東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(56)本所横網町

2013-12-25 19:12:56 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は両国橋界隈へと話が戻ってきた。戦争中の話が中心になっている。

「両国、浅草橋界隈では、あの三月十日の空襲で二人の級友を失っている。ひとりは人形屋の息子だった。もうひとりは商家の生まれだった。どこをどう逃げまよったのかはわからない。神田川や大川のほとりをさまよったのだろうか。ともかくその日以来、ぶっつり音信がとだえてしまったのである。」

東京大空襲の惨禍は、想像を絶するものがある。隅田川の東側が一面の焼け野原になっている状況は、今日の町並みから想像することすら難しい。一夜にして、町を荒野に変えてしまった。この大空襲が、第二次大戦での日本の市街地への無差別絨毯爆撃の始まりを告げるものであったわけだが、東京はこの後も断続的に空襲を受け続けていくことになる。

両国橋から上流方向を望む。


「私たちの年頃の中学生は、疎開はしなかった。軍需物資の生産増強に組みこまれていた。二年生になって工場に行かされ、日給一円をもらっている。授業料その他を天引きされて、月に手取十九円五十銭の収入があったわけだが、いったいなんにつかったのだろう。店には買うものも食べるものもなかった。いまにしておもうと、ほんとうに不思議である。記憶にのこっているのは、工場の休みの日、級友と連れだって浅草や江東楽天地(錦糸町)へよく映画、芝居を観に出かけたことである。講談社で出していた「陸軍」「海軍」という少年雑誌を買ったことである。行き場所もないので、九段の靖国神社に出かけ、遊就館、国防館を見学したあと、神保町、小川町、須田町と歩いて、両国橋をわたったこともあった。
 まえに書いたような気もするが、江東劇場にエノケンの『らくだの馬さん』を観に行ったとき、第一幕がおわると空襲警報が鳴った。そのとたんに芝居は中止となった。するとエノケンは下手の袖から出てきて幕前に立ち、髪を脱いで、
「申訳ありません」
と深々と頭を下げた。この光景は忘れがたい。観客はまばらだったが、みな静かに防空壕へ退散して行った。」

 近藤氏は昭和6年生まれとのこと。そして、この辺りの生まれの方々は一つ学年が違うと、まるで違う世界を生きていたかのような大きな違いがある。私の両親は、昭和7年度の生まれなので、学童疎開を経験している。父は集団疎開で、母は縁故疎開だった。学童疎開は、昭和19年の夏頃から本格化していったようだ。集団疎開と縁故疎開では、これもまた別世界の話のように経験していることが違っている。母の話を聞いていると、恵まれていたことを感じる。
 二学年上の近藤氏はこの時点で中学生なので、疎開はされていない。

「私の家は、戦争末期、企業整備の命令で深川を離れる羽目になった。同業数社があつまって葛飾区に自転車工場をつくっている。そのため住まいもかえなければならなかった。市川市の真間に移ったのは、昭和二十年にはいってまもなくのこと、あの下町大空襲の寸前であった。いまの言葉で言えぼ、このときはじめて「職住分離」が成立したことになるが、東京の寝ぐら、下町住人の別荘地ともいえるこの住宅地では、静けさのあまりにかえって気がおちつかなかった。しかし、だんだん慣れてくると、その良さがわかってくる。」

 こういった運命の気まぐれと言うべきか、ちょっとしたことの積み重ねで、近藤氏は三月十日の東京から離れることになっていた。彼が生まれ育った町も、その日の未明には紅蓮の炎に包まれたことを思うと、何ともいえない気持になる。
 統制や企業整備というのも、人々の生活に大きな影響を及ぼしている。私の母方の祖母の実家も、菓子や店頭でそれを入れるガラス器を商っていたのだが、統制で廃業する羽目になっている。ガラス器商がメインだったようだが、中に入れて売るものが流通しないような状態では、商売を続けようがなかった。

「下町の壊滅はその直後であった。その惨状を想い出すとき、私には忘れることのできないひとつの光景がある。向島で焼け出された叔父と焼跡の整理に行ったときのことだ。千葉街道の上り通行が許可された日だったので、三月十二日と記憶している。
 自転車で荒川放水路の小松川橋をわたって行った。そして下りにかかろうとしたとき、目のまえにあらわれたのは、一望見わたすかぎりの焼野原だった。見えるのは茶褐色の黒ずんだ、焼けただれた残骸だけであった。まっすぐに延びる千葉街道の先には、両国の国技館の丸屋根と九段坂上の靖国神社の大鳥居が、大きく眼にはいった。その二つだけが手にとるようにみえる。私はおもわず息をのんだ。
 中川では警防団員たちが鳶口をつかって、水面に浮かぶ遺体の収容作業にあたっている。叔父の家のほうへむかうと、道ばたにはまだ遺体がころがっていた。」

 小松川橋を渡った所から、両国の国技館と九段の靖国神社が見えるというのは、今日では想像するのが難しい。墨田区は、全域にわたって空襲の大きな被害を受けている。小松川から両国まで、全てが焼き払われていたこと、さらには両国橋を越えた向こう側も同様であったこと。その情景の凄まじさは、想像しきれるものではないと思う。
 私の両親は、父は既に亡く、母に聞いてみるしかないのだが、三月の時点では岩槻にいて、女学校の入試が結局中止になって、その後祖母や母方の親戚と一緒に新潟の湯沢へと疎開している。そこで終戦を迎えることになるのだが、東京では入試のために戻ったときに空襲にあったことがあるという。とはいえ、燃えさかる中を逃げ惑うこともなく、路傍に黒焦げの遺体を見たという経験もしていないそうだ。同級生は、山の手空襲と言われる5月の空襲を経験していたりという話は聞いたことがある。

「それでは元被服廠跡の震災記念堂のような場所はどうだったのだろう。おなじ横網町にあって、同愛記念病院、安田庭園、安田学園などと地つづきである。そこへ逃げて助かった人の記録によると「震災記念堂には大正十二年の災害の記億があるのか余り集まって来なかった」と出てくる。「記念堂の周囲に積んであった焚き出し用の薪が燃え、立木がいぶり、火の粉と煙に記念堂の周りを逃げまわった」とあって、みな火傷をし眼をやられたが、人がすくなかっただけに生きのびている。
 危急のときに人間がどっと一カ所にあつまると、逆に人災を生んでしまう。それもまた怖しい。歴史に照らしあわせてみると、さまざまなことが思い浮ぶのである。」

震災記念堂。


 両国駅周辺まで、墨田区内は壊滅的な被害を受けているのだが、この震災記念堂周辺は隅田川の東岸では珍しく焼失を免れた数少ないところである。ここと、線路の南側の隅田川に近い両国一丁目が奇跡的といえるほどに、焦土と化したこのエリアの中では無事に残ったところである。
 横網町公園は、元被服敞跡であり、関東大震災の折には多くの人がここに避難してきて、そこを火焔旋風が襲うという最悪の事態が起きてしまった歴史を持っている。その忌まわしい記憶が、まだ生々しさを伴っていた時代だからこそ、東京大空襲の時にはここに逃げる人が多くはなかったということになったのだろう。
 水辺へ逃げて、そこで多くの人が亡くなったという話は、関東大震災と東京大空襲の折と重なってくる話でもある。だが、方や天災であり、方や戦争である。

横網町に残る戦前からの町屋。


「同愛記念病院は大正大震災のあと、アメリカの義損金によって建てられたもので、いまでも昔の面影をのこしている。私はその中に入ったことはないが、一銭蒸汽で浅草へ行くときなど、蔵前橋をくぐる手前でそれを見、本所側にも堂々たる建物があるとおもったのを記憶している。建築史の本をみると、昭和四年四月の竣工という。とすると、帝都復興の建築ラッシュのなかのひとつだったのであろう。つづいて五年八月には第二回向院としての震災記念堂が完成した。そのほか安田善兵衛が東京市に寄付した安田庭園とか、学校とか区役所などがこのあたりにあつまってみると、横網町は公共的施設の場所となった。
 それだけに子供のころに私には、両国駅の北側はなんとなく近づきがたかった。、中学や工場にかようとき、父の知りあいの写真館(出羽海部屋の並びだった)に自転車をあずけて電車に乗ったのだが、たまたま帰りがけにぐるりと一巡したことがあった。人通りはほとんどなく淋しいところだった。横網町というと、東側の電車通り(いまの清澄通り)に横網町停留場があったし、商店もたちならんでいたので、どうしてもそちらに眼がむいてしまうのだった。しかし、本来の横網町はというと、河岸の漁師に名のおこりがあったらしい。」

 このブログでも、横網町を取り上げたことがあるのだが、そんな経緯で奇跡的に焼失を免れた一郭が、隅田川と横網町公園の間の辺りには僅かに今も存在している。確かに、今でも周辺は公共的施設が多くて、あまり賑やかな町中といった雰囲気ではない。それでも、貨物駅が江戸東京博物館や新国技館に生まれ変わったことで、この当時よりは賑わいを見せるように変わってきてはいる。とはいえ、隅田川に近い辺りに河岸の漁師町といった雰囲気は、今となっては全く感じられなくなっている。隅田川で漁が行われなくなって、どれほどになるのだろうか。

これも横網町に残る町屋。僅かではあるが、酷い戦災の被害を受けている墨田区にもこんなところが残されているのは、ホッとした気持になる。


「時代がかわれば人も変わる。その土地と同化し、自分の持てるものを持ちこんで、あらたな生活を営む人もあれば、頑固に土地の歴史と精霊をうけついで、後代につなげてゆく人もある。かとおもうと、一過性の住民もいる。東京のような都会では、その多様性がうずまいている。そのうえ、天災と戦争はこの都市のかたちを大きくかえてしまった。震災のときは、まだ罹災者は元の土地にもどってくる余裕があった。しかし戦後は、食糧難と資材不足で焼跡にはなかなかもどれなかった。両国橋の両岸を考えてみると、同級生で生まれた場所に住んでいるのは、わずか二人である。東京には、連続するものと断絶するものとの二つが併存してきたことがわかる。
 この両国橋の両岸でいうと、もっとも大きな断絶は、右岸の両国からその名が完全に消えたことであろう。両国広小路の賑わいはもう過去のものとなって、戦後、東日本橋となった。遠慮がちに東両国と称していた本所側が、かえって両国の名をほしいままにしている。国鉄の貨物線跡地にあたらしい国技館が建ち、市場跡には江戸東京博物館が建設された。私にとっては両岸とも両国だったのだが、右岸の盛り場は消え、左岸に引きよせられたというような印象である。」

 両国という地名が、橋から派生したもので、橋の両側はそう呼ばれてきたこと、そして永らく西岸が主にその名で親しまれてきたと言うことは、私にとっては新鮮な話だった。旧市街の隅田川に近い辺りには、どこか疎遠に育った私にとっては、日本橋横山町、浅草橋界隈というのは、感覚的に遠い場所であり、隅田川の向こうに至っては言うまでもないという有様であった。
 それでも、色々と知るにつけ、日本橋区側の両国が江戸以来の賑わいをもつ町であったこと、東岸の墨田区側は閑散としたところであったことなど、今となっては嘘のように変わり続けていることを理解できる様にはなった。新国技館も江戸東京博物館も、多くの人を集める賑わいの象徴でもある。その反面、橋の西側には賑わいを作り出す施設というのも、今ひとつ見当たらなくなっている。こうして、変わっていく事自体が町が生きている証拠でもあるのだが、どう変わってきたのかということは知っておきたいと思う。

 江戸以来の歴史を持つ東京という町、その町で育っているのに、その歴史の連続性を実感出来ないということが、私にとっては東京という町をもっと知りたいと思う契機になっている。そして、そこを掘り下げていくと、関東大震災と第二次世界大戦という、二つの東京という町にとって大きな傷跡を残した災厄について、知っていかなければ、何故今日があるのかが理解出来ないのだ、という思いは強い。
 とはいえ、その時代に生きていたものでなければ、その燃えさかる炎を目にしたものでなければ、理解し得ないことがあるとも思う。後世に生きるものとして、知らないと言うことを謙虚に認めた上で、先人の言葉を聞くと言うことも、重要なことではないかと思う。時が流れ、戦災の話もどこか生々しさを失って、遠い別世界の出来事のように聞こえたりもする。今は昔と違って、膨大な情報をネットを駆使して得ることも出来る。それでも、実体験を軽視して、シミュレーションしてみたことがリアルに勝ると過信していく愚は犯したくないと思う。

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