでした。
ワタシは町の四つ辻を曲がって、ワタシの家が見えてくると随分とホッとした気になり、余力を振り絞って、ギラギラした鮮やかな夕陽に照らされて真っ黒な底無し穴のようなクッキリとした影を伸ばしている我が家に転がり込みました。
土間から廊下を転がるようにして古い木製のテーブルのある畳敷きの部屋に飛び込み、しばらく息を切らせていました。
シン、としています。
しばらくして、ようやくワタシは落ち着いてきました。
“もう大丈夫だ”
と、何が大丈夫なのか、よくわかりませんが、そういう言葉がワタシの口からこぼれました。
縁側の方からギラギラした夕陽がワタシの家の中に入ってきて、全てを照らし、鮮やかな濃いオレンジに染めています。
外から、子供の歌声が聞こえたように思います。
♪ギンギン、ギラギラ、夕陽が沈む・・・♪
その時、台所の方から何かを、トントンと包丁で刻むような音が聞こえてきました。
この木造の平屋の家にはワタシしか住んでおりません。
ちょっと気になります。何の音だろう?
もうワタシは随分と落ち着いたようでしたので、ゆっくりと台所に向かいました。
台所は障子を開ければ、すぐです。
家の中は、どこもかしこも、ギラギラした夕陽が差し込んでおり、ちょっと西を向くと眩しくて目が染みます。
台所では女が、まな板の上で野菜か何かを包丁で刻んでおりました。
女の影法師でありました。
誰だろう?よく分かりません。
死んだ女房のようでもあるし、死んだ姉のようでもあるし、死んだ妹のようでもあるし、昔、同棲していた恋人のようでもあるし、近所のおばさんのようでもあるし、祖母のようでもあるし、中学の時に初めて性交をした女の子のようでもあるし、どこかのバーで同席した女のようでもあるし、遠い昔に道ですれ違った女のようでもあるし、死んだ娘のようでもあるし、円山町の連れ込み旅館に引き摺り込んだ女のようでもあるし、、、、、
とにかく、どっか見覚えがあるのです。
その女の影法師はワタシが近付いていっても、ただひたすらまな板の上でトントンと良いテンポで何かを刻んでおります。
その時、ワタシは何かを刻んでいる女の影法師から真っ黒でクッキリとした底無しの穴のような影が伸びているのに気づきました。
何となく、その真っ黒な影を目で追ってゆくと、そこにも女がおりました。女の影法師です。やはり女の影法師です。
その女の影法師は廊下を雑巾で拭いておりました。
その女も、どこか見覚えがあります。
そして、その廊下を雑巾で拭いている女の影法師からも、真っ黒なクッキリとした底無しの穴のような影が伸びていました。
再び、ワタシは、その影を追いました。
その真っ黒な影を追っているうちに、ワタシは、ワタシの家じゅうに女がいる事に気が付きました。
縁側でほおずきを鳴らしてる女の影法師。
部屋の隅の箪笥の横で縫い物をしている女の影法師。
廊下で金魚蜂を抱えてたっている女の影法師。
庭で夕陽に染まったシャボン玉を飛ばしている女の影法師。
押入れの中から布団を取り出して寝転がっている女の影法師。
畳の上でおはじきをしている女の影法師。
ワタシは、いったいワタシの家に何人の女がいるのか分からなかったのですが、その女の影法師の全てからクッキリとした真っ黒な底無しの穴のような影が伸びているのは分かりました。
そうしている間に日はどんどん暮れてきて、女たちのクッキリとした真っ黒な底無しの穴のような影が、いっせいに長く伸びていって、重なってゆくのに気づきました。
ワタシは呆けた感じで何となく、その伸びてゆく女たちの真っ黒な影を目で追っています。
女たちの真っ黒な影は、他の女の影法師に重なり、その影の中に入った女の影法師も真っ黒な影を伸ばして、他の女の影法師たちに重なり、女の影法師たちは全て、お互いの伸ばした真っ黒な影の中に入り、いつの間にか、その何重にも重なり合った真っ黒なクッキリとした底無し穴のような影の中心に、ワタシが置かれているのに気づきました。
影縫いとでも言うのでしょうか?ワタシは女の影法師たちの真っ黒なクッキリとした底無しの穴のような影たちによって、縫いつけられたように身動きできなくなりました。
そうなってから、女の影法師たち、一人一人が、つぶやき始めたのです。
“あなたは覗かれてるのよ”
“覗いてたと思ってたの?”
“あなたは分かってないのね”
“そうそう、昔から何も分かってないくせに”
“ここも全部、木の中なのに”
“木の外側なんて無いのに”
“木の外も内も全部、覗き穴の中なのに”
“全部、わたしたちの中なのよ”
“あははははは、男って、大きな空を突き抜けるような木が無いと何にもできないくせに”
“その木だって、わたしたちが作ってあげたのに”
“そのわたしたちに、あなたはどういう仕打ちをしたのかも分からない”
“全く、男って、どこまで鈍いの?”
“あなたたちは、全て女の中で穴から覗いていて、出してやった後は大きな木に夢中になって覗き始める”
“それで外に出たつもり”
“でも、そこは相変わらず、女の中なのに”
“あなたたち男は女の穴から覗き出て広い空間にいると思ってるのね”
“そこも女の中なのに”
“いい?そこの中で何にも分からずに木を立てようする男たちを覗いてるのは誰だか分かる?”
“わたしたち、女よ。みんなでバカな男を覗いて笑ってるの”
“死んで消えても、決して、あなたたち男は女の中から出れないの”
“そして、ずっと覗かれてるのに気づきもしない”
“自分が覗いてるつもり”
“永久に、女に覗かれ続けてるのに”
“あはは!あはははははははははは!”
そうして、ワタシは、余りにも強烈なしっぺ返しに絶叫したのです。
女ほど恐ろしいものは無い!
この世で何より、最も恐ろしいのは女です!
女は怖いぃぃいいいいいいいいいいいいいいいいい~!
ギラギラしただいだい色とクッキリとした真っ黒い影だらけの夕暮れ世界でワタシは女が怖くて狂い死にました。
それを楽しそうに女たちが浅草の十二階の展望鏡から覗いていました。
そして、死んで消えた後もウカウカしてられません。
だって、消えても所詮、そこも女の中なのです。
やはり、覗かれているのです。
終
This novel was written by kipple
(これは小説なり。フィクションなり。妄想なり。)
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