東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

古老がつづる台東区の明治、大正、昭和~東上野

2012-05-29 20:40:13 | 台東区
台東区教育委員会刊の「古老がつづる台東区の明治、大正、昭和」からこれまでに取り上げてきた町に関する話を取り上げてみている。今回は、東上野。

橋本 米蔵氏
台東区東上野二丁目

「凧屋二代目
四歳のとき、いまのところへきたんですよ。明治三十七年三月墨田で生まれました。うちのおやじというのがねっからの絵好きで、際物問屋に奉公して、際物問屋は季節ものを何でも間にあわっしゃうとこだから、凧なんかも得意で、そこで絵を覚えて、独立したんです。私は西町小学校ですが、もう小学校へ行っている頃から、見よう見まねで、おやじが描いた絵に色づけしたり、それをまとめたのを、問屋に荷車ではこんだりしてました。ここいらずっと長屋で、今でも長屋だけれど、おじいさんって人は明治の半ば頃から上野で友禅をやってたんで、それがおやじの絵に結びついているんですね。おやじから受けついで、ずっと凧屋をやっているけれど、この頃じゃだんだん立ったりすわったりがおっくうなもんだから、大きい凧たのまれてもついあとまわしになっちゃって、何日かかってもできねえで、お客さんにぷうぷういわれんですね。今までやったのでは七尺、幅が九尺から二間ていうとこ。それ以上は、遣具をかたすのが面倒で。


正にこの話の、江戸凧を作られていたことの記念碑が建てられている。この話をされた米蔵氏の次代の三代目の記念碑になっている。この場所に店を構えていたのではなく、少し離れたところだったようだ。



昔の凧上げ
小さいときは、凧をさかんにやりましたよ。大きくなってだって、自分の宣伝がてらあげるんだからよかった。ここじゃ凧は、自分の屋根で上げるんですわ。屋根にいっぱいスノコはっちゃって、物干みたいにしちゃってね。それで、大きい凧、弟と二人で上げたんですよ。弟も好きでね。上げるのはわけなく上がる。だが、おろすのが大変。場所のないところだから。で、落っことして、近所に迷惑かけちゃ大変だと思うからね。うなりが好きでしてね。物干のところに大きなうなり取りつけたんですよ。それが夜中に強い風が吹いちゃってね。ブーブー鳴り出しちゃったんですよ。うちは好きだからその音を歓迎するが、近所の人はおこりますよ。そのときはおこごとくらっちゃって。でもね、まあ凧屋のことだからって、たいがいは我慢してくれるんです。それと、うちの近所には凧の好きな人が五人くらいいまして、風が吹くとお互いに屋根上がってね。このへんには原っぱがなくて、紺屋さんがあってね。この人はね、商売上、はり綱ってのがいるんですよ。そいつがね、凧をさんざん上げた綱だとよれなくて非常にいいんだそうで、綱が要するに伸びきっちゃって。新しいとよりが強いもんだから、よれちゃうことがあるんだそうよ。凧をさんざん上げたやつだと、それがないんで、非常にうまくいくんだってね。そのおやじさんが凧好きでね。よくその人は凧を上げてました。
凧は長く上げて三時間ぐらいでしょうね。ま、用があるから、一家のおやじが凧なんか上げてボヤボヤしてらんない。ひまなとき、うまく風が吹きあわせてくれると、喜んで上げたんですけんどもね。凧キチでもって、身上おっぷるっちゃうんじゃ気の毒だから。尾久の方じゃ、凧キチでもって、賭けごとしちゃって、身上おっぷるっちゃった人がいた。上がる凧がね、花札の凧なんかだったりしてね。坊主だとか、赤丹だとかって、そういう凧が上がったね。上野公園なんかも変わりましたね。あんなに山に家ができたんじゃ、どうにもしようがねえね。昔はほんとうに森みたいな感じで、凧上げるには実によかった。第一、博物館前の噴水がない。それから上野駅の公園口の土手っ原、今、美術館が建っちゃったでしょう。あそこが原っぱで。もちろんあそこは、学校の子どもが秋になると運動会するんでね。それを使ってたね。あとは池之端ですよ。水上動物園になっちゃったとこ、あそこが上げ場だったんですよ。あそこは西風が吹くと、大正博覧会のおきみやげが一つあったでしょう。戦後も、建物がしばらくあったですね。あれにおっかかっちゃってね。池の方へ凧が上がるんですよ。あの建物で、風が欠けるんですよ。そういうのがなくなった。今じゃ、向島の鐘紡の跡あたりかね。こういうのも一人じゃつまらない。語し相手があった方がおもしろいらしいのね。自慢ができるらしいんだ。自分の凧の特徴をね。

凧の自慢
凧の自慢てえと、まっすぐに上がるのと、うなりのいいのね。それから糸目の長いの。従来は、東京の下町の凧は、みな尾をつけたんですよ。それがいつのまにか、尾をつけないで上げるのが自慢になったの。この頃じゃ大きい凧、ほとんど尾がついてないですよ。それはもう大正のしょっぱな頃から、そういう凧を研究してたんですよ。父島にね、矯風会ってのができたのかな。そこにみんなね、全部尾をつけないの。どんな大きい凧こさえてもね、尾をつけないで、糸目を長くして上げたんですよね。あたしのは尾をつけたですよ。知らないから。どうしたらああいうふうに、尾なしで上がんのかと思ってね。自分でやったことあんですけど、上がることは上がりましたけど、今までのと全然いき方がちがうんでね。凧が上がったんだけども、切れて飛んでっちゃったよ。で、くやしいから追っかけてって、小島町のとこまで自転車で追っかけてって取ってきましたよ。それは凄かったね。糸目をここまでつけちゃったんですよ。ここはほんとうはつけるとこじゃないんですよね。で、ここへ二十五本の糸目をつけて、で、うなりをつけて、地凧をこしらえてね。この骨とこの骨、全部下へくるほど太めにして、重たくしたの。要するに、尾っぽのかわりするんだから、下が重たければいいん
だなと思ったからね。で、やって、二十五本の糸目をつけて、で、糸目をね、紙一枚に一間ってわりで二問半つけたのかな。で、物干でやったんですよ。そしたら見事に上がったの。尾なしでね。そのかわり、ここに糸目ついちゃったから、風が切れないんですよ。そのうちに糸が切れて飛んでっちゃったんですよ。凧ってやつは風が切れてね、ちょうど安定性があって、で、うまく上がるんですよ。そいつの場合は、平均にいって風受けすぎちゃったんです。吉原の方に索人で研究した人がいるんですよ。その人は十二階の脇んとこへ、いつでも風があるてえと、二、三枚、見事なね、糸目だけで凧が上がってんですよ。それはね、あたしと考えが全然ちがうんで、風を切るようにして、そいでうわ糸目にして、こういうふうに泳がしちゃって、そいで大きいうなりをつけて。うなりは大きいと、安定性があるんですよ。だから、うなりが上がって、凧が尾っぽになるように工夫してやれば、尾なしで気楽に上がるってことがわかったんですよ。真青な空に赤が映えて凧絵の色づけは、ま、赤でしょうね。これは昔からですよ。それはやっぱり、赤がないとなんか陽気にいかないですよね。お好みでしぶい色ばっかり、写楽みたいなああいう色でやってくれって人がいますけどもね。凧なんてのは、ほんとうに正月のおもちゃで陽気でなくちゃいけないからね。真青なところへ、赤でスッと入るっといいんですよ。


東上野二丁目。



雲の中へ入れてみたい
凧ってのはどのくらいまで上がるかですが、いろいろ工夫して高さに挑戦する人もいますが、それ、一枚の凧じゃなくて、凧つなげたりしてね。でも、連凧みたいのじゃなくて、二、三枚でもって競うんですよ。ある程度、その凧の限界のところで、また一枚つなげるというようなやり方でね。あたしも子どもの時分にね、物干で何とかしてあのフワフワした、中問に雲が浮いてる、あの中へいっぺん凧入れたいと思って、ずい分やったんだけどね。ちょっとはな、煙突よりちょっと高いぐらいかと思ったら、どうしてどうして。それに凧ってのは、ある程度で横になっちゃうんですよね。その頃ね、少年倶楽部なんかにね、ドイツ人で高さに挑戦したとかって出てましてね。あたしら上げる頃に本に出たのは、そのドイツ人の凧とアメリカ人の今でいう百足凧。今はそれでも化繊の糸ができたんで、かなり高く上がるみたい。細くて丈夫なのね。小さな凧でも軽くこさえてね。何枚か重ねて高く上げる人がいますよ。あれ化繊の糸がいいせいで、絹より丈夫なんですよ。


東上野三丁目の町並み。



凧いじってると子どもになる
絵を描いていて、これは傑作だというのも何枚かありますよ。そういうのはちゃんととってありますが、でも、やっぱり出ていっちゃうね。いいと思うと、この方がいいですよなんていって、わざわざ持たしてやっちゃったり。図もこの頃はボケてるから、頭の中にみんな入らねえ。でもね、やってるうちにははあと出てきますがね。
凧好きには名物男がいて、東上野に建一さんって指物師ですが、納札の会を音からやっていた粋な人がいました。般若のタキさんって人は、背中一面に般若の彫りものしてまして、あの人らが集まって凧の会をこレらえたんだけどね。みんな俺が名人だ、名人だになっちゃってね。凧いじくってると子どもになっちゃうのね。般若のタキさんが亡くなったとき、背中の彫りものがいいからってんで、医者がおっぱがしたんですよ。でも年だから、皮の方も弾力なくなっちゃっててね。昔は絵がきまったが、今はなかなか職人てえのは年とっても仕事できるからいいね。ほんとうはみんな下職にやってもらうんですが、それだけ仕事がねえんでね。子どもさんが凧ばなれしちゃってますから。今は絵はこいつ(注妻きよさん)がやってんですがね。毎年十二支を描いて、来年の申で十二枚になるんですわ。だから描き出して十二年になるわけ。この頃の人ってへんな注文をしてくるので閉口しますよ。巳年のときなんて、こいっがヘビいやがるんですよ。ところがお客さんはヘビがいいっていうんです。こっちは巳だから、ヘビと弁天様とを結びつけて弁天様を描く。それがわからないんだね。小判を持って巳成金と榊く、これもわからない。巳成金ってなんだってね。ともかくあと一つで十二支が完成するんで、何とかしてやりてえと思ってんの。こっちがもつか、どっちがもつかわかんねえけんども、ま、無事にすごしたいと思って、それだけは心掛けてんですけどもね。」


この小冊子の中に出てくる中でも、非常にユニークなのがこの江戸凧を作られていた方の話。この中では凧屋二代というタイトルになっているが、最初に載せた写真の記念碑には三代目の名前が刻まれている。この本は昭和55年に出たものだから、すでに30年の歳月が経過している。今は江戸凧の店も下谷からは姿を消してしまった。それにしても、この凧を好きな人たちののめり込みようは面白い。こういった遊びに深くのめり込んでいくことは、今の時代でも珍しいものではないし、むしろ市民権を得たと言えるように思える。南稲荷町とか、西町とか言われていたこの辺りも、昔ながらの長屋の多く残るところと、ビルが多く建って町の姿が変わってきているところが混在している。かつてこの町で暮らしていた人の話を知ることで、どんな町でどんな雰囲気であったのか、少しでも窺い知ることができる。

杉浦 修治氏
台東区東上野三丁目

「青木長屋
私が東京に出てきたのは大震災の頃で、十二歳のときでした。明治四十四年二月北海道で生まれて、何しろ原野ですから、小さいときからスキーやスケートやったり、それも道具は自分で古い下駄に車をくっつけたり、竹をあぷって打ちつけたり、そこでは、ゲロリ、ゲロリってスケートのこといってました。スキーだって平べったい板を二本みつけてきて、そのまん中ヘマキをはさんで、ぎりぎりにしばって先をとんがらしで、、それを川のよどみに半年ぐらいつけて、冬はストーブ焚くから、そこで乾かしてロウをぬる。そういうのを使ったり、コマだって自分でつくって、竹の先へひもをつけて、そのひもを巻きつけてピュッと放すとクルクルまわる。それをひもでひっぱたく。東京に出てきて初めてべーゴマというのを見たんです。
御徒町に叔父が荒川箒店っていうのをやっていて、そこへ奉公しました。叔父の家といっても普通の奉公人と同じ待遇で、それでも学校へは行かせてくれたんです。御徒町のあたりは青木という大きな大家があったほかは、あとはほとんど長屋でしたね。叔父が住んでいたのは青木長屋といって、大家というのは大変なえばりよう。親方が借りていたのは店が二間の二問で、奥は四畳半一間、二階は六畳と四畳半でした。うちの中は暗くて、夕方五時頃になると電気がつき、朝は六時頃に消えました。一率料金なので、仕事をしているときはほとんど電気をつけていたが、それでも暗かったですね。
そこでは職人を五、六人使っていて、大正年間が一番箒屋の盛りでしたね。箒ができると売りに歩くのがいるんです。私はやらなかったが、一日百軒はまわります。今日は深川の先までとかきめても、売物が残ってしまうと、その先の市川の方まで行かねばならない。でも、その時分としては、結構いい商売になりました。あの頃は、どこの家にも箒が表から見えて、小ぎれいに飾ってあったりして、今とちがって往来なんかを、箒を買って誇らしげにかついで行く人もずい分いましたからね。箒も赤や青ときれいでしたね。

下谷小学校
私が行ったのは下谷小学校で、場所は上好駅に近く車坂町三十三番地です。ぜんざい食堂という大きな食堂のそばで、その頃生徒は干人ぐらい。一クラスは五十人ぐらいだったかな。ちょうど、震災で焼けてしまって、校舎はバラックでした。小学校でも五、六年から軍事教練をやらされたんです。在郷軍人が教官で、木銃もってよくやらされましたよ。小学校ではめずらしいことでした。家へ帰ると子守りです。遊ぷというわけにはいかなかったですね。あっちでもこっちでも、学校の友達がみんな子守りをしている時代でした。でも子守りをしながらも賂地から路地と歩けたし、駄菓子屋はすぐそばにあったし、子どもの頃はそういうものだと思って、結構たのしかった。
箒屋は、独立しても箒つくって売れる、職商人だからいいと思ったんです。小僧の収入というと、一日、十五日に一円、たまに二円ぐらいくれたこともあったが・・・・・・。だから浅草へ行くのが何よりのたのしみで、活動写真が十銭ぐらいですから。映画を二本みて天丼たべても、五十銭は貯金できました。縁日のときは一銭か二銭別にくれましてね。それで飴を買ったね。


現在の旧下谷小学校。今は統合されて、この場所は使われていない。震災復興期に建てられた校舎が今も残る。



下谷榑社の縁日
縁日は近くでは下谷神杜。下谷神杜はいまキリスト教会のあそこにあったんですよ。それが区画然理でこっちへきたわけね。あの当時は裏の方にも見世物が出たんですよ。縁日の日は動物の芸なんかね。縁日は上野駅のところまでつづいていて、植木屋がずっと並んでました。浅草観音や靖国神社にも見世物がかかってね。多くは曲馬団や手品ですね。人をだますような、それでいておもしろくて、よく入ったもんですよ。安かったからね。


下谷神社。震災前の地図と照らし合わせてみると、浅草通りは拡張されているし、町割も道路が縦横に通されて大幅に変わっている。震災前の町は、江戸時代には武家地であったところだが、町割にはその面影を残していた。



小僧時代
奉公は、冬なんか今思い出しても冷たかったね。ガラス戸でなく板戸で、仕事するときは外はあけっぴろげで、戸は路地へ立てかけておく。火鉢一つで吹きっさらしでした。手はかじかんでしまう。しもやけでこんなにはれあがって、しまいにはくずれてきて、そこを親方にぴしゃっとひっばたかれる。そりゃあ悲鳴があがりますよ。長くすわっていると、子どもだから足がいたくなってくるんです。それで足を出すとビシッとやられるんです。箒というのは、つくりはじめて三十分くらい水につけておくんですね。そうするとガチンガチンに凍ってくる。それをすぐあげはじめるでしょう。冷たいの冷たくないのって、そういうことがつらかったね。手なんかカチンカチンに凍ったみたいになる。いい仕事ができないと何度も何度もやり直しをする。そのうちに乾いてきちゃって、編めなくなるんです。そうするとパチンと折れてしまう。折れると白い殻が見えてくる。そりゃ売りものにならないから修繕ということになる。別のをすうっとさいて、うまく穴をあけて、わかんないようにさしこむんですよ。そういうとこは苦労しましたね。どこの商売も同じでしょうが、いまの人じゃ一日でだめでしょうね。奉公は兵隊検査で一人前になるんですよ。それで羽織をもらって、そこで一本いくらという手間になるんです。その当時一本四銭でした。手籍は二銭。長いので四銭。私の頃は五つ玉や七つ玉っていうのをつくったが、そのうちに櫛型というのに改良されていった。それになってから十銭もらったんです。十本で一円です。住み込みだから食費などで六十銭引かれちゃうんです。
箒つくるだけなら三年もすればできるが、箒が何匁か目分量でわかるようにならないと一人前じゃなくてね。荒物屋さんが何匁つけてくれと注文にくる。百二十匁つけてくれとかね。箒は普通百五十匁。安もので百匁。いま一貫匁四干円ぐらいだからもうけはあまりないですよ。ときたま教えてくれという人もきますが、条件きくといやになるらしい。箒の将来だって、これからは機械編みですよ。私らの手編みはもうだめです。中部地方に工場生産するとこがあるんですが、台湾で半製品にしたのをこちらへもってきてつくっている。そういうのがどんどん出まわってくる。だからもうねえ。箒はよく曲っちゃうが、あれつくるとき、中を平均すれば曲らないんですよ。でも、私なんかつくったの、「この子が生まれたときに買った」といって、小学校一年生の子つれてなおしにきた人があったが、あんまり長持ちするのでいやになっちゃった。」

東上野三丁目の町並。



今の時代になってみれば、こんな風に職人仕事で生み出されていた箒が貴重なものであったことがよく分かる。昔の時代であっても、安価なものではなかった。だから、道具を大切に使ったし、壊れても直して使うことが当たり前だった。安直に手に入るから安直に捨てられる。それにしても、職人の世界の話は、興味深い。そして、彼らの息抜きとリフレッシュの場として浅草があったことが偲ばれる。さらにいえば、大正っ子シリーズの著者たちは、同じ町に生まれながら奉公に出る人々とは近いのに、違う世界を生きていることを感じる。その違いも含めて、この話は読んでいて面白い。今ある町の過去の姿を知ると言うだけではなく、社会の変遷というところまで視野に入ってくるように思える。

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1 コメント

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そこじゃないし (ゴリラ)
2018-06-30 21:28:04
家はあのうらだし
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