東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(45)高見澤遠治と田河水泡

2013-07-06 22:28:45 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。しばらく間が開いてしまったのは、今回の記事に出てくる書籍を読んでみないことには、軽々に紹介できないと思わされるものがあり、その入手に少々手間取っていた事で時間が掛かってしまった。今回は、「のらくろ」で知られる田河水泡、そして彼の従兄に当たる高見沢遠治という人についての話である。二人とも、深川に縁が深い。そして、思った以上に面白く興味深い人物であった。

「私たちの子供のころの漫画といえば、田河水泡の『のらくろ』が絶大な人気を博していた。島田啓三の『冒険ダン吉』とか坂本牙城の『タンクタンクロー』もあったが、先を争うようにして読みふけったのは『のらくろ』であった。それも二等卒、一等卒、上等兵から下士官あたりまでがおもしろい。
少尉に任官して中尉、大尉となると取り澄ましたような場画がでてくる。兵隊時代ののらくろには、軍隊という枠のなかで泣いたり、笑ったり、失敗ばかりして成長してゆく過程がよく描かれていて、それが子供の共感をよんだのであろう。そこには作者の下町気質がよくあらわれている。」

「のらくろ」の名前は、私もいつしか聞き知っていた。その内容に初めて接したのは、復刻版の刊行が始まった時に最初の一巻「のらくろ上等兵」を買ってもらった時だった。その続刊は買ってもらえなかったので、その一冊だけが今も家にある。その後、子供時代にテレビアニメ化されて放映されたりしていたが、あまり見た記憶はない。
田河水泡が少年時代に通っていた辺り。深川不動前の路地。


「田河水泡(高見澤仲太郎)の名は、本姓の高見澤をもじったもの。ローマ字のTAKAMIZ・AWAを漢字にあてはめて田河水泡(たかみずあわ)としたが、だれもそうは読んでくれず「タガワ・スイホウ」と読まれるので、自分でもそう読むようにしたという。年譜によると、昭和三年、初の連載漫画「目玉のチピちゃん」(「少年倶楽部」)からつかいはじめたとあるが、滑稽のセンスは筆名にもあらわれている。なによりもまず彼を育て上げたのは、深川の土地であり、人との出会いだった。ことに浮世絵複製の名手だった従兄、高見澤遠治の存在が大きく浮かび上る。
 自伝によると、父方の高見澤家は直参旗本の血筋、廃藩置県のあと日本橋横山町でメリヤス製品を商い、向島に工場をもっていた。父孝次郎は二男五女の末子、分家して本所林町で兄作三郎経営の「高見澤メリヤス合資会社」の下請けをおこなっていた。母わきは伊勢松坂の在から上京、作三郎・孝次郎の姉まちの嫁ぎ先の松村町佐藤藤助方に住みこんでいる。その縁で孝次郎と結婚、水泡を生んだが、翌年亡くなった。水泡は一歳で母を失ったわけだが、佐藤家にあずけられて成人したことは、彼の芸術的天分の自覚につながっている。」

田河水泡の人となりについては、これまで全く知らずにいたので、彼を知るきっかけになって面白く思っている。明治32年に生まれ、深川松村町(現在の福住一丁目)の叔母の家で育てられたそうで、臨海小学校の卒業生とのこと。未だ江戸情緒を色濃く残した深川で育ったことは、彼の人格形成に深く影響したことだろう。最も、それ以上に彼に影響を及ぼしたと見られるのが、従兄の高見澤遠治たちということになる。非常に興味深い。

「少年時代から絵ごころに芽生えた水泡だが、行く行くは家業を継がなければならなかった。そのため小学校を卒えてから「高見澤メリヤス」に奉公に出され、また神田の洋品雑貨店に勤めて配達係として働いている。ところが本家のほうでは、明治四十二年、伯父作三郎の死後、家業を継ぐものはなく、日本メリヤス会杜に合併されるというありさまであった。その長男広作を織機技術研究のためドイツに留学させたが、水泡によると、作三郎がワンマン経営者定ったため後継ぎが出なかったとある。むしろそこの子供たちが身につけたのは、江戸っ子の遊びであり、芸術感覚であった。東京市中を自転車で走りまわっていた水泡は、遠治たちの存在にひきつけられている。」

水泡の奉公時代、明治末の頃だが自転車だってまだまだ貴重品であった頃である。好きな絵画の道は遙か彼方にある中で、水泡は何を思って日々を過ごしていたのだろうか。今とは違う時代でもあるし、ただただ奉公を上手く乗り切っていくことを思っていたのか、それとも自転車で走りながら、時に寄り道をして遠治の元を尋ねて、刺激を受けて、自らの夢を思い描いていたのだろうか?
この高見澤メリヤス、店は日本橋横山町の問屋街の中にあった。高見澤遠治も生まれたのはここで、その後商売屋での子育てを嫌った父親の意向で矢ノ倉に住まいを移している。この時代というのが、まさに木村荘八が育った時代と重なってくる。荘八は横山町と隣り合った吉川町の生まれである。少年時代の二人は必ずすれ違っていたのではないかと思う。荘八は、矢ノ倉に夏休みに水練学校が出来て通っていたことを書き残している。

「いとこ同士といってもきわめて対照的だった。作三郎の子供たちは家業をよそに悠々と自分たちのめざす芸術世界に浸っている。水泡のほうは芸術ごころをいだきながらも、孤児のようなおもいで丁稚奉公に精を出さなければならない。大正六年一月、父孝次郎の死をきっかけとして、水泡は画家への道を踏みだすことになるが、それは遠治の「複製浮世絵頒布会」の仕事を手つだうことであった。母が死んだために「絵を描く伯父」に育てられ、父を失って「私が希望している絵の方向」にむかう。水泡は不思議なめぐりあわせというが、その場所が深川の松村町であり、その西どなりの佐賀町であった。」

そういった意味合いから見ていくと、水泡にとっては深川が故郷であり、精神的にも自身の背景としての大きな意味合いを持っていたと言える様だ。遠治という人を知っていくと、深川の町の空気が肌に合ったということだろう。江戸情緒の残る町として、江戸以来の粋を好む文化を育んできた町である深川は、彼の放蕩の潔さともどこか親和性を持っているように思える。

「高見澤遠治とその兄弟については、高見澤たか子さんの『ある浮世絵師の遺産』(昭和五十三年、東京書籍)にくわしい。著者は高見澤忠雄の娘さんである。本誌(昭和六十一年十二月号)に「世界に誇る美術館を作った男-南蛮美術蒐集家・池長孟」を執筆、そのなかに美術研究家としての父親の姿をのぞかせたことがあった。遠治の業績と兄弟の生き方については、それまでほとんど知られなかった。それを客観的にとらえようとしたところが好ましかった。遠治は浮世絵贋作者とののしられ、永井荷風を怒らせている。大正五年、帝国ホテル建設のため来日したフランク・ロイド・ライトは精力的に浮世絵を蒐めたが、遠治の複製を知ると、金を返せと彼にピストルを突きつけている。また彼は春信のあぶな絵を改作して、浮世絵業界に波紋をまきおこしている。たか子さんはそんな遠治を、資料を駆使しながら、また高見澤版の彫師山口梅三郎の証言をとりだしながら、あたたかな眼で逐いかけている。その叙述の態度は肉親のものとはおもえぬほど冷静である。しかも血のかよったところに、この著者ならではの生き生きとしたものがあった。」

この本を入手して読み終えるまでは、この稿については書けないと思っていた。というのも、浮世絵贋作者としてののしられたり、かの名建築家のライトからピストルを突き付けられるというのは尋常ではない。一体、どんな人物であったのか、それを知りたいと思った。そして、この本を読み終えたが、これ以上に適確な紹介は有り得ないという文章だなと、改めて感心させられている。
高見澤遠治という人、浮世絵の直しで高名であったという。つまり、破れたり、穴が開いてしまったりした、傷んだ浮世絵を修復する事を生業にしていたという。その腕前は凄まじいもので、古い和紙も各種揃えて置いて、同じ様な紙を探し出し、小刀で削って絶妙な具合の糊を作り、元のように復元したそうだ。それを電球に透かしてみても、どこで継いであるのかが分からないと言うのだ。さらには、浮世絵の作家ごとの線まで全て心得ていて、時代を経て退色していく色合いを見事に再現してみせたという。浮世絵の中には、春画、あぶな絵というものがあり、これにはあまり高い値が付かなかったというのだが、それで世に出ないことを惜しんで、改作してみせたというのだが、これが海外に出て本物として扱われて、学者ですらその真偽を見破ることが出来なかったというほどのスゴ腕であった人なのであった。彼は決して、贋作造りをしたわけではなく、彼の凄まじい腕を悪用する者がいただけの話で、彼も贋作造りに利用されないことをこの後は心掛けるようになったと言う。何よりも、浮世絵を愛した人物であった。

「遠治が「助六」の揚巻、益郎が助六を演じたときの市村座では、山口梅三郎の「益ちゃんの首っ玉に芸者がかじりつい走りして、そりゃ派手なもんでした」という言葉を記録しているが、つぎの一節は遠治とその仲間たちの遊びをうまくとらえている。
「遠治たちのこの芝居にかける情熱は、趣味の範疇をはるかに越えた真剣なものであった。プロの役者になろうという野心もない、道楽といえば道楽、あくまで遊びの世界ではある。しかし文字通り身をすりへらすごとく命がけであった。遠治は借金で身動きができない。しかも、妻のはまは妊娠中で、遠治はやがて父親になる身であった。
 いつの年であったか、十月二十八日の不動さまの縁日へ、吉田(芝居仲間のひとり)と遠治、益郎兄弟が出かけたときのことであった。ぶらぶら歩いているうちに、急に遠治の姿が見えなくなってしまった。吉田と益郎があたりを見まわしていると、露天の古着屋の前で着物を脱ぎかけている遠治が目に止まった。『なにしてるんだろう?』といぶかる吉田に、益郎は『まあ見てろ』といいながらニヤニヤしている。遠治はどうも着ている長じゅばんを脱いで古着屋へ売る交渉をしているようであった。やがて二人の姿を見つけた遠治はニコニコしながら戻ってきて、『さあ、これで飲もう、飲もう』といった。

 遊ぶ間際にとっさの思い付きで金を作る、これほ遠治のみならず益郎も得意とするところであった。明治末から震災前までの東京の下町には、まだ江戸っ子気質というべきものが色濃く残っていた。無理は承知で、宵越しの銭は持たないという気前よさ、金勘定は二の次で、いま目前の感興にすべてを投げ打って没頭するという遊び方をこの兄弟たちは生涯通したのである。」
 たいへん痛快な下町っ子ぶりが姪の視点から披露されているが、このような享楽ぶりは下町の資産家、もしくは旧資産家の息子によくみかけるところだった。破滅をいとわない生き方は、彼らの芸術的性情のあらわれでもあった。」

宵越しの金は持たないという話は落語ではお馴染みだが、実際、こういった破滅的な放蕩というものが、戦前の時代にはそう珍しいことではなく起きていた。資産家に生まれて、身代を潰す話というのは、結構ありがちな話である。放蕩と言葉で言うのは簡単だが、一体何をやっているのだろうかという疑問に対する答がこれである。市村座は、当時の一流の劇場であり、下谷二長町で大田村と言われた田村正義が指揮を執っていた時代のことである。そこで、純粋な遊びとして芝居をやる。それも、これ以上ないと言うほどの真剣さでやってみせる。その上、実家の稼業はすでに大きな会社と合併して消え失せており、もはや裕福ではないにもかかわらず、生活振りは何一つ変わらない。そして、着ているものを売り払ってでも、目先の遊びに興じてみせる。こういった生き方は、現代にはもはや見ることが出来ない。それだけに、その様子が生々しく描かれているところに、引き込まれていく。

「一所不定で、自分の趣味趣向をつらぬいた遠治だが、深川佐賀町住まいは、大正四年二月から七年六月までの三年余におよんでいた。田河水泡が弟子入りのかたちで走り使いをし、画の勉強にはげんだのもこの時期だった。佐賀町というと、谷崎潤一郎が出世作「刺青」の舞台にとったところだが、やはり江戸情緒をのこす大川べりであった。
 水泡の仕事というと、はじめは板屋職人に桜の板木を注文すること走った。
「板ができて来ると遠治先生は、薄い雁皮紙に版下を描いて彫師に渡す。彫師はそれを裏返した板に貼って克明に彫るのだが彫師にも上手下手があって、歌麿美人の生えぎわの細い毛筋などは毛筋彫りと言って誰でも彫れるというものではない。遠治先生は山口按三郎という彫師の腕を信頼して、墨線の主版はすべて山口の按さんに頼んでいた。」
 遠治の家にひきとられた十八歳の水泡は、このころから大きく変わりはじめている。育ての親としての伯母の家も近かったから、精神的にも安定した環境におちつくことになるが、職人芸としての美術の勉強を実地にみられたこと、そして遠治の本棚から美術や文学の書物を手あたり次第にとりだして知識の吸収につとめたことは幸せだったと述べている。徒弟時代はのちの三田時代、そして遠治の軍隊への入営までつづくことになるが、仕事場に無雑作に散らばっている師宣、歌麿、春信、清長、写楽、胡龍斎らの一流の名品をじかに手にとることができた。」

遠治という人の面白さは、慶応大学を出て、画家を志していたという経歴を持っていること。浮世絵の世界は、職人の世界であり、そこが面白い所でもあるのだろうが、そんな世界に画家のセンスを持った男がはまり込んだことで、希有な才能が生まれることになった。その有り様は、簡単に説明し尽くすことなど到底出来ない。「ある浮世絵師の遺産」は、浮世絵という世界についての本としても面白いし、深川だけではなく、日本橋横山町という町を背景にした話でもある。さらには、この高見澤遠治と固い友情で結ばれていたのが、岸田劉生であった。劉生との交情については、本稿では触れていないのだが、横山町に木村荘八、そして劉生と並べていくと、なんとも世間は狭いものだと言うべきなのか、人生の綾と言うべきなのか、そんなことを考えずにはいられない。
水泡が絵の世界へ向かおうとする時、遠治という人の傍にいたことが、いわば英才教育ではないかと思えるほどの環境に彼を置いた事であったことが分かる。

遠治の生きた時代の町は、今は残されていない。それでも少しはこんな感じだったのだろうかと思わせる福住町の町屋。


「高見澤遠治は昭和二年六月、三十六歳の若さで世を去った。二年後、益郎、忠雄たちが「高見澤版・未刊浮世絵版画刊行会」を発足させたとき、その趣意書に友人岸田劉生はつぎのように書いている。
「高見澤君性質甚だ酒脱、潔癖にして、柔和、多趣、よく多芸に通じ、痩躯、よく精力と熟心に富み、甚だ酒盃を愛した。私とは十年の飲友達である。江戸小唄の名人にて、酔へば必ず三絃を弄し、美声を転じた。三絃を斜にかまへ、天井を仰いで咽喉をつき出し、『我が住家はかくれ里』とうたへる様、今も髣髴とする。博学よく事物に通じ、殊に江戸酒落本、演劇等に精しく、又自から種々の戯作、戯筆を弄した。画に巧みで、油画水画等は達人の域に至つてゐた。酒癖があつたが罪がなく、卑吝をいとひ、酔へぱ必ず唯物主義者を罵つた。」」

『ある浮世絵師の遺産』を読んで、遠治という人の生涯を追っていると、凄まじさに凄い人生だったと思わされるのだが、僅か三十六歳であったと思うと、実に惜しいとしか言い様がない。比類希な才能を持ちながら、放蕩で人生を終えたとも言える。
そして、この劉生の追悼文を読んでいると、どこかこの人柄が私には木村荘八との類似を思わせてならない。木村荘八との訣別を経ても、劉生が求めていたものが変わらなかったと言うべきなのか、京都に住まいを移したりしながら、劉生は結局同じ東京の下町の空気に馴染んだ友を必要としていたことが窺える。そう思うと、何とも悲しい、寂しい様な気がしてくる。

これも福住町の町並み。


「世間から誤解され糾弾されながら、遠治が自分の信念をつらぬいたことは、浮世絵芸術を現代に蘇生させたといえる。彼の場合、手直しも複製も創造であった。高橋誠一郎は、「後刷、複製、直し、贋作、消費者という五様」というエッセイ(「エコノミスト」昭和三十五年十月。のち『浮世絵随想』に収録)のなかで「高見澤は浮世絵版画の本物を集める人たちには、まことに煩わしい厄介な存在だったが、複製で浮世絵を鑑賞する人たちにはこの上ない幸いを与えてくれた」と書き、「文藝春秋」座談会での田中喜作の発言「僕はあの男が表彰されないのがおかしいと思う位だ」という言葉をおもいかえしている。
 それぱかりでなく、遠治は田河水泡というひとりの民衆画家の才能を育ててきた。水泡がほじめ落語作者として出発したのも、遠治の影響によるところだった。この二人の存在は深川の土地とともに忘れがたいのである。」

高見澤遠治という人物、亡くなって既に86年が経過している。そうでありながら、彼の業績と手腕について公正な評価がされているとは未だ言えない。浮世絵というものが、純粋芸術という近代の産物とは違う世界で作り出されていた物であること、そして、その職人の世界に画家としてのセンスを持ち込んで誰も到達できない世界を作り上げたのは、遠治であったと言えるように思う。
そして、田河水泡という、才能を世に送り出す上で、欠かせない役割を果たしたのも、遠治であったと言えそうだ。「ある浮世絵師の遺産」については、改めて、別稿を起こしたいと思う。


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