東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

「ある浮世絵師の遺産~高見澤遠治おぼえ書」高見澤たか子著を読む

2013-07-07 19:07:39 | 書籍
ある浮世絵師の遺産~高見澤遠治おぼえ書
高見澤たか子著
東京書籍刊



 「東京・遠き近く」の紹介記事を書き続けているが、これを書くために改めて読み返し、紹介されている書籍を読んでということを繰り返していると、近藤信行氏に講義を受けているかのような気分になれる。そして、それ以上に知らずにいた興味深い書籍に出会えることが非常に有り難い。今では絶版になっている書籍が多いのだが、図書館で探し、地元でなければ他の区から取り寄せたりといった手段で読むことが出来ることが多い。この本もそう行った手段で読むことが出来たのだが、読み終えてどうしても手元に欲しくなり、古書で探して手に入れることが出来た。これまでそういった経緯で欲しいと思っても、内容の濃い書籍は古書の価格も高くなりがちで、この本もそう安くはないだろうと思ったのだが、予想外に安価に手に入れることが出来て、助かったと思っている。高見澤遠治という人について、世間的な知名度が低いことでそうなっているのだろうが、その内容を知る人が増えれば今の価格のままでは有り得ない様な価値のある本だと思う。

 「若くして没した浮世絵版画複製の天才に高見澤遠治がいた。江戸芸術の精髄、浮世絵版画は、あくまで忠実で丹念な遠治君の複製技術によってその生命を新たにしたのである。その異才を発揮したのが浮世絵復刻という特殊な分野であったため、いまはほとんどその名を知る人もいないのを残念に思っていた。死後すでに五十年、遠治君の生涯を知るわずかな人たちの記憶のあるうちに、ぜひその一生と仕事を誰かに記録してほしいとかねがね望んでいたところに、この本の発刊を見たことは、誠に喜ばしい。」高橋誠一郎日本芸術院院長と、見返しに刷られている。
 「文豪荷風、建築家ライトを激怒させた贋浮世絵事件の影にいた男。大正・昭和画壇の異才岸田劉生と江戸情緒の世界をさすらい、贋作者の汚名の中で浮世絵復刻に命をかけた天才浮世絵師高見澤遠治の波乱の生涯が初めて明らかにされる。現存する技術伝承者の協力を得て、遠治の遺産である有依拠絵制作の過程を豊富な写真で紹介する。浮世絵の世界を再現する注目の書。」というのは帯に書かれた惹句である。

 この本の面白さは、高見澤遠治の生涯のドラマチックさ、そして浮世絵の直しにまつわる超絶的な技巧の話、そして浮世絵に対する遠治の深い愛情と理解、そこから彼にしかできない技法が編み出されてきたことなど、さらには岸田劉生との交流、放蕩を繰り返すその有様など、多岐に渡っている。それが一人の人間の上で交錯しているところが、最大の面白さであるのかもしれない。

 そもそも、この高見澤遠治という人のやっていたことを説明すること自体が難しい。元々画家を志していた遠治が、生業としたのは浮世絵の直しであった。これは傷んでしまった浮世絵を修復することである。江戸時代に商業的な分業体制の中で量産された浮世絵は、明治を維新を迎えて、見向きもされなくなっていった。その魅力に惹き付けられたのは、外国人であった。輸出される陶器の包み紙などに浮世絵は使われたのだが、その包み紙を伸ばした彼らはその魅力に目を奪われた。そして、日本へやって来て浮世絵を買い漁るようになった。そんな形で浮世絵の魅力を教えられた国内では、浮世絵の価格が高騰していくことになる。そして、古くなって、痛んだ浮世絵を修復する直しという仕事が生まれた訳である。

 その直しの中でも、遠治の仕事は誰にも真似の出来ないものであった様で、同じ様な時代の古い和紙を集め、似た紙を小刀で削って、糊を作り、その濃さも調整して、破れたり、穴が開いたりしたところを補修していったという。その跡を触ろうが、電灯に透かして見ようが、どこで継がれているのか誰にも分からないという仕事ぶりであったという。そのあまりに凄まじい完璧な仕事ぶりから、直しをした浮世絵をオリジナルと偽って売る者がいて、それがライトや荷風を起こらせる事件に繋がったものであった。浮世絵にはあぶな絵という春画があるのだが、これは値が低いという。そして、その性質上あまり堂々と飾られることもない。それを惜しんだ遠治は、あぶな絵を改作したものを作り出していたりもするのだが、その完成度があまりに高いことから、これも物議を醸したことがあるという。
 それだけではなく、海外へ遠治の改作が流出し、大英博物館に収められ、カタログに掲載されたりといったこともあったという。

 贋作造りに利用されないよう、復刻浮世絵の刊行を始めるときにも、刷られた当時の色彩を再現すべきだという意見と、時代を経て退色している姿を再現することに拘る遠治との間で激しく対立があったことが書かれている。遠治は、色の再現をするために版木の上で色を混ぜたり、色の重ね刷りをすることで透明感のある色を作り出すといった、それまでの摺り師には思いもつかない技法を編み出しており、それで時代を経て初めて出来上がる色合いを再現することに傑出したテクニックを持っていた。その上、この時代にヨーロッパからの輸入の水彩絵の具を使うことまでしていた。東京帝国大学美術史教授であった藤懸静也を相手に、遠治は一歩も引かなかった。その対立は簡単に決着がつかず、試し刷りを作り上げて、本物と復刻を渡したところ、どちらが本物であるのか、藤掛も判別することが出来ず複製のものと取り違えるということまで起きてしまった。事ここに至って、藤掛は全面降伏し、その経緯までも明らかにして遠治の作品を最大級の讃辞と共に認めるようになったと言う。といったエピソードの一つ一つも面白くて、惹き付けられる。

 それだけではなく、「「東京・遠き近く」を読む」でも書いたが、遠治は明治24年に日本橋横山町一丁目一番地にあった高見澤商店というメリヤスを扱う店の次男として生まれた。ほぼ同年代に、横山町の隣町、吉川町の牛肉店第八いろはで生まれた木村荘八がいる。この二人は、必ずや横山町、両国広小路界隈ですれ違っていたことだろう。遠治は矢ノ倉の家に移り、その後慶應義塾の寄宿舎に入ることになる。前稿と重なるが、このほぼ同じ町で生まれ育った二人の男が時期を前後させて、岸田劉生という鬼才と親しく付き合っているところが何とも言えず、興味深い。劉生が世に出る前から、画家として大成する階段を上り始めた頃までの時期には、木村荘八と常に一緒にいて、遊び回っていた。ところが、荘八は劉生と袂を分かつことを決意していくことになる。劉生はこれで非常に深く傷ついた様だ。
 その後に深い付き合いをするのが、この遠治である。どこまで劉生が意識していたのかは男とも言いがたいが、荘八も遠治も東京の下町の匂いを身につけた男である。劉生自身も、銀座生まれの銀座育ちであり、東京を離れようとも東京の町の匂いを求めていたようにも思えてならない。

 そして、劉生が白樺派の人たちと距離を置く様になる契機も、この遠治との付き合いの中から出てきているようで、放蕩と言うに相応しい生活を送る遠治、そして限りなくそこに同調してくるような劉生が、白樺派の人たちと上手くいくわけがないというのも分かる様な気がする。木村荘八という人は、そういう意味では極めて真面目な面があって、彼の技術的な向上に掛ける積み重ねなどを見ているとそれが分かる。破滅への憧れを漂わせる劉生と、その色合いを持たない荘八が別れていくのもある種の必然であったのかもしれない。そして、荘八と別れた劉生が、その指向を同じくする高見澤遠治と出会い、交流を深めていくのも、これもまた必然と言えただろう。
 そんなことまで考えさせられる,そんな面白さが本書にはあった。荘八の話が出てくる訳ではないのだが、私の中では自然と結びついて映像が浮かび上がってくるように思えた。

 放蕩というのも、今ではリアリティを失っている言葉だが、どこか退廃的な魅力を放つ言葉だと思う。その実態がどんなものであったのかと言うことも、本書の中には書かれている。茶屋遊びにはまり、流蓮し、支払いが出来ずに悄然と居残る様など、ある種頽廃の極みと言えそうだ。それを知る上でも、本書は面白い。そして、共に放蕩を尽くした劉生の晩年についても言及されているのだが、きっとそうであっただろうと私も共感できる内容であった。放蕩を尽くして頽廃を極めながら、遠治も劉生も、自らの表現については妥協することは一点たりともないという二人である。堕ちていきながら、違う面では更なる究極を目指し続けている。そんな矛盾を抱えながら生きる人の姿が、描き出されているところが心に残った一冊だった。

口絵の劉生の描いた遠治。


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