旧東海道の品川宿を北から南まで、さらに宿場を出て鈴ヶ森まで歩いてみたわけである。古くから品川という町は開けていたようで、江戸時代に幕府による五街道整備が行われ、宿場町となりますます発展していったという経緯を辿っている様だ。そして、現在の城南地区では随一の繁栄を誇ってきた町であった。当然のことながら、そこから周辺へと道が延びていく。かつては農村であったエリアからも宿場の業務のために人が集められると言うこともあれば、町場として栄えた品川へと用事に来る人もあっただろう。そんな人々が行き来した道を辿ってみようと思う。まず最初は、ゼームス坂という、大井町へ向けて上っていく坂道から見ていこうと思う。
「JR大井町駅から第一京浜(国道15号線)に出る道にあるこの坂は、もと浅間坂(せんげんざか)と呼ばれていて、非常に急な坂でした。明治時代、この坂下付近に住んでいたJ.M.ゼームスという英国人が私財を投じて緩やかな坂に改修しました。それ以来この坂はゼームス坂と呼ばれるようになりました。
J.M.ゼームス(1839~1908)は、幕末にジャーデン=マディソン商会の長崎支社の社員として来日し、明治5年(1872)に海軍省に入って、測量調査や航海術の指導を行いました。生前から仏教に帰依し、その墓は山梨県身延町の久遠寺にあります。」(品川区サイトより)
ゼームス坂という名は、昔から大井町近辺で見掛けるバスに書かれていたので知ってはいたのだが、この場所であると知った上で歩いてみたのは初めてのことだった。ジャーディン=マディソン商会と書かれているが、ジャーディン・マセソンのことで、東インド会社を前身とするイギリス系の巨大企業である。今も巨大な規模の企業として存在している。その社員として来日したゼームス氏がこの坂下に居を構え、そして私財で坂道の改修を行ったというのは、興味深い。さらには、彼が久遠寺に眠っているというのも、その人となりを知りたくなる。
そのゼームス坂のアプローチは南馬場通りで、第一京浜国道を越えていったところから始まっている。この道は、細い道が真っ直ぐに伸びていくのだが、目黒の碑文谷へ向かう道で、この道から分かれて上っていくのがゼームス坂である。その手前、左手に参道があって、時宗海蔵寺という石柱が立っている。

「時宗
・鎌倉時代後期の永仁6年(1298)に荒井道場なる時宗道場として開かれた。
・江戸時代には、鈴ケ森で処刑された罪人や引き取り手のない遊女などを
葬ったため「投げ込み寺」とも呼ばれた。
・昭和の初期に信徒から寄進されたという木造菩薩坐像があり、伝来ははっきりしないが、平安時代の11世紀前半の作風を示し、区内でも最も古い像と考えられている。」(しながわ観光協会サイトより)

境内社の宝蔵稲荷。
「宝蔵稲荷神社縁起
当稲荷社は稲荷の神と同一とする夜叉神のタキニ尊天を本尊とする明治二十三年九月町内稲荷講中により旧跡に再建され火防の稲荷として霊験あらたかで土地の人の安全守護神として尊崇され春秋二季に大祭が盛大に行われる。」

海蔵寺本堂。

大正4年(1915)建立「京浜鉄道轢死者供養塔」

関東大震災のときに品川の海岸に流れ着いた死者の供養のため
昭和7年(1932)に建立した「大正葵亥震火大災・死各霊供養堵」」(しながわ観光協会サイトより)

墓地の向こう側がゼームス坂下になる。この墓地に、品川区指定文化財になっている無縁塔群があったのだが、夕暮れ時で探し当てられないまま帰途についてしまった。

この供養塔にも、びっしりと品川の宿場内の屋号と名前が書き連ねられている。惣町と書かれているので、品川全体で建てたものだろう。

そして、碑文谷道とゼームス坂が分岐する角の外側にあるのが天龍寺。
「曹洞宗(山号)瑞雲山
・安土桃山時代の天正9年(1581)、越前国福井領主の母を開基として開かれた。
・徳川家康は、2世住職の嶺育を篤く信頼し、江戸城近くの下谷に、
同名の寺を建てて、嶺育を住まわせたという。」(しながわ観光協会サイトより)
下谷に建てられた天龍寺は、その後移転していて今は足立区にあるそうだ。

山門を入ってみると、広々とした境内。そして、奥には整然と本堂があった。

「○碑文谷踏切責任地蔵尊
ゼームス坂を下って突き当たった東西の道は、品川宿から碑文谷仁王尊(碑文谷法華寺、現在の円融寺)へ向かう碑文谷仁王堂と言われていた。そこにある天龍寺の本堂の左側、墓地への入り口の脇に大きな耳に手をかざし何か物音を聴いているような姿の小さな3体の地蔵がある。「碑文谷踏切責任地蔵尊」と言われている。
大正七年(1918年)5月18日深夜、M銀行の行員が大崎の自宅に帰るため品川駅から人力車に乗り碑文谷仁王堂に入った。東海道線までの急勾配の上り坂を登り、現在は隧道になっている碑文谷踏切にさしかかった時遮断棹は上がっていた。渡り始めた時右から下関行きの貨物列車が迫ってきた。人力車の車夫は慌てて逃げたが、客の行員は逃げ遅れ跳ね飛ばされ即死した。その時当直の踏切り番は二人いた。しかし、一人が仮眠中で一人が居眠りをしていたため遮断棹を下ろさなかったのが原因だった。当時踏切り番は激務にもかかわらず朝7時交代の一昼夜勤務であったため、みんなは過労から居眠りをしてしまったのだろうと話し合っていた。
しかし、二人は事故の責任を痛感し、事故の直後大井町駅寄りの線路上に身を伏せて命を絶った。当時の都新聞(東京新聞の前身)にも「会葬者皆泣く葬儀」と二人の踏切り番の死を悼む記事が掲載され、多くの人の同情を誘った。
天竜寺の「碑文谷踏切責任地蔵尊」は、この事故で亡くなった行員と踏切り番の供養のために造立されたものである。(しながわ昔話)」(しながわ観光協会サイトより)
海蔵寺にも京浜鉄道轢死者供養の碑があったのだが、かつては鉄道の事故もちょくちょく起きていたということだろうか。境内では特に案内もされていないので、地蔵尊にも気付かないままだった。調べてから行かないと、見落としが多いのが心残り。境内では大きなイチョウの木が目立っていた。
「JR大井町駅から第一京浜(国道15号線)に出る道にあるこの坂は、もと浅間坂(せんげんざか)と呼ばれていて、非常に急な坂でした。明治時代、この坂下付近に住んでいたJ.M.ゼームスという英国人が私財を投じて緩やかな坂に改修しました。それ以来この坂はゼームス坂と呼ばれるようになりました。
J.M.ゼームス(1839~1908)は、幕末にジャーデン=マディソン商会の長崎支社の社員として来日し、明治5年(1872)に海軍省に入って、測量調査や航海術の指導を行いました。生前から仏教に帰依し、その墓は山梨県身延町の久遠寺にあります。」(品川区サイトより)
ゼームス坂という名は、昔から大井町近辺で見掛けるバスに書かれていたので知ってはいたのだが、この場所であると知った上で歩いてみたのは初めてのことだった。ジャーディン=マディソン商会と書かれているが、ジャーディン・マセソンのことで、東インド会社を前身とするイギリス系の巨大企業である。今も巨大な規模の企業として存在している。その社員として来日したゼームス氏がこの坂下に居を構え、そして私財で坂道の改修を行ったというのは、興味深い。さらには、彼が久遠寺に眠っているというのも、その人となりを知りたくなる。
そのゼームス坂のアプローチは南馬場通りで、第一京浜国道を越えていったところから始まっている。この道は、細い道が真っ直ぐに伸びていくのだが、目黒の碑文谷へ向かう道で、この道から分かれて上っていくのがゼームス坂である。その手前、左手に参道があって、時宗海蔵寺という石柱が立っている。

「時宗
・鎌倉時代後期の永仁6年(1298)に荒井道場なる時宗道場として開かれた。
・江戸時代には、鈴ケ森で処刑された罪人や引き取り手のない遊女などを
葬ったため「投げ込み寺」とも呼ばれた。
・昭和の初期に信徒から寄進されたという木造菩薩坐像があり、伝来ははっきりしないが、平安時代の11世紀前半の作風を示し、区内でも最も古い像と考えられている。」(しながわ観光協会サイトより)

境内社の宝蔵稲荷。
「宝蔵稲荷神社縁起
当稲荷社は稲荷の神と同一とする夜叉神のタキニ尊天を本尊とする明治二十三年九月町内稲荷講中により旧跡に再建され火防の稲荷として霊験あらたかで土地の人の安全守護神として尊崇され春秋二季に大祭が盛大に行われる。」

海蔵寺本堂。

大正4年(1915)建立「京浜鉄道轢死者供養塔」

関東大震災のときに品川の海岸に流れ着いた死者の供養のため
昭和7年(1932)に建立した「大正葵亥震火大災・死各霊供養堵」」(しながわ観光協会サイトより)

墓地の向こう側がゼームス坂下になる。この墓地に、品川区指定文化財になっている無縁塔群があったのだが、夕暮れ時で探し当てられないまま帰途についてしまった。

この供養塔にも、びっしりと品川の宿場内の屋号と名前が書き連ねられている。惣町と書かれているので、品川全体で建てたものだろう。

そして、碑文谷道とゼームス坂が分岐する角の外側にあるのが天龍寺。
「曹洞宗(山号)瑞雲山
・安土桃山時代の天正9年(1581)、越前国福井領主の母を開基として開かれた。
・徳川家康は、2世住職の嶺育を篤く信頼し、江戸城近くの下谷に、
同名の寺を建てて、嶺育を住まわせたという。」(しながわ観光協会サイトより)
下谷に建てられた天龍寺は、その後移転していて今は足立区にあるそうだ。

山門を入ってみると、広々とした境内。そして、奥には整然と本堂があった。

「○碑文谷踏切責任地蔵尊
ゼームス坂を下って突き当たった東西の道は、品川宿から碑文谷仁王尊(碑文谷法華寺、現在の円融寺)へ向かう碑文谷仁王堂と言われていた。そこにある天龍寺の本堂の左側、墓地への入り口の脇に大きな耳に手をかざし何か物音を聴いているような姿の小さな3体の地蔵がある。「碑文谷踏切責任地蔵尊」と言われている。
大正七年(1918年)5月18日深夜、M銀行の行員が大崎の自宅に帰るため品川駅から人力車に乗り碑文谷仁王堂に入った。東海道線までの急勾配の上り坂を登り、現在は隧道になっている碑文谷踏切にさしかかった時遮断棹は上がっていた。渡り始めた時右から下関行きの貨物列車が迫ってきた。人力車の車夫は慌てて逃げたが、客の行員は逃げ遅れ跳ね飛ばされ即死した。その時当直の踏切り番は二人いた。しかし、一人が仮眠中で一人が居眠りをしていたため遮断棹を下ろさなかったのが原因だった。当時踏切り番は激務にもかかわらず朝7時交代の一昼夜勤務であったため、みんなは過労から居眠りをしてしまったのだろうと話し合っていた。
しかし、二人は事故の責任を痛感し、事故の直後大井町駅寄りの線路上に身を伏せて命を絶った。当時の都新聞(東京新聞の前身)にも「会葬者皆泣く葬儀」と二人の踏切り番の死を悼む記事が掲載され、多くの人の同情を誘った。
天竜寺の「碑文谷踏切責任地蔵尊」は、この事故で亡くなった行員と踏切り番の供養のために造立されたものである。(しながわ昔話)」(しながわ観光協会サイトより)
海蔵寺にも京浜鉄道轢死者供養の碑があったのだが、かつては鉄道の事故もちょくちょく起きていたということだろうか。境内では特に案内もされていないので、地蔵尊にも気付かないままだった。調べてから行かないと、見落としが多いのが心残り。境内では大きなイチョウの木が目立っていた。

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