東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

要町から新井薬師へ(1):要町周辺その一

2015-07-16 06:46:03 | 豊島区
実際には板橋の我が家から谷田川の暗渠を辿りつつ、寄り道をしながら歩き始めて、最終的に新井薬師まで辿りついたという山手通り沿いを歩いてみたもの。最初は、要町交差点に近い辺りから。山手通りと池袋西口から伸びてくる道が交差する要町交差点だが、地図をよく見ると町並みは山手通りが出来る前から形成されてきたことが窺える。その交差点の北東側の裏手には幾つかのお寺が集まっている。
「鳩峰山 功雲院
 鳩峰山功雲院は、本山は福井県の永平寺と神奈川県鶴見の総持寺で禅宗の曹洞宗に属し、元高輪泉岳寺の塔頭である。
 開基は京都福知山藩祖朽木河内守元綱の息女で堀采女正直廣の正室・功雲院殿一鑑妙純大姉である。慶長十八年(1613)、開闢の祖一松宗全和尚を迎えて、泉岳寺境内に人命救助の鳩供養のため観音堂を建立したのが始まりである。
 その後泉岳寺第二十三世住職心光海印大和尚が、開山(第一世)となり、泉岳寺の塔頭となった。泉岳寺には歴代の福知山藩主。福島二本松藩主等の墓があるため、その家臣の墓が現在も当院に残っている。
 明治四十三年(1910)に墓地を現在の地に移転し、その後本堂・庫裡・檀信徒会館を建立し、今に至っている。」


元泉岳寺の塔頭であった寺が、こんなところにと言うのも意外性がある。都心部にあった寺が、明治期に周辺部へ移転する動きというのは珍しいものではないのだが、個別に見ていくとそれぞれのストーリーがあって面白いと思う。
「 鳩寺と呼ばれる由来
 堀家に嫁いだ開基さまが、十八歳の時病気になり、実家の朽木家に帰り養生中に、鳩が「この薬を煎じてお茶のかわりに飲めば治る」との夢を三晩続けてみたのである。この事を侍医に話したところ、それは大変良い薬(三枝九葉草と言われている)であるから飲みなさいといわれ毎日続けているうちに、いつとはなしに全快した。
 四十二歳の時朽木家の菩提寺泉岳寺内に観音堂を建立し、有髪のまま鳩の供養をし、疲れた時は実家へ帰り養生し、元気になれば観音堂へ戻り余生を過ごし、八十二歳でなくなった。このことから誰とはなく功雲院を鳩寺と呼ぶようになった。」


そこから裏通りを進んでいくと、木造の良い雰囲気のお寺があった。
「洞雲寺
竜泉山洞雲寺は数少ない黄檗宗の寺院である。黄檗宗は江戸時代の承応三年(1654)中国の福建省より来朝した隠元隆琦が開いた全集の一派であり、本山は京都府宇治市にある黄檗山万福寺である。
当寺は、もと臨済宗妙真寺派平林寺の末寺であったが、寛文年中(1661~73)に住職の平石道樹が、隠元禅師と共に来朝した独湛性蛍(万福寺四世)の弟子となったため、黄檗宗に転じたと伝えられる。開山は独湛禅師、中興開祖は平石和尚とされている。
当寺はかつて文京区関口町にあり、江戸時代には近くの椿山八幡宮、水神社、関口八幡宮、竜隠庵を管理していたが、大正三年に現在地に移転した。竜隠庵は神田上水の普請に加わった松尾芭蕉が住んだあたりといわれ、いま関口芭蕉庵として著名である。
当寺には、寛政十年(1798)に俳諧美濃派玄武一門の人々による松尾芭蕉、梅花(蕉門十哲の一人で美濃派開祖、各務支考)・玄武(神谷玄武)の位牌が現存し、墓地には森鴎外の『渋江抽斎』に登場する医師で考証学者の森枳園の墓などがある。
 昭和五十五年三月 東京都豊島区教育委員会」


関口の芭蕉庵の辺りは何度も歩いていたけど、こんなお寺があったというのは初めて知った。門内から外を望むと、住宅地の中にあることがよく分かる。


関口から移されてきた石碑なども建てられているようだ。


渋い雰囲気の本堂。


扁額。


木造の渋い雰囲気と書いたけど、手入れが行き届いている。


芭蕉の碑。芭蕉庵のゆかりがある証し。


庭も良い雰囲気で、池袋にほど近い大通りの直ぐ裏とは思えない。


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