東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(61)本所の共同長屋

2014-04-19 23:23:53 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、佐多稲子から横山源之助へと話が移っていく。そして、隅田川の東側の変遷の話である。

「佐多稲子さんに「江東の空」という文章がある。昭和二十一年五月上旬の晴れた日の午後、柳島から亀戸、小名木川、荒川土堤へまわり、錦糸町、亀戸へもどるという話である。焼跡だらけの赤ちゃけた風景をみつめて、昔の記憶をよびさまそうとするが、「あまりに茫漠として記憶は却つて塞がれてしまつたやうに、頭の中の風景さへ消されてしまふ」と書いている。
 この文章は、ルポルタージュ『東京の一日』(三興書林、二十一年八月刊)のために執筆したものである。この本は、発足してまもないころの新日本文学会のメンバー二十五人が、東京市中とその周辺(川崎、浦賀、船橋、八王子など)を歩いて、各地の表情を記録したものであった。代表編者の徳永直によると、一九四六年四月二十七日という日をえらんで敗戦九ヵ月後の「東京のふだんの顔」をとらえようとしたというのである。執筆者の多くはきめられた日に、割りあてられた場所をいっせいに動きまわっている。十年後、どういう表情で東京をふりかえることができるのかといって、徳永は「はたらく人民が、ファッシズムと封建的一切の悪夢と絶縁しえた、民主々義勝利の誇りと、過去の凡ゆる犠牲への追悼の念をもつて、回想するであらうことを期待する」と書いた。しかしそのきめられた日に出かけられなかった人もいた。佐多さんのルポはいちばんおそい五月上旬であった。錦糸町の映画館でニュース映画をみて「組閣について社会党の片山の活動」「社会党本部への労働者のデモ」と記録し、さらにA級戦犯の裁判のはじまったことを書いている。」

 戦後間もない頃の人々の感情のあり方、それは今から見るとなんとも複雑な思いを呼び起こすと思う。ある種の純粋さをも感じさせるのだが、開放感と抑圧された戦時の終結という喜びがあることは理解出来るものの、戦前の社会や戦争に突きすすんだことに対しての被害者感というのか、当事者意識の無さはある種無邪気にすら思えたりもする。
 確かに、一旦軍国主義へ傾斜を強めていったら、いかに批判的な思想を持っていようとも、地下で戦うか、表面的な恭順の中でやむを得ず従うしかなかったことも理解は出来るのだが、やはりその時代を生きていないだけに、もっと生々しい手触りを感じとりたいとも思いつつ、複雑な視線でこの当時の事を知ろうと思うのみである。
 そんな中では佐多稲子という人は、こういった事柄についてもこの人以上の適任者はいないだろうとも思える。私は、日本の女流作家の中ではこの人が一番好きだ。そして、一番魅力のある女性であったと思っている。文学者としての凄さだけではなく、女性としても魅力があり、さらには人間的に弱さを持ち、それを理解し、克服した人であると思う。これ程に素敵な女性は、我が国の文学史上でもなかなかいない。

「佐多さんはこのころ、『私の東京地図』の連作を書きはじめている。半生の自己検討をふくめて移りゆく東京の風景をみつめていた。大正四年十一歳のとき、向島小梅町や曳舟に住んでからの生活には、さまざまな変転があった。「版画」のなかに「それらの東京の街は、あらかた焼け崩れた。焼けた東京の街に立って、私は私の地図を展げる。私の中に染みついてしまつた地図は、私自身の姿だ」という一節があるが、「江東の空」でも自分の地図をよびさましなから、ひとり焼跡を歩いてゆくのである。
 私はそのころまだ中学四年生だった。焼跡や闇市をほっつき歩いていた。土地のゆかりも短らず歴史もわきまえず、ただ狭い範囲の見聞だけでその変化をみてきたにすぎない。しかしささやかな経験であっても、いま引いたような文章に接すると、あらためて教えられる。記憶にのこっている建物、掘割、橋、道路、盛り場、住宅などから、多くのものが実感をともなってくる。」

 『私の東京地図』は、佐多さんの著作の中でも特に好きな一冊だ。あまり多く書き残されていない東京の中の地味な町のことを、そこで暮らした佐多さんの目線でしっかりと書き残している。十条、巣鴨新田など、一体他に誰がその町の有様を書き残してるだろうかと思うような所のことを描いている。そして、そこで左翼運動に共に身を投じていた当時の夫である窪川鶴次郎との生活、どこか危うげでそれでいて逞しさも持ち合わせている、当時の稲子さんの姿など、この中に描き出されている光景が映像で頭の中に再生されていくような感じがする。長谷川時雨女史の『旧聞日本橋』に刺激され、彼女にとってのホームグラウンドであった東京の姿を見事に残してくれたのだと思う。

「東京の郊外へのひろがり、なかでも隅田川東部の工業地帯化は明治初年代からはじまっている。深川清住町(いまの清澄)にセメント工場ができたのは、明治四年のことであった。のち浅野総一郎にうけつがれて大工場となった。対岸の中洲から描いた絵をみると、そのありさまは近代化日本の力づよい象徴であったとおもえる。大きな煙突は、第二次大戦中にとりこわされるまで朝な夕なみつめたものであった。田村栄太郎の『本所・深川・千住』(『江戸東京風俗地理』第四巻)には「社会層の変化」の十章があって、工場の乱立は明治二、三十年頃にもっとも多かったと述べている。四十年以前の代表的な大工場をあげると、柳原町の明治鋳鉱所(十七年)、外出町の汽罐・諸機械の中島工場(十九年)、業平町の三田土ゴム製造工場(同)、柳島横川町の青木染工場(二十年)、隅田村鐘渕の鐘渕紡績工場(二十二年)、柳島町の精工舎(時計、二十五年)をはじめとして、精糖、繊維、鉄鋼、ガラス、製氷、ビール、精油、製粉、製材、隣寸、印刷、化学肥料、度量衡などあらゆる生産部門が集中する。水運にめぐまれていたこともあって、近代工業の拠点となった。それにともなって群小工場がふえていった。」

 深川清住町にできたセメント工場の今。大きな工場は既に無くなっているが、生コンの工場は今も同じ場所で稼働している。


 そして、創業者の銅像が建てられている。バックには、生コンの工場。


 今は都市化も東京では飽和状況で、この時代以来の工業地域でも工場が地方へと転出し、その敷地が再開発でマンションに変わっていくという状況になっている。だが、明治維新後に工業を興すという国家の方針で工業化が進行したのは、まさにここに書かれているようなエリアであり、さらには北区から板橋区に掛けての隅田川沿いのエリアであった。
 この辺りの事情は大阪も同様で、明治の大阪の状況を調べていくと、工業化の話がやはり出て来る。町中が煤煙でスモッグが出るほどに工場が数多くなっていき、維新後の商家の衰退をこれで補ったという話が出ている。東京でも、同様であったということになる。

 浅野セメント創業の地の碑が建てられている。


 これは区によって設置された案内。当時の様子がイラストになっている。


「のどかな田園地帯、文人趣味の閑雅の地はやがて変化をみせはじめる。伊藤左千夫が本所区茅場町(いまの錦糸町駅付近)で牧場を経営したというのは、宅地化・工業地化が徐々にすすみはじめたころである。私は長野県穂高町の礒山美術館で長尾杢太郎という風景画家に「亀戸風景」という絵のあることを無ったが、そこに描かれているのは緑ゆたかな水辺と放牧の図である。長尾は星良(相馬黒光)の結婚祝いにそれを贈ったというから、明治三十年頃の作であろうか。錦糸町、亀戸の昔日の夢である。向島にしてもおなじだ。永井荷風は「向島は久しい以前から既に雅遊の地ではない」「向嶋も今では瓢箪を下げた風流人の杖を曳く処ではなく、自動車を飛して工場の製作物を見に行く処」と書いたが、まさにそのとおりになってしまったのであった。
 隅田川東部の工業化にしたがって、人口の流入がはげしくなる。前号で斎藤緑雨のいう江戸っ子の東部への移動についてふれたが、そのくらいならまだしも、激増という表現があてはまるほどである。その大部分は地方からの上京者であった。東京に行けばなんとかなる、職にもありつける。そのような人口集中の過程は、東京という都市の社会問題を生むことになった。」

 向島、そのイメージというと、やはり華やかな花柳界のイメージが強い。そして、その背景に文人趣味の閑雅の地というのがあるのだろう。実際に訪れて歩いてみれば、確かに閑雅の地とは程遠いとも思うのだが、それは既に明治の末には崩壊していたと言うことになる。向島の閑雅の地を愛したというと、幸田露伴の名が思い浮かぶ。彼が向島から小石川へと住まいを移したのは、関東大震災の後のことである。直接的には震災の影響が大きいのだろうが、それ以前からの向島の変化もその転居の背景になっていることだろう。
 明治三十年頃は往時の面影を残していたものが、その十年後くらいには怪しくなってきていると言うことだろう。大半の東京市の周辺地域が関東大震災を契機に、急速な都市化が起きていくのに対して、それよりも十年から二十年程度早い時期に向島では変化が始まっていたと言うことになる。

「このような都市問題をかかえて東京はさらに拡大してゆくことになるが、生活にあえぐ無産者階級の現実については、横山源之助、片山潜、幸徳秋水らのルボルタージュや論説がよくそれをしめしている。明治以後に到来した産業革命によって、隅田川東部一帯はがらりと様相をかえていった。ことに本所・深川は大工場と群小工場の労働者の街となった。『本所区史』(昭和六年)の産業の章に工場増加表がある。明治十九年から大正十一年までの一覧だが、急激な増加は一目瞭然である。日露戦争、欧洲大戦と戦争のたびごとに刺戟されて、飛躍的な発展をとげた。区史は「戦争はそれ自体経済的破壊を意味する。而しながら国家経済を国民生活の塞礎とし戦争の動機を国家の経済的発表の衝動と見れば、その緒果は何れかの国家の経済的機能を拡張することとなる。少くともかやうに見なければ、近代日本の経済的発展の動機を説くことは困難である」としているが、本所・深川は大震災のあともその持続力のなかで太平洋戦争をむかえ、空襲による壌滅ののちも復輿して経済発展をささえたのだった。」

 以前、取り上げた北区の陸軍造兵敞なども、日露戦争を背景に弾薬の生産能力を拡大しなければならないという事情から、小石川の造兵敞を移転する形で拡張新設されている。日露戦争が我が国に及ぼした影響の中には、こういった軍需の官営工場の拡張、新設というのもまず上げられるべきものかもしれない。長閑な農村であった十条村は、これによって工員の暮らす町へと変貌していった。ここに、関東大震災後の都市化の波が後から加わって、農村時代の終焉を迎えることになっていく。
 こういった変化は、東京の周辺ではその場所ごとの固有の事情などで時期や規模は左右されてきただろうが、並べて推し進められていったものと言えるだろう。

「住民の生活の面にあって代表的な現象をあげるとすると、木賃宿であり、共同長屋の存在であった。呉文聡の文に家賃の月掛け、日掛けという言葉が出ていたが、東京では一夜客は少なく、ほとんどが常連客であった。横山源之助は木賃宿について、つぎのように書いている。
「世間には木賃宿を以て悪魔の巣窟、悪魔の集会所であるように吹聴しておる者がある。しかしこれは木賃宿を悪方面一方より観た僻見で、人間にしてもいかなる悪人でもその中『善』の分子はあるが如く、木賃宿であるからとて、悪魔の巣窟ばかりとは言えまい。最も東京の木賃宿の中にも、浅草町の如きは、いかがわしき木賃宿は随分見受くる。詩人的の眼を以て見れば、いわゆる悪魔の巣窟と言われても差しつかいなき木賃宿は随分多い。しかしながらこれは木賃宿ばかりが悪いのではなく、浅草町の周囲があのような場所とならしめたものと言った方がむしろ事実に近かろう。(中略)最も本所花町、深川富川町の如きも、やはりその木賃宿に淫売婦の出入するのを見受くる。」(岩波文庫、前掲書所収「下層社会の新現象共同長屋」明治三十六年)
 明治十九年上京してから、杜会探訪のジャーナリストとして活躍した彼は、東京の現実をみつめて、この都市から木賃宿を奪い去ったらさぞ困るだろうといい、悪弊をつくのはやさしいが、社会改良家はその悪弊をとりのぞくのにつとめよと書いている。」

 横山源之助の著作は、「最暗黒の東京」というのを読んだことがある。絶妙にユーモラスであり、読んでいると庇っているのか貶しているのか、余りに微妙で分からなくなる所もあっておかしいのだが、あの時代に無産者の側からの視点を持つことなど、極めて希有な例であったわけで、それだけでも彼の先見性と人間性が窺えると思っている。
 そして、社会の有り様を掘り下げて考えているからこそ、安直なスラムクリアランスなど何も問題の解決にはならないことを指摘している。

「横山の観察記録は徴に入り細にわたっていて、歴史文献。としての価値は高い。いまとりあげた文章は外面からだけでなく、家庭の内部にまでおよんでいる。亭主は労働者として働きに出、女房は内職に従事する。三畳とか四畳半一室のせまい家のことだから苦労も多い。しかし亭主が外に出ていれば、女房は「後は天下は我物、向い三軒両隣りの嬶を集め、二銭三銭駄菓子を買って、無駄口利いて遊んでおる者」が多く、井戸端会議がおのずと生まれてくる。
 またつぎのような例もあげている。
 菊川町の長屋に品のいい婦人が住んでいた。囲舎にいたころはその町内で有名な美人だった。二十五の若盛りで夫を亡くし、四十になるまで後家をとおして家を守っていたが、商売に欠損を生じて東京に出たというのである。最初は本郷元町で下宿屋を営んでいた。また小石川掃除町の長屋を借りて裁縫の仕事で生計をたてた。ところが、「軟弱き女の痩せ腕で世帯は持ち切れず」恥をしのんで或る華族の家に住み込みの女中奉公に出た。しかし一年半でそれもやめて、小名木川綿布会社につとめた。
「それがどうしたものか、今年の初め頃より菊川町の共同長屋に移って来たのである。そうして二、三軒先の或る長屋の嬶に聞けば、この老美人は旦那で食っているのだという、共同長屋に置くほどの旦那ならばその旦那なる者の人物も大低判る、美人の運命も怪しいものである。」
 横山源之助の取材はこのような人間模様にまでおよんでいる。」

 文人閑雅の向島がどんなところに変わっていったのか、そしてそこではどんな人々がどんな生活をしているのかという、その中身にまで横山源之助が踏み込んでいくことを指摘している。上っ面のレッテル貼りをして、こんなものだと言ってしまえば容易いのだろうが、そこで暮らす人々がどんな道程を経てそこに辿り着いているのかという所まで掘り起こすことで、不気味で訳の分からない悪魔の巣窟から、いずこも同じ血の通った人間が暮らしているのだと言うことを、しっかりと伝えているという点に横山の真骨頂があると言うことなのだろう。最近読んだ、ホームレス襲撃事件を追い掛けた書物でも、長い時間を掛けて取材して辿り着いた結論は、相手が同じ人間であり、自分たちと同じ存在であることを知る機会を設けると言うことの重要性であった。人は知らない相手、分からない相手に警戒心を抱き、恐れ、最後には攻撃する。相手が理解出来れば、そのステップから外れて行くことが出来る。人間という物の本質が変わらないとはいえ、明治の時代にそこに気付いていたという意味からすれば、横山源之助という人の慧眼には恐れ入るとしか言い様がない。

 

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