9月22日(月)の午後、龍ケ岩洞(りゅうがしどう)の見学を終えた私たちは、遠江(とおとうみ)の奥浜名湖にある龍譚寺(りょうたんじ)に向かって行った。
龍譚寺は、愛車で15分ほどの距離の所にあった。
龍譚寺の手前には神社(井伊谷宮)があって、お祭りをしているのか、紅白の幕が入口の鳥居近辺に多く張られ、大勢の人達で賑わっている。
私たちは、この神社には寄らずに龍譚寺駐車場に愛車を止め、境内に向かって進んで行った。
この龍譚寺の歴史は古く、奈良時代の天平5年(733年)行基菩薩によって開創されたと伝えられている。
龍譚寺のある奥浜名湖の「井伊谷」一帯は、古く「井の国」と言われ、井の国の大王が治めた土地であるそうだ。
平安時代に遠江(とおとうみ=現在の静岡県大井川以西で、遠州ともいわれている)で、元祖、伊井共保ガ生まれ、伊井氏はこの地方の有力武士として育っていく。
伊井氏は、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代は、後醍醐天皇の皇子、宗良親王(むねよし しんのう)を、伊井城に迎えて北朝軍と戦った名門である。
24代伊井直政は、徳川家康に仕え、伊井の赤鬼として恐れられ、関が原の合戦では大活躍、徳川四大王の筆頭に出世して、彦根18万石を与えられ、彦根に移ってくる。
開国の偉業を成し遂げた、幕末の伊井大老も伊井家の人である。
龍譚寺は、その1000年余りの間に、伊井家40代の祖霊を祀り、菩提寺として、彦根龍譚寺と共に、その歴史を今日に伝えている。
駐車場から龍譚寺の境内に入ると、参道の石畳が山門の方に向かって、白壁の塀とともに真っ直ぐに延び、石畳のそばには、形の良い松や樹木が植えられている。
石畳の参道から、四脚作りの山門をくぐると、右直角方向に参道は曲がり、少し真っ直ぐに行った所で、今度は左方向の石段をすこし登る。
周りの樹木や白壁の塀などが、寺院の風采を一層高めている。
今度は本堂方面に石畳の参道が延び、途中の右側には庫裡(くり=住職の住まい)が、左側には東門があって、その奥には鐘楼の伽藍が建てられている。
鐘楼が建てられている台からは、朱色に塗られた美しい開山堂の楼閣が見渡される。
東門の内部天上の飾り窓部分には、観音大菩薩尊銅像が掲げられている。
龍譚寺本堂入口で、拝観料(大人=400円)を支払って中に入って行く。
中に入るとすぐに、水墨画で描かれた富士山の屏風絵があり、その前には、大きな花瓶と木彫りの像を置いている。
その隣にも、屏風絵があり、牡丹の花と木にとまった山鳥が、見事に描かれている。
本堂南側の庭園には、すばらしい枯山水の庭が、手入が行き届いた、形の良い高さの違う数十本の庭木でおおわれ、庭を一層引き立てている。
この庭の奥には、仁王門が立ちはだかり、右側奥には、朱色の開山堂上部が見えている。
私は、庭を暫く堪能した後、再び本堂に戻っていく。
本堂入口近くには、4枚の襖に旭英筆の水墨画の龍が大きく描かれ、訪れた人々を立ち止らせ、じっと見とらしている。
その横には、金色に輝く、丈六仏の釈迦如来坐像が、どっしりとして座り、私達を迎えてくれている。
お釈迦様の像には、独特の雰囲気があり、何かと細かいことにこだわりがちな、私達の心を全て観通し、全ての人々を温かく、受け入れてくれそうな、大きな包容力を感じてくる。
その奥では伊井家の菩提を祀っている。
隣の大広間には、本尊である虚空蔵大菩薩をお祀りして、訪れる人たちが、正座して御参りをしている。
さらに、拝殿前には廊下があり、伝左甚五郎が造ったといわれ鴬張りの廊下であるる。
廊下に出て、庭園にそって進むと、建物隅の上部に、伝左甚五郎が彫ったという木彫りの、龍の彫刻が飾られている。
その奥には稲荷堂が、さらに奥には開山堂があり、開山黙宗瑞渕和尚や身代わり地蔵などを祀っている。
庭園に出る手前の部屋には、現在の天皇陛下ご一家(皇太子殿下時代と思われる)が、このお寺をご訪問されたようで、その時の記念写真が展示されている。
その本堂の北側には、見事な庭園が広がっている。
庭園を見渡せる本堂には、長い廊下があり、庭園を十分に堪能できるように造られている。
数名の方が、本堂の部屋と廊下との段差を利用して、空いている部屋の部分に座って庭園を、静かに眺めている。
庭園を静かに座って眺めていると、自然に心が落ちつき、禅定の心が湧いてくるのだろうか!
私も、最初にこの庭園を観た時は、どうしてこのような形に造られたのか!
また、池や築山、それに数多くの石を、どうしてこのように配置していったのか!
基本のコンセプトはどこにあるのか!
良く分からなかったが、庭園の案内放送で、少しずつ理解できるようになってきたが、完全に理解できるまでは、まだまだ、多くの時間の必要性を感じていた。
ただ、何時まで観ていてもあきることがない、すばらしい日本庭園である事には、疑いの余地はなかった。
龍譚寺境内図
龍譚寺の四脚造りの山門 台の上に造られた鐘楼
駐車場からすぐに石畳の参道に足を踏み入れると、低い樹木に覆われた白土塀があり、四脚造りの総門をを仰ぎ見る。
本堂までは緑の樹木に囲まれ、寺院の雰囲気をかもしだしている参道
秋の七草で、万葉集でもよく詠われている境内に咲く「萩の花」
本堂の前にある東堂奥には鐘楼が、反対側には庫裡がある
開山堂 本堂にある釈迦座像
堂屋根の軒下の朱塗り楼閣造りの特徴を持つ開山堂を望む。搭上には井伊家の家紋「彦根橘」や「彦根井筒(井桁)」を見ることが出来る。
丈六の仏(木彫り寄木造り=釈迦如来坐像)
秋の風物詩 秋分の日前後に咲く「一輪の彼岸花」
本堂内にある旭英筆の「龍の図」
本堂の真南、お寺全体の正面に位置して龍譚寺をお守りしている仁王門
本堂内部から撮影
本堂南側にある枯山水の庭園
本堂内部 ここは伊井家の菩提を祀っている
伝左甚五郎作の龍(江戸時代)
天皇ご一家のご訪問の写真
本堂の奥にあり 廊下で繋がっている稲荷堂
正夢稲荷堂内部の拝殿
この龍譚寺庭園は、国指定文化財名勝記念物に指定されている。
かの小堀遠州によって、江戸時代初期に造られた、池泉鑑賞式庭園である。
小堀遠州は、滋賀・長浜の出身で「遠州流」の茶道を興し、京都二条城の二の丸庭園の作庭をした、当代一の文化人であったと伝えられている。
本堂北側の庭園で手前と奥にある大きな石が仁王石である
この庭は、後方に西峰、中峰、東峰の三つの築山が築かれ、中央に守護石、左右に仁王石、正面に礼拝石(座禅石)が配され、池の形が、心を現した心字池となっている。
数多くの石が築山にうまく配され、水も流れていない枯山水の手法で、滝や渓谷などを見事に表現している。
また、築山から池に突き出した岩を、亀、鶴に見立てて、池には蓬莱岩島を浮かばした手法をとり入れている。
永い年月より苔むした庭石が、一層の風格をかもし出し、庭木とのコントラスを深め、季節によるさつきや、紅葉が楽しめそうである。
この庭園の特徴は、いかにも、日本の寺院庭園として優れた、代表的な庭園であると思われる。
このような庭園は、京都竜安寺の石庭のように、早朝などの最も静寂な時に訪れ、正面廊下から時間をかけ、ゆっくりと眺めて観たいものだとつくづく思う。
庭園を観ながら座っていると、何もかも忘れ、自分の心が一心となって、自然と心が落ちつき、新たな活力と、明日からの勇気を与えてくれそうである。
東側よりの庭園で手前にある石が仁王石で池の形状は「心」を表現
本堂の部屋より見る庭園 茶道をたしなむ人には願ってもない場所である
東側より観る庭園 手前の燈篭が一層庭園の魅力をだしている
庭園の庭石のそばで可憐に咲く花
庭園左側で上部の築山が西峰と中峰、手前の石が仁王石である
庭園の中央を見る、左石が仁王石、西峰と中峰の築山、中峰の中ほどに守護石を配している。
池の中の水草の横には、蓬莱岩島が浮かんでいる。
庭園右側を見る、池手前の石が礼拝石(座禅石)池奥の石は仁王石
暫く、この龍譚寺の拝観を楽しんだ後、私たちは次の目的地だある岐阜県にむかって行った。
全く、予定も組まずに、突然 東名高速道路浜松SA内で、旅行パンフレットを見ていて思いつき、訪れた地域であったが、この地域の歴史の深さや、観光名所の多さには驚かされる。
この地域である遠江(とおとうみ)は、東西文化・歴史の中心に位置しているように思えてくる。
私達は、今まで、この地域は単なる東西の通過点として考え、観光の名所としては、浜名湖と新居の関所程度の知識しかもっていなかった。
ホントに、今回、ここを訪れ、私達に大きな、貴重な1ページが加わってきた。
また、近い将来、この地域の遠江に来て、歴史に触れたいと思いつつ、後にして行った。
龍譚寺は、愛車で15分ほどの距離の所にあった。
龍譚寺の手前には神社(井伊谷宮)があって、お祭りをしているのか、紅白の幕が入口の鳥居近辺に多く張られ、大勢の人達で賑わっている。
私たちは、この神社には寄らずに龍譚寺駐車場に愛車を止め、境内に向かって進んで行った。
この龍譚寺の歴史は古く、奈良時代の天平5年(733年)行基菩薩によって開創されたと伝えられている。
龍譚寺のある奥浜名湖の「井伊谷」一帯は、古く「井の国」と言われ、井の国の大王が治めた土地であるそうだ。
平安時代に遠江(とおとうみ=現在の静岡県大井川以西で、遠州ともいわれている)で、元祖、伊井共保ガ生まれ、伊井氏はこの地方の有力武士として育っていく。
伊井氏は、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代は、後醍醐天皇の皇子、宗良親王(むねよし しんのう)を、伊井城に迎えて北朝軍と戦った名門である。
24代伊井直政は、徳川家康に仕え、伊井の赤鬼として恐れられ、関が原の合戦では大活躍、徳川四大王の筆頭に出世して、彦根18万石を与えられ、彦根に移ってくる。
開国の偉業を成し遂げた、幕末の伊井大老も伊井家の人である。
龍譚寺は、その1000年余りの間に、伊井家40代の祖霊を祀り、菩提寺として、彦根龍譚寺と共に、その歴史を今日に伝えている。
駐車場から龍譚寺の境内に入ると、参道の石畳が山門の方に向かって、白壁の塀とともに真っ直ぐに延び、石畳のそばには、形の良い松や樹木が植えられている。
石畳の参道から、四脚作りの山門をくぐると、右直角方向に参道は曲がり、少し真っ直ぐに行った所で、今度は左方向の石段をすこし登る。
周りの樹木や白壁の塀などが、寺院の風采を一層高めている。
今度は本堂方面に石畳の参道が延び、途中の右側には庫裡(くり=住職の住まい)が、左側には東門があって、その奥には鐘楼の伽藍が建てられている。
鐘楼が建てられている台からは、朱色に塗られた美しい開山堂の楼閣が見渡される。
東門の内部天上の飾り窓部分には、観音大菩薩尊銅像が掲げられている。
龍譚寺本堂入口で、拝観料(大人=400円)を支払って中に入って行く。
中に入るとすぐに、水墨画で描かれた富士山の屏風絵があり、その前には、大きな花瓶と木彫りの像を置いている。
その隣にも、屏風絵があり、牡丹の花と木にとまった山鳥が、見事に描かれている。
本堂南側の庭園には、すばらしい枯山水の庭が、手入が行き届いた、形の良い高さの違う数十本の庭木でおおわれ、庭を一層引き立てている。
この庭の奥には、仁王門が立ちはだかり、右側奥には、朱色の開山堂上部が見えている。
私は、庭を暫く堪能した後、再び本堂に戻っていく。
本堂入口近くには、4枚の襖に旭英筆の水墨画の龍が大きく描かれ、訪れた人々を立ち止らせ、じっと見とらしている。
その横には、金色に輝く、丈六仏の釈迦如来坐像が、どっしりとして座り、私達を迎えてくれている。
お釈迦様の像には、独特の雰囲気があり、何かと細かいことにこだわりがちな、私達の心を全て観通し、全ての人々を温かく、受け入れてくれそうな、大きな包容力を感じてくる。
その奥では伊井家の菩提を祀っている。
隣の大広間には、本尊である虚空蔵大菩薩をお祀りして、訪れる人たちが、正座して御参りをしている。
さらに、拝殿前には廊下があり、伝左甚五郎が造ったといわれ鴬張りの廊下であるる。
廊下に出て、庭園にそって進むと、建物隅の上部に、伝左甚五郎が彫ったという木彫りの、龍の彫刻が飾られている。
その奥には稲荷堂が、さらに奥には開山堂があり、開山黙宗瑞渕和尚や身代わり地蔵などを祀っている。
庭園に出る手前の部屋には、現在の天皇陛下ご一家(皇太子殿下時代と思われる)が、このお寺をご訪問されたようで、その時の記念写真が展示されている。
その本堂の北側には、見事な庭園が広がっている。
庭園を見渡せる本堂には、長い廊下があり、庭園を十分に堪能できるように造られている。
数名の方が、本堂の部屋と廊下との段差を利用して、空いている部屋の部分に座って庭園を、静かに眺めている。
庭園を静かに座って眺めていると、自然に心が落ちつき、禅定の心が湧いてくるのだろうか!
私も、最初にこの庭園を観た時は、どうしてこのような形に造られたのか!
また、池や築山、それに数多くの石を、どうしてこのように配置していったのか!
基本のコンセプトはどこにあるのか!
良く分からなかったが、庭園の案内放送で、少しずつ理解できるようになってきたが、完全に理解できるまでは、まだまだ、多くの時間の必要性を感じていた。
ただ、何時まで観ていてもあきることがない、すばらしい日本庭園である事には、疑いの余地はなかった。
龍譚寺境内図
龍譚寺の四脚造りの山門 台の上に造られた鐘楼
駐車場からすぐに石畳の参道に足を踏み入れると、低い樹木に覆われた白土塀があり、四脚造りの総門をを仰ぎ見る。
本堂までは緑の樹木に囲まれ、寺院の雰囲気をかもしだしている参道
秋の七草で、万葉集でもよく詠われている境内に咲く「萩の花」
本堂の前にある東堂奥には鐘楼が、反対側には庫裡がある
開山堂 本堂にある釈迦座像
堂屋根の軒下の朱塗り楼閣造りの特徴を持つ開山堂を望む。搭上には井伊家の家紋「彦根橘」や「彦根井筒(井桁)」を見ることが出来る。
丈六の仏(木彫り寄木造り=釈迦如来坐像)
秋の風物詩 秋分の日前後に咲く「一輪の彼岸花」
本堂内にある旭英筆の「龍の図」
本堂の真南、お寺全体の正面に位置して龍譚寺をお守りしている仁王門
本堂内部から撮影
本堂南側にある枯山水の庭園
本堂内部 ここは伊井家の菩提を祀っている
伝左甚五郎作の龍(江戸時代)
天皇ご一家のご訪問の写真
本堂の奥にあり 廊下で繋がっている稲荷堂
正夢稲荷堂内部の拝殿
この龍譚寺庭園は、国指定文化財名勝記念物に指定されている。
かの小堀遠州によって、江戸時代初期に造られた、池泉鑑賞式庭園である。
小堀遠州は、滋賀・長浜の出身で「遠州流」の茶道を興し、京都二条城の二の丸庭園の作庭をした、当代一の文化人であったと伝えられている。
本堂北側の庭園で手前と奥にある大きな石が仁王石である
この庭は、後方に西峰、中峰、東峰の三つの築山が築かれ、中央に守護石、左右に仁王石、正面に礼拝石(座禅石)が配され、池の形が、心を現した心字池となっている。
数多くの石が築山にうまく配され、水も流れていない枯山水の手法で、滝や渓谷などを見事に表現している。
また、築山から池に突き出した岩を、亀、鶴に見立てて、池には蓬莱岩島を浮かばした手法をとり入れている。
永い年月より苔むした庭石が、一層の風格をかもし出し、庭木とのコントラスを深め、季節によるさつきや、紅葉が楽しめそうである。
この庭園の特徴は、いかにも、日本の寺院庭園として優れた、代表的な庭園であると思われる。
このような庭園は、京都竜安寺の石庭のように、早朝などの最も静寂な時に訪れ、正面廊下から時間をかけ、ゆっくりと眺めて観たいものだとつくづく思う。
庭園を観ながら座っていると、何もかも忘れ、自分の心が一心となって、自然と心が落ちつき、新たな活力と、明日からの勇気を与えてくれそうである。
東側よりの庭園で手前にある石が仁王石で池の形状は「心」を表現
本堂の部屋より見る庭園 茶道をたしなむ人には願ってもない場所である
東側より観る庭園 手前の燈篭が一層庭園の魅力をだしている
庭園の庭石のそばで可憐に咲く花
庭園左側で上部の築山が西峰と中峰、手前の石が仁王石である
庭園の中央を見る、左石が仁王石、西峰と中峰の築山、中峰の中ほどに守護石を配している。
池の中の水草の横には、蓬莱岩島が浮かんでいる。
庭園右側を見る、池手前の石が礼拝石(座禅石)池奥の石は仁王石
暫く、この龍譚寺の拝観を楽しんだ後、私たちは次の目的地だある岐阜県にむかって行った。
全く、予定も組まずに、突然 東名高速道路浜松SA内で、旅行パンフレットを見ていて思いつき、訪れた地域であったが、この地域の歴史の深さや、観光名所の多さには驚かされる。
この地域である遠江(とおとうみ)は、東西文化・歴史の中心に位置しているように思えてくる。
私達は、今まで、この地域は単なる東西の通過点として考え、観光の名所としては、浜名湖と新居の関所程度の知識しかもっていなかった。
ホントに、今回、ここを訪れ、私達に大きな、貴重な1ページが加わってきた。
また、近い将来、この地域の遠江に来て、歴史に触れたいと思いつつ、後にして行った。