東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

古老がつづる台東区の明治、大正、昭和~蔵前、佐竹

2012-05-27 23:24:54 | 台東区
台東区教育委員会の発行した、今では絶版になっている「古老がつづる台東区の明治、大正、昭和」から、蔵前と佐竹を題材にした分を掲載する。

捧 精作氏
台東区蔵前一丁目

「奉公での楽しみは浅草
明治三十四年に新潟で生まれて、十五の時東京に来て、でっち奉公に入りました。ただ働いて、暇も規則もなく、飯は食わし、寝かせてくれて、こづかいは盆と正月に五円くれる。まあ、ご飯だけは十分ですが、小憎たちは、汁だけの味噌汁をご飯にかけて流しこみ、腹をみたしていたわけです。こづかい使うといったって、浅草に映画を見に行くくらいでした。父が新潟で繊維の仕事で破産したので、もう一度それで何とかしようと、横山町に奉公したんです。仕事はもちろんきつかった。時問制でもないから、ただ目がさめれば仕事で、仕事がすめばふとんの中ですよ。夜は十一時でも十二時でも。目がさめれば、あとは営業時間です。初めは荷車引っぱって配達。雨が降ろうが、槍が降ろうが、配達の荷物があれば着物をひっばしょりして、遠い所に配達に行った。そういう時は、お弁当代に十五銭くらいもらいました。牛井やそばを食べた帰りに、よく往来に、おばあさんが屋台で炭を起して、鉄板の上に油をひいて、餅を焼いて売ってるんです。焼くとふくれ上がり、それを更に手で引っぱって大きく見せて売ってるんです。一つ二銭でね。これを食べるのが何よりの楽しみでした。
浅草へは、行きは歩き、帰りにそば食べて、電車が七銭、七銭で乗って帰って来る。浅草行けば三館共通専門です。常盤座、東京倶楽部、金竜館の三つが三館共通ですよね。それで五、六十銭でしたかね。田谷力三が二十四、五で張りきっていたし、安藤文子だの溝水金太郎だの、オペラの始まりですよね。常盤座は新派で、関根って役者だの、サトウトシゾウなんて役者がね。七番隻がうまくて、サトウトシゾウ見に行こうなんて、だいたい私芝居が好きでしたからね。その他吾妻座ですか、沢村訥子、沢村源之助、立派な劇場でしたよ。丁度花屋敷を出たとこでしたけどね。こないだ亡くなった多賀之丞。あの人が鬼丸って言ってましてね。浅草の宮戸座もよく行きました。鬼丸、伝次郎、古賀三郎なんてのは、当時の俳優ですわ。こないだ「おていちゃん」やったでしょ。あの前の話です。宮戸座は、よく絵にある芝屠小屋のかっこうで、上に櫓がのってて、その櫓に門がありました。小屋の大きさは、浜町の明治座よりちょっと小さかったでしょう。

薬研堀に不動さんがあって、縁日っていうと、その不動さんの縁日なんです。必ずそういうものは町にあったね。それを信仰につなげて、町の繁盛につなげていった。人が集まる、夜店や露店が出る、そうすっとその界隈が盛り上がっていくんですね。楽しかったですわ。今みたいに冷たくない。なごやかな雰囲気ですね。夜店でも、金はないし、物はないけど、人の心は豊かでした。縁日に集まるのは近所の人ですが、遠くから来た人にも、「あんた、それ高いよ、そんなの買っちゃだめだよ」って、親身になって言ったもんね。我我小僧は、盆や正月には浅草へ行くしかなく、ふだんは、縁日かお祭りで我慢したの。

日本橋横山町。今は完全に繊維の町になっているが、明治の頃には様々な業種の問屋が集まる町だった。この界隈は、関東大震災復興時に町割から全てが変わってしまったので、震災以前の面影を捜すのが難しい。


小僧、中僧、番頭
服装は殆んどが着物きて、前掛けかけて、下駄か草履です。女の人は全部着物でした。木綿で、お店からのお仕着せは、夏と冬に一着ずつ。つまり、年二回ですね。小憎には木綿縦縞の筒袖の着物に紺サージの前掛けですが、中僧になると筒袖が角袖の挟にかわります。小僧の時はサージの前掛けで、裏は何もないけど、中僧は羽織と裏のついた前掛けで、それをもらうと、いくらかそって歩けました。私の所では、羽織の次に銘仙の羽繊をもらうと番頭でした。私が中僧になった頃は、労働問題もうるさくなってきて、月に一回の休みがとれるようになり、こづかいも二円、大正七、八年の二円は使いでがありました。検査の時は中僧でした。もう少しいくと番顕ですね。巾僧でも、使えるやつは仕事をさせられました。役に立つのは、位なんかに関係なく、仕事をいいつけられることでした。目をかけてもらうっていうのは、仕事が多いことです。楽させるんじゃなくて、仕事をさせてくれるってことで、できないやつは、続局おいてきぼりになる。

隅田川と蔵前周辺
小僧の時代、よく柳橋から番頭さんと舟に乗って、言問橘まで櫓を漕がされました。一時問で二十銭か三十銭でしたか。柳橋から隅田川に出て、ところが言問橋までは大変で、漕げないんですよ。店へ来てからやらされて、教わってもくたくたになっちゃって、擢がガチャンとはずれてのめったり、脇に引っぱって落っこったり、それもやっているうちに覚えましたがね。いや、覚えないと連れてってもらえないもんで。当時隅田川は、そりゃきれいなもんでした。こっちは料亭で、厩橘あたりから民家が出てくるけど、向う側は桜の土手。本所の方も、藤堂の屋敷や安田の屋敷が並んでいる。夜は通れないくらい寂しいが。蔵前はやはり商店が並んでて、地味な店が多かったですね。川っぷちは舟が入るように入りくんでて、ボートのけいこ場がありました。一高や帝大がけいこするんですよ。舟が入るとこを利用して、ボートしまい、漕ぐ時引っぱり出して、隅田川でボート競争もやったんです。何番堀っていうのは、全部ボート漕ぎに使ったんじゃないすか。出たとこに交番がありますが、あそこに鳥越川が流れていて、三味線堀に行ってたんですよ。須賀橘って橋もあった。あれからずっと堀でね。ぐるぐるまわって合羽橘の方まで行ってたんです。堀の幅は二間ぐらいかな。護岸がしてあって、それに汚わい舟が入って来てた。隅田川の幅は今と変りないが、護岸はなく、ずっと歩いて入れました。だから厩橋のところに、夏場水泳の教習所ができて、簾張って、何流というのか看板がかかって、川の浅い方と深い方に分れて教えてたもんです。柳橋へは始終行かされました。横山町で案内するとしたら柳橘ですからね。柳橋来ますと、芸者が人力車できれいにしてくるでしょ。我々町人には高嶺の花で、そばにも寄りつけないような雰囲気をもってました。連れて行く方も、おなじみっていうのがあって、どこどこのお客が来たっていうと、そのお客のなじみの店へ連れて行ったもんです。

蔵前の厩橋が最初に架けられた辺り。堤防の向こうが隅田川。


関東大震災
大正十二年九月一日、私が二十三歳、下の方の番頭の地位でした。前夜から雨で、朝のうちはまだ雨が残ってました。四谷の武蔵屋さんで、きじのサンプル見せてる時にグラグラってきたんです。つかまったきりで身動きもできない。三尺ぐらいの路地が、なくなるように傾くんですよね。静まると元に戻るが、今につぶされるんじゃないかと思ったです。そこを出て、九段の上から見下ろすと、神保町が全部火で、この通りは行かれないと思い、干鳥ケ渕を下りて日銀の前に出てから、横山町抜けて行ったんだけども、その時は本石町から小伝馬町がもう火の海でしたね。あの時、日銀のこっちにレンガ造りの家があったが、全部崩れてました。日本家屋の方はちゃんとしてたし、問屋街だから土蔵も多いが、割合に崩れてなかったですね。ようやく店へ帰ると、浅草橘の公園へみんな行っているからと言われて行くと、おやじさんが、「上野公園は精養軒の庭で、宮城前は大きいイチヨウの木の下だ、そこから動くな」って。それから持って行くものは、やかんに水を入れて、それに、タクアンと梅干を持ってけって。大きいやかんを十五個ぐらいさげて、荷物は大八車に二つだけ積
んで行きました。ところが松坂屋の前まで来たら、もう先へは行けないんです。上野の山下が全部荷車で、入る余地がないんです。おやじさんに、車引っばって来たけど、どうにもならないから松坂屋の前に置いてきたと言ったら、おやじさんはぽんぽん燃えてる品川の方を眺めてて、こりゃうまくないから、精養軒まで、車は何としてでも上げろって。それで、車をとうとう分解して運びましたよ。あくる日はどしゃぶりの雨でね。でも、火の方は一向に衰えない。とうとう上野駅まで燃えだす始末。これじゃ上野の山も危ないというので、池袋の方へ逃げようってわけです。逃げながらも、おやじさんは家を探したんだな。建てかけの長屋でしたが、そこへ荷物を入れて、そこで耐乏生活が始まったわけです。米はない、何はないで、あるのは水とタクアンだけ。毎日行列して玄米の配給を受け、それを臼でついて白米にして、こどもたちに食べさせて、我我の方は玄米をボソボソ食べてました。そんなのが経験になって、気持ちがしっかりしましたね。もう、関東大震災と第二次大戦を経験している人は、だんだん減ってきましたね。この頃、電動車使って、地震の人体実験をしてるけど、つくった動きと、地震の動きとはまるで違いますよ。もっと大振りで、あんな細かい振りでは来ませんよ。今にもこの家がもろにいっちゃうんじゃないかと思うくらい、あんな時計の振子みたいなもんじゃないってことです。」


やはり、浅草が奉公に出て働いた人々にとっては一番思い出深く、愛着のある町であることが分かる。日々のきびしい仕事の合間に息抜きに行くところと言えば、浅草以外にはなかった。そして、この古くからの東京の下町が生き生きとしていた時代には、浅草も生き生きとしていた。それがよく分かる。私が物心付いた時代には、既に浅草は盛りを過ぎていた。両親は浅草に思い出を持っているが、二人は結婚して都心を外れたところに新居を構えたこともあって、そこに生まれた私にとっては浅草は身近な町ではなかった。
そして、この聞き書きでは奉公に出て職人として独り立ちしていった人の話が多いところが、土地柄と合わせて興味深く読める。

蔵前辺りの風景。奥には蔵前神社がある。


厩橋。この橋は昭和4年に架けられた橋。最初に厩橋が架けられたのは、明治7年のこと。明治26年に現在の位置に鉄橋が架けられた。


明治生まれの職人さんの話というのは、やはりなかなか興味深く面白い。とりわけ、この方のお話は浅草や上野界隈での地元の人間の遊び方がよく分かるし、どこか目に浮かぶような調子での話でもある。関東大震災の話も勿論、生々しくて、凄惨な有様が伝わってくる。語り口も歯切れが良さそうで、録音された話し言葉を聞けば、東京の言葉の一つのサンプルとしても貴重なのではないかと思える。


佐藤 金作氏
台東区台東三丁目

「佐竹屋敷
私は明治三十九年に、竹町郵便局通り先の御徒町小学校に入学しました。ところが二年後に竹町小学校ができたのでそちらへ移ったんです。明治三十二年にここで生まれたんですが、昔のことで、一年遅れて戸籍は届けたそうです。この町内には親の代から百年ですね。父は旗本で、嘉永五
年生まれ。麹町に三枝って三干石の旗本がいて、そこへ先祖が入ったんです。父は御維新の時には徳川慶喜のお供をして京都の方へ行ったそうです。おじいさんたちは旗本だから敵対したっていうんで、召捕りをおそれ、鍋炭を顔へ塗って代々木へ落ち延びて百姓になり、助かったっていう
話をよく父から聞きました。この辺一帯は、秋田の藩主佐竹さんの屋敷で、ここは本邸でした。佐竹さんは神田にいたのが振り袖火事で焼けて、ここへ来て、ここが本邸になったんです。

竹町小学校付近
竹町小学校には、佐竹の堀がそのまま残っていて、私が生まれた頃は、佐竹の屋敷跡の佐竹っ原も相当家が建て込んできたわけで、一般の民家をつぶして学校ができたわけです。そうこうして震災になって焼けちゃった。それではと、学校をまた広げたんです。私の町内に秋葉神杜がありますが、昔はあそこでなくて、道が学校に抜けるようになっていた。学校がのり出してきたので、神社が今のところに変わったんです。今、表門になっているのは、昔私たちが通った頃の裏門です。堀割に木橋がかかってて、その橋を渡って入ったんです。今の講堂が堀割の渕で、まわりはトタン塀で、そこへずっと桜の木がかぎの手に植わってました。今の公園は、後に六三亭という寄席があったところです。前進座の中村翫右衛門さん。私たちは三年で竹町へ来たが、あの人は一年生で御徒町から来たんですよ。だから、こないだ竹町小七十周年記念に翫右俺門さんも来て、私と翫右衛門さんが昔の思い出語をしたんです。

話に出てくる秋葉神社。佐竹屋敷の中にあった神社らしい。火伏せの神。


学校前の堀割は池之端からずっと続いてたんです。だから今までの電車通りの下はみんなドブ川。それは池之端の三橋から流れてきてたんです。雨が二、三日も続くと、池之端からコイだのフナだのがみんな流れて来て、今、三味線堀の市場の場所、あれがちょうど三味線の胴のようにみえて、そこへおとなが四つ手網かけて捕ったもんですよ。橋が佐竹橋と高橋と二つかかって、高橋を渡って左へ折れるとそこは舟着き場で、そこを汲取り専用に使ったものです。そこから汚わい舟で、町の汲んだのを載せて大川へ出たもんですよ。

現在の佐竹商店街の南側入口。右側の大通りの向こう側がかつて三味線堀のあったところ。


こどもの頃は、車というと大方が馬力。町内には馬力屋が何軒もありました。馬に行水つかわせてたから大きな小判型のたらいがあって、こどもが五、六人乗れ、三味線堀は大川へ続いてたから、上げ潮になると水が増え、夏場にはそのたらいを持ってって浮かして、乗って遊んだもんですよ。それから、高橋や佐竹橋の上で待ってて、フナなんかが浮いてくると、カヤでたも網をこさえてすくうんです。堀割の門は二間以上あったでしょうね。佐竹さんの堀はそれに合流してたわけです。佐竹のほか、この一帯には屋敷が点点とありました。ここが佐竹の屋敷、二長町が藤堂、今、南町会になっているところが竹田と生駒。それから仲町会に菊池、西町が立花、御徒町には加藤とあって、こどもの頃は、せみ採りに忍び込んでよく迫っかけられたもんです。御徒町の加藤の屋敷は、土塀で、武者窓があって玄関がある。そこへ尋ねて行くと、「誰」って書生が出て来た。狭いながらも回りが堀でかこってありました。菊池の屋敷も広くないが、まわりが三尺ほどのドブで、町会で行事の時は貸りて、演芸会とか祝賀会をやったもんです。それらも関東大震災でみんななくなっちゃった。加藤の屋敷はもっと前になくなった。明治四十三年の大水の時は、この佐竹通りを舟が通ったく
らい、その時分まだこどもですが、いかだをこさえてね、遊んだもんです。私共のここは、畳上げないですんだが、商店街の方はずっと低くて、舟が通ったんです。

刷毛製造
父は刷毛職人となり、私もそれを継ぎ、大きいものが得意で、羊の毛で大きいのでは三尺ぐらいのを作ってました。それらは、陶砂ってニカワをといたやつね、紙にひいてにじまないようにするためとか、色紙を染めたりするんですが、陶砂をひくには、やっぱり小さい刷毛だと段がつくんで、三尺なら三尺の大きいんで一っぺんにすっとひくんですね。刷毛を作るコツは、刷毛の大小によって肉を厚くしたり薄めたりすること、それとね、毛先を平らに揃えることです。それも毛先をはさみで切っちゃだめで、これがむずかしい。それから変な材料が混じってくるでしょ。大きいのや細いのや、そういうのをみんな抜くんです。細いのばっかしの中に太いのが入ると刷毛目ってものがつく。そういうのを平らにするように。そういうのもコツです。

佐竹の商店街
商店街では古着屋が一番多かったです。段段着物を着なくなったから洋服屋とかに変わって、今は一軒もないが、背は佐竹通りに十軒ほどありました。大震災以後すべてが変わったですね。あれがきれですね。その前まではね、おばあさん連中が何軒か古着の夜店を出して、この広い通りもドブの渕に並んでたたき売りしてたんです。そういう古着屋は、まがい物を売ってはすぐよそへ逃げたりしてね。佐竹も昔の方がずっと繁盛してましたね。はたがみんなさびれててなかったでしょ。ですからもの日なんか商店は夜は閉めない。暮なんか特に、佐竹、佐竹ってわけですわ。

佐竹商店街の中に垂れ幕があって、日本で二番目に古い商店街だとのこと。


映画館、ほか
商店街には久本と浜村亭の寄席と、玉ころがしが二軒、射的が一軒ありました。映画館は第二富士館。私の並びの向こうに水野って電気屋がありますが、それが前は染野って馬力屋だったんです。そこに馬が十頭ほどいてね。私たちはよく釣りに行くのに、釣り糸の代わりに馬屋行っちゃ馬の毛を引っこ抜いて、それつないでよく釣りに行ったもんです。その染野って馬力屋が越した後が映画館になったんです。それから南町会には福王館って映画館がありました。それから竹田の屋敷がなくなって、その跡へ竹林クラブってができて、私が十二、三の頃です。それもじきに焼けちゃった。で、その後、新東京って映画館になったんです。映画館はずうっと長くやってました。昔はそんなふうだからね、かえって今より露店や出店が出たんです。その頃は今みたいに電気がなくて、ランプですよ。それがアセチレンガスになり、それから電気ですね、たどっていくとね。六三亭や久本は割合早くなくなって、浜村亭は、私の七つか八つまでやってました。玉ころがしは、私たちがこどもの時分盛んでした。おとなが、昔のことだから一銭はるんです。六色、色があってね。仮に赤へ一銭はる。そして玉をころがして向こうの赤へ玉が入れば券が出てくるんですよ。その券だと一銭で十五銭ぐらいの品物がとれるんです。はずれると巻きせんべい一本。はずれるとおとなだから、「おっ、おまえにやるよ」って、それを楽しみに毎晩見に行ったもんですよ。料理屋としては、馬肉の亀屋ってのが有名でした。

鳥越には鳥越キネマってのがありました。私たちも尾上松之助後援会っていうのをこさえて、木戸ごめんでね、毎晩のようにね、映画館につめてたもんでした。で、その前は中央劇場って、柳盛座がなくなって中央劇場に変わったんです。連鎖劇をやってました。鳥越キネマや中央劇場があった時分は、第二富士館ってのはなくなっていたし、中央劇場がなくなってからは、昭和の初めに新東京ができて、それが最近まで残ったわけですよ。今の前進座の翫右衛門の兄さんは梅之助ですが、女形できれいでね、歌舞伎へ出るようになって歌門て名前を変えたわけです。今、門のむすこが梅之劫になってるのも、兄さんの名前をとったんでしょう。翫右循門は三井って家にいて、それは仲町会にあって、その時分、三井の家にね、丸札ってのをもらいに行くんですよ。その札で柳盛座にただで入れたんです。七十周年記念の時に翫右衛門さんに、お宅によく丸札をもらいに行ったって言ったら、「懐しいですね、そういう言葉聞くのは」って言ってました。四角い紙の札なんですが、丸札、丸札って言ってました。

普通、遊びっていうと、ここにも映画館あるのに浅草行ったもんですよ。私たちは職人で、仕事して.お盆や暮れは忙しいでしょ。それまでにあげなくちゃなんないっていうと、何日も徹夜する。それでも若いうちは休みになると、浅草まで映画を見に行ったもんですよ。今はなくなったが新堀端って堀割があって、合羽橋へ続いてて、そこをテクテク歩いて浅草へ行ったんですよ。尾上松之助のチャンバラ専門でした。

佐竹商店街の中。震災で焼失した後に再建された昭和初期の商店が今も残る。


冠婚葬祭
昔の葬式は今と違って、みんなお駕籠でした。それで座棺です。少し金持ちの家だと輿ですよ。これだとみんな寝棺です。それで、ま、その家の身上によって放し鳥が出る。鳩と雀の入ったのね。立派な葬式だと五つも六つも続いたんですよ。親族は、みんな袴で、菅笠かぶって、股立ち取って駕籠わきへ付いたもんです。お寺まで。昔はお弔いかせぎっていうのがいて、何をかせぐっていうとお菓子が出る。木の折でね。まんじゅうと打物と羊かんと三つ入ってんですね。それを目当てに紛れ込んで、お菓子をかせぎに来るのが随分いたんです。それがかさばるのでやめて、現物でなくてお菓子の引換券を出すようになった。父が昭和二年でしたが、まだ駕籠でした。昔はね、お葬式が終わると提灯持ってお礼に歩いたんです。そういうしきたりでした。火葬場へも行列して行ったんです。そんな時はね、かまどに入れるでしょ。そうすっと判子押してね。あくる日骨上げです。時問もかかったんです。焼き場の両っ側にこじきが大勢いて、「くれろ、くれろ」っで」言うでしょ。それでやらないとね、「この次お頗いします」っていやみを言うから、みんな小銭を用意したんですよ。

結婚式は、今のような式場がないから、各家庭でやったのが多いですね。長持ちなんか持って来る人は大きな婚礼で、普通だと荷物なんか、昔は荷車で引いて来てました。前の日に運んでね。提灯さげて近所まわりすると、近所も大きい提灯つけてお迎えしたんですよ。昔の方が親しみがありましたね。それから較べると今は殺風景です。昔は葬式だって後でお礼まいりで、提灯つけて、今日はありがとうございましたとね、会葬に来た家をずっと歩いた。これは大変でした。世詰やきも一緒になってずっと歩いたもんです。お通夜だって昔は徹夜ですよ。若いものだけはどこかへ行っちゃって、まあ、遊びに行くんですね。それで朝帰り、棚帰りは池之端の揚出しへ行って、びとっ風呂浴びて、そこで一杯飲んで帰って来たりして。名目は微夜したことにしてそれやったもんですよ。普通の人だと朝までみんないたもんですよ。

こちらも佐竹商店街の中の古い商店。どこかのどかなのだが、時の流れが止まっているかのような不思議な雰囲気の商店街になっている。


玉の井
玉の井ができたのはずっとあとですね。浅草の十二階下ね。あそこに魔窟があったんでね、それがだめになってから玉の井に発展してね。だから私たちが遊びに行く時分は、カェルがガァガァ鳴いてて、そうすね、五、六軒が並んでね、塀囲いがしてあってね、それが飛び飛びにあったもんだった。それが後にあれだけ発展したんです。その時分には友だち四、五人でね、玉の井で遊んでね。今皮は人力頼んで吉原へ、土手八町を人力走らせて遊んだもんですよ。

子どもの頃の遊び
子どもの頃はべーゴマ盛んにやりましたよ。べーゴマ、石けり、鉛めんこ。盛んでした。鉛めんこは、私たちがおとなになっても、こどもはやってたから、昭和の初めまであったでしょ。で、鉛めんこが一等先になくなってね。昔はね、べ-ゴマは金でできないで貝ですよ。あれ、ロウがつまっててね。さんざまわしましたよ。コザでね、やり方はべーゴマと同じで、ただ貝だから軽い。で、そん中へロウをつめたもんです。ロウが赤とか青とかね。それからまた強くするために、自分らでロウソクのロウを溶かして、上付やったりね。金ゴマになってから重みをつけるために鉛を溶かしてつめたりと。まわすのには、桶、持つて来てゴザでさ、やったもんです。それから強い子が勝って取るでしょ。そうすると駄菓子屋でそのべーゴマを買うんですよ。だから、取って、売ってこづかいにする。駄菓子屋ももうかるからよく買ったもんだしね。それから日光写真。ああいうのも盛んにやったもんです。で、それが袋に入って、引くと種板なんか入ってた。そういうのはみんな駄菓子屋で売ってんですよ。戦後、私は駄菓子屋の卸をやったが、食べもののない時で、リンゴの皮や、衣に砂糖をかけた薬のようなものまで売った。考えるとひどい時代でした。」


佐竹の昔の様子については、「大正の下谷っ子」鹿島孝二著青蛙房刊の記述を参考にしていたのだが、こうして別の人の話が加わると、だんだん昔の佐竹が立体的に見えてくるように思える。木村東介氏の著作「池の端界隈」でも、下谷でも有数の繁華街であった佐竹が、喧嘩の名所になっていて、昭和初期に愚連隊を率いていた木村氏が腕試しに佐竹に行く下りがあったのを思い出す。今の佐竹には、そんな往時の賑わいはなく、どこか時代の流れとは違う存在のちょっと不思議な商店街になっている。


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