東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

ブラタモリ~江戸の盛り場・両国編を見る

2012-01-06 18:39:19 | ブラタモリ
さて、毎度のことなのだが、両国といえば今は隅田川の向こう側のイメージが強いのだが、元々は橋の名前から来た地名であり、橋の両側の周辺を指した地名であったことをまずきちんと説明すべきだろうと思う。この辺りの説明不足が勿体なく感じられてしまう。

この橋が架けられたのは、番組中でもあった通りに明暦の大火の後、のこと。この際に浅草橋御門が閉じられていたために、多くの人が逃げられずに亡くなった。これは神田川が外堀の一部であることと繋がってくる。だからこそ、浅草橋にも見附、つまり門があったわけである。この反省と江戸市街の拡張が進行していたことから、両国橋が架けられた。それまでは隅田川が武蔵(江戸)と房州の境であったから、二つの国に跨る橋として両国橋と名付けられた。その後、橋が架けられたことも大きな要因として、川向こうに江戸市街が拡張していった。本所が江戸の市中に含まれるようになっていった。

その橋のたもとのあたり、火除け地として作られた広場を広小路と呼んだ。江戸市中にいくつか広小路と呼ばれる場所がある。これは皆火除け地として作られた広場である。

日本橋側の旧広小路エリアを散策していたが、この辺りは震災と戦災の二度にわたって焼失しているので、あまり古い建物は残っていない。しかも、震災後の市区改正で新しい幹線道路が通されたことで、町の形まで大きく変わってしまい、往年の面影を探すのが難しくなっている。震災後の靖国通りや江戸通りを通したことも、交通網の整備という意味合いはもちろんあったが、火災の延焼防止という意味合いも勿論大きかった。これもある意味では、火除け地の近代化とも言えるものだった。

さて、その界隈に芸者が住んでいたという話が出ていたが、これは元々神田川の北側に柳橋があったからということ。橋としての柳橋は、神田川が隅田川に注ぐ最後の橋である。その向こう側一体には、柳橋と呼ばれた東京でも随一の花柳界があった。だから木村荘八の「両国界隈」に詳しいが、かつては吉川町の隣町はほとんどの家が芸者の家だった様なところだった。新橋と並んで東京一の花柳界であった柳橋も、今は風前の灯火となっている。
柳橋に取り付けられた灯り。


そして肝心なところでは、両国橋の位置が時代と共に変わっていること。今は靖国通り沿いの北側に両国広小路の碑が建てられているのだが、両国広小路があった位置は今は妙な形にビルが並ぶもう少し南側の一角になる。この辺りの詳細は以前このブログでも取り上げた通りである。その一その二その三
今も対岸から回向院を見渡せるので、元々の橋の位置が分かる。


この辺りに広小路があった。


鳥安の向かい側、中央区立日本橋中学校の生徒との絡みが出て来たが、ここにはかつて千代田小学校という学校があった。明治43年からのこの地にあったそうで、昭和20年に空襲で焼失して廃校となった。この辺りを矢の倉と呼んだ。


番組中で浮世絵を見て、花火で賑わう両国橋を「これは事故でしょう。」と言っていたが、実際事故が起きている。明治30年の8月に欄干が崩落し死傷者十数名に及ぶ事故になっている。この事故を契機に鉄橋へと掛け替えられることになった。また、この事故の様子は前記の「両国界隈」でも詳しく書いている。
「両国橋の欄干が下ちたのは古いことで、それについて僕のおぼえているのは、欄干の下ちた、そのことよりも、そのあくる日、両国橋のたもとへ(家のものに連れられて)行って見た、そこに山のように下駄のかためてあったことである。」
と、いう生々しい記述がある。この時に数えで五歳の荘八は吉川町にあった第八いろはで暮らしていたので、両国橋は目と鼻の先であった。また、この地に牛肉店いろはがあったと言うこと自体が、この地が盛り場であった証明とも言える。

「もう一つ、これに添えて「記憶」のあるのは、家兄の木村莊太がその時家にいなくて(事件はその日大花火最中の午後八時二十分頃に起ったという)、橋でやられはしないかと、家中で心配をした。しかし実は莊太は水練場の伊東に花火見物をしていたので、無事だった。」
という、これも皮膚感覚に近い記憶で、生な感触の残る話だと思う。また、明治30年頃には両国橋辺りで水練ができたということでもある。大正期になると隅田川の水質汚染が進み、夏休みに水練を習う子供たちも徐々に上流へと移動していくことになる。この辺りの話は、「大正の下谷っ子」鹿島孝二著に出てくる。

さて、橋を渡ると眼に入るももんじや、川という結界を越えると自由になるという話は面白かった。ただ、その一方で江戸で知られた薬食いの店が麹町辺りに固まっていたというのも忘れてはならない。

そして、明暦の大火の犠牲者の供養に建てられた回向院。この寺はなかなかに面白い寺で、番組中でも話が出ていたが、寺でありながら総合アミューズメントパークと言った趣があったようだ。あまりにそちらが盛んだった為か、聖というよりは俗な場所として知られていたようだ。明治42年に両国国技館が落成したときにも、幾多の大火の犠牲者を弔う場で褌姿の大男に取っ組み合いをさせるとはと言った話もあった。また、南千住に分院を持ち、こちらは小塚原の刑場の刑死者を弔っていた。


さて、国技館だが、私にとっては忘れがたいのが蔵前国技館であった。国技館は明治42年に回向院の境内にできたのだが、火災、そして震災により度々の焼失を経験しながら再建された。昭和19年には陸軍の接収され風船爆弾の工場となり、空襲で焼失した後の終戦後には米軍に接収された。その為、興行場所を失った相撲協会が新たに建設したのが蔵前国技館であった。昭和29年から昭和59年まで国技館と言えば蔵前だった。私にとっては、物心付いたときから相撲といえば蔵前だった。幼い頃に祖父に連れられて桟敷で見た記憶もある。焼き鳥など食べながら、重いほどのお土産をもらって帰る相撲見物とは面白いものだったと思う。大鵬と玉の海の優勝決定戦で大鵬が勝った覚えがある。調べてみると、昭和46年1月場所だったようだ。今は東京都に売却され、下水道の処理場になっているという。

さて、現在の両国国技館である。隣には江戸東京博物館があるのだが、この二つが建設されている場所は元々両国駅の貨物ターミナルの跡地であった。今は両国は単なる途中駅でしかないのだが、かつては房総方面へのターミナル駅が両国駅だった。両国駅がその地位を追われたのは、昭和47年7月に東京地下駅が完成し、総武快速線が開業したときであった。それでも当初は両国始発の列車も数多く残されていたのだが、今ではそれもなくなってしまった。私の思い出では、小学生の時に岩井で臨海学校があり、夏休み中に両国駅に集合して貸し切りの電車で岩井へ向かった記憶がある。当時、既に内房線は電化されており、乗ったのも電車だった。

今も両国駅の駅舎は、ターミナルだった頃の佇まいを残している。


さて、次回は江戸の盛り場~吉原編とのこと。吉原はソープランド街に変わっているのだが、異様な雰囲気などは今も感じられる。そして、地形などにもその痕跡を残している。果たして、NHKがテレビでどこまで今の吉原を見せてくれるのか、楽しみにしたい。

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