気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

感動を呼ぶドイツ人俘虜の物語

2013-12-31 20:02:08 | 思い出

2013年8月 私たちは、南大阪の自宅を出発して、四国の名峰 瓶ヶ森(かめがもり)1896mへの登山や、高知県佐川町の故郷で、お盆の先祖供養などして4日間程過ごしていた。

その後、佐川町を後にして、徳島県にあるドイツ人俘虜を人道的に扱った松江所長、俘虜と地元の人たちとの交流や、音楽・文化などを伝えるドイツ館に向かって行った。

ドイツ人俘虜に関する物語は、最近 東映の映画 「バルトの学園」 の、舞台になった所でもあり、松江所長の父は、NHKのドラマ 「八重の桜」 の主人公と同じ会津藩士である。 

明治時代から会津の人々は、朝敵、賊軍とののしられ、松江は苦難の少年時代を過ごしていた。 

そんな松江所長が、どうして、ドイツ人俘虜たちを人道的に扱い、寛大であったのか! など、私は大きな興味を感じていた。

 

8月12日(月)晴 高知県地方は、8月に入ってもほとんど雨が降らず、山に囲まれた土佐の森林自然も、なんとなく弱々しい感じがする。 

そんな中、愛車エステイマで国道32号から高知自動車道を走行し、途中から徳島自動車道に入って行く。 

1時間ほど走行して藍住(あいずみ)ICに到着、そこから一般道へ入ると、15分ほどで坂東俘虜収容所跡地に到着する。

俘虜収容所跡地は、ドイツ村公園として整備され、園内には鳴門市ドイツ館や賀川豊彦記念館、ドイツ兵が残したドイツ橋、メガネ橋などがある。

 

坂東俘虜収容所跡とベートーベン 「第九」 日本初演の地の碑が立つ収容所跡地

左には 「ベートーベン「第九」日本初演の地」、 右側には 「坂東俘虜収容所跡」 と書かれた門柱が立っている

ドイツ村公園の収容所跡地入り口。

 

緑に囲まれた坂東収容所跡地、跡地一帯はドイツ村公園として整備され、2006年には、日本歴史公園100選に選出されている。

坂東収容所跡地を少し見学した後、ドイツ館に向かう。 愛車で5分ほどの距離にある。

駐車場はドイツ館のある公園と、道の駅「第九の里』が併用され、路線バス停留所なども整備されている。 

そして、駐車場の後方にあたる小高い場所には、堂々とした洋風の塔が聳え、威風を放つ、白亜の建物が見えている。

 ここがドイツ館である。

 また、駐車場の手前方向には、幼少期を鳴門で過ごし、大正デモクラシーの先頭にたって世界平和と理想社会の建設を目指した賀川豊彦記念館が見えている。

ドイツ兵俘虜の暮らしや地元・坂東の人々との交流の様子を伝える鳴門市ドイツ館

ドイツ館と隣接するこの一帯は、道の駅 「第九の里」として造られ、施設内では地元の新鮮な野菜や果物、加工品が手ごろな価格で販売されている。

私たちはカメラを片手に、両サイドの施設や風景を楽しみながら、ドイツ館の方にゆっくりと向かって行く。

ドイツとの国際交流を深める目的で造られた鳴門市ドイツ館、中央の塔は姉妹都市であるリューネブルク市役所をモデルにして造られている。

ドイツ館前広場の左側には、ラジオ体操でもしているように右手を上にあげ、身体を少し曲げている像が立っている。

何の像なのかと思い、近づいて像の下にある説明板を読むと、何とベートーベンの像であった。

どうして ここにベートーベンの像が立っているのだろうか! なぜ! この様な姿なのかと一瞬に思った。

良く像を見ると、指揮棒を持って強烈な個性で指揮をとっているように感じる 「ベートーベンの像」。

1997年に鳴門市市制50周年を記念し、ドイツ人彫刻家ペーター・クッセル氏により製作された。

ベートーベン像の碑には、次のように書かれている。

『 ベートーベン「第九」交響曲は,1918年6月1日,ここ板東において日本で初めて演奏された。
 第1次世界大戦時,中国の青島(チンタオ)で捕虜となったドイツ兵士約1,000名が,1917年から約3年間ここ板東の地で暮らした。

彼らは,板東俘虜収容所長松江大佐のヒューマニズムあふれる処遇のもとに,創意と自主性に満ちた集団生活を送った。

地域の人々とも交流を深め,俘虜生活の中で100回を超える演奏会を開催しているが,ヘルマン・ハンゼンが指揮するTokushimaオーケストラによってその全曲が演奏された。
 「第九」は,ベートーベンがシラーの詩を借りて,人間愛を描いたものである。
 鳴門の「第九」は,板東で生まれ,市民が育んだ固有の財産であり,国境を越えて世界へ発信する平和へのシンフォニーである。
 このたび,鳴門市制50周年を記念して,友愛と平和を永遠に誓い,ここにベートーベン像を建立する。
            1997年5月15日      鳴門市長 山本幸男 』  

 ドイツ館前の広場のベートーベン像を見学した後、私たちは、ゆっくりとドイツ館内に向かって歩いて行く。

ドイツ館の拝観料(大人=400円)を支払う。 一階では、ビールやワインなど、ドイツとの関連商品が販売されている。

2階が、ドイツ兵俘虜と坂東の人たちとの交流に関しての写真や資料が展示されている。

私たちは、ゆっくりと館内を見学して行くと驚くばかりの写真や資料が展示されている。

何という!  人間味の溢れた内容だろうか!

 

松江所長や知識欲旺盛な暖かい坂東の人たち、それに溶け込み、ドイツの先進的な知識、パンや酪農に関することや、スポーツ・音楽など幅広い分野で、日本人を指導するドイツ俘虜たちとの交流、これが俘虜収容所で実際に起こっていたことで、とても俘虜収容所の出来事とは思えない内容であった。

世界中どこにこんな俘虜収容所があるだろうか!

どこに松江所長のような、人間味溢れ、俘虜たちに自由な外出を許可する所長がいるだろうか!

ほんとに驚くばかりの内容であり、日本人として誇りある物語である。

 

ドイツ館は、第一次世界大戦で、ドイツと日本は中国の青島(チンタオ)で交戦、戦況は圧倒的な兵力に勝る日本が有利に展開、ドイツ軍が降伏して、日本に多数のドイツ兵俘虜5000人が収容所に送られ、地元の人たちとの交流や、俘虜たちが様々な技術や音楽、文化などを伝えている施設である。

多数のドイツ兵俘虜が収容された坂東俘虜収容所、大正6年3月 徳島県板野郡坂東町の陸軍用地に建てられた。

第一次大戦下、大正3年11月939名のドイツ兵が収容された。 この後、3年にわたる坂東の人々と俘虜たの交流が始まった。

ドイツ人俘虜を人道的に扱った坂東俘虜収容所松江所長

松江豊寿(まつえとよひさ)陸軍歩兵大佐 

明治5年、旧会津藩士を父にもち、下北の地に生まれる。民族を越えた素朴な人間愛で俘虜と接し、大正11年少将で予備役となり、のちに会津若松市長となる。

 

坂東収容所のドイツ人俘虜たち

四国の産業について調査や研究が行われている。この時は香川県の塩田についての研究が行われていた。

牧畜の指導も行われ、牧舎を建設する俘虜たち

同時では珍しい器械体操を披露するドイツ人俘虜

見学に訪れた地元の中学生に体操を披露する俘虜たち

サッカーやテニスなどのスポーツも行われていた。

所内の池に自分たちで作ったヨットを浮かべ楽しむ俘虜たち

エンゲルオーケストラも結成され練習に励む俘虜たち

エンゲル音楽教室の人々

西洋の音楽を初めて聞いた地元の青年たちが、音色の美しさに驚き、俘虜に指導を願いでて、音楽教室が定期的に開催されていた。

和洋大第音楽会が徳島市内千秋閣で盛大に開催され、会場は多くの人たちが訪れ盛況であった。 

和洋音楽界では、日本から、三味線なども披露されていた。

俘虜製作品展覧会のポスター

俘虜たちが製作した作品の展覧会も開催されていた

収容所内の新聞 「デイ・バラッケ」

驚いたことに俘虜収容所では、自由な論調を掲載した「デイ・バラッケ」という新聞が発行されていた。

内容的には、時事問題から軍事、戦況、日本のニュース、収容所内の出来事、演劇、音楽、スポーツ、懸賞論文や挿絵など総合雑誌のような紙面構成になっていて、論調も実にリベラルであったと伝えられている。

俘虜収容所内では定期的に新聞が発行された。原稿を作成する俘虜

俘虜たちが発行している新聞を配達している

俘虜たちの大きな楽しみであった祖国ドイツの家族からの手紙を読む俘虜たち。

現在の状況や歴史などの講演活動も盛んに行われていた。俘虜達の知識欲の旺盛さにも驚かさせる。

定期的に演劇活動も行われていた。中でも女装した俘虜の演劇は大人気であった。

演劇活動の一コマ、女性役には希望者が多かったと伝えられている。

俘虜たちの遠足、収容所近くにある日本の山々を歩き美しい日本の自然に触れることも大きな楽しみであった。

ビールを飲みながら談笑する俘虜たち、とても収容所内の光景とは思われないひとコマである。 

俘虜たちの最大の楽しみはクリスマスであった。

日本で初めて演奏されたといわれる第九シアター、実物大の人形がベートーベンの第9交響曲を演奏する。

ステージの前には椅子が並べられ、訪れた私たちをベート-ベン第9交響曲の世界へ案内してくれる

ドイツ兵俘虜たちによるベートーベン交響曲第9番の演奏、日本では初めての演奏で、お訪れた多くの方々を魅了する。

条約が結ばれ、収容所はやがて解放され帰国の途に、俘虜たちを乗せた船

日本からドイツまでの帰国航路。12月30日に出航し2月24日ドイツに帰国する。

地元の人たちによって現在も行われているベートーベン第九交響曲演奏会

鳴門市では6月の第一日曜日を 「第九の日」 と定め、国内外から仲間を募り、歓喜の歌声が披露されている。 会場は毎回超満員の熱気に包まれて開催されている。

亡くなった俘虜たちの慰霊碑

慰霊碑を護り続けドイツより表彰される高橋婦人。1964年(昭和39年)

俘虜の遺族が遺品を届けにやってくる(1972年)。

 

この施設は1917年(大正6年から1920年(大正9年)までの3年間、松江所長の暖かい采配によって生れたドイツ人俘虜たちと、地元坂東の人たちとの交流を描いた物語である。

大きな視野にたって、未開発の日本と先進国ドイツの現実を直視、未来志向にたった松江所長のヒューマニズムには大変驚かされる。

それに、ドイツ人俘虜たちを、捕虜としてではなく、優れた技術を持ったドイツ人俘虜たちを師として仰ぎ、何事にも積極的に学び、親しく接していく坂東の人たちの素晴らしさが感じられる。

かつての日本は、明治維新以降、お雇い外国人などから優れた技術を学び、日本に適した活かされた技術に改良し、技術立国日本の基礎が築かれていいった。

坂東の人たちがドイツ人俘虜たちから学んだ技術は、100年近くたった今日でも、伝統が活かされ、脈々と日本経済や文化の一役を担っている。 また、それにましても、日本とドイツの人たちの間に深い絆が築かれ、今日でも交流が続けられている素晴らしさがある。

一人の人間の行った采配が、後世の私たちの大きな遺産を残してくれていることに、一人の日本人として感謝の気持ちで一杯である。

たくさんの日本の先人達が行った国際貢献が思い出され、日本人として心が熱くなってくる。

私達は初めて訪れたドイツ館や、俘虜たちが造ったドイツ橋やめがね橋のある大麻比古神社、四国八十八ケ所霊場の第一番札所 「霊山寺」、 第二番札所 「極楽寺」などを見学し帰宅の途についたが、 かつての思いも満たされ、大満足の今回の旅であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ドイツ奇跡の収容所 (キキ)
2015-10-23 20:13:44
初めまして、ニュースでこの収容所のことなどが報じられていました。

実際に訪ねられてのこの記事を読ませていただき感動しました。

是非、画像を拝借したいと思っております。
ご了解いただけたらうれしいです。
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感動を呼ぶ俘虜画像に関して (希間々兼行)
2016-01-24 12:25:57
コメントありがとうございます。
先人の方々の行ったことで、日本とドイツの交流が深まり、さらに、その輪が大きくなっていることに対して大変うれしく思います。
 わたしの画像で、お役に立つようでしたら自由にお使いいただき、その輪がさらに広がっていけます様に願っています7.。
 コメントに気付くのが遅れ、ご返事が大変遅れましたことをお詫びいたします。
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