気ままな旅

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平等院 きらびやかな平安の色彩が・・娘たちとの京都旅行・・その②

2016-05-19 22:26:07 | 思い出

 

平成28年(1916年)3月15日 バリ島から来た娘と孫、私たち夫婦の4人は、京都駅前のホテルをチエックアウトした後、

京都駅構内で軽いモーニングを済まして、JR奈良線で、平等院のある宇治市へ向かった。

JR宇治駅までは25分程で到着する。 

お茶の産地として有名な宇治は、古くから名勝の地として知られ、平安時代には公家や貴族の別荘が多く建てられていた。

私たちは駅前の観光案内所で平等院に関する情報を確認した後、ゆっくりと平等院に向かって歩いて行く。

しばらく歩くと左側に宇治川があり、擬宝珠を冠した美しい宇治橋が自然の景観に調和するように架けられている。

伝承では、646年(大化2年)初めてかけられたと伝えられ、京都府宇治市に属している。

現在の橋は、1996年(平成8年)に架け替えられたもので、長さ155m、幅25mの橋である。

橋が宇治川の自然や周辺の歴史遺産に調和するように擬宝珠を冠した木製高覧という伝統的な形状を使用している。

宇治橋は、瀬田の唐橋、山崎橋とともに日本三古橋の一つに数えられている。

また、宇治橋は昔からの物語にもたびたび登場する。

古今和歌集や紫式部の源氏物語、能の「鉄輪」で登場する橋姫伝説、狂言のモデルになった通圓茶屋、小説「宮本武蔵」などで登場している。

 

宇治橋の右方向が、平等院への表参道で、橋のたもとには、源氏物語の作者として知られている紫式部の像が建てられている。

私たちは紫式部の像の前で記念撮影を済ますと、参道の両側に食堂や御土産店などが並ぶ表参道を平等院に向かって行く。

私はかつてから、平等院に対しては写真を見るたびに、「なんという細かい細工をしたきれいな建物だろう!」

「京都に行ったら見に行こう」 と思っていたが、どういうわけか、今日まで実現することはなかった。

ようやく、今回 バリ島に住む娘が、「京都へ 一泊旅行に行こう!」 と言い出し、実現することになった。

JR宇治駅に降り立ったところから、私は平等院に対して興味が深々と湧いていた。

「どんな場所に建てられているのか!」 「周りとの景観や平等院を取り囲む池などの景観は、どうなっているのだろうか!」 楽しみであった。

宇治橋からの参道を5分ほど歩くと、前方にこんもりとした公園のような森が見えてくる。

さらに 進んで行くと、右側に平等院と書かれた石柱が立てられている。

平安時代からの景勝地だった宇治川のほとりにある平等院の入口

 

平等院は、平安時代に貴族の頂点を極めた藤原道長の別荘があった宇治川を臨む景勝の地に造られている。

道長の息子 時の関白であった頼通(よりみち)によって最初に開かれたのが平等院の始まりである。

平安時代の後期、末法の世に入るといわれていた永承7年(1052)、末法思想が、貴族や僧侶らの心をとらえていた時代に、極楽往生さながらの美しさを平等院はほこっていた。

その影響から浄土信仰が社会の各層に広く流行するようになった。

 その翌年の天喜元年(1053)には、平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂=国宝)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師「定朝」によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされている

 

※末法思想とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ、修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても、外見だけが修行者に似るだけで悟人がいない時代(像法)が来て、その次には、人も世も最悪となり、正法が全く行われない時代(末法)とする歴史観のことである。

平安時代末期に災害、戦乱が頻発したことにともない、終末論的な思想が定着し、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民も、その末法の到来に怯えていた。

 さらに、末法では現世における救済が否定され、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まった。

※浄土教(じょうどきょう)とは、阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、成仏することを説く教え。 浄土とは、一般に阿弥陀仏の西方極楽浄土をさす。

 

※浄土信仰は、阿弥陀仏の救いを信じ、死後、この世の穢土(えど=けがれた世界)を去って、仏の住む西方(せいほう)極楽浄土に往生することを願う信仰のことである。  浄土三部経での教えをもとに、中国で発達、日本でも平安時代後期に末法思想が強まると、貴族や庶民の間で広まった。

この時代には、法然(ほうねん)が浄土宗、親鸞(しんらん)が浄土真宗、一遍(いっぺん)が時宗を確立、法華信仰とともに、日本仏教の大きな思想的な流れを形成している。

 

約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されている。

 

平等院の配置図 右下に宇治川が流れ、宇治橋は右斜め上の方向に位置している。

 

平等院の世界遺産登録は、平安時代の後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」として登録されている。 

平等院は、京都の南、歴史的な文化遺産を残す宇治川のほとりに建てられる。

浄土式庭園である平等院庭園では、中心に阿字池(あじいけ)を据え、池の中島に人々を救済するという阿弥陀如来像を設置する鳳凰堂が建てられた。

 

 

表参道から進んで行くと右側に受付にて拝観料(大人=600円)支払って、この表門から入場して行く。

 

よく手入れされた庭園の樹木を眺めながら、進んで行くと、左側に観音堂が見え、その先には季節的にはまだ早い藤棚が見えている。

さらに進むと、池に囲まれた美しい平等院の鳳凰堂が、その手前には紅い二つの小さな橋が見えている。

よく整備された庭園の池に浮かぶ、初めて見る平等院鳳凰堂の紅い建物、池に逆さに映りながら、庭園と左右のバランスのとれた歴史的な木造建築物、

あまりの美しい建築様式の建物に、我を忘れたようにしばらく見とれていた。

 

鳳凰堂は平成24年9月から行っていた修理が、平成26年3月に完工して、紅い漆塗りの美しい外観が蘇っている。

平等院の庭園は、池の中島に鳳凰堂が建つ阿字池を中心とした浄土式庭園で、国指定の名勝に指定されている。

池の側から紅く修復された鳳凰堂を見ていると感動が湧いてくる。

阿字池(あじいけ)の中島に建てられ、二つの橋が架けられた平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)。

鳳凰堂は中心の中堂と、その左右に連なる南北の翼廊、中堂の背後に繋がる尾廊の、四棟の建物から構成されている。

 

平等院鳳凰堂 1053年(平安時代)に藤原頼道が造立し無量寿院と号した。

建物全体が、鳳凰が羽を広げたような形状であることと、屋上にある銅製の鳳凰があることから鳳凰堂と呼ばれるようになった。

鳳凰堂の中堂には、本尊として祀られている阿弥陀如来が安置されている。

 

 池の中島に建つ平等院鳳凰堂は、10円硬貨のデザインでも有名で日本国民に広く知られている。

宇治池の中島に建てられた中島にある鳳凰堂をバックに家族全員で記念撮影する。

宇治池の中島に建てられた平等院鳳凰堂

建物の構造は、木造入母屋造りで屋根は本瓦葺となっている。 構造形式も中央と左右同じ建物から構成されている。

建物の機能は、中堂だけが、人々を救済する阿弥陀如来像を祀っているが、両翼廊は中堂を引き立てるための装飾的な建物で実用性はないと言われている。

中堂の背後に繋がっている尾廊も、中堂に渡る通路としての役割に過ぎない。

 

湖面にも逆さに映り、バランスのとれた美しさを見せる平等院鳳凰堂

鳳凰堂の建物は、阿弥陀如来を祀る中堂と、それに連なる両サイドの南北翼廊・さらに中堂の後方に繋がる尾廊から構成されている。

中堂の南北の翼廊は、形式が等しく造られ、切妻造り、本瓦葺き、一重二階建てで、中堂の側面から南北方向に延び、、途中で東方向に折れ曲り、平面的にはL字型になっている。

直角の曲がりの部分には隅廊(3階部分)は宝形造り、本瓦葺きで、屋根頂上部には宝珠を乗せている。

鳳凰堂は中心の中堂とその左右に重なる翼廊、中堂の背後にある尾廊から構成されている。

中堂の正面に人々を救済する阿弥陀如来が祀られている。

外観的には2階建てに見えるが、建築構造は一重裳階付き(いちじゅうもこしつき)である。

※裳階(もこし)とは、身舎(もや=母屋、身屋)建物の主要部分の周囲に差し掛けられた屋根の部分。

身舎は入母屋造り、本瓦葺きで、棟上には、一対の銅製の鳳凰を置いている。 

阿弥陀如来像が祀られている中堂正面、

外側の扉を開けると、内側の格子には軍配形の窓が開けられ、阿弥陀如来の面相が見えるようになっている。

※軍配(ぐんばい)=現在では大相撲の行事が持っている物

鳳凰堂は、東向きに戸を開き、阿弥陀如来像を安置している。 拝礼に訪れた人々は、池の対岸から西向きに阿弥陀如来を拝むこととなる。

これは、阿弥陀如来のある極楽浄土は、西方にあるという浄土の世界観を表現したもので、平安時代には、このような極楽浄土が信じられ、浄土式の庭園が多く造られた。

阿字池(あじいけ)南西方向から望む平等院鳳凰堂

平等院は平安時代の浄土寺院の形を、そのまま残す寺院としても、貴重な価値があると評価されている。

 

平等院鳳凰堂の屋根の上にある鳳凰

保存上の観点から、1968年以降は、棟上げにはレプリカの鳳凰が設置され、実物は別途保管されている。

鳳凰堂の屋上にある鳳凰

平等院の鳳凰堂の屋上にある鳳凰から採用されたといわれる一万円紙幣の鳳凰

 

私たちは鳳凰堂のある阿字池の周りに造られた参道を、時計回りで写真撮影をしながら進んで行く。

どの角度から鳳凰堂を見ても、前には池があり、枝ぶりの良い樹木が植えられ、趣のある建築様式と色彩が鮮やかである。

鳳凰堂は中堂を挟んで左右対称の建築様式や、紅い色彩の柱、組物と本瓦葺きの屋根などと、阿字池や庭園と見事に調和された美しさを放っている。

阿字池の南西方向から見る鳳凰堂、屋根と紅い柱や組物と池とのバランスが素晴らしい建物である。

南翼廊の三階部分に当たる隅廊、宝形造り、本瓦葺き、で屋根の頂上部には、瓦製の宝珠を乗せている。

南翼廊の一階部分は建具や壁はなく開放された床も張られていない。 左の白い壁のある建物が中堂と繋がる尾廊である。

中堂の後ろ側に繋がっている尾廊も、切妻造りの本瓦葺きである。 池をまたぎ通路としての役割を果たしている。

尾廊方向から見た中堂、北翼廊 庭園の反り橋があり、鳳凰堂への入堂も池の北岸から、2つの小橋を渡るように造られている。

阿弥陀如来を祀っている中堂を中心に北翼廊と尾廊が、平面的にL字形で造られている。

庭園の北岸から二つの小橋を渡り鳳凰堂の北廊へ渡って行く。 反り橋は大改修の折に州浜に復元される。

阿字池の中島に建つ鳳凰堂の北岸からの入り口にあたる北翼廊、阿弥陀如来を安置している中堂とつながる尾廊

 

平等院鳳凰堂を阿字池の周りからゆっくりとした見学を終えた後、隣接している 「平等院ミュージアム鳳翔館」を見学する。

この館では、写真撮影が禁止されているために、国宝などの展示物を紹介できないのが残念である。

国宝の梵鐘、国宝雲中供養菩薩像26躯(全52躯のうち)、国宝鳳凰、重文十一面観音立像などが展示されている。

中でも驚いたのは、雲中菩薩像の姿である。 

琵琶や琴などの楽を奏でる菩薩、笛や太鼓などの菩薩、柔らかの表情で楽しそうに踊る菩薩など、

極楽浄土との往生を願った平安の人たちの強い信仰心と来世への憧れが感じられる。 来世の天国での楽しさを現しているようである。

 

平等院の平等とは、どういう意味でつけられたのだろうか!

私はかつてから、地球上の人間も、動物も自然環境も、お互いに依存しあい、助け合いの精神で付き合うべきだと考えている。

地球は 決して人間だけのものではない。 人間のみで考えていると、大災害などのしっぺ返しを食らってしまう。

人間同士でも、本来は平等であるはずが、いつの間にか差別のある階級が造られてしまう。

人間の本質は、一人では生活ができず、社会という単位で集落や村、町、国といった組織体を築かなければ生きていけない。

その折に衣食住など生活していく上で、欠く事の出来ない大切な物を作らなければならないという役割が生じてくる。 

この役割が仕事で、社会全体で必要なものは誰かが、必ずやらなければならない。

食をつくる人、住をつくる人、衣をつくる人、それを束ねたり、指導する人、法などが、社会を公正に運営する上では必ず必要である。

人間は本来生まれながらにして平等であるが、子供や老人などを除いて必ず、社会的な役割である仕事をしなければならない。

仕事をする上でも、一生懸命頑張る人、怠ける人たち、あるいは自分のことしか考えない人、泥棒などルール守らない人たちが、出てくるのも社会である。

平等院が建立された平安時代の末法が信じられ時代には、社会秩序が乱れ、「自分たちの努力や力ではどうにもならない!」と考える人が多く出現している。

阿字池の中島に建てられた平等院の鳳凰堂にある阿弥陀如来を拝むこと、来世の浄土信仰を信じ、希望のある日常生活を生き抜いていくことが必要であったと考える。

そういった意味で、平等院の「平等」の名前は、多くの人々に大きなインパクトを与えたと思われる。

 

私たちは、平等院の見学を終えた後、駅前のレストランで昼食を摂り、次の目的地である、伏見稲荷神社に向かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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