東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(84)山の手の子(つづき)

2015-07-12 17:12:21 | 東京・遠く近き
山の手の子(つづき)
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、山梨県立文学館館長を2013年まで務められていた。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、邦枝完二へと話が変わっていき、舞台も麹町へと移る。

「邦枝完二も自分の生まれた山の手を、じっとみつめてきたひとりである。彼は明治二十五年十二月、麹町平河町の生まれ。いわぱ江戸城にもっとも近い旧武家地で、明治の空気を吸いながら育った人であった。しかし、永井荷風、水上瀧太郎とちがうのは、明治新体制のなかに組みこまれなかった旧士族の孫であったことである。『瓦斯燈時代』(昭和二十九年、朝日新閾社)という随想集のあとがきは、簡潔にそれを摘いている。
「題して『瓦斯燈時代』といふ。行燈から洋燈と変り、洋燈から瓦斯燈に移りし、明治時代の東京生活を、思ひ出づるがままに遺し置かんがためのみ。
 敗戦に因りて、日本は良きものも悪しきものも、おしなべて失ひ去れり。思ひでは懐しくもまた悲し。余、明治年間に生を享けて耳順に至る。老ひたる心など更になけれど、わが国の文化が諸外国の長所を取入れて、日本独特のものと成したる当時の、少年の日に思ひ到る時、いかにその日その日の恵まれつつありしかを、切々として憶ひ起さざるを得ず。当に黄金の馬車に乗りて、夢の街道を駆けるに似たりといふべし。
 しかもわが家富みしにあらず。三河武士なる家康の江戸入国に従ひ、馬の轡を把りて関東の地に入りし天正十八年以来、三百石の小旗本として、時に凧張りの内職までなしつつ、生計を立て来りし家なり。江戸幕府瓦解後の明治に至りて小吏となり、米塩を購ふに汲々たりし有様は、よく祖母或は父の語り草となりたるところにて、父など明治十年頃まで、魚類の膳に上りしを見たるは、一日、十五日、廿八日の、所謂三日間の夕食だけなりしと、後に語り給ひしを聞きぬ。まことに賛沢なんぞ薬にしたくも能はざりしなるべし。」

 明治の新体制に組み入れられることのなかった旧幕臣というと、「神田錦町松本亭」川合貞吉著に描かれていた松本フミとその両親のことを思い出した。女優である加賀まりこの実家の物語なのだが、どこか邦枝の話と重なってくるところがある。
 旗本というと、時代劇での派手な存在のような印象が強いのだが、実態は三河以来の徳川家家臣であって、石高も僅かであり、地味な生活を送っていた人達が大半であった。それでも、徳川家の直接の家臣であるというプライドと、幕府からみても最も身近で信頼の置ける味方であるという存在であり、江戸の町を構成した町人達と並んで江戸を江戸たらしめた大きな要素とも言えるだろう。

 四ッ谷駅の近く、雙葉の門。


「彼は江戸住まいとなった先祖からかぞえると、九代目だそうである。七代目の祖父は幕府瓦解後、家屋敷を捨てて、いったん駿府へ落ちたが、生まれ故郷である麹町の地が忘れがたく、数年ののち笈を負うてふたたび上京したというのだ。そこでまた麹町での生活がはじまっている。しかし、惨繕たるおもいを味わったことはつぎの一節でわかる。
「祖父の眼は、そこに何を見たのであらう。荒れ果てた番町の屋敷は、いつの間にやら一面の蜘蛛の巣が張られて、きのふまで愛撫して来た松は引き抜かれ、桜は折られて、一面の庭は茶畑と変り果ててゐたではないか。
(これが自分の故郷であらうか。)
 武弁一徹の祖父の眼から涙が落ちて、暫し茫然たらずにはゐられなかつたであらう。」(「心のふるさと」)
 これは昭和十三年執筆の文章の一節である。」

 明治維新の時に具体的に何が起きていったのかと言うことの中で、幕府が瓦解した後に最後の将軍徳川慶喜は静岡へ移り蟄居となった。そして、旗本は徳川家の直轄の家臣であったことから、将軍に従って静岡へと移動したのだ。とはいえ、行った先の静岡で仕事があるわけでもなく、彼らの苦労も筆舌に尽くしがたいものであったという。その苦しみの中から、再度上京して我が家に戻ってみれば、荒れ果てて居る様に茫然自失したというのは、その心情を思えば言葉がない。
 茶畑というのも、旗本が大挙して静岡に移り、大名も屋敷を引き払うという事態になり、武家屋敷は大半が空き家という異様な状況になっていたのが、維新後の東京であった。空き家が数多くあるのは防火の面からも好ましくないと言うことで、早急に空き家の取り壊しが行われていったこと、そうして出来た空き地を用途が定まらないことから茶畑にするという施策が行われていたのだ。赤坂辺りでも、数多く茶畑があったという。その具体的な影響が、そこで暮らしてきた人にどう写ったのかという、そんな話が聴けるのは実に貴重なことだと思う。

「「抑も物の本に、江戸つ子の賛沢を綴りし文字の遺れるは、武士なれぱ大名の留守居役、町人なれぱ幕府或は諸大名出入りの御用商人、又は大名旗本に金の融通をなしつつありし札差等にして、小碌の武家、中商工業者などに左様な真似の出来るはずなく、おのれ一人の賛沢暮しは、第一に人情に背き、義理を欠く理不尽のわざなりとて、広く排斥されしところなりき。
 明治に至り、薩長政府の出現を期に、その配下の足軽共、きのふまでの一汁一菜暮しより、忽ち江戸の美女に戯るるの余裕を得たる身の出世に、有頂天となり、年頃羨望の的なりし山海の珍味に箸を運ぶ事を覚えしは、待てば海路の日和のたとへとも、優曇華の花咲く心地とも云ふべく、身の程を短らぬ賛沢三昧に、その日その日を送るに至りし飛沫の、東京と名の変りし江戸人の中にも散りて、さてけふの飯は何がなくては食へぬなんぞの、罰当りを吐くに至りしなるべし。」
 このような文章を読むと、邦枝完二は旧幕臣の誇りと江戸人の気質を十分に受けついだ人であったとわかる。政治上の大転換期にあって、祖父も父も時流に媚びず、自分自身の生き方を選んだというほかはないが、そこに感じられるのは生まれた場所にたいする愛情であり、子供に寄せるおもいやりの深さである。いま、私は戦後刊行の『瓦斯燈時代』から引かせてもらったが、この明治人のうちに一貫して秦でられているのほ、幕末の江戸、明治の東京への挽歌である。
 邦枝完二は麹町小学校から、当時大手町にあった商工学校に学び、東京外語のイタリア語科にすすんだ。イタリア語を選んだのは永井荷風の示唆によるものだった。二十歳前後から創作に専念したことは、「三田文学」発表の「廓の子」(大正元年九月)「変化者」(二年四月)「蜴幅安」(同八月)などからわかるが、筆一本になるまでには時事新報や帝劇文芸部につとめていた。帝劇の女優学校の主事だったこともある。」

 旗本、武家の気風といったものが、伺い知れるような文章だと思う。明治維新という、時代の激変がもたらしたもの、その変化の大きさは、当然のことながらそれまでの時代から多くのものを喪失させている。新たなものが生み出されたのも確かだが、多くが失われていったことに大きな関心を持つことはおかしなことではない。むしろ、それまでの徳川三百年と言われてきた時代の終焉に対して、何も感興がないという方が考えられないとすらおもえる。それが当事者にとって、どんなことであったのか、こういった文章を読むことでリアルに感じることが出来る。

 そして、邦枝が外語大のイタリア語を出たと書かれているので、ちょっと不思議な感覚になってしまった。私に、この近藤氏の連載を教えてくれたのは、私の母の幼馴染みでかつては中央公論社で近藤氏の後輩として編集者となった人であった。彼女は既に亡いのだが、外語大のイタリア語を出ており、邦枝の後輩ということになる。その人が近藤氏の後輩でもあり、この連載のことを教えてくれたのだった。

 千代田区内では唯一という、江戸時代初期からのお寺、心法寺。


「昨年八月、完二の長女、木村梢さんは『東京山の手昔がたり』(世界文化社)という興味ぶかい一冊を刊行した。「東京山の手の昔十二か月」「麹町を歩く」「昔がたりいろいろ」の三章から成るか、強烈に写し出されるのは父親像である。昭和にはいってからの平河町、二番町の記憶とともにあらわれる江戸っ子気質の父である。父は平河町を「山の手下町」とよんでいたというが、山の手であってもつんとすました山の手の知識階級、有産階級ではない。「うちの前の通りを境に裏にかけては静かな邸宅街が続くのだが、平河天神への道は音から、職人や小商人の家が軒を連ね、表通りは賑やかな商店街となっていた」とあるが、かつて武家地と商人地が背中あわせになっていた場所である。麹町地区の丘とそこに刻まれた谷筋、坂みちなどが、それぞれの特性をあらわしていた。完二の「平河天神附近」はそれを克明に記録しているのだが、震災後にもその面影は色濃くのこっていた。現在のようにビルが立ち並び、住居も高層住宅となると、平河天神はその谷底に小さくうづくまってしまい、往時の風情はない。」

 平河町周辺というのは、その名の通りにかつては川が流れて、その川で出来た谷と丘の織り成す地形が残されているところなのかもしれない。江戸開府以来の大土木工事によって、川の流れはまるで違ったものになり、外堀に流れるものになっていったことなどは、大きな変化の一つであっただろう。それでも、その前の時代から形作られてきた地形は残されている。
 外様の大名の屋敷ではなく、旗本の屋敷の並ぶ町というのは、徳川家の守りを固めるための町でもあったところとも言えるだろう。旗本は概して貧しく、その屋敷内で耕作をして野菜を作ったりもしていたという。それでも、小旗本となると、耕作をすることも儘ならない家も数多くあったに違いない。そして、そこに隣接した商人町。麹町の商人町というと、薬食いの店が並んでいたというのを思い出したりもする。動物を食べることは大ぴらには行われていなかったが、武士の世界では薬食いと称して、それなりにあったものだ。その店が、麹町辺りにはあったというのを聞いたことがある。

 それにしても、平河天神辺りは、今では確かにビルに囲まれた谷底に沈んでいるとしか言い様がない。以前、丁度その辺りに写真器材の店があって、時々直接立ち寄って依頼したものを引き取りに行ったりしていたことを思い出す。その店も、しばらく前に閉じたと聞いた。

 そして、平河天満宮。


 平河天神の社殿。


「少年のこころ、少女のこころ。それを失わずに書いた文章は、おのずと人を打たずにおかぬものがある。たとえば川上澄生の『明治少年懐古』という本がある。戦後まもなくのころ古本屋でみつけて、いまなお愛蔵しているのだが、奥付をたしかめてみると、昭和十九年三月二十日、明治美術研究所の発行とある。とすると、戦争はたけなわ、ラジオや新聞は日本軍の威勢のいいことばかりをつたえていたが、敗色が濃くなりはじめたころである。私たち中学生はその年の九月から勤労動員で工場に出かけていた。十一月、その工場に爆弾がおちてはじめて空襲の怖しさを知ったのである。その年に、このような小さな画文集が出ているとは知らなかったが、あとでたしかめてみると、元来は『少々昔噺』の題で昭和十一年、版画荘から刊行されたものであった。六十三篇の想い出話から出来ていて、どれをとっても著者の少年時代の姿が髪髭とする。自伝的な文章とそれにくわえた木版の挿画が郷愁をそそるのである。」

 川上澄生の名前は勿論知ってはいるが、彼の書いたもの、作品には触れたことがない。広告で取り上げられていたりして、彼の絵を見た記憶はあるのだが、進んでてにとってみたという覚えはない。今回の邦枝完二も近藤氏に教えられているわけで、こうして多くの作家のことを教えられていくこと、そして、その作品に触れていくことは面白い。こういった機会を持つことがなければ、知らないまま過ぎていったことをしることができるのは、私にとってはありがたいことだと思っている。川上澄生の場合、どこかビッグネーム過ぎて自分が惹いてしまっていた感覚もあるので、こうして向き合う機会を得ることが出来たことが嬉しい。

「この語りくちは全篇にみなぎっていて、子供のころ、見たり聞いたりした事柄を鮮明に浮び上らせる。私はこの本を最初にひらいたときの衝撃をおもいおこす。時代はちがっても、また場所がちがっても、共通しているのは子供のこころだとおもった。そのういういしい感じ方に引きこまれたのだ。
 川上澄生は明治二十八年四月、横浜の紅葉坂に生れた。父は横浜貿易新聞の主筆、川上英一郎である。六歳のとき九段中坂に移り住んだのだが、そのときの記憶から自伝を書きはじめている。」

 この明治中期に生まれている人達という、その時代性が面白い。私の個人的な環境からみると、祖父母は明治三十年代中盤から四十年代に掛けての生まれで、世代が少し上になることが分かる。祖父母の世代とは直接的な接点があったから、話をしたり、その価値観の一端などは知る機会があったのだが、この微妙な差異がどんな違いを意味しているのか、生年が少し違ってくることで見てきたものが違い、経験してきたものが大分変わってくると言うのは、近代の変化の激しい時代の中では当たり前のことでもある。そういったことを含めて、次の話を期待したいと思う。

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