気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

東西文化の中心遠江、龍譚寺の名勝庭園

2008-10-06 21:48:44 | 気ままな旅
  9月22日(月)の午後、龍ケ岩洞(りゅうがしどう)の見学を終えた私たちは、遠江(とおとうみ)の奥浜名湖にある龍譚寺(りょうたんじ)に向かって行った。
 龍譚寺は、愛車で15分ほどの距離の所にあった。
 龍譚寺の手前には神社(井伊谷宮)があって、お祭りをしているのか、紅白の幕が入口の鳥居近辺に多く張られ、大勢の人達で賑わっている。
 私たちは、この神社には寄らずに龍譚寺駐車場に愛車を止め、境内に向かって進んで行った。

 この龍譚寺の歴史は古く、奈良時代の天平5年(733年)行基菩薩によって開創されたと伝えられている。
 龍譚寺のある奥浜名湖の「井伊谷」一帯は、古く「井の国」と言われ、井の国の大王が治めた土地であるそうだ。 
 平安時代に遠江(とおとうみ=現在の静岡県大井川以西で、遠州ともいわれている)で、元祖、伊井共保ガ生まれ、伊井氏はこの地方の有力武士として育っていく。
 伊井氏は、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代は、後醍醐天皇の皇子、宗良親王(むねよし しんのう)を、伊井城に迎えて北朝軍と戦った名門である。
 24代伊井直政は、徳川家康に仕え、伊井の赤鬼として恐れられ、関が原の合戦では大活躍、徳川四大王の筆頭に出世して、彦根18万石を与えられ、彦根に移ってくる。
 開国の偉業を成し遂げた、幕末の伊井大老も伊井家の人である。
 龍譚寺は、その1000年余りの間に、伊井家40代の祖霊を祀り、菩提寺として、彦根龍譚寺と共に、その歴史を今日に伝えている。

 駐車場から龍譚寺の境内に入ると、参道の石畳が山門の方に向かって、白壁の塀とともに真っ直ぐに延び、石畳のそばには、形の良い松や樹木が植えられている。
 石畳の参道から、四脚作りの山門をくぐると、右直角方向に参道は曲がり、少し真っ直ぐに行った所で、今度は左方向の石段をすこし登る。
 周りの樹木や白壁の塀などが、寺院の風采を一層高めている。
 今度は本堂方面に石畳の参道が延び、途中の右側には庫裡(くり=住職の住まい)が、左側には東門があって、その奥には鐘楼の伽藍が建てられている。
 鐘楼が建てられている台からは、朱色に塗られた美しい開山堂の楼閣が見渡される。
 東門の内部天上の飾り窓部分には、観音大菩薩尊銅像が掲げられている。
 
 龍譚寺本堂入口で、拝観料(大人=400円)を支払って中に入って行く。
 中に入るとすぐに、水墨画で描かれた富士山の屏風絵があり、その前には、大きな花瓶と木彫りの像を置いている。
 その隣にも、屏風絵があり、牡丹の花と木にとまった山鳥が、見事に描かれている。
 本堂南側の庭園には、すばらしい枯山水の庭が、手入が行き届いた、形の良い高さの違う数十本の庭木でおおわれ、庭を一層引き立てている。
 この庭の奥には、仁王門が立ちはだかり、右側奥には、朱色の開山堂上部が見えている。
 私は、庭を暫く堪能した後、再び本堂に戻っていく。
 本堂入口近くには、4枚の襖に旭英筆の水墨画の龍が大きく描かれ、訪れた人々を立ち止らせ、じっと見とらしている。
 その横には、金色に輝く、丈六仏の釈迦如来坐像が、どっしりとして座り、私達を迎えてくれている。
 お釈迦様の像には、独特の雰囲気があり、何かと細かいことにこだわりがちな、私達の心を全て観通し、全ての人々を温かく、受け入れてくれそうな、大きな包容力を感じてくる。
 その奥では伊井家の菩提を祀っている。
 隣の大広間には、本尊である虚空蔵大菩薩をお祀りして、訪れる人たちが、正座して御参りをしている。
 さらに、拝殿前には廊下があり、伝左甚五郎が造ったといわれ鴬張りの廊下であるる。
 廊下に出て、庭園にそって進むと、建物隅の上部に、伝左甚五郎が彫ったという木彫りの、龍の彫刻が飾られている。
 その奥には稲荷堂が、さらに奥には開山堂があり、開山黙宗瑞渕和尚や身代わり地蔵などを祀っている。

 庭園に出る手前の部屋には、現在の天皇陛下ご一家(皇太子殿下時代と思われる)が、このお寺をご訪問されたようで、その時の記念写真が展示されている。
 その本堂の北側には、見事な庭園が広がっている。

 庭園を見渡せる本堂には、長い廊下があり、庭園を十分に堪能できるように造られている。
 数名の方が、本堂の部屋と廊下との段差を利用して、空いている部屋の部分に座って庭園を、静かに眺めている。 
 庭園を静かに座って眺めていると、自然に心が落ちつき、禅定の心が湧いてくるのだろうか!
 私も、最初にこの庭園を観た時は、どうしてこのような形に造られたのか!
 また、池や築山、それに数多くの石を、どうしてこのように配置していったのか!
 基本のコンセプトはどこにあるのか!
 良く分からなかったが、庭園の案内放送で、少しずつ理解できるようになってきたが、完全に理解できるまでは、まだまだ、多くの時間の必要性を感じていた。
 ただ、何時まで観ていてもあきることがない、すばらしい日本庭園である事には、疑いの余地はなかった。 

                  
                     龍譚寺境内図

           
           龍譚寺の四脚造りの山門     台の上に造られた鐘楼

 駐車場からすぐに石畳の参道に足を踏み入れると、低い樹木に覆われた白土塀があり、四脚造りの総門をを仰ぎ見る。
 

           
        本堂までは緑の樹木に囲まれ、寺院の雰囲気をかもしだしている参道

            
          秋の七草で、万葉集でもよく詠われている境内に咲く「萩の花」   

           
            本堂の前にある東堂奥には鐘楼が、反対側には庫裡がある 

            
                開山堂           本堂にある釈迦座像

 堂屋根の軒下の朱塗り楼閣造りの特徴を持つ開山堂を望む。搭上には井伊家の家紋「彦根橘」や「彦根井筒(井桁)」を見ることが出来る。
 丈六の仏(木彫り寄木造り=釈迦如来坐像)
                                    
               秋の風物詩 秋分の日前後に咲く「一輪の彼岸花」

           
                   本堂内にある旭英筆の「龍の図」

           
       本堂の真南、お寺全体の正面に位置して龍譚寺をお守りしている仁王門
                    本堂内部から撮影 
  
           
                  本堂南側にある枯山水の庭園
                
            
             本堂内部 ここは伊井家の菩提を祀っている

          
               伝左甚五郎作の龍(江戸時代)

          
               天皇ご一家のご訪問の写真

          
              本堂の奥にあり 廊下で繋がっている稲荷堂

           
               正夢稲荷堂内部の拝殿

 この龍譚寺庭園は、国指定文化財名勝記念物に指定されている。
 かの小堀遠州によって、江戸時代初期に造られた、池泉鑑賞式庭園である。
 小堀遠州は、滋賀・長浜の出身で「遠州流」の茶道を興し、京都二条城の二の丸庭園の作庭をした、当代一の文化人であったと伝えられている。
          
          本堂北側の庭園で手前と奥にある大きな石が仁王石である 

 この庭は、後方に西峰、中峰、東峰の三つの築山が築かれ、中央に守護石、左右に仁王石、正面に礼拝石(座禅石)が配され、池の形が、心を現した心字池となっている。
 数多くの石が築山にうまく配され、水も流れていない枯山水の手法で、滝や渓谷などを見事に表現している。
 また、築山から池に突き出した岩を、亀、鶴に見立てて、池には蓬莱岩島を浮かばした手法をとり入れている。
 永い年月より苔むした庭石が、一層の風格をかもし出し、庭木とのコントラスを深め、季節によるさつきや、紅葉が楽しめそうである。
 この庭園の特徴は、いかにも、日本の寺院庭園として優れた、代表的な庭園であると思われる。
 
 このような庭園は、京都竜安寺の石庭のように、早朝などの最も静寂な時に訪れ、正面廊下から時間をかけ、ゆっくりと眺めて観たいものだとつくづく思う。
 庭園を観ながら座っていると、何もかも忘れ、自分の心が一心となって、自然と心が落ちつき、新たな活力と、明日からの勇気を与えてくれそうである。 

          
         東側よりの庭園で手前にある石が仁王石で池の形状は「心」を表現

           
        本堂の部屋より見る庭園 茶道をたしなむ人には願ってもない場所である

           
         東側より観る庭園 手前の燈篭が一層庭園の魅力をだしている
    
          
               庭園の庭石のそばで可憐に咲く花

           
           庭園左側で上部の築山が西峰と中峰、手前の石が仁王石である
 

           
    庭園の中央を見る、左石が仁王石、西峰と中峰の築山、中峰の中ほどに守護石を配している。
         池の中の水草の横には、蓬莱岩島が浮かんでいる。

            
        庭園右側を見る、池手前の石が礼拝石(座禅石)池奥の石は仁王石
         
 暫く、この龍譚寺の拝観を楽しんだ後、私たちは次の目的地だある岐阜県にむかって行った。
 全く、予定も組まずに、突然 東名高速道路浜松SA内で、旅行パンフレットを見ていて思いつき、訪れた地域であったが、この地域の歴史の深さや、観光名所の多さには驚かされる。
 この地域である遠江(とおとうみ)は、東西文化・歴史の中心に位置しているように思えてくる。
 私達は、今まで、この地域は単なる東西の通過点として考え、観光の名所としては、浜名湖と新居の関所程度の知識しかもっていなかった。
 ホントに、今回、ここを訪れ、私達に大きな、貴重な1ページが加わってきた。
 また、近い将来、この地域の遠江に来て、歴史に触れたいと思いつつ、後にして行った。
 

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2 コメント

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Unknown (伊勢の仙)
2008-10-06 23:08:33
南朝の宗良親王の系から子孫が氷室神主として愛知の津島の津島神社に入る時 井伊谷の井伊の娘が王子産みますね 宗良さんは 南朝方の伊勢に下向し玉城町の玉城城の南方に陣し 後に伊勢の大湊から 関東に船団で出るも三ケ日あたりの浜に台風にあい難破漂着する関係で 井伊谷を本拠にするようです その調べで彦根に旅した時 幕末井伊大老が暗殺の現場にいた子孫の話だと 大老自身は鉄砲で最初に絶命後 斬り合いになったと 仙
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Unknown (伊勢の仙)
2008-10-06 23:30:32
宗良さんは 井伊谷の後に信州に転戦しますが 残念に王子は正確には親王宣下があるので親王さんですが戦死し その時世良田の何人かも後追い自刃していて そこに駆けつけるのが 北関東のその新田源氏の世良田得川の徳側家康の先祖で 若き家康は 戦場で 我は新田の子孫と名乗り新田の家紋を愛用した様です 葵の紋の使用が定着するのは3代家光で 今おなじみの葵の形は 8代吉宗の頃らしい 仙
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