気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

休館日に訪れた新居関所と当時の宿場や街道

2008-11-20 18:31:00 | 気ままな旅
 11月11日(月)昨日と同じく、浜名湖畔にある道の駅「潮見坂」で車中泊をしていた。
 昨日は午後から浜松市内でビジネスがあり、8時半頃までかかってしまった。
 ビジネスが終わった後、今日はどうするか決めあぐねていたが、時間も経過していることから、昨夜と同じ道の駅「潮見坂」で宿泊することに決めた。
 浜松市内から道の駅へ向かう道中、ラジオからプロ野球日本シリーズ 「巨人対西武」 の実況放送が流れている。
 試合の回もつまり、熱戦になっているようだ。
 こんな試合展開は、野球フアンの人たちをテレビに釘付けにする、おもしろさがある。
 手に汗かく攻防が1球1球と続き、どちらが勝ってもおかしくない試合展開になっている。 
 そして、程なくして、愛車は道の駅に到着した。
 駐車場も昨日ほど多くはないが、それでも、たくさんの車が止まっている。
 私達も早速、車中泊の準備を進めていった。
 幸いにして天気も回復し、明日は良い天気になりそうであった。

 11日は朝早く目覚める。
 今日の天気は良く絶好の観光日和である。
 夕方の5時から、私がかつて勤めていた会社のOBによる、懇親会が名古屋駅前で予定されている。
 それまでには予定はなく、昨日に引き続き、浜名湖畔を観光することにした。
 妻が朝食の準備をしていた折、隣に駐車している、ワゴン車の夫婦に会った。
 70代の豊橋市内に住む夫婦で、これから1週間の予定で伊豆半島を一周してくるとのこと、一年の内、300日は奥さんと二人で旅に出ているとのことで、ほとんどが、私どもと同じように車中泊をしているとのことであった。
 穏やかで、いかにも旅好きの雰囲気のある夫婦であった。
 車の中にはすでに、ベットが作られている。
 暫く会話をした後、この夫婦はにこやか表情で出発して行った。

 私どもも、朝食を車中で済まし、早速、江戸時代に厳しい検問で有名な、新居の関所を観光することにして出発して行った。
 新居関所は道の駅「潮見坂」から、浜名湖方向に15分ほど行った所にあった。
 道路の側に駐車場があり、その前には、関所の建物に配慮して、うまく調和させた新居町消防団第一分団の、和風の綺麗な建物があった。
 駐車場の西側には新居関所が、格子の塀や黒で出来た門に囲まれ、広い敷地内の中央には、平屋の建物が建てられている。
 この関所の光景が、周囲一帯に異様な雰囲気をかもし出している。
 関所の建物の雨戸は、全て閉められたままであった。
 拝観券を購入に行った妻が、今日の月曜日は休館であると伝えてきた。
 残念であるが、いたしかたなく、外からの見学となった。
 新居関所の撮影した写真を見ていて、私は江戸時代の関所や、この時代のビジネスや旅行などについて、もっと知りたいと興味が湧いてきた。
  
  
           
        隣接する新居町消防団第一分団の周りの景観を意識して造られた建物

           
       道路沿いに建つ「新居関所」の看板 街道や港の道しるべの常夜灯

          
               黒で異様な雰囲気のある新居関所正面入口

          
                新居関所の西方向からの景観

          
          新居関所の東方向駐車場からの景観・手前には堀がある
 
 元々関所は畿内の都を防御する為に、重要視され、交通の要所に設置された、微税や検問の為の施設である。
 日本では古代から制度化されており、東海道の鈴鹿関、東山道(ひがしやまみち=中山道の前身)の不破関(ふわせき=現在の岐阜県関が原町)、北陸道の愛発関(あらちのせき=近江国と越前国の間)が置かれていた。これを三関という。
 戦国時代には、天下統一事業を遂行した織田信長や豊臣秀吉によって廃止されたが、江戸時代には、江戸幕府や諸藩が、軍事、防犯上の必要性から再び設置された。
 主な関所は、東海道では箱根関や浜名湖畔の新居関、三重県の鈴鹿関である。
      中山道では群馬県と長野県軽井沢との間にある碓氷関や、長野県の福島関である。
 これらの関所を通行するためには、通行手形が必要であった。
 特に、江戸から西方へつながる東海道の関所では、女性と鉄砲の通行が厳しい制限を受けていた。
 これは 「入鉄砲出女=いりてっぽうでおんな」 と言われ、江戸在住の大名の妻が、密かに領国へ帰国することと、幕府は外様の諸藩が、江戸で軍事活動をすることを恐れ、鉄砲などの流入を厳しく規制した為である。
 
 また、五街道(東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道)にあたる宿場の整備は、徳川家康によって順次整備されていった。
 東海道においては、品川から大津までは五十三次、中山道は六十九次の宿場と定められ、順次整備されていった。
 宿場では公用人馬継立ての為、定められた人馬を常備していた。
 公家や武士の宿泊、休憩の為の問屋場、本陣、脇本陣などが置かれていた。
 
 宿場の諸施設は
  ●問屋場 ー 人馬の継立、助郷賦課などの業務を行った。
  ●本陣  - 武士や公家用の宿泊休憩所。
  ●脇本陣 - 本陣に次ぐ武士や公家の宿泊施設だが、空いている時は一般旅行者も泊めた。
  ●旅籠  - 一般旅行者用の食事付き宿泊施設。
  ●木賃宿 - 一般旅行者用の自炊宿泊施設
  ●茶屋  - 旅人向の休憩場で、お茶、一膳飯、お酒などを売っている所。
 以上のような施設が宿場には整っていた。
 大名の畿内方面から江戸を目指す場合は、主に東海道を通行したようであるが、
 一般の商人や旅行者は、ほとんどが中山道を利用したとの記述がある。
 なぜ起伏が激しく、冬場の季節が悪い中山道を利用したのであろうか!
 一説に、東海道を選べば、難所の大井川を越えねばならず、大井川を渡れば、船賃か、人足への祝儀(水祝い金)が必要であった。
 また、大井川はしばし増水に見舞われ、その都度、旅行者は「川止め」の優き目に遭わねばならなかった。
 
 当時の川止めの状況を、旅行者達は 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と嘆いて詠んでいた。
 
 特に、任務をおった者や旅を急ぐ者にとって「川止め」ほど不安定要因はなかった。
 このように一般の旅行者は、東海道を通行する場合の高いリスク避け、中山道に足を運んだようである。

 川の難所であった大井川にも、明治12年に待望の「蓬莱橋」という木橋が架けられた。
 長さ891mでギネスブックにも載る、木造製で世界一の長さを誇る橋である。
 
          
          東海道五十三次 渡舟場から関所を通って西へ向かう大名たち

          
               東海道五十三次 荒井 渡舟の図
 
 新居宿 地震及び津波などの災害によって、宿の位置は二度変わっている。
 宿には新居の関所と渡船場があり数百艘の船を有していた。
             
 この時代は、現在のような旅行は、ほとんど行われておらず、旅行と言えば、神社仏閣への御参りであった。
 お伊勢参りや熊野詣・善光寺や日光東照宮といった有名寺社への参拝であった。 また、富士山や御嶽山などの、山岳信仰も盛んであった。
 このような御参りは、広く普及しており、関所も比較的簡単な手続きで、通行を許可していたようである。
 商人などの武家以外の通行は、そんなに厳しくはなかったようであるガ、武家の女子に対しての通行は特に厳しかったようで、あの将軍家茂に嫁いだ和宮の一行さえ、側近の女性達への厳しい検問を、煩わしく思ったのか、東海道を通らず、中山道を通行して江戸に入っている。
         
 新居関所の見学から思わぬ方向へ話が飛んでいったが、やはり関所といえば、街道や当時の旅人達が通行する状況に、興味が湧きだし今回の投稿となった。
 
 新居関所の観光を終えた私達は、浜名湖のリゾート地として有名な弁天島に向かった。