東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(55)「いろは」の兄弟(つづき)

2013-12-12 19:10:52 | 東京・遠く近き
「いろは」の兄弟(つづき)
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回もいろは大王こと木村荘平の息子達、中でも荘太を中心に取り上げている。

「木村荘太という人を考えると、東京下町の盛り場で育った坊っちゃんの典型におもえることがある。惚れっぽくてお人好しで、物事に感激しやすい猪突猛進型である。新らしもの好きで、気弱で、はにかみ性で、しかも職人のような綴密さがあるかとおもうと、上手の手から水をこぼすような失態を演ずることがある。経済的には裕福な家庭に育ちながら、どこか暗い翳をもちつづけている。荘太は子供のころから人生の正邪について考えさせられ、「美しいものが至上善なこと。賛沢が高貴に見えること」を身につけたというが、もし彼の生涯につらぬくものがあったとすると、彼にとっての美と高貴は文学であり、ことに外国文学であった。」

荘太は、明治という時代の中で父の死後、家業の手伝いをしながら、ヨーロッパの最新の小説などを言語で読みこなすという、決してただの呑気なお坊ちゃんという枠組みには収まらないスケールを持った人物である。外国文学への造詣の深さは、第二次新思潮発刊に関わった東大生達も一目置くような、並外れたものであった。その一方で、陽性で積極的に行動する面と、陰性で内向的になっていく面の両面を持っている。躁鬱と言っても良いのかもしれないし、その浮き沈みの激しさが付いて回るように思う。周囲の状況が変わると言うよりは、あくまでも彼自身の内面的なものが大きな波形を描いていく様な印象がある。

彼の最初の結婚は、嫂の妹である満喜という女性と結ばれた結果だった。だが、決して彼にとっては望んだものではなかった。芝浦の料亭旅館である芝濱館に、荘太が家業の帳簿の仕事をするようになって詰めるようになった。満喜と二人の異母妹達がそこには暮らしており、荘太が彼女らと親しくなっていく。そんな中で、異母妹の清子に感情的に惹かれていき、彼女も荘太を憎からず思うようになっていく。その一方で、ませた満喜との間で肉体関係を持つようになる。そして、その結果として、満喜と結婚することになるのだが、そこから荘太は逃げ出していくことになる。家出をして、京都へ逃げてしまうのだ。島崎藤村が後見人になって、生活費を番頭から送金して貰ったりという、ある意味お坊ちゃん丸出しな行動であることは間違いない。
 といって、清子は母が違うとは言え妹である以上、いくら好ましく思ったところで関係を持つわけにはいかない。荘太が自らの運命から逃げ出していった後、清子は自らの道を模索しようとしていく。

「この清子もいわば父の血筋の呪われた運命を背負って歩みはじめている。家をとびだして、明治四十四年、銀座日吉町に開店したカフェー・プランタンの女給となり、カフェー・ライオンにも出ていた。そして新時代劇協会の女優として舞台に立ったころは、遍歴ののちの失意の荘太のもとにとびこんで、赤坂一ツ木で同棲生活をおくっている。ウィルヘルム・ショルツ「負けたる人」(森鴎外訳)の序詞役で有楽座の初舞台をふんだとき、荘太は武者小路実篤と観に行っている。「せりふが終って、引き込んで、私がホッとしたとき、これを私と同棲する妹だとは知る武者君が、私のほうを顧みて、『いいぜ』といった。・・・・・・自分の成功の日のように、この日のかの女の、こうしてどうにかやりぬけた演技の出来栄えを祝った」と彼は書いている。
 しかし、その同棲も束の間だった。清子は芝居関係の若い情人に身を投げあたえて舞台を下り、神楽坂の芸者になって情人に貢いでいる。あげくの果ては捨られてしまう。そして腸結核におかされて死んで行った。「珠が抛たれたような、その珠が割れ、砕け、裂け、散ったのを見るような」惨状といい、人間の死によってしか解決のつかぬ悲劇をみつめて、彼はニイチェの『善悪の彼岸』の一節をひきながら、若くして死んだ木村曙もこの清子も「芸術の壇の上に献げられた生賛」だったと書いている。」

確かに、彼にまつわるストーリーの中では、清子の物語は悲しく悲惨である。赤坂一ツ木での同棲生活の中で、妹との関係性の際どさの話が出て来て、その一線を意識しただけで罪の意識に苛まれて恐れ戦くという話があり、その後に清子が出ていったという展開になり、自暴自棄になっていくかのように清子が死に向けて転がり落ちていったことは、荘太の中に深い傷跡を残した。木村荘平の子供という、当時の東京中の人たちに知られた出自が荘太や清子にとっては、重くのしかかってくる邪悪さを持ったものになっていたというのは、理解出来ないわけではない。荘太について考えていく中では、清子の死によって、それまで以上に清子が抱えていた闇を荘太が受け継いでしまったという面もある様に思える。若き日の荘太は、父の影に怯えて暮らしていたとは思えない青年であったと思う。むしろ、後年になって清子の死ということや、後で出てくる伊藤野枝の件など経過していく中で、荘太が抱え込んでいくことになっていくように思える。

「さきほど「遍歴」という言葉を荘太の青年時代にあてたが、その主たる例をあげると、女人渇仰では吉原の娼妓若太夫への恋があり、伊藤野枝との恋愛があり、いま粗述したような近親相姦の深渕がある。文学の両ではトルストイとドストエフスキーと、ストリンドベリやロマン・ロランがある。小山内薫、島崎藤村、第二次「新思潮」の伸間やバンの会、そして「白樺」に共鳴して我孫子に住み、武者小路実篤の「新しき村」に参加した。このように彼の情念と思想の軌跡を考えると、明治四十年代から大正にかけて、つねにゆれうごいていたといえる。惚れっぽくて移り気で、感激性といってしまえばかんたんだが、そこには時代の理想にたいする純粋なこころが作用したとみえる。しかし彼の好ん定もの、理想としたものは、すぐ現実のまえに切り崩されてしまう。それが彼の「遍歴」であった。」

吉原の娼妓若太夫の件というのは、高村光太郎がその当時、吉原の吉原河内屋の娼妓をモナ・リザに見立てて、詩作までして作品を発表していた。ある日、吉原に遊びにいった荘太は、上がった部屋で光太郎の詩が掲載された詩集を見つけ、その女性が光太郎のモナ・リザであることを知った。その上で、荘太は彼女の元に通い詰めてみせ、モナ・リザを奪ったと暴露してみせたという一件である。この時、荘太やその周囲の人たちは、光太郎と決闘になるとか騒ぎ立てた。だが、光太郎はそこに乗らず、荘八に譲ってみせた。

「「モナ・リザは歩み去れり/我が魂を脅し/我が生の燃焼に油をそそぎし/モナ・リザの唇はなほ徴笑せり/ねたましきかな・・・・・・」の光太郎は、荘太に勝ちをゆずっていたのだった。

 友よ、されど、つひに君は幸福なり。
 優勝者なる友よ。
 彼の人の歩みは君の方へ向へり。
 優勝者なる友よ、
 彼の人は君が為に涙を流せり。、
 友よ、されど、つひに君は幸福なり。

 荘太はこの哀詩を自分の身にひきよせて、「有頂天な生の歓喜と、陶酔のもとに」「吸血鬼が血を畷るような喜びをも交えて」読んでいる。」

この辺り、大人の対応をしてみせた光太郎の前に、荘太は無邪気な幼さをさらけ出しているようにも見える。どうにも、詩人として生きている光太郎と、結局生涯創作という面では見るべきものを残すことの無かった荘太の圧倒的な差異を見せつけられているかのようにすら見えてしまう。愚かしく、上滑りな荘太。満喜との結婚と離婚、そして伊藤野枝との公開恋愛騒動で世間の顰蹙を買うことになる。

「家出をして、関西からもどってきてからの、伊藤野枝との公開恋愛のいきさっにもおどろかされる。まずはじめは「青踏」に発表した彼女の文章に惚れこんでしまったのだ。
「際立って若若しく、水水しく、率直な文章を書き、かたわら翻訳ーしかも、エレン・ケイのものなどーもして、雑誌に載せている一女性があった。その仲間のものたちが、鴻の巣あたりで五色の酒を飲んだといったり、吉原に遊びに行ったりしたというような、新聞などでの世間的ゴシップの種子になって、私が過去に見捨てた享楽的な世界の消息などを女だてらに窺う興味に生きるひと群れもあったようななかに、この私が見い定した若い女性の書くものは、伸び伸びとして、自己の解放にむかってひたむきに進んで生きようとする真実さ、真剣さが感じとられるようなものだった。いく号かにわたって、それを読むうち、私の注意は興味に変り、輿味ほそれに引きつけられて行く気持に変った。」
 まだ見たこともない伊藤野枝なる女性の恋愛観、結婚観に共鳴して、彼はこのように「おなじ光りを見る道連れと手を携えて立ち直れたら」と、夢想しはじめる。そして、弟が編集にたずさわっていた「ヒューザン」の第六号(大正二年六月)に「顫動」という題の文章を書いた。そこにはクロポトキンやスタンダールが生かされ、自分自身の経験から生まれたアナーキズムヘの傾斜がみられ、あきらかに大正の「新しい女」への恋愛宣言がこめられている。彼は青踏社に、築地の印刷所の出張校正室に野枝をたずねてゆく。そのとき、野枝のほうはまだ「顫動」は読んではいない。荘太のほうでは野枝の翻訳がある男性の手で訳されたものだということがわかってくる。当時の自由恋愛の風潮、たとえば武者小路実篤の『世間無らず』、長與善郎の『盲目の川』などの文学作品、あるいは高村光太郎・智恵子、岸田劉生・葵の、世間でさわがれたエピソードなどに彼は触発されたと考えることもできる。」

吉原で光太郎の愛人を奪ってみせた後に、青鞜を読んでみただけでその中の伊藤野枝に恋をしていくという辺り、荘太という人物の軽挙妄動というのか、軽はずみさというのが良く出ている一件だと思う。そして、荘太という都会育ちのナーヴァスであり、振れ幅の大きな波の中で生きている男にとっては、伊藤野枝は到底一筋縄でいく相手ではなかった。
荘太と顔を合わせてもいないというのに、野枝も荘太の熱烈な手紙攻勢の前にまんざらでもない素振りを見せていくのだが、上野高女時代の教師辻潤と十九歳にして同棲しており、しかも辻の子を宿していた時期であった。

「荘太をまじえて三人が会ったとき、辻潤からおれと荘太のどちらをとるかときかれ、野枝は辻潤を選んでいる。そのとき、三者の諒解のもとに二人の往復書簡は公表する約束となった。荘太は「生活」(「ヒューザン」の後身)に「牽引」を、野枝は「青踏」に「動揺」を書きつづけた。このいきさつはおもしろおかしくうけとられて、ある寄席の新講談の素材になったことがあったし、新聞では「他人の家庭を蹂躙しようとして憚らぬ無政府主義の徒」と非難された。そこからははからずも秘密におおわれていた辻潤の存在が明るみに出たのであった。」

この一件、今日の目で見れば、呑気な荘太の軽はずみさに、伊藤野枝がちやほやされることに浮かれたことが、騒動を拡大させていった主因だろう。このことで、荘太は傷ついていくことになる。往復書簡を公開してみせたことは、文学的な意味合いというよりは、ゴシップの種を世間に提供したことであり、伊藤野枝の名を知らしめる効果を上げたのみであったのではないだろうか。野枝はこの後、辻を捨て、大杉栄の元へと走ることになる。野枝の生き方というのも、時代性を理解していかないことには、その意味合いが掴みにくい。荘太が自由恋愛の風潮に触発されたように、野枝はさらにその先を行ったという点をどう評価するのか、ということである。その時代性を排除してしまうと、野枝は単に奔放に生きた女性に過ぎないとも見えてしまう。もっとも、そう見えたとして何が悪いのかとも思えるのだが。

荘太が育ち、荘八が生まれた日本橋吉川町の第八いろはがあったところは、震災後の区画整理と都市計画によって、今では靖国通りに呑み込まれてしまっている。


「その後、彼は日向の「新しき村」に入村した。そのとき三十歳だった。二十三歳の若いフィアンセとともにその理想国に生きようとしたが、村の共産生活、会員たちの内紛には耐えられなかった。震災後、妻とともに千葉県で農場をひらいたことはまえに述べたとおりである。晴耕雨読の生活を十分に味わっていたはずの荘太だが、戦後、彼は突如として自殺してしまう。「朝日新聞」昭和二十五年四月十六日付にはつぎの記事がある。
 〔成田発〕文芸評論家木村荘太氏(六十一)の首つり自殺死体が十六日朝千葉県成田山公園内で発見された。成田町署長あてほか十一通の遺書があり、これによると夫人のヒステリーを苦にしたものらしい、(中略)近作には『アフンその人と風土』『ホィットマンの民主主義展望』などがあり、近く朝日新聞社から文壇回顧録『魔の宴』を出版することになっていた、氏は画家荘八氏の実兄、作家荘十、映画監督荘十二両氏の異母兄である。
 木村荘八氏談 通知はまだ来ていない、姉がちょっと変っているので兄が私と会ったりするとそれが原因で家の平和が乱れるというような事情があって、近ごろ疎遠になっていた、自殺の原因もそういうところにあるだろう。
『魔の宴』はその直後の五月三十日に刊行された。巻頭には「上梓を前にして、昭和廿五年四月十五日、自ら命を断ちし著者の霊に献ず 朝日新聞社」と悼辞が組みこまれている。
 荘太は「いろは」の兄弟のなかでも、兄弟おもいの純粋な人であった。しかしなんとも言いあらわしようのない死に方であった。遺著にはモーリヤックの小説論から「創造しない回想作家、肖像作家で、模倣し、再現して、ラ・ブルュイエールにいわせれば、世間から借りたものを、世間に返す作家」との一節をひいて、回想記を書くことによって、自分があらたに出発を試みようとしていた形跡もみえる。しかし兄弟にとっては、なにもかも空しかったようだ。たとえば木村荘十は、文学に理解のある兄、「思想的にも愛欲生活にも流転放浪して多くの随筆雑文を書いたが、創作は書かなかった」「この兄が、何が故に自殺したか、私には本当には分らない」と書いた。」

 荘太という人の悲しさ、それを強く思うのは最期がこのような形であったからであるのに違いない。北荻三郎著「いろはの人びと」の中では、荘太の長男レオが、万巻の書を読み、教養の権化とでも言える父荘太が、父に反抗する道を選んだ息子に残した言葉が、「清く正しく生きろ。」というようなものであったことを嘆く場面が描かれていた。晴耕雨読の生活を送ったといいながら、実際には晴耕の部分は何一つ自分でやっていけず、七歳下の妻に任せきりであったこと、そして東京に戻ることを切望しながら、創作を形にしてからでなければ戻れないと思い込んでいたこと。そして、私の感想としては、荘太の作品中ではベストな作品になった「魔の宴」を書き上げていながら、それが世に出る直前に自らの命を絶ってしまったわけである。
 彼の妻のヒステリーを苦にしたものであったと、あからさまな書かれ様をしているのだが、果たしてそれが全てであったのかは何とも分からない。荘十がいうように、本当のところは何も分からないという方が正しく思える。自らの生きてきた道を赤裸々に描いた創作を手土産に、東京へ凱旋したいという思いが人一倍あった中で、そのプレッシャーに押し潰されてしまったというのも、一つにはあるような気がする。

「荘十は清子の実弟である。四歳のとき実母とわかれて、生活上の幸苦を味わい、満州にわたっている。それも某政治家の愛妾と馳けおちしたのだった。彼の自伝小説には、原敬暗殺のころの話が出てくるので、満洲生活は大正十年代から昭和初年代にかけてであろう。営口で料理屋を経営する実母に出会った。そして彼は自分の腕のなかで母の死をみとった。
「母が家を出てからの、二十年の風雪については、遂に問いも語りもしなかったが、私には、詳しい伝記を読んだよりも、よく分ったような気がした。」
 と彼は書いている。
 昭和三十三年には、異母兄木村荘八の死をみつめている。荘八の六十五年の生涯も一種の凄惨な格闘だったかもしれないという。歿後、荘八のわずかな遺産をめぐって、争いがおきる。授賞のきまった芸術院恩賜賞に対して、氏名属柄を偽って受領しようと企てる者もあらわれたとの証言をのこしている。」

木村荘十著「嗤う自画像」
今は絶版になっているのだが、古書価格は安い。サイン入りのものを入手することができた。それにしても、直木賞作家だというのに、現在刊行されているものが無いようだ。


荘十の母との経緯というのも、凄まじいものがある。彼と清子の母は、彼らの父親荘平の妾になっていろはの店をまかされることになっていたのだが、その座と子供達を捨てて、駆け落ちをしたわけである。後に荘十は満州を彷徨う中で、実母に出会うことになる。そして、彼女を看取ることになる。荘平という明治人らしい傑物の、思うがままの人生の後に残された子供達は、皆それぞれの中に煉獄を抱えて生きたとも言える。
そして、荘八の死に際しては、彼の生涯も凄惨な格闘であったと語ったのは、やはり彼らの親族であり、親しい間柄故に言える言葉だと思う。荘太が分かりやすい形で木村家の呪われた血筋を抱え込んでみせるのに対して、荘八は一見兄とは違うスタンスを持っているように見える。店のことや父親のことも、色々と文章を書き残してもいる。
羽黒洞という画廊の主人で、荘八の画才に惚れ込んだ木村東介は著書「ランカイ屋憂愁~鬼才荘八追想記」の中で、
「荘八は純粋な江戸っ子であった。世間知らずの、ソロバンなしの、気の弱さと感情過剰を一緒にもち、得体の知れぬ芯の強さを兼ね、痛いほどの生な神経をそのまま出した性格、それが荘八の個性であった。」
と書いている。これは、そのまま荘太に移し替えても何の違和感もないというのか、むしろ荘太に相応しいのではと思える様な人物評である。木村東介は、荘八の画才に惚れ込んでいただけに、絵の本当の価値と絵画市場で値付けされる実態との乖離に自ら手を打っていく。それは、反面画商である彼にとっては、彼の価値観を貫き通すこととビジネスの両立する目標であることも分かる。ここで描き出されている荘八という人物の姿は、荘八自身が書き残した多くの文章から見えてくる人物像とも、アングルが違っていて、合わせてみていくことで立体的にその姿が見えるようになってくるものだと思う。

木村東介著「ランカイ屋憂愁~鬼才荘八追想記」


また、そんなことを思うようになってから、荘太と荘八の兄弟というのは、一見異なる道を歩んで違った個性に至っているようで、じつは一皮剥くとその下にあるものが驚くほどに似ているのではないかと思うようになった。最晩年の荘八が、和田堀に引き籠もり、親しい間柄のものばかりを集めて小唄をやっていたこと。それが言わば、逃避であったこと。また、内実が火の車であったという辺りの話もある。荘十の自伝「嗤う自画像」の中では、荘太についてはあっさりとした記述に留まっているのだが、荘八の死の前後にあった彼の周辺での出来事について、あからさまに書き残している。それを読むと、全集の附録などで控えめに語られている和田堀での晩年の荘八の生活の悲しさが、しみじみと感じられる。
それにしても、近藤氏もこの木村家の兄弟を三回に渡って取り上げているのは、この連載中でも異例なほどと言える。私自身、荘太と荘八の兄弟には非常に惹かれるものがあるのだが、明治の東京の町の空気感を持っていた兄弟であり、華やかさと脆さと危うさなどが皆同居している、そんな彼らの生きた軌跡を辿りたくなるものがあるのだと思う。

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