東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(8)大川端

2012-02-08 00:30:59 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

大川端、隅田川の畔をこう呼ぶのはやはり隅田川を親しく感じながら育った人たちなのだろうと思える。今は、堤防で川が遮られているから、こんな風に親しげに川を感じる人もいなくなったと言うことなのではないだろうか。
「浜町公園は子供のころの遊び場のひとつだった。清洲橋をわたって中洲をすぎ、もうひとつ箱崎川にかかる菖蒲橋をわたると、電車通りに出る。そのさきの右手をはいったところに清正公の社殿があって、そこが公園の入口であった。」
浜町公園は、昭和4年に開園した中央区最大の公園で、江戸時代から熊本藩細川家の下屋敷があり、明治になっても細川家の屋敷があった。関東大震災で焼失した後、復興事業の一環として公園として整備された。今日でも中央区立総合スポーツセンターがある。また、細川家の屋敷であった縁から園内の一角には清正公が祀られている。細川家の屋敷であった頃から、清正公は一般に公開されていたという。今は日本橋蛎殻町にある水天宮も、元々は三田の赤羽橋にあった久留米藩有馬家の屋敷内に祀られていたもので、これを決まった日に一般公開していたという。明治維新後に有馬家の屋敷となった日本橋蛎殻町へ移され、今ではランドマークになっている。さて、清正公とはもちろん、加藤清正公を祀っているからその名が付いているので、白金の清正公が都内では知られているが、こちらも熊本藩中屋敷があったことからできたもの。

戦災で焼失しているので、この社殿は戦後の再建。


「ふだんの遊び場は、清洲橋のそばの”にんべん”という名の雑草地であり、清澄公園、清住製材所ほ貯木池であった。そのほか門前仲町の深川不動尊とか富岡八幡裏の富士塚、森下町の神明宮などにも出かけるのだが、浜町公園に魅力を感じたのは、二十五メートルの東京市営プールができたからである。私は久松町での入院生活を経験してから、浜町界隈のたたずまいを知りはじめたのだが、小学三年の夏からは、兄に連れられて、あるいは近所の友人といっしょによく浜町公園のプールに出かけていった。草原のような月島の突端にある水練場で、東京湾独特の三角波にあおられるよりは、プールのほうが好ましかった。」
隅田川で夏休みに泳ぎを習うことができていたのは、明治40年頃までだったようだ。大正に掛かる頃には、川の上流域の工業化、都市化が進んだことさらには航行する船舶が数多くて、水質汚染が進行していった。明治40年代頃までは、両国橋のやや下流の日本橋区側の矢の倉という辺りに水練場があったという。そこで夏休みになると泳ぎを教えて貰えた。慣れてくると川を往復し、最上級になるとお台場までの遠泳があったという話を木村莊荘八が書いている。その後の大正頃には次第に上流へと水練場は移動していき、千住大橋の辺りで泳いだという。

「中国や南方での戦争が拡大して、物資不足の時代となると隅田川の水はきれいになった。船の航行が少なくなり、油で汚れなくなったからである。朝夕の満どきにはボラやセイゴの大群が押しよせてきた。釣天狗を自称していた父は、私にバケツをもたせ、清洲橋のたもとや川べりの倉庫の片隅で釣り糸をたらすのだった。それはおもしろいほどによく釣れて、バケツはたちまち魚でいっぱいになった。
 戦争中の隅田川の光景で記憶にのこっているのは、この川を泳いで下る一団がいたことである。あるいはほかにもいくつかのグループがあったのかもしれない。あとさきに、端を建てた小舟の介添いをうけ、十数人の大人や若ものたちが清洲橋の下をくぐってゆく。見物人が手をふると、それにこたえるかのように、エーイ、エーイ、オーと気勢ををあげるのであった。両国橋あたりで飛びこんで、月島の水練場で上がるときいた。また、月島から御台場をまわるという一団もあったらしい。」
というのは、正に明治以来の大川の水練を再現した行動だったのだろう。恐らくは矢の倉で水練をした様な人たちが、まだ壮年という時代でもあり、今ならかつての様に隅田川で思い切り泳ぐことができると気付いた人がいたのだろう。正に川を身近に暮らしてきた人たちの気持ちを感じるような話だと思う。


「四年生のとき、白河町のキリスト教会日曜学校主催による立川の林間学校に参加したことがある。十日間、多摩川ではじめて水泳をならったが、自信をもつにはいたらなかった。急流にはまりこんで溺れかかったこともあったので、むしろ川に恐怖を感じた。その教会は神田三崎町教会のブランチで、アキスリングさんというアメリカ人の宣教師が牧しておられたが、敵国人だ、スパイだといわれて、四六時中、警防団にうるさくつきまとわれていた。そのため、神田の子供と深川の子供との楽しい夏の共同生活は、この一回だけで終わった。」
すでに日中戦争は泥沼化しており、この時点で戦争で社会の疲弊はかなり進行していた。私の祖父が当時つけていた覚えが残されているのだが、太平洋戦争開戦前の時点でも町内での戦死者への香典が数多く書かれている。そして、対日圧力を高めてくるアメリカに対しても神経が尖っていく様がよく分かる。そして、正にその太平洋戦争直前の束の間の夏に、隅田川を泳ぐ人々がおり、近藤氏は林間学校の経験をしていた。

「私たちの小学校では毎夏、千葉県岩井の漁師の家を借りて臨海学校をひらいていた。五年生になるとそこに参加できた。男子だけの学校だったので、厳しく荒っぽく、ことに担任の見富先生は「松下陋村と雖も誓つて神国の幹たらん」という吉田松陰の言葉をひいて、松下村塾流の教えを説いていたので、こころのひきしまるのをおぼえた。ともかく軍国時代のスパルタ教育だったが、岩井の海にはいってみると、ひとりでに体が浮いて、泳げるようになった。二週間の合宿の最後に水泳のテストがあり、私はいちばんむずかしい三千メートルの遠泳に挑戦してみた。小舟に乗って沖合に出、海に飛びこんでから岩井湾を一周するという競技だ。脱落するものが多かったけれど、私は歯をくいしばって数人の六年生のあとについていった。手足がふやけて白くふくれあがってしまい、ほうほうのていで上陸した。しかし、まがりなりにも完泳できたという心身の充実感はいまだに忘れがたい。
 私はどこかの水練学校にはいって、隅田川の遠泳に参加してみたいと考えていた。しかしその年の十二月八日には太平洋戦争がはじまり、川での遊泳は禁止になった。大川の水にはいれなかったことが、少年時代の悔いとしてのこる。」
私は勿論戦後もいいところの生まれだが、やはり岩井へ臨海学校へ行った記憶がある。文京区の小学校へと越境入学というのをしていたのだが、五年生の時には文京区湯島の体育館のプールの水泳教室へ行かされていた。その教室の合宿で岩井の隣の富浦へ行き、その翌年は小学校の臨海学校で岩井へ行った。私はやはりプールで泳ぎを覚えたので、波があって塩辛い海よりも、プールのほうが泳ぎやすいと思っていた。また、軍国のスパルタ教育とは程遠い時代でもあったから、海でもあまり遠泳というのはなかったと思う。調べてみると、今でも東京の小学生は岩井へ臨海学校へ行っているようだ。私が行った時には、両国駅で集合して貸し切りの電車に皆で乗っていった覚えがある。今はどうしているのだろう?あまり両国から電車が出る事もなくなっているようだ。
そして、とうとう太平洋戦争が始まり、川で泳ぐどころではない時代になっていくのだが、この下りには隅田川のそばで生まれ育った人らしい大川への愛情を感じる。明治生まれの人が自慢げに話す様に、隅田川で泳いだという経験は重みのあることだと思う。

「つい先日、清洲橋をわたってこんなことを想い出したのだが、対岸の中洲はずいぶん様相を変えている。左手につらなっていた倉庫群はアパートになり、右手の中洲病院や料亭のたちならんでいたところもそれと似たような建物ばかりである。ただ一軒、昔ながらの料亭がのこっているが、防潮のコンクリート壁にとざされて、その家屋は沈んでいるかのようにみえた。」
この連載が書かれたのは平成2年頃だが、それから20年の歳月が流れ、中洲には既に料亭は一軒もない。かつてのこの地の面影を偲ぶ縁もなく、今はマンションが建ち並んでいる。隅々までの注意深く覗き込みながら歩くと、海運会社や倉庫を見つけ出すことができる。箱崎川の跡は高速道路に覆われて昼でも薄暗い。


「大きな隅田川と小さな箱崎川にはさまれたこの島は、倉庫ばかりかとおもうと、そうではなかった。小ぢんまりとした日本家屋があったり店もあった。あたりは静寂そのものだが、ときおり人力車が走ってくる。
 上流の男橋からはいったり、中洲病院の横を曲がったりすると、その一角はさらに異様だった。物音もしないほどしんとしていて、道路には打ち水がなされている。料亭の入口では、車夫が手持ち無沙汰をかこつかのうように煙草をくゆらせていて、じっとこちらをみつめたかとおもうと、煙管の頭をたたいたりする。そんなときに着飾った日本髪の女性たちがなまめかしい声をあげてでいりするのだった。
 私は子供ごころにも、ここに入ると大人からおこられるような気がして、おそるおそる入るのだった。そしてすぐ逃げてくる。見てはいけないものを見たような気がした。自分が男であっても、男橋のほうこそわたってはいけないようにおもえた。しかしまた覗きに行きたくなるのであった。」
今は川も埋めたてられてしまい、頭上を高速道路が通っている。隅田川は変わらないものの、高い堤防が水面の雰囲気を断ち切っている。中洲も箱崎も浜町と地続きになってしまい。コンクリートの味気ないマンションが建ち並んでいるのが今の中洲である。料亭というのも東京中で既に絶滅に向かっており、それが並んでいた雰囲気というのも今となっては昔語りの中に見出すしかない。私の経験の中では、以前このブログに掲載した白山の花街が小学生時代にはまだ息をしており、小学校の下校途中にその横を通ると昼下がりの午後に三味線の稽古の音色が聞こえたり、石畳の路地に打ち水がされていたりという景色が記憶に残る。また、紀尾井町の福田屋に撮影の仕事でお邪魔したことがあり、今のビルディングになる前の建物の玄関の佇まいや、下足のあたりでの空気感が、ここに書かれているような風だったのを思い出す。そして、この子供が叱られそうな気分になるという感じもよく分かる。私の幼い頃でも子供は相応しくないところにいれば、そこいらの大人に叱られるのが当たり前であった。だから、大人の場所である料亭のあたりを子供がウロウロするのが場違いであり、なんだか興味を惹かれながらも、おこられそうに思えるという感覚が理解できるのだ。この右手奥が男橋の跡である。


今も箱崎川の痕跡は残っている。


中洲は十八世紀後半に築島されている。
「大正五年刊行の『日本橋区史」によると
「安永四年には茶屋九十三戸、湯屋三戸、其他商家若干を見るに至れば、町名を三股富永町と称す。爾来十四年間繁栄を極めたりしが、洪水の際衡激するを以て利便ならずとなし、寛政元年十月、大川筋修築に際し、この地を毀撤し、翌二年旧来の水面となし、十余年間埋築建設の業一朝にして潰えたり。然るその後追年芦葦漸く叢生し、却つて水路を阻害すること少なからざれば、官庁これが埋立を計画し、明治十九年四月二十五日竣成し、日に月に人家増加す。即ち旧称に因りて中洲町と名づく。」
 江戸・東京の街づくりが、開削と埋立ての連続のうえに成り立ったものとすると、この小さな島も土木事業の典型的な産物である。しかし自然の猛威にはかなわなかった。安永四年(一七七五年)に九十三戸の茶屋がおかれたのは大都会の住民に必要な歓楽であり、江戸の施策であったとしても、わずか十四年で壊滅したというのは、水の恐ろしさを痛感したからにほかならない。いまでは防潮壁が大きく立ちはだかっている。」
江戸時代に浅瀬であったところを埋めたてて島にし、茶屋に湯屋と、賑やかな歓楽街になっていた様子だが、十四年で皆壊してしまい、元の川に戻したという経緯があった。それを明治になって再度埋立を行ってできたのが中洲ということになる。昭和の初めに荒川放水路が完成するまでには、隅田川の水害というのも現実的な問題であった。江戸以来、市中を守る為に上流域が洪水に見舞われることも度々であったし、洪水までは至らなくとも激流に見舞われたこともあっただろう。そんな事態には、中洲はひとたまりもなかったということだろう。それにしても、一度埋立で造った島を放棄したというのは、その時代であっても異例なことであっただろう。

ある時、著者は句会で中洲の話になり、茶屋にくわしい先輩二人から「中洲」を正しくは「ナカズ」と読むのだとたしなめられる。胃弱の下風が頼りとした中洲病院の医師大石貞夫は不鳴庵と号したし、戒名も不鳴自然居士だったことをおもいおこしてみたものの、なかなか納得がいかない。著者の生地のとなりの平野町(いまは平野)に住む泉鏡花研究家の手塚昌行氏に会ったとき、どんなものだろうかと相談してみた。すると彼もナカスであった。二人とも迷ってしまったが、手塚氏はわざわざ知りあいにあたって、つぎのような手紙をくれたという。
「「さて、『中洲』の読み方が気になりましたので、改めて聞いてみました。やはり『なかず』ではなく、『なかす』だとのことでございました。その人はもと中洲の料亭『弥生』のお嬢さんで、そこで生まれ育った人でございます。
 中洲の料亭は、隅田川の護岸工事によって、一階から川が見えなくなり、風景が損なわれたため、次々と閉店していったとのことでございます。そして跡地は、マンションや事務所用のビルとなり、今は唯一軒『みた』という店だけが残っているそうでございます。・・・・・・・・・・」
中洲が変わっていく有様がよく分かる一文になっている。昭和三十二年から昭和五十年に掛けて高潮対策事業としてカミソリ堤防が建設された。防災上から考えればやむを得なかったものであはるが、長い間生活に親しいかった隅田川を町から切り離してしまったのも確かに思う。近年はその反省から、親水テラスなどが造られて川面に近づけるようになったのは良いことだと思う。とはいえ、景観だけではなく、町の有り様まで大きく変えてしまったのは罪なことだった。最後まで残っていた「みた」も今は無く、中洲に料亭があったという痕跡は、清洲橋通りの元の菖蒲橋が架かっていた脇にある金比羅宮の玉垣だけしかない。



これが親水テラス。箱崎の辺りから上流を望んでいる。


「小山内薫の『大川端』に出てくる主人公小川正雄は、中洲の「新布袋屋」という料亭で暮らしたことのある若い演劇人である。その家は男橋を左にみて、そのつきあたりの路地をはいってすぐ右側とあるから、正確な位置をたしかめることができる。中洲の「三股」の突端だといっていいであろう。大川の水景のすばらしい場所だったにちがいない。部屋の窓から外をみると、庭の飛び石は小さな桟橋につづいていたとあり、川にはさまざまな船の往来があり、その音や対岸のセメント会社の煙突の火など描きこんでいる。」
小山内薫という人は、実に多才な人であったと思う。演劇に主軸を起きながら、文学のグループの数多くにも関わっており、様々な人のことを調べているとその名が出てくる。「新劇の父」と呼ばれ、存在感の大きな人物なのだが、わずか48歳で急逝したという。昭和3年のことであった。このブログで取り上げてきた長谷川時雨、木村莊太、そして荒川放水路の工事を指揮した技師の青山士とも交友関係があった。厳しい時代へ向かっていった昭和の始めだが、彼がもう少し生きていれば、まだまだ数多くの足跡を残していったことだろうと思う。


「『大川端』は大学を出てまもないころの、うぶな文学青年の下町惑溺の書である。山の手で育った彼が芝居の世界にはいって、はじめて経験した憧憬と頽廃と、生真面目さと放蕩ぶりを描いている。君太郎、小さと、せつ子の三人の女性を慕い、そして翻弄される良家の坊っちゃんがあらわである。」
著者の小山内への思いが、優しげで愛情が籠もっている。明治40年に中洲の真砂座で新派が旗揚げされ、その時に座付作者となった二十七歳の小山内薫自身を描いたものだという。同じ年に文学同人誌第一次新思潮も創刊されており、小山内の創作活動も充実していたことが窺える。


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