気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

人道の丘公園 6000人のユダヤ人を救った外交官

2009-12-27 18:15:05 | 気ままな旅
 平成21年11月18日(木)昨日は、岐阜県美濃加茂市内でビジネスをすました後、近くの道の駅「日本昭和村」で、妻と二人車中泊をしていた。
 今朝は6時半に起床し、車外に出ると快晴の天気になっている。
 私は、かつてからユダヤ人6000人の命を救った外交官「杉原千畝」の記念館などが造られている、人道の丘に行ってみたいと望んでいた。
 人道の丘は美濃加茂市の隣り町である八百津町に造られ、車では25分ほどの距離にある。
 朝食を済ました後、道の駅を後にして人道の丘を目指して、愛車エステイマを走らせて行った。      
 人道の丘は、木曽川に造られた丸山ダムの湖水や、八百津町の街並みが見渡せる丘の上に造られ一体が公園として整備されている。
 人道の丘公園は、「命のビザ」で知られる元外交官の杉原千畝の人道的功績を称えるために造られた公園で、1992年8月に開園し、「メモリアルゾーン」、「アクセスゾーン」、「カルチャーゾーン」、「アミューズゾーン」の4つの区域からなっている。

          
                人道の丘モニュメントの三つの鐘の塔

 急坂の道路を登って行くと、すぐにモニュメントの駐車場があった。
 その横には小高い丘があり、三つの塔が建てられ、塔の上部には鐘が取り付けられている。
 この塔や鐘は「世界に奏でる平和へのビザ」モニュメントとして造られたもので、眼下には、八百津町市街や木曽川に造られた丸山ダム湖が、周りの景観と共に美しい景色を見せている。
 ここにあるモニュメントは、時代の真実を見つめ、外交官杉原千畝(すぎはらちうね)が、ビザを何枚も書き続け、多くのユダヤ人の命を救った、『命のビザ』を重ね、命の重みと、希望の光りを反射させながら空へとのびていくモニュメントとして表現している。
 杉原千畝が教えてくれた「人間愛」の心が響くように、訪れる一人ひとりの手によって平和への鐘を世界へ、そして次世代へ向かって奏でられるように造られている。
 三つの塔は、( 愛 )ヒュマニテイー あふれる   ” 愛 ”
         (勇 気)人のために正しいことを行う ”勇 気”
         ( 心 )真実を見つめる純粋な     ” 心 ” を表現している。

           
              人道の丘公園からの岐阜県八百津町の街並み

 三つの塔のあるモニュメントを見学した後、再び、駐車場に戻り、車を走行していくと、道路の脇には、幾つかの像や植樹がされている。
 像の中には、イギリスのウローレンス・ナイチンゲール(クリミヤ戦争で、傷病兵の救出、看護に献身的な努力を捧げ目覚しい業績を上げる)やドイツ・フランスのアルベルツ・シュバイツアー博士(自らの思想と信仰を実践し、アフリカの未開の地に病院を設立、原住民の救済に生涯を捧げ、その功績からノーベル平和賞を受賞)などがあった。
 さらに車を進めると、広々とした丘には公園があり、記念館やパイプオルガン・杉原千畝像などがたてられている。

          
            人道の丘公園 杉原記念館前にある杉原千畝の像

          
            人道の丘公園のシンボルモニュメントのパイプオルガン

 公園のシンボルであるモニュメントは“世界平和”をテーマに“平和を奏でるモニュメント”として八百津町から“世界に平和の光と音楽を”のメッセージを発信している。
 モニュメントは、東海地方の主要産業でもある“セラミック”を素材にパイプオルガンをイメージし、コンピューター制御により噴水・照明とともにセラミック楽器による“平和を願う音楽”を奏でられるように造られている。
 セラミックパイプは全部で160本、パイプの大小は世界の国々をあらわし、高さ最高6.85m、幅10mで2列に半円状に並び放物線を描いて中央で交差している。
 演奏曲目は
 “大きな栗の木の下で”
 “故郷の空”
 “今日の日はさようなら”
  の3曲である。
 平成4年8月のメモリアルゾーン開園式では“人道の丘讃歌”も披露されている。

 公園内を散策した後、杉原千畝記念館に入館料300円を支払って入館していく。
                        
             
        6000人のユダヤ人を救った外交官「杉原千畝=すぎはらちうね」

 あなたはミスター・スギハラの名前を知っているでしょうか。
 世界中のユダヤ人から日本のシンドラーと呼ばれて全世界の人たちから尊敬の念をむけられている八百津町出身の外交官です。
 1900年1月1日(明治33年)、千畝は岐阜県加茂郡八百津町のごく一般の環境と家庭の中で生まれ育っている。
 小さい頃からおとなしくて優しい性格、それでいて一度自分で決めたことは必ずやり通すという熱血漢を持っていました。
 英語教師になる夢を目指し、勉学に励みますが生活が苦しくなり、公費で勉強ができる外交官留学生試験に猛勉強の末に合格、そしてロシア語研修生として、人生の方向転換をすることになっていきました。

            
              外交官として出発する杉原千畝(1900年 - 1986年)

 1932年(昭和7年) 満州国外交部特派員公署事務官となり、翌年には北満州鉄道の譲渡を巡り、ソ連との交渉を始める。
 1935年(昭和10年)、日満ソ三国の協定が成立。

           
          領事館時代の写真などが展示されている杉原一家の展示ルーム

            
            ドイツナチス党首ヒットラー  ナチスから追及され手を上げる少年

 1933年(昭和8年)、ヒットラーがドイツの首相となり、ナチス党の独裁が始まりました。
 ヒットラーはユダヤ人を迫害、排斥を続けるようになっていく、そしてオーストリアを併合するなど、ゲルマン民族の統合を推し進めていく。
 しかし、一方では日本と手を組むことを考え、日独防共協定を結ぶ。その翌年、千畝はフインランドのヘルシンキに着任する。
 1939年(昭和14年)9月、ドイツ軍はポーランドを西から攻め、示し合わせていたソ連軍が東から攻め、ポーランドは瞬く間に消滅する。
 一方、千畝はリトアニアのカウナスに日本領事館を開設する事を命じられ、1939年10月に領事代表として着任する。
 ここでソ連の情報を集めるためであった。ところが翌年7月にポーランドから逃れてきた大勢のユダヤ人が日本領事館に向かってきます。

                   
         多くのユダヤ人が迫害されたアウツビッシュ強制収容所へのレール
  
 ヨロッパで戦争の激しくなったこの頃、ヒトラーによるユダヤ人迫害も激しさを増し、ユダヤ人の受け入れ先の国は、ほとんど無くなってしまいました。

          
ユダヤ人運命の分かれ道、写真には収容所から死の行進するユダヤ人の姿が、この行進により何千人ものユダヤ人が犠牲となった。 

 杉原千畝からビザを受けたユダヤ避難民は、シベリア鉄道で極東まで行き、ウラゾオストクから欧亜連絡船で海を渡り、通過国の日本へ上陸する。
 一方、リトアニアに取り残されたユダヤ人たちを待ち構えていたのは、ナチス・ドイツ軍の魔の手でした。
 カウナスではユダヤ人大虐殺が行われ、生き延びた男性達は強制収容所に運ばれていきました。
 また、ポーランドのアウシュビッツでは、1940年9月から大量ガス殺人の実験が始まりました。
 第二次世界大戦中におけるユダヤ人犠牲者は、600万人にものぼったといわれています。

           
           発給ビザを求めて領事館前にやってきたユダヤ避難民たち。

           
               ビザ発給を求めてやってきた家族の女の子

 1940年7月18日、第2次世界大戦のさなか、リトアニアの領事代理をしていた杉原は異様な雰囲気の中で目をさましました。
 領事館から外を見ると周囲をたくさんの人がとりまき、血走った目をして何かを叫んでいます。
 すべてがユダヤ人。ナチスの迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求めて集まってきた人々でした。
 
 前年にはナチスドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスがドイツに対して宣戦布告をして戦火はヨーロッパ中に拡大していく。
 ナチスはユダヤ人を捕まえて次々と強制収容所に送り込んでいました。収容所に入れば悲惨な運命が。・・・大量虐殺…ホロコースト。
 そのナチスから迫害の魔の手を振り切ってきたユダヤの人たちが、杉原のもとに押しよせてきたのです。
 当時のユダヤ人たちの逃げ場はたったひとつ。オランダ領キュラソー島。しかし、ここに行くためにはソ連、日本を通過する以外道はありませんでした。

 このとき日本とドイツは同盟関係にあり、ユダヤ人を助ければドイツに対する裏切り行為になります。
 杉原はビザ発行の許可を得るために、日本の外務省に電報を打ちますが返事はありません。
「ビザを出してもいいですか。」
 何度も何度も打った結果、やっと返ってきた回答は 
   「正規の手続きができない者に、ビザを出してはいけない。」
 というものでした。
 千畝は悩み続けました。
 ビザを発給しユダヤ人の命を救うべきか!
 命令に従って外交官としての輝かしい道を守るべきか!
 千畝は悩み、そして一つの答えを出したのでした。
「私の一存で彼らたちを救おう。そのために処罰をうけてもそれは仕方がない。人間としての信念を貫かなければ」
 と決心した杉原は、それから懸命にビザを書き続けました。
 腕が腫れあがり、万年筆がおれても杉原はビザを書き続けました。

           
  杉原千畝が発給した命のビザ、わずかの間に 計2,139家族に日本通過ビザを出す。

           
          ビザの発給を受けたユダヤ人達が通過したシベリア鉄道の駅

           
                  日本で感じた希望の光

 ウラジオストクから連絡船が次々と日本に到着し、ピークの1941年(昭和16年)2月、3月には1ケ月で1000人近くの外国人が敦賀の土を踏んでいます。
 厳しいシベリアの冬の旅を終え、ウラジオストクから敦賀に入港したユダヤ避難民は、ナチから逃れソ連をくぐり抜けて、自由を手にした喜びを噛みしめていました。
 また、難民が到着するたびに敦賀駅も混雑しました。
 港に到着した難民達が敦賀駅から乗車し神戸へと向かったからです。
 敦賀や神戸の街では、ユダヤ難民の人たちを手厚くもてなし、第三国に渡る手助けをしました。
 辛い思いをしてきたユダヤ人にとって、日本の街はつつましく美しく、人々は律儀で親切に感じたと伝えられています。

           
                  無事に救われた人たち

 1947年、幸子夫人と二人の子供を連れて日本に引きあげてくるが、帰国した杉原を待っていたのは 「独断でビザを発行した」 ことへの責任による外務省からの解職(6月に外務省退官)でした。
 その後、千畝は1960年 商社の事務所長としてモスクワ赴任する。
 以後、会社を二度変わったが、引き続き現地で勤務する。
 
 1968年、杉原の許へ一人のユダヤ人が訪れてきます。
 彼はボロボロになつた当時のビザを手にして涙をこぼし、杉原に礼の言葉をのべたのです。
 「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」
 世界中のユダヤ人たちが、杉原のことを探し続けていたのでした。
 千畝がビザを発給して助かった、ニシュリ氏と28年ぶりの再会でした。

 1969年には 難民時代に杉原が助けた、イスラエルのバルハフティック元宗教大臣が訪れ、勲章を授けている。
 1975年 勤めていた会社を退職する。

           
               写真は鎌倉での晩年の杉原千畝夫妻

 1974年に「イスラエル建国の恩人」として表彰される。
 1985年には「諸国民の中の正義の人」(ヤド・バシェム賞)としてイスラエル政府から表彰される。(日本人では最初)

           
                     杉原ファミリー

 杉原千畝は1986年死亡、享年86歳であった。

           
           イスラエルで杉原千畝を偲んで植えられている木

 エルサレムの郊外にヤド・バショムがある。そこは第二次大戦中に犠牲になった600万人もの人たちのことを記憶し、慰霊する施設である。
 屋外にはナチス占領下にいたユダヤ人を、命がけで救った人の記念植樹がなされ、その中に杉原千畝の木も植樹されている。
 木の下には、小石の山が築かれ、この木を訪れた人たちが築いている。
 エルサレムの青い空に向かって真っ直ぐに伸びている木の横には 「SEMPO SUGIHARA 日本」と記されたプレートが添えられている。  
           
 杉原千畝は、ユダヤ人へのビザ発給により約6千人もの尊い命をナチス・ドイツの迫害から救った外交官ですが、ごく一般の環境と家庭の中で育った普通の人でした。
 その普通の人が、自国の文化を愛しながらも他国の人と共感できる国際人としての資質を持ち、ユダヤ人大虐殺が行われた第二次世界大戦という特異な環境の中で、人間として偉大な行為を行いました。
 ユダヤの人たちは、この名前を決して忘れることはないでしょう。
 杉原千畝が生まれ育った、自然豊かな地に建つこの記念館で、千畝の真の姿に触れることが出来たように感じる。
 そして、杉原千畝が行った人命の尊さ、人道の大切さを基本理念とした、人間として勇気ある決断と行動に対して、大きな感銘を受けると共に、これからの平和社会実現のために、出来るだけ多くの人たちに彼の功績が伝わっていくことを切望しながら記念館を後にして行った。


最新の画像もっと見る

3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
感動 (地球)
2011-05-08 12:37:14
感動した。忘れない。
返信する
感動 (地球)
2011-05-08 12:38:52
感動した。忘れない。
返信する
感動 (地球)
2011-05-08 12:39:40
感動した。忘れない。
返信する

コメントを投稿