さて、引き続いて旧川越街道を歩いて行く。ハッピーロード大山商店街を国道254号線に出るまで進んで、少し行くと日大病院入り口の交差点がある。この左側の大きな道が国道254号線で、写真中央の道が旧川越街道である。ここは左右に横切る道との交差点だが、ここが鎌倉街道と呼ばれてきた古道であるようだ。ここから旧道を進んでいく。今は、下頭橋通りという名が付けられている。
旧川越街道は、五街道よりは格下の脇往還とも呼ばれた道。この道を使った大名は川越藩のみで、しかも江戸との参勤交代も日帰りという体制なので、街道としても結構簡素なもの。今は幹線道路が整備されて、生活道路になっている。
しばらく道なりに進んで行くと、豊敬稲荷神社が右手にあった。
境内の石碑の碑文。この神社が今日に至る経緯がよく分かる。天祖神社は、これから先に紹介する常盤台の天祖神社であろうと思う。
「抑々 豊敬稲荷の建設は江戸末期から明治の初期と思はれる。当時市神様として崇められていたが時代が変わると共に一民家の隅に遷つされていたが、福本芳太郎大人が当地に赴任爾来敬神の念に厚い大人が本稲荷を発見調査の結果このような地に存置すべきでないと自らの土地を境内地として購入、祠宇を始め付属建物を工築し現在の地に御遷座名称も豊敬稲荷と命名さる。併而昭和二十八年六月二十一日芳太郎大人他界の後も、福本倫三氏は大人の意志を継承し其後神輿庫の新設に伴い祠宇の見劣は勿論破損放置は亡父の意に反することを痛感し祠宇の改築を計画実弟博次氏並びに役員一同と協議し一般崇敬者の協力を得て施工を加瀬工務店に委ね昭和三十六年一月起工爾後卓越せる技術と努力にて昭和三十七年六月竣工同年七月四日の吉日を撰び神社庁長を始め天祖神社総代稲荷神社役員参列のもとに竣工奉祝祭を執行後工作物及び境内地を含め天祖神社に奉献後昭和四十二年十月二十一日倫三氏他界松子夫人稲荷神社奉賛会長となり副会長及び世話人と協力を計り境内整備に力を注ぐ今日玉垣建設も会長崇敬者により完成せるものなり。依而後世の為に記す」
扁額。
この境内には、この辺り上板橋宿の案内板が建てられている。前記した通り、川越街道は大名行列も日帰りなので、宿といっても旅籠の並ぶ宿泊施設のある場というよりは、宿駅制による大名の荷物の送達などの業務を行うという役割のための宿であった。そして、ここが上板橋宿と呼ばれて、中山道の板橋宿は下板橋宿という言われ方もしている。下板橋は、市電の終点であったときにも行き先として使われていた様だ。その名残からなのか、東武東上線ではその最寄り駅を下板橋と名付けた。そこまでは良かったのだが、この上板橋宿の最寄りには、中板橋駅がおかれ、さらにずっと離れた先に上板橋駅があるという状態になっている。だから、旧川越街道の上板橋宿を訪ねるには、東上線中板橋駅下車ということになる。
少し先へ進むと、この上板橋宿の最大の見所である旧家。この道沿いでも街道筋の面影を残しているのは、ここくらいのもの。旧中山道沿いの板橋宿には、明治時代に大火があったこともあってか、これ程の建物は残されていない。
細かい格子が美しい、木造家屋。いつ頃に建てられたものなのだろうか。
今では板橋では数少ない歴史的な木造建築である。
大変大事に手入れもされており、今も生活の場として使われている。大事に使われ続けると言うことが一番。大変な手間を掛けておられるのだろうと思う。
この雰囲気が、どことなく街道筋の趣を残しているような...。
道沿いの雰囲気はこんな感じ。今は、ごく普通の生活道路である。
これは街道筋とあんまり関係ないけど、丸みを帯びた形の車庫。鉄の扉も同じ余に丸みを帯びているのが可愛らしい。
東上線中板橋駅方向への道が別れていく。駅に向かって商店街になっている。
その先、ちょっと路地を入った所で見掛けた仕舞た屋。お店を閉じて久しい雰囲気なのだが、ラーメンのアカイのレンガ掛けられている。
軒から半円を描くタイプののれんで、きれいなものなので、この雰囲気を大事にされているのだろうと思う。
さて、元も街道へ戻ると、緩い下り坂を下っていく。先には橋が見えている。
旧川越街道は、五街道よりは格下の脇往還とも呼ばれた道。この道を使った大名は川越藩のみで、しかも江戸との参勤交代も日帰りという体制なので、街道としても結構簡素なもの。今は幹線道路が整備されて、生活道路になっている。
しばらく道なりに進んで行くと、豊敬稲荷神社が右手にあった。
境内の石碑の碑文。この神社が今日に至る経緯がよく分かる。天祖神社は、これから先に紹介する常盤台の天祖神社であろうと思う。
「抑々 豊敬稲荷の建設は江戸末期から明治の初期と思はれる。当時市神様として崇められていたが時代が変わると共に一民家の隅に遷つされていたが、福本芳太郎大人が当地に赴任爾来敬神の念に厚い大人が本稲荷を発見調査の結果このような地に存置すべきでないと自らの土地を境内地として購入、祠宇を始め付属建物を工築し現在の地に御遷座名称も豊敬稲荷と命名さる。併而昭和二十八年六月二十一日芳太郎大人他界の後も、福本倫三氏は大人の意志を継承し其後神輿庫の新設に伴い祠宇の見劣は勿論破損放置は亡父の意に反することを痛感し祠宇の改築を計画実弟博次氏並びに役員一同と協議し一般崇敬者の協力を得て施工を加瀬工務店に委ね昭和三十六年一月起工爾後卓越せる技術と努力にて昭和三十七年六月竣工同年七月四日の吉日を撰び神社庁長を始め天祖神社総代稲荷神社役員参列のもとに竣工奉祝祭を執行後工作物及び境内地を含め天祖神社に奉献後昭和四十二年十月二十一日倫三氏他界松子夫人稲荷神社奉賛会長となり副会長及び世話人と協力を計り境内整備に力を注ぐ今日玉垣建設も会長崇敬者により完成せるものなり。依而後世の為に記す」
扁額。
この境内には、この辺り上板橋宿の案内板が建てられている。前記した通り、川越街道は大名行列も日帰りなので、宿といっても旅籠の並ぶ宿泊施設のある場というよりは、宿駅制による大名の荷物の送達などの業務を行うという役割のための宿であった。そして、ここが上板橋宿と呼ばれて、中山道の板橋宿は下板橋宿という言われ方もしている。下板橋は、市電の終点であったときにも行き先として使われていた様だ。その名残からなのか、東武東上線ではその最寄り駅を下板橋と名付けた。そこまでは良かったのだが、この上板橋宿の最寄りには、中板橋駅がおかれ、さらにずっと離れた先に上板橋駅があるという状態になっている。だから、旧川越街道の上板橋宿を訪ねるには、東上線中板橋駅下車ということになる。
少し先へ進むと、この上板橋宿の最大の見所である旧家。この道沿いでも街道筋の面影を残しているのは、ここくらいのもの。旧中山道沿いの板橋宿には、明治時代に大火があったこともあってか、これ程の建物は残されていない。
細かい格子が美しい、木造家屋。いつ頃に建てられたものなのだろうか。
今では板橋では数少ない歴史的な木造建築である。
大変大事に手入れもされており、今も生活の場として使われている。大事に使われ続けると言うことが一番。大変な手間を掛けておられるのだろうと思う。
この雰囲気が、どことなく街道筋の趣を残しているような...。
道沿いの雰囲気はこんな感じ。今は、ごく普通の生活道路である。
これは街道筋とあんまり関係ないけど、丸みを帯びた形の車庫。鉄の扉も同じ余に丸みを帯びているのが可愛らしい。
東上線中板橋駅方向への道が別れていく。駅に向かって商店街になっている。
その先、ちょっと路地を入った所で見掛けた仕舞た屋。お店を閉じて久しい雰囲気なのだが、ラーメンのアカイのレンガ掛けられている。
軒から半円を描くタイプののれんで、きれいなものなので、この雰囲気を大事にされているのだろうと思う。
さて、元も街道へ戻ると、緩い下り坂を下っていく。先には橋が見えている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます