「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。
日本橋生まれの谷崎潤一郎についての話が続く。
「谷崎潤一郎の生家はもと銀座のあったところだった。銀座とは、江戸幕府の銀貨鋳造所のことである。寛政十二年、京都、大阪、長崎をはじめ諸国の銀座が統合して、この蛎殻町に移されたという。明治になってから造幣局ができたので、その呼称は遠のくことになるが、その因縁からこのあたりには米穀取引所、金融機関とか商品取引の事業所が多い。いまの「兜町」の名に代表されるような、経済界の中心地であった。」
東京で銀座と呼ばれるところに、文字通りの銀座が置かれたのが江戸開府から日も浅い慶長17年(1612年)のことで、寛政12年(1800年)に蛎殻町へ移転した。江戸時代には、江戸は金で大阪は銀であった。江戸では金で商いを行い、大阪では銀で行っていたわけで、この二つの貨幣の為替まで含めて、江戸時代の経済は結構複雑なものになっている。金座は、日本橋本石町の現在は日本銀行があるところにあった。金座が中心ではなく、銀座が明治の経済の中心になっていったところが面白い。
「祖父は深川・小名木川べりの釜屋堀で、釜を製造する店の総番頭であった。『幼少時代』に「維新の際に主人一家が田舎に避難した時、跡を預かつて立派に営業をつづけて行き、やがて世間が静まつた後に主人に店を返したので、深く主人から徳とされた」とあるところは、律儀な職人のおもかげをつたえるものであろう。その祖父が活版印刷をはじめたのは、「当時の文明開化の突端」を行くものであった。その日その日の米相場の変動を、印刷して売り出している。経済情報の新機軸であったとみえる。」
小名木川べりの釜屋堀というのは、小名木川が横十間川と交差する辺りの江東区大島一丁目の大島橋辺りををそういった。正に、この話の通りに「太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六 釜七と称し 寛永十七年今の滋賀県から港区にきてまも なくこの付近に住い 釜六は明治時代まで 釜七は大正時 代まで代々鋳物業を盛大に続けて知られ なべかまの日 用品をはじめ ぼん鐘仏像天水おけなどを鋳造した」ことによる。今も小名木川と並行する道には、釜屋堀通りという名が付けられており、大島橋脇には釜屋堀公園が設けられていて、釜屋後の碑が建てられているそうだ。
この祖父が谷崎活版所という活版印刷を始めたのだが、直ぐ近くの米相場を印刷してそれを販売していた。それが彼の生まれた明治19年には盛業中であったという。これは印刷出版の始まりとしては、明治でも非常に早い段階のものだと思う。国会図書館で調べ物をしていても、明治30年代辺りから印刷物として残されているものがぼちぼちと出て来て、明治40年代以降になると漸く各分野の記録が多く残されていくようになるという感触がある。それだけに、明治10年代に活版印刷を行って、相場表を販売するというのはかなり画期的な商売だっただろうと思う。正に「当時の文明開化の突端」であったことは間違いない。
「下町の盛り場、住宅密集地のなかにもよく町工場があった。四,五人から十数人の従業員をかかえて、旋盤やターレットやプレスが音をたてていた。そのような小工場は大企業の下請けとして部品を作り日本の産業の底辺をかたちづくっていた。戦争中の企業整備で町工場が合併して郊外に出たり、最近の建物疎開で、すくなくなってはきたが、町工場のひびきをきくと、なにかしら下町の活力を知らされるのである。私の家でも朝から夕方まで機会が音をたてていたから、子供のころの記憶にはつねに音がつきまとっている。」
このブログを始めたきっかけである三十年前に東京の古い町並みを求めて撮影して歩いた1980年代の東京の景色には、数多い町工場が写っている。同じ場所を昨年撮影して並べて見ると、怖ろしいほどの数の町工場が東京から消え去っていったのかがまざまざと分かる。町工場が無くなっていったことで、町も変わらざるを得なかった。
「蛎殻町二丁目十四番地、いまの日本橋人形町一丁目七の十は、当時の東京市中の盛り場中の盛り場である。活版社を創設したというのは、地元に密着した発案であり、従来の木版にかわるあたらしい試みであった。」
この当時、東京では1872年に後に築地活版製造所となる長崎新塾出張活版製造所が開設されていた。とはいえ、印刷というのはまだまだ全く新しい新技術であった。また、それによって相場表を印刷して販売するというのも、着眼点の鋭さに感心する。江戸時代には、大阪などでも荷受問屋が商品を買い取る際に地方の荷主が相場情報を得られないことを利用して、かなり悪辣な取引が横行していたという。それだけに相場情報が広く伝達されていくニーズというのは、浅からずあった。そこを上手くついた商売であり、近代的な情報サービスの開祖といっても良いだろう。
「日本橋育ちの彼にとって、もうひとつ重要なのは、東京市中の光景である。毎日のようにばあやに手をひかれて、人形町とその周辺をあるきまわっている。今日は水天宮、茅場町の薬師、今日は牢屋の原の弘法様、西河岸のお地蔵尊というぐあいに、縁日のにぎわいをみつめている。「少年の記憶」には「月に二三度ぐらゐは遠走りして、深川の八幡や、丸の内の二重橋や、上野の動物園などへ行つた。殊に浅草公園は一番楽しみで、一番足繁く出掛けた」とあって、東京の古いものと新しいものを幼時から肌身で感じとっていた。そこにはおのずと谷崎の下町地図ができあがっている。
彼の初期作品を読んでいて、彼がいかに下町の地理をうまくつかいこなしていたかを考えると、そこからは江戸・東京の人、谷崎潤一郎があざやかである。
「刺青」の深川佐賀町、「少年」の蛎殻町、箱崎、中洲、「幇間」の大川端、「秘密」の浅草松葉町その他、「羹」の浜町、人形町その他、「恋を知る頃」の代地河岸、「捨てられる迄」の銀座、「饒太郎」の深川、「金色の死」の新川、「お艶殺し」の浜町、「華魁」の霊岸島、「お才と巳之介」の吉原、本所、小松川、「神童」の久松町、「恐怖時代」の深川、「亡友」の玉川、「詩人の別れ」の柴又、「異端者の悲しみ」の八丁堀、「十五夜物語」の谷中、「女人神聖」の竈河岸、「小さな王国」の麹町その他、「美食倶楽部」の牛が淵その他、「母を恋ふる記」の人形町などとあげてゆくと、江戸の陰翳のなかに生き、東京の現実を生かしている。彼はまさしく江戸っ子なのだ。と同時に東京っ子なのである。」
私自身、読書量は少ない方だとは思わないのだが、あまり古典的な作家を熱心に読むことをしてこなかった。いつもその時代らしい人を追い求めていた。このシリーズを書き始めて、取り上げられている作家を改めて読むという作業をしていて、とても新鮮で面白いと思っている。その一方で、著者の近藤氏は下町の生まれ育ちだからこそ、谷崎をすんなりと受け入れていけるところが大きいのだろうという気もする。私は、この時代の定義からいえば、下町でも山の手でもない、郊外の生まれ育ちである。谷崎も木村莊太も、東京、江戸の下町には一家言があって、しかもプライドが高い。下町の人でなければ田舎者といったところがなきにしもあらずというのもあったと思う。そういう意味合いから考えると、江戸からの下町というもの自体が壊滅し、その空気を吸って育った人たちがいない時代になったから、それがどんなものであったのかを追い求められるようになったというのもあるように思える。とはいえ、谷崎の書いたものを読めば、正に彼は下町の巨人であることがよく分かる。
そして、こうして近藤氏があげてくれている作品の多くが私には未読のものであるから、この地名を見ながらどれから読んでいこうかと思いを巡らせている。それにしても、日本橋育ちでこうも東京中を知り尽くされてしまっては、どうにも悔しいけど彼の足元に跪いて教えを請うていくしかないという気分になる。長谷川時雨女史の場合などは、彼女の人柄ということもあるのだろうが、旧聞日本橋を読んでも抑制が利いていて、あまりそういったイメージを呼び起こさないのだが、さすがに谷崎潤一郎は若い頃から才気煥発で内に秘めたものが溢れ出てくるような人柄であるだけに、そんな気分になるのだろう。
「彼は南茅場町四十五番地の生活についても文章を書きのこしているが、いったいどのあたりだったのだろうか。『幼少時代』附録の当時と現在の地図をかさねてみると、ほぼその位置は分かる。しかしいまとなっては、道路が拡張され、建物がビルにかわって、判明しがたい。父親の商売がおもわしくなかったので、いったん家族全員で実家にもどったが、実家も当主の放蕩のために閉鎖、また南茅場町の五十六番地の裏長屋に移ったとある。したがって二度、その町に住んだことになる。
簡単にいえば、日本橋川右岸鐙橋といまの茅場橋の間の茅場河岸の裏の通りにあたる。明治十七年の実測五千分の一図では、河岸や倉庫、薬師堂、智泉院、そして人家がこまかく記載されて、谷崎の文章の手助けになる。
「小網町の方から来て元の鐙橋を渡ると、右側に兜町の証券取引所があるが、左側の最初の通りを表茅場と云ひ、それに平行した次の通りを裏茅場と云つてゐた。表茅場町の通りを南へ一二丁行くと、右の角に涛川と云ふ自転車や乳母車などを製造販売する店があつたが、そこを曲がつて裏茅場町の通りへ抜けたところの、東北の角が勝見と云ふ袋物屋で、その向うの東南の角から東へ二軒目が私の家であつた。もし日枝神社や天満宮や薬師堂が現在もなほ昔の場所に残つてゐるとすれば、そこから一丁と離れてゐないところにあつたが、間もなく私の家の隣に保米樓と云ふ西洋料理屋が出来た。」」
この辺り、今では本当にビルだらけで、人の暮らした町があったことすら信じられないような有様になっている。証券取引所を回り込んで行く通りには、微かに往年の面影を感じることは出来るが、日本橋川沿いに渋沢邸があったことなど幻のように思える。南茅場町には、震災後の復興事業で新大橋通が貫通しており、これだけでも町の雰囲気はまるで違うものになったことだろう。日枝神社は今もビルに囲まれてひっそりと、その姿を残している。明治の頃には通りに面していた薬師堂も、今はビルの谷間の中である。古い地図と良く見比べれば、町割の形などは良く残されている方なのだが、いかんせん既に町が失われているところになっている。「大正・日本橋本町」の中でも書かれていたが、震災で焼け野原になったあとに再建された町は、以前とは違う町であったということもあるのだろうと思う。戦災では焼けていないようだが、戦前の面影を捜すことすら難しい。川には高速道路、町にはビルが建ち、人の暮らさない町へと変わっていった。
おそらくはこの左側に写り込んでいる角から、画面左手に二軒目が谷崎の旧居だったのではないだろうか。
今もビルの間に日枝神社への参道が残る。
日枝神社境内。
「『幼少時代』が「文藝春秋」に連載(昭和三十年四月~三十一年三月)されたとき、鏑木清方の挿画のたのしかったことをおもいだすが、この作家の自己検証のすさまじさを知って、強靱な作家魂にあたらめて敬意をいだいたのだった。自分の体験、自分の記憶をいささかもゆるがせにしていない。史実にあたるべきところはあたり、着実な筆さばきをみせている。永らく関西にあって、秀作のかずかずを発表してきただけに、ややもすると、谷崎の関西好み、日本回帰などの論が多々みられたが、彼はけっして関西の人ではなく、なんといっても根っからの東京人だったというおもいをあらたにした。
たとえばそれまでに発表された随筆のなかに関西賛美の表現は多く、もちろん阪神間や京都の生活で発見したものも多い。昭和九年の「東京をおもふ」では、東京には何の未練もないといい、中年になって関西に移住したので完全に同化しきれようとはおもわないが、出来るだけ同化したいと書いた。」
あまり谷崎の本を読んでいない私でも、谷崎といえば下町生まれでありながら震災後に東京を捨てて関西へ移り住み、以後関西を愛して生涯を送った作家という印象が強い。改めて谷崎の書いたものを読んでみると、そこには自らの故郷に対する深い愛情がこめられていることはひしひしと伝わってくる。それこそ、荷風が愛した江戸からの香りを色濃く残した明治の東京の町こそが谷崎の故郷であった。そしてそれは震災によって完膚無きまでに焼け野原と化して消え失せてしまった。その消失に耐え難い思いを抱いていたから、彼は東京を捨てて関西へ移り住んでいったということなのだろう。震災と戦災は、東京の歴史の中に大きな断層を残していると思う。町の形にも残しているし、そこに暮らした人たちが築いていた町の空気をも消し去ってしまったという点では、本当に失われたものの巨大さに溜息が出る。そして、それほどの激変をもたらした震災の被害の大きさも改めて感じる。
日枝神社の裏手にて。
谷崎の幼少時の様子を今のこの町の光景から想像するのも難しい。
「「自分が七才から十二三歳の頃まで暮らした南茅場町の家の跡などは、千代田橋から永代へ通ふ大道の真中になつてゐると云ふ有様、親戚故旧など多くは散り散りに、そして大概は微禄して場末の方へ引つ込んでしまつたり、朝鮮の果てへまで流れて行つたりする始末で、もう東京の日本橋区と云ふ所は自分の故郷ではなくなつてゐる。」
おそらく彼の本音であろう。しかしそれは東京が短い時間の中であまりにも変わりすぎたためであった。むしろ彼は関西の街なみのなかに少年時代のおもかげを見出していた。「私の見た大阪及び大阪人」(昭和七年)にはよくそれがあらわれている。「今日の東京の下町は完全に昔の俤を失つてしまつたが、それに何処やら似通つた土蔵造りや格子造りの家並みを、思ひがけなく京都や大阪の旧市街に見出」したのであった。関東大震災という大きな事件が、かつての古き良き東京の下町を壊滅させてしまったことの憤りと読める。」
よくよく新旧の地図を比較してみれば、谷崎の旧居は永代通りや新大橋通りに呑み込まれたわけではなさそうだが、町の様相が一変してしまったことに変わりはなく、そこに暮らす身内もいなくなってしまえば土地との縁も切れてしまう思いは理解できる。南茅場町のみならず、江戸からの旧市街はこの時に壊滅的に消失してしまったわけで、あまりに綺麗さっぱりと消え失せてしまったからこそ、こうして後々の世からその残滓を探し回ることが意味を持つようになったとも言えるだろう。
この、大阪や京都の旧市街に古い東京の町並みの残映を見出すというのは、これも非常に理解できるものがある。私自身、大阪へ何度か出掛けて、明治の大阪についても調べたことがある。そして、大阪の旧市街を何度も歩き回ってみた中で、今日でも大阪には東京では全く見かけることの無いような古くからの商家の建物が思いの外残されていることを知った。京都はいうまでもないのだが、大阪にもそんな面があることは驚きだった。水の都と云われた大阪も、水路は埋め立てられ姿を消しているし、戦災で消失したエリアもあれば、東京と同様に再開発という名の下に唐突に高層ビルが建ち並んでいたりもする。だが、東京では震災時に全てが焼き払われてしまったのに対して、大阪では丹念に町を歩けば、かつての時代の空気を残す建物が今でも存在している。
船場エリア内には古い有名な商家がいくつか残されているが、これは梅田近辺の裏通りで見つけた土蔵造りの長屋。大阪市北区中崎という辺り。なかなか面白いところで、また行ってみたい。
「谷崎潤一郎が下町っ子であったことは、その気質によくあらわれている。大胆な着想とその描写力で、いかにもふてぶてしい悪魔主義の作家とうけとられていた。しかし根は都会育ちのシャイなところがあって、そのはにかみやぶりは『当世鹿もどき』を一読するとよくわかる。それは弟妹にも共通するものだったともいうが、谷崎精二の『明治の日本橋・潤一郎の手紙』、次妹の林伊勢『兄潤一郎と谷崎家の人々』、末弟谷崎終平の『懐かしき人々~兄潤一郎とその周辺』などを読んでみてもはにかみやの系譜がわかる。
日本橋の商家が、谷崎潤一郎という人格を生みだしたともいえるかもしれない。」
この都会育ちのシャイなはにかみやというのが、非常に大きなポイントなのだと思う。これこそが今は失われてしまった東京の下町気質の大きな特徴の一つだろう。私は下町育ちではないのだが、母方の祖母の家は明治の中頃から日本橋横山町、神田花房町で商売をしてきた家であった。その家の人たちは、どこかにやはりシャイではにかみやという面を持っていたように思う。必ずしもそれが良い形で現れるとは限らず、商売上の厳しい局面で生真面目に乗り切ることができなかったりといった、悪い面で出る事が多かったようだが。私の祖父は四国の讃岐から出て来た人であったから、祖母の実家のそんな気風が理解できずに、よく怒り狂っていたという話を聞いたことがある。また、血縁ではないのだが、あるきっかけで知り合った私よりも年長の根津の商家に育った人にも、どこかそんな気風を感じさせるものがあったように思う。職人の家にはない、商家の気風の中にそんな要素がどこか含まれていたものなのだろうという気がする。そういった形にならない、町の空気に含まれていたようなことこそが、何とか言葉にして残していかないと全く忘れ去られていくことになっていくものなのだろうと思う。
日本橋生まれの谷崎潤一郎についての話が続く。
「谷崎潤一郎の生家はもと銀座のあったところだった。銀座とは、江戸幕府の銀貨鋳造所のことである。寛政十二年、京都、大阪、長崎をはじめ諸国の銀座が統合して、この蛎殻町に移されたという。明治になってから造幣局ができたので、その呼称は遠のくことになるが、その因縁からこのあたりには米穀取引所、金融機関とか商品取引の事業所が多い。いまの「兜町」の名に代表されるような、経済界の中心地であった。」
東京で銀座と呼ばれるところに、文字通りの銀座が置かれたのが江戸開府から日も浅い慶長17年(1612年)のことで、寛政12年(1800年)に蛎殻町へ移転した。江戸時代には、江戸は金で大阪は銀であった。江戸では金で商いを行い、大阪では銀で行っていたわけで、この二つの貨幣の為替まで含めて、江戸時代の経済は結構複雑なものになっている。金座は、日本橋本石町の現在は日本銀行があるところにあった。金座が中心ではなく、銀座が明治の経済の中心になっていったところが面白い。
「祖父は深川・小名木川べりの釜屋堀で、釜を製造する店の総番頭であった。『幼少時代』に「維新の際に主人一家が田舎に避難した時、跡を預かつて立派に営業をつづけて行き、やがて世間が静まつた後に主人に店を返したので、深く主人から徳とされた」とあるところは、律儀な職人のおもかげをつたえるものであろう。その祖父が活版印刷をはじめたのは、「当時の文明開化の突端」を行くものであった。その日その日の米相場の変動を、印刷して売り出している。経済情報の新機軸であったとみえる。」
小名木川べりの釜屋堀というのは、小名木川が横十間川と交差する辺りの江東区大島一丁目の大島橋辺りををそういった。正に、この話の通りに「太田氏釜屋六右衛門と田中氏釜屋七右衛門は通称釜六 釜七と称し 寛永十七年今の滋賀県から港区にきてまも なくこの付近に住い 釜六は明治時代まで 釜七は大正時 代まで代々鋳物業を盛大に続けて知られ なべかまの日 用品をはじめ ぼん鐘仏像天水おけなどを鋳造した」ことによる。今も小名木川と並行する道には、釜屋堀通りという名が付けられており、大島橋脇には釜屋堀公園が設けられていて、釜屋後の碑が建てられているそうだ。
この祖父が谷崎活版所という活版印刷を始めたのだが、直ぐ近くの米相場を印刷してそれを販売していた。それが彼の生まれた明治19年には盛業中であったという。これは印刷出版の始まりとしては、明治でも非常に早い段階のものだと思う。国会図書館で調べ物をしていても、明治30年代辺りから印刷物として残されているものがぼちぼちと出て来て、明治40年代以降になると漸く各分野の記録が多く残されていくようになるという感触がある。それだけに、明治10年代に活版印刷を行って、相場表を販売するというのはかなり画期的な商売だっただろうと思う。正に「当時の文明開化の突端」であったことは間違いない。
「下町の盛り場、住宅密集地のなかにもよく町工場があった。四,五人から十数人の従業員をかかえて、旋盤やターレットやプレスが音をたてていた。そのような小工場は大企業の下請けとして部品を作り日本の産業の底辺をかたちづくっていた。戦争中の企業整備で町工場が合併して郊外に出たり、最近の建物疎開で、すくなくなってはきたが、町工場のひびきをきくと、なにかしら下町の活力を知らされるのである。私の家でも朝から夕方まで機会が音をたてていたから、子供のころの記憶にはつねに音がつきまとっている。」
このブログを始めたきっかけである三十年前に東京の古い町並みを求めて撮影して歩いた1980年代の東京の景色には、数多い町工場が写っている。同じ場所を昨年撮影して並べて見ると、怖ろしいほどの数の町工場が東京から消え去っていったのかがまざまざと分かる。町工場が無くなっていったことで、町も変わらざるを得なかった。
「蛎殻町二丁目十四番地、いまの日本橋人形町一丁目七の十は、当時の東京市中の盛り場中の盛り場である。活版社を創設したというのは、地元に密着した発案であり、従来の木版にかわるあたらしい試みであった。」
この当時、東京では1872年に後に築地活版製造所となる長崎新塾出張活版製造所が開設されていた。とはいえ、印刷というのはまだまだ全く新しい新技術であった。また、それによって相場表を印刷して販売するというのも、着眼点の鋭さに感心する。江戸時代には、大阪などでも荷受問屋が商品を買い取る際に地方の荷主が相場情報を得られないことを利用して、かなり悪辣な取引が横行していたという。それだけに相場情報が広く伝達されていくニーズというのは、浅からずあった。そこを上手くついた商売であり、近代的な情報サービスの開祖といっても良いだろう。
「日本橋育ちの彼にとって、もうひとつ重要なのは、東京市中の光景である。毎日のようにばあやに手をひかれて、人形町とその周辺をあるきまわっている。今日は水天宮、茅場町の薬師、今日は牢屋の原の弘法様、西河岸のお地蔵尊というぐあいに、縁日のにぎわいをみつめている。「少年の記憶」には「月に二三度ぐらゐは遠走りして、深川の八幡や、丸の内の二重橋や、上野の動物園などへ行つた。殊に浅草公園は一番楽しみで、一番足繁く出掛けた」とあって、東京の古いものと新しいものを幼時から肌身で感じとっていた。そこにはおのずと谷崎の下町地図ができあがっている。
彼の初期作品を読んでいて、彼がいかに下町の地理をうまくつかいこなしていたかを考えると、そこからは江戸・東京の人、谷崎潤一郎があざやかである。
「刺青」の深川佐賀町、「少年」の蛎殻町、箱崎、中洲、「幇間」の大川端、「秘密」の浅草松葉町その他、「羹」の浜町、人形町その他、「恋を知る頃」の代地河岸、「捨てられる迄」の銀座、「饒太郎」の深川、「金色の死」の新川、「お艶殺し」の浜町、「華魁」の霊岸島、「お才と巳之介」の吉原、本所、小松川、「神童」の久松町、「恐怖時代」の深川、「亡友」の玉川、「詩人の別れ」の柴又、「異端者の悲しみ」の八丁堀、「十五夜物語」の谷中、「女人神聖」の竈河岸、「小さな王国」の麹町その他、「美食倶楽部」の牛が淵その他、「母を恋ふる記」の人形町などとあげてゆくと、江戸の陰翳のなかに生き、東京の現実を生かしている。彼はまさしく江戸っ子なのだ。と同時に東京っ子なのである。」
私自身、読書量は少ない方だとは思わないのだが、あまり古典的な作家を熱心に読むことをしてこなかった。いつもその時代らしい人を追い求めていた。このシリーズを書き始めて、取り上げられている作家を改めて読むという作業をしていて、とても新鮮で面白いと思っている。その一方で、著者の近藤氏は下町の生まれ育ちだからこそ、谷崎をすんなりと受け入れていけるところが大きいのだろうという気もする。私は、この時代の定義からいえば、下町でも山の手でもない、郊外の生まれ育ちである。谷崎も木村莊太も、東京、江戸の下町には一家言があって、しかもプライドが高い。下町の人でなければ田舎者といったところがなきにしもあらずというのもあったと思う。そういう意味合いから考えると、江戸からの下町というもの自体が壊滅し、その空気を吸って育った人たちがいない時代になったから、それがどんなものであったのかを追い求められるようになったというのもあるように思える。とはいえ、谷崎の書いたものを読めば、正に彼は下町の巨人であることがよく分かる。
そして、こうして近藤氏があげてくれている作品の多くが私には未読のものであるから、この地名を見ながらどれから読んでいこうかと思いを巡らせている。それにしても、日本橋育ちでこうも東京中を知り尽くされてしまっては、どうにも悔しいけど彼の足元に跪いて教えを請うていくしかないという気分になる。長谷川時雨女史の場合などは、彼女の人柄ということもあるのだろうが、旧聞日本橋を読んでも抑制が利いていて、あまりそういったイメージを呼び起こさないのだが、さすがに谷崎潤一郎は若い頃から才気煥発で内に秘めたものが溢れ出てくるような人柄であるだけに、そんな気分になるのだろう。
「彼は南茅場町四十五番地の生活についても文章を書きのこしているが、いったいどのあたりだったのだろうか。『幼少時代』附録の当時と現在の地図をかさねてみると、ほぼその位置は分かる。しかしいまとなっては、道路が拡張され、建物がビルにかわって、判明しがたい。父親の商売がおもわしくなかったので、いったん家族全員で実家にもどったが、実家も当主の放蕩のために閉鎖、また南茅場町の五十六番地の裏長屋に移ったとある。したがって二度、その町に住んだことになる。
簡単にいえば、日本橋川右岸鐙橋といまの茅場橋の間の茅場河岸の裏の通りにあたる。明治十七年の実測五千分の一図では、河岸や倉庫、薬師堂、智泉院、そして人家がこまかく記載されて、谷崎の文章の手助けになる。
「小網町の方から来て元の鐙橋を渡ると、右側に兜町の証券取引所があるが、左側の最初の通りを表茅場と云ひ、それに平行した次の通りを裏茅場と云つてゐた。表茅場町の通りを南へ一二丁行くと、右の角に涛川と云ふ自転車や乳母車などを製造販売する店があつたが、そこを曲がつて裏茅場町の通りへ抜けたところの、東北の角が勝見と云ふ袋物屋で、その向うの東南の角から東へ二軒目が私の家であつた。もし日枝神社や天満宮や薬師堂が現在もなほ昔の場所に残つてゐるとすれば、そこから一丁と離れてゐないところにあつたが、間もなく私の家の隣に保米樓と云ふ西洋料理屋が出来た。」」
この辺り、今では本当にビルだらけで、人の暮らした町があったことすら信じられないような有様になっている。証券取引所を回り込んで行く通りには、微かに往年の面影を感じることは出来るが、日本橋川沿いに渋沢邸があったことなど幻のように思える。南茅場町には、震災後の復興事業で新大橋通が貫通しており、これだけでも町の雰囲気はまるで違うものになったことだろう。日枝神社は今もビルに囲まれてひっそりと、その姿を残している。明治の頃には通りに面していた薬師堂も、今はビルの谷間の中である。古い地図と良く見比べれば、町割の形などは良く残されている方なのだが、いかんせん既に町が失われているところになっている。「大正・日本橋本町」の中でも書かれていたが、震災で焼け野原になったあとに再建された町は、以前とは違う町であったということもあるのだろうと思う。戦災では焼けていないようだが、戦前の面影を捜すことすら難しい。川には高速道路、町にはビルが建ち、人の暮らさない町へと変わっていった。
おそらくはこの左側に写り込んでいる角から、画面左手に二軒目が谷崎の旧居だったのではないだろうか。
今もビルの間に日枝神社への参道が残る。
日枝神社境内。
「『幼少時代』が「文藝春秋」に連載(昭和三十年四月~三十一年三月)されたとき、鏑木清方の挿画のたのしかったことをおもいだすが、この作家の自己検証のすさまじさを知って、強靱な作家魂にあたらめて敬意をいだいたのだった。自分の体験、自分の記憶をいささかもゆるがせにしていない。史実にあたるべきところはあたり、着実な筆さばきをみせている。永らく関西にあって、秀作のかずかずを発表してきただけに、ややもすると、谷崎の関西好み、日本回帰などの論が多々みられたが、彼はけっして関西の人ではなく、なんといっても根っからの東京人だったというおもいをあらたにした。
たとえばそれまでに発表された随筆のなかに関西賛美の表現は多く、もちろん阪神間や京都の生活で発見したものも多い。昭和九年の「東京をおもふ」では、東京には何の未練もないといい、中年になって関西に移住したので完全に同化しきれようとはおもわないが、出来るだけ同化したいと書いた。」
あまり谷崎の本を読んでいない私でも、谷崎といえば下町生まれでありながら震災後に東京を捨てて関西へ移り住み、以後関西を愛して生涯を送った作家という印象が強い。改めて谷崎の書いたものを読んでみると、そこには自らの故郷に対する深い愛情がこめられていることはひしひしと伝わってくる。それこそ、荷風が愛した江戸からの香りを色濃く残した明治の東京の町こそが谷崎の故郷であった。そしてそれは震災によって完膚無きまでに焼け野原と化して消え失せてしまった。その消失に耐え難い思いを抱いていたから、彼は東京を捨てて関西へ移り住んでいったということなのだろう。震災と戦災は、東京の歴史の中に大きな断層を残していると思う。町の形にも残しているし、そこに暮らした人たちが築いていた町の空気をも消し去ってしまったという点では、本当に失われたものの巨大さに溜息が出る。そして、それほどの激変をもたらした震災の被害の大きさも改めて感じる。
日枝神社の裏手にて。
谷崎の幼少時の様子を今のこの町の光景から想像するのも難しい。
「「自分が七才から十二三歳の頃まで暮らした南茅場町の家の跡などは、千代田橋から永代へ通ふ大道の真中になつてゐると云ふ有様、親戚故旧など多くは散り散りに、そして大概は微禄して場末の方へ引つ込んでしまつたり、朝鮮の果てへまで流れて行つたりする始末で、もう東京の日本橋区と云ふ所は自分の故郷ではなくなつてゐる。」
おそらく彼の本音であろう。しかしそれは東京が短い時間の中であまりにも変わりすぎたためであった。むしろ彼は関西の街なみのなかに少年時代のおもかげを見出していた。「私の見た大阪及び大阪人」(昭和七年)にはよくそれがあらわれている。「今日の東京の下町は完全に昔の俤を失つてしまつたが、それに何処やら似通つた土蔵造りや格子造りの家並みを、思ひがけなく京都や大阪の旧市街に見出」したのであった。関東大震災という大きな事件が、かつての古き良き東京の下町を壊滅させてしまったことの憤りと読める。」
よくよく新旧の地図を比較してみれば、谷崎の旧居は永代通りや新大橋通りに呑み込まれたわけではなさそうだが、町の様相が一変してしまったことに変わりはなく、そこに暮らす身内もいなくなってしまえば土地との縁も切れてしまう思いは理解できる。南茅場町のみならず、江戸からの旧市街はこの時に壊滅的に消失してしまったわけで、あまりに綺麗さっぱりと消え失せてしまったからこそ、こうして後々の世からその残滓を探し回ることが意味を持つようになったとも言えるだろう。
この、大阪や京都の旧市街に古い東京の町並みの残映を見出すというのは、これも非常に理解できるものがある。私自身、大阪へ何度か出掛けて、明治の大阪についても調べたことがある。そして、大阪の旧市街を何度も歩き回ってみた中で、今日でも大阪には東京では全く見かけることの無いような古くからの商家の建物が思いの外残されていることを知った。京都はいうまでもないのだが、大阪にもそんな面があることは驚きだった。水の都と云われた大阪も、水路は埋め立てられ姿を消しているし、戦災で消失したエリアもあれば、東京と同様に再開発という名の下に唐突に高層ビルが建ち並んでいたりもする。だが、東京では震災時に全てが焼き払われてしまったのに対して、大阪では丹念に町を歩けば、かつての時代の空気を残す建物が今でも存在している。
船場エリア内には古い有名な商家がいくつか残されているが、これは梅田近辺の裏通りで見つけた土蔵造りの長屋。大阪市北区中崎という辺り。なかなか面白いところで、また行ってみたい。
「谷崎潤一郎が下町っ子であったことは、その気質によくあらわれている。大胆な着想とその描写力で、いかにもふてぶてしい悪魔主義の作家とうけとられていた。しかし根は都会育ちのシャイなところがあって、そのはにかみやぶりは『当世鹿もどき』を一読するとよくわかる。それは弟妹にも共通するものだったともいうが、谷崎精二の『明治の日本橋・潤一郎の手紙』、次妹の林伊勢『兄潤一郎と谷崎家の人々』、末弟谷崎終平の『懐かしき人々~兄潤一郎とその周辺』などを読んでみてもはにかみやの系譜がわかる。
日本橋の商家が、谷崎潤一郎という人格を生みだしたともいえるかもしれない。」
この都会育ちのシャイなはにかみやというのが、非常に大きなポイントなのだと思う。これこそが今は失われてしまった東京の下町気質の大きな特徴の一つだろう。私は下町育ちではないのだが、母方の祖母の家は明治の中頃から日本橋横山町、神田花房町で商売をしてきた家であった。その家の人たちは、どこかにやはりシャイではにかみやという面を持っていたように思う。必ずしもそれが良い形で現れるとは限らず、商売上の厳しい局面で生真面目に乗り切ることができなかったりといった、悪い面で出る事が多かったようだが。私の祖父は四国の讃岐から出て来た人であったから、祖母の実家のそんな気風が理解できずに、よく怒り狂っていたという話を聞いたことがある。また、血縁ではないのだが、あるきっかけで知り合った私よりも年長の根津の商家に育った人にも、どこかそんな気風を感じさせるものがあったように思う。職人の家にはない、商家の気風の中にそんな要素がどこか含まれていたものなのだろうという気がする。そういった形にならない、町の空気に含まれていたようなことこそが、何とか言葉にして残していかないと全く忘れ去られていくことになっていくものなのだろうと思う。
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