さて、先日表題にも書いた「古写真に見る明治の東京~浅草区編を見る」で書いた厩橋の写真に何か得体の知れないものが写り込んでいるという件、意外に呆気なくその正体が分かってしまった。結論から書いてしまうと味気ないので、改めてその経緯から。厩橋は渡しがあったものの度々舟がひっくり返ることがあったそうで、事故が多かったという。そこで明治7年に初めて木橋が掛けられた。その橋が写っている写真がこれである。
この奥の家並みの上から丸く顔が突き出しているかのように、何かが写っている。その拡大したものがこちら。
角度の違う写真でも写り込んでいて、どうにも不思議な気がした。写真展のトークショーでは、古写真研究家の井桜直美氏が「上野の山で軽気球を上げたものが写った」説を唱えられていた。トークショーの後に、改めてその写真をギャラリーで見たのだが、すっきり納得できなかったというところまでは前回書いた。
まず、当時の様子を地図で調べてみる。一番お手軽に見られるのが、gooの古地図。明治40年頃の地図なのだが、ネット上で直ぐに見ることが出来るのがメリット。戦後直ぐの航空写真も見られるので、空襲で焼失したのか、焼け残っているところなのかも直ぐに分かる。これで厩橋を見てみると、既に市電が走っている。調べてみると、厩橋は明治26年に鉄橋が架けられ、橋が架かったことから春日通りを通す話になったという。そして、この時に架橋位置も100m程度上流へ移動している。
そう思って、gooの古地図を見ると、元の厩橋があったと覚しきところにはその痕跡が残されている。岸に出っ張りが書かれているのと、浅草区側の橋へ通じていた道筋がそのまま残されていた。浅草区側から旧厩橋があった方向を見ると、今はこんな感じ。
最初の写真のアングルに近いように立ってみたところ。さすがにビルが多くて、まるで景色の見通しが悪い。
さて、再び地図で探索してみよう。丁度、旧厩橋の取り付け道路の延長線上を見ていくと、正覚寺というお寺がある。これも調べてみると、今は名前を榧寺(かやてら)という名に変えて今の同じ所にある。謎の顔はその辺りにあるのではと思えたので、4日に日曜日に出掛けたついでに蔵前にに行ってみた。そして、夕方の榧寺に突然お邪魔してお話を伺ってみた。
残念ながら、昔も大仏様があったと言うこともないそうで、写真を見て頂いても分からなかった。古いことを御存知のお坊さんがおられるそうだが、その日はお休みとのことでもあった。残念。
帰宅して改めて考えてみると、大仏ということはないだろうという気がしてきた。というのも、写真に写っているのが頭だとすると、ほぼ家一軒分位のサイズがある。鎌倉の大仏様だって頭はそこまで大きくはなかっただろうと思う。仏像のプロポーションではないと思える。だとすると、その辺りの商店などで奇抜なことを考えた人がいて、巨大看板を出していたとかいうのならあるのではないかと思った。顔というのは、人間が自然に認識してしまう脳の働きを持っているから、一番キャッチーなものでもある。
そんなことを思いながら、「蔵前 大看板 明治」とか、適当に言葉を選んでみながら検索を掛けてみた。すると、一覧に「奇抜な見世物も多いがこれらは特別、明治十二三年ごろ浅草厩橋の近所、蔵前へでき たハダカ女の大人形、高さ三丈 .....」という下りが見えた。なんだ?これは一体?リンクをクリックして、中身を読んでみると、なんと明治10年に蔵前の八幡様、今の蔵前神社の境内で高さ15mもある巨大な玉取姫と名付けられた胎内巡りのできる巨大な見せ物が行われていたというのだ。そのブログは「見世物興行年表」というのだが、実に面白い。こうして、貴重な資料を整理してテキスト化して頂いているお陰で、検索を掛けることで答が引き出せるわけで、蹉跎庵主人氏には感謝したいと思う。
これがいまの蔵前神社入り口。
早速、そのブログで紹介して頂いている資料に当たってみた。「梵雲庵雑話」淡島寒月著岩波文庫刊は、この話を別にしても面白い。江戸から明治に掛けての東京の町の様子が生き生きと描かれていて、楽しめる。語り口も軽妙でとても良い。
「何でもかんでも大きいものが流行って、蔵前の八幡の境内に、大人形といって、海女の立姿の興行物があった。凡そ十丈もあろうかと思うほどの、裸体の人形で、腰には赤の唐縮緬の腰巻をさして下からだんだん海女の胎内に入るのです。入って見ると彼方此方に、十ケ月の胎児の見世物がありましたよ。私は幾度も登ってよくその海女の眼や耳から、東京市中を眺めましたっけ。当時「蔵前の大人形さぞや裸で寒かろう」などいうのが流行った位でした。」
と、最初のページにこの話が出ている。後まで読み進んでいくと、芝増上寺やら浅草浅草寺の山門やら、高いところに上らせるものが無かったわけではないけど、純然たる見せ物として高いところに上らせる為に作られたようなものとしては、この玉取姫の大人形が嚆矢と言っても良いような存在である様子。
ブログ「見世物興行年表」によると、神田花岡町の火除け地に作るつもりだったものが見せ物が禁止になったので、蔵前八幡社の境内に作られることになったという。神田佐久間町とか、花岡町の火除け地というのは、明治2年に大火事があって、その後に作られた火除け地のこと。そこに皇居内紅葉山から鎮火社が勧請されたものを、市民が勝手に秋葉神社だと言い習わして秋葉原という地名が出来てしまったという、正にその場所のこと。そして、出来た火除け地があっと言う間に見せ物小屋の出るような、盛り場になっていたことが分かるのも面白い。明治10年に見せ物の禁止がされたというのだが、火除け地に秋葉原貨物駅が開業するのは明治23年のことで大分先だから、鉄道建設とは関係なく、ブログ「見世物興行年表」の分析の通りの理由によるのだろう。
そして、『明治の演芸」(一)倉田喜弘編国立劇場調査養成部芸能調査室刊に掲載されている玉取姫の引き札はこちらである。
今なら、この画像はイメージですとか、但し書きを付けないと行けないのかもしれない。決定的にこれで一致という証拠が出たわけではないが、改めて地図上での位置関係などを考えてみても、写り込んでいる大きさを考えてみても、厩橋の写真に写っているのは、この玉取姫の大人形であろうと思う。一年ほどしか存在しなかったというが、スカイツリー開業の遙か昔に蔵前で人に高見から景色を眺めさせる事始めがあったというのは、とても面白い事だと思う。しかも、それが当時極めて希少だった写真に写し取られていたということも、非常に面白い事だと思う。スカイツリー開業に皆で大騒ぎをしているが、明治の昔から同じ様なことをやっているというのも、人の性としても笑える話ではないだろうか。
この奥の家並みの上から丸く顔が突き出しているかのように、何かが写っている。その拡大したものがこちら。
角度の違う写真でも写り込んでいて、どうにも不思議な気がした。写真展のトークショーでは、古写真研究家の井桜直美氏が「上野の山で軽気球を上げたものが写った」説を唱えられていた。トークショーの後に、改めてその写真をギャラリーで見たのだが、すっきり納得できなかったというところまでは前回書いた。
まず、当時の様子を地図で調べてみる。一番お手軽に見られるのが、gooの古地図。明治40年頃の地図なのだが、ネット上で直ぐに見ることが出来るのがメリット。戦後直ぐの航空写真も見られるので、空襲で焼失したのか、焼け残っているところなのかも直ぐに分かる。これで厩橋を見てみると、既に市電が走っている。調べてみると、厩橋は明治26年に鉄橋が架けられ、橋が架かったことから春日通りを通す話になったという。そして、この時に架橋位置も100m程度上流へ移動している。
そう思って、gooの古地図を見ると、元の厩橋があったと覚しきところにはその痕跡が残されている。岸に出っ張りが書かれているのと、浅草区側の橋へ通じていた道筋がそのまま残されていた。浅草区側から旧厩橋があった方向を見ると、今はこんな感じ。
最初の写真のアングルに近いように立ってみたところ。さすがにビルが多くて、まるで景色の見通しが悪い。
さて、再び地図で探索してみよう。丁度、旧厩橋の取り付け道路の延長線上を見ていくと、正覚寺というお寺がある。これも調べてみると、今は名前を榧寺(かやてら)という名に変えて今の同じ所にある。謎の顔はその辺りにあるのではと思えたので、4日に日曜日に出掛けたついでに蔵前にに行ってみた。そして、夕方の榧寺に突然お邪魔してお話を伺ってみた。
残念ながら、昔も大仏様があったと言うこともないそうで、写真を見て頂いても分からなかった。古いことを御存知のお坊さんがおられるそうだが、その日はお休みとのことでもあった。残念。
帰宅して改めて考えてみると、大仏ということはないだろうという気がしてきた。というのも、写真に写っているのが頭だとすると、ほぼ家一軒分位のサイズがある。鎌倉の大仏様だって頭はそこまで大きくはなかっただろうと思う。仏像のプロポーションではないと思える。だとすると、その辺りの商店などで奇抜なことを考えた人がいて、巨大看板を出していたとかいうのならあるのではないかと思った。顔というのは、人間が自然に認識してしまう脳の働きを持っているから、一番キャッチーなものでもある。
そんなことを思いながら、「蔵前 大看板 明治」とか、適当に言葉を選んでみながら検索を掛けてみた。すると、一覧に「奇抜な見世物も多いがこれらは特別、明治十二三年ごろ浅草厩橋の近所、蔵前へでき たハダカ女の大人形、高さ三丈 .....」という下りが見えた。なんだ?これは一体?リンクをクリックして、中身を読んでみると、なんと明治10年に蔵前の八幡様、今の蔵前神社の境内で高さ15mもある巨大な玉取姫と名付けられた胎内巡りのできる巨大な見せ物が行われていたというのだ。そのブログは「見世物興行年表」というのだが、実に面白い。こうして、貴重な資料を整理してテキスト化して頂いているお陰で、検索を掛けることで答が引き出せるわけで、蹉跎庵主人氏には感謝したいと思う。
これがいまの蔵前神社入り口。
早速、そのブログで紹介して頂いている資料に当たってみた。「梵雲庵雑話」淡島寒月著岩波文庫刊は、この話を別にしても面白い。江戸から明治に掛けての東京の町の様子が生き生きと描かれていて、楽しめる。語り口も軽妙でとても良い。
「何でもかんでも大きいものが流行って、蔵前の八幡の境内に、大人形といって、海女の立姿の興行物があった。凡そ十丈もあろうかと思うほどの、裸体の人形で、腰には赤の唐縮緬の腰巻をさして下からだんだん海女の胎内に入るのです。入って見ると彼方此方に、十ケ月の胎児の見世物がありましたよ。私は幾度も登ってよくその海女の眼や耳から、東京市中を眺めましたっけ。当時「蔵前の大人形さぞや裸で寒かろう」などいうのが流行った位でした。」
と、最初のページにこの話が出ている。後まで読み進んでいくと、芝増上寺やら浅草浅草寺の山門やら、高いところに上らせるものが無かったわけではないけど、純然たる見せ物として高いところに上らせる為に作られたようなものとしては、この玉取姫の大人形が嚆矢と言っても良いような存在である様子。
ブログ「見世物興行年表」によると、神田花岡町の火除け地に作るつもりだったものが見せ物が禁止になったので、蔵前八幡社の境内に作られることになったという。神田佐久間町とか、花岡町の火除け地というのは、明治2年に大火事があって、その後に作られた火除け地のこと。そこに皇居内紅葉山から鎮火社が勧請されたものを、市民が勝手に秋葉神社だと言い習わして秋葉原という地名が出来てしまったという、正にその場所のこと。そして、出来た火除け地があっと言う間に見せ物小屋の出るような、盛り場になっていたことが分かるのも面白い。明治10年に見せ物の禁止がされたというのだが、火除け地に秋葉原貨物駅が開業するのは明治23年のことで大分先だから、鉄道建設とは関係なく、ブログ「見世物興行年表」の分析の通りの理由によるのだろう。
そして、『明治の演芸」(一)倉田喜弘編国立劇場調査養成部芸能調査室刊に掲載されている玉取姫の引き札はこちらである。
今なら、この画像はイメージですとか、但し書きを付けないと行けないのかもしれない。決定的にこれで一致という証拠が出たわけではないが、改めて地図上での位置関係などを考えてみても、写り込んでいる大きさを考えてみても、厩橋の写真に写っているのは、この玉取姫の大人形であろうと思う。一年ほどしか存在しなかったというが、スカイツリー開業の遙か昔に蔵前で人に高見から景色を眺めさせる事始めがあったというのは、とても面白い事だと思う。しかも、それが当時極めて希少だった写真に写し取られていたということも、非常に面白い事だと思う。スカイツリー開業に皆で大騒ぎをしているが、明治の昔から同じ様なことをやっているというのも、人の性としても笑える話ではないだろうか。
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