東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(44)宮川曼魚のこと

2013-06-05 21:46:31 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。門前仲町辺りの話が続いていく中で、縁のある文人、今回は宮川曼魚の話である。

「かつての永代寺門前町は、いま深川不動尊への参道を中心にあいかわらずのにぎわいをみせている。名物のきんづば屋がなくなったり店の趣向のかわったところもあるが、それにしても下町趣味の昔のおもかげを少々とどめている。縁日に出かけるときのたのしさは、ほかにたとえようがなかった。私たちの子供のころの盛り場というと、近いところでは高橋の夜店、水天宮周辺、ちょっと足をのばして浅草観音と六区の劇場街、有楽町とか銀座だったが、門前仲町はなんといっても地元のよしみで、あたたか味が感じられた。しかし歴史をひもといてみると、不動尊は明治にはいってからの新名所だった。神仏分離令で永代寺がすたれ、それまで成田山新勝寺の出張所であった不動尊が永代寺地内にあらたな堂宇を建築したのは、明治十四年のことである。永代寺の存在をいまは口の端にのせる人もいなくなった。永代寺としたら軒を貸して母屋をとられたようなものかもしれないのである。」

 という辺りは、前回にも触れてきたところで、門前仲町の門前というのは、永代寺の門前という意味であった。その永代寺が、明治の神仏分離令のために衰退してしまい、深川八幡だけが残り、永代寺の境内で出開帳をしていた不動尊が堂宇を建立し、それが今では門前仲町の賑わいの中心になっているというわけである。
 私は、仕事上の師に当たる人が木場の人で、その人から門前仲町を教えられて、訪れるようになった。そんな次第なので、この町のそういった歩みを知るようになったのは、この「東京・遠き近く」に接してからのことだった。

成田山。出開帳から深川不動へと拡張されたのが明治になってからと言うのも、意外な印象を受ける。


そして現在の永代寺。前回の分に書かれていたが、この永代寺は二代目の永代寺。最初の永代寺は、消滅してしまった。


「その不動尊入口の真向いの筋をはいったところの右手に、宮川という鰻屋があった。黒塀に見越しの松という粋づくりの店であった。店がなくなってからもう二十年に竜なるというが、最後にその店に上ったのは、昭和四十年の春だったと記憶している。武田泰淳さんといっしょだった。」

 鰻の宮川と言えば、今でも盛業中の店の名前としても知られている。こちらは「つきじ宮川本店」という名前で、深川で修行した人が暖簾分けをした店である。この暖簾分けの後に深川の宮川は主人が替わることになり、曼魚の店になるわけで、この辺りの経緯というのも興味深い。東京の老舗といわれる店にも、こういった色々は付き物で、創業何々とか書いておきながら、途中で経営者が変わっているという例は少なくない。とはいえ、店が続いて、その店の良さが受け継がれているというのなら、それはそれで良しということだし、さらに良い店になっているのならいうことなしと思う。ちなみに、「つきじ宮川本店」の創業は明治26年のこと。同店のウェブサイトには、深川の宮川が廃業したので、その名を受け継いだとある。そして、今では同店にも築地に店はない。

「曼魚渡辺兼次郎は明治十九年三月、日本橋の鰻屋「喜代川」の生まれ。深川の「宮川」を継いでいる。昭和三十二年十一月に亡くなったが、震災、戦災をのりこえて深川に生きつづけた人だった。『江戸売笑記』(昭和二年)のような風俗研究、『深川のうなぎ』(昭和二十八年)のような酒脱でしかも資料の裏づけのある随筆で知られている。また『月夜の三馬』(昭和十六年)のような江戸小説集もある。私がはじめて曼魚の名を知ったのは、戦後の「苦楽」という雑誌だった。そこには毎号、彼の小説が掲載されていた。「黒船異聞」「江戸春色」「花づかれ」という題の作品だった。しかし戦後の自由、開放という勢いのいい文学情況からみると、いかにも回顧趣味的な遊びとしかおもえなかった。」

 日本橋の「喜代川」は老舗の鰻屋で、今も盛業中である。変わらず、都心で暖簾を守り続けている店である。その家に生まれ、老舗の鰻屋であった深川の宮川を継いで若主人となったわけだが、これだけを見ても粋人というのか、趣味人としての環境があまりに整いすぎているとさえ思えてくる。だからこそ、彼の見聞の中の一部分を書いていくだけで、洒脱な随筆になっていったのだろう。そんな人なれば、余計に戦後の自由、解放という世間で強い風が吹き抜けている時代でも、自らの趣味に耽溺していく方向を選んだのではないだろうか。

 日本橋の喜代川。現在の姿である。今も、日本橋小網町で店を構えている。


「その曼魚が若いころ、歌を詠んでいたとわかったのは、しばらくたってからである。たまたま室生犀星、萩原朔太郎、山村暮鳥らの詩誌「卓上噴水」(大正四年、三冊)を繰っていたとき、その第三号(同年五月)で曼魚に『南京玉』という歌集のあることを知ったのである。朔太郎はつぎの紹介文を書いている。
「江戸深川のうなぎ店宮川の若主人、宮川兼次郎氏の処女歌集である。氏は巡禮社中唯一の粋人で生粋なる江戸前の美男子である。この歌集は支那南京洋行の紅彩紙箱に入れられて氏の親しい友人の手許に贈られる。表装は黒のびろうどに金泥の烙字、広川、名取両画伯の挿絵入り、三方金、南京玉の栞つき。この栞は宮川の旗亭につどふ美しい舞妓たちの白い指によつてつづられたものである。年少葡萄の美酒に酔ふ都会の若人と江戸前の心意気をしのぶ深川の美妓の決に是非この美しい近代的情歌集を捧げたい。況んや肩のあげとれぬ少女子のためには新らしき時代の箱せことして粋を極めた珍品である。(萩)~非売品~」
 実のところ、私はこれを読んで曼魚という人にたいする認識をあらためたのであった。巡禮詩社にいたということは、犀星、朔太郎らとおなじころに北原白秋門下として文学活動をはじめたことになる。犀星、朔太郎は白秋の「朱繁」からめきめきと頭角をあらわしていた。そして「地上巡禮」では主要同人として確固たる地位をきづいていた。犀星によると「萩原朔太郎と私とはなんといつても白秋の弟子だ。原稿の字は一字もなほして貰はなかつたが、白秋のたくさんの詩のちすぢがからだには入つて、それが萩原と私にあとをひいてゐる」(『我が愛する詩人の伝記』)というが、曼魚も白秋に惹かれ、その影響下にいたことが想像されたのであった。ところが、私はその『南京玉』という歌集をいま定に手にしたことがない。犀星がその晩年、「婦人公論」に二つの評伝を書いたころ、私は犀星先生の連載担当であったが、なぜ若かりし日のことをもっと書いておかなかったのか、と心残りがしてならない。犀星は白秋のお供をして当時の「宮川」にも行ったと想像されるからである。」

 というところを読むだけでも、曼魚という人の粋人振りが伝わってくるようでもある。調べてみても、この「南京玉」という歌集は、国会図書館にも蔵書されていない。こういった経緯で非売品として製作されたと言うことは、稀覯本ということになるのだろう。一目見てみたいとも思うが、そう簡単に見ることが出来るとは思えない。
 そして、北原白秋の元に集う室生犀星や萩原朔太郎といった人々が登場してくる。元々、私は文学に造詣が深いとは程遠い方なのだが、歌人となると尚のこと、名前以上の知識が乏しいことが情けなく思えてくる。犀星は、後に田端の文士村の住人となり、「驢馬」の同人達、佐多稲子、窪川鶴次郎などの人々と親しく交わっているという辺りを知るのみである。
 とはいえ、そんな時代に曼魚という人も同じ様なところにいたということで、その背景が見えてくるというのは分かる様に思う。

「「宮川」は幕末から明治の初期までは深川八幡前にあった。ということはまえに紹介した『木場の面影』によって知ることができる。
「維新前に深川八幡前の川岸端に鰻屋があつた。表通りには長い竹樟の先へ紺地に白く染め抜いた『田川』と云ふ『のぼり』がたてゝあつた。木場の人達は、松本や平清の酒後好い気持で芸者や松本の女中を連れて、この『のぼり』へ行くのであつた。仲町の芸者や、松本、平清の女中たちはふだんにもこの『のぼり』へ行つて、白焼で一口やつたあとは、筏で『ごはん』を、と酒落こんでゐた。当時にあつては誰れもが『のぼり』と呼んで通つてゐた。
 その『のぼり』が明治になつて『宮川』になつた。そして表通り西寄りの方へ移転して、現今も引続いて繁昌してゐる。昔は松本や平清と倶に深川の名物になつてゐた。」
 平清も松本も小説や芝居の舞台としてよくつかわれている。黙阿弥の『梅雨小袖昔八丈』などは深川を背景とした芝居だが、深川の粋の象徴としてつかっている。「のぼり」、のちの「宮川」もその一連のあでやかな、親しみのある場所であったのであろう。曼魚の「深川のうなぎ」は歴史考証をふくめたおもしろい随筆だが、彼は自分の家のことはおくびにも出していない。」

 門前仲町の、永代寺の門前町として栄えた時代、その縁を偲ぶと言うべきか。今も、門前仲町は賑わっている町だが、江戸時代以来、賑わい続けてきたところだと言うことが、良く伝わってくる。白焼きで一口やった後に、筏でごはんなんていう下りは、読んでいるだけで鰻が恋しくなってくる。白焼きというのは、関東の鰻の良さと言うべきもので、蒸した鰻をワサビ醤油で食べるのだが、お酒と合うことこの上ない。筏というのは、鰻を長いまま櫛を打って蒲焼きにしたもので、大皿に盛られて出てくると、それだけで随分と豪勢な気持になるものだ。
 江戸情緒の本場として知られてきた深川の、その良さのエッセンスと言った趣がある。その中心にいながら、曼魚は自著では自分の家のことには触れないという辺り、奥ゆかしいというのか、わきまえた人だったことが伝わってくる。宮川は深川の伝統ある店だが、直系に経営者ではないことを意識していたのかもしれない。

 そして、この後には北原白秋についての話と、白秋の巡禮詩社を曼魚がサポートしていた話が続くのだが、紙数の都合上、やむを得ず割愛する。白秋はその後、雑誌「ARS」へと活動の舞台を移していく。そして、曼魚は永井荷風、籾山庭後の「文明」という雑誌へと発表の場を求めるようになった。

 門前仲町、深川不動産道の向かい側。今はビルが多く、宮川のあった頃の面影は既既にないのだが、黒板塀の店があって、こんなだったのだろうかとふと思わされる。


「永井荷風主筆の雑誌「文明」との出会いは、自著『親和考』を荷風、庭後に贈ったことからはじまったとみられる。後年の『深川のうなぎ』でも「江漢と親和と太申」の一章があって、深川の書人三井親和(天明二年八士二歳で没。その親子は唐様かきの画家書人として盛名をはせていた)におもいをよせているが、『親和考』も凝りに凝った本であったらしい。それは「文明」第一巻第二号の「珍本」紹介によって短ることができる。
「深川富ケ岡八幡前宮川亭主人渡辺兼次郎氏此の頃編むところの『親和考』と題する書を恵与せらる。『親和考』は深川親和の伝にして『深川人物史』の第一編なり。此の書文章簡明、他書の引用また要を得て冗漫に失せず親和が事蹟を知らしむ筆致のほど感に堪へたり。巻末に親和が墨蹟と蒙刻の模写とを添へ、巻首に親和八十歳の画像と共に『楠無益委記』中親和染を着たる初鰹売、外二枚の図を挿む。これらいずれも書中の記述に照応して、著者の用意の賢く気の利きたるを思はしむ。そもそも古を思ひ故人を慕ふだに今の世は希なるに、その遺墨を蒐め、その人を伝し、資を投じて刻本を成すこと篤志の雅人にあらずして何ぞ能くせんや。記者渡辺氏に於て感ずること浅からず。」
 永井荷風は「文明」に「腕くらべ」を連載し、「矢はずぐさ」「雨聲会の記」「西遊日誌抄」「四畳半襖の下張」その他、多くの文章を発表したが、「毎月見聞録」では大正五年六月一日、深川親和の遺墨展覧会が白木屋呉服店でひらかれたこと、十月二十五日、「文明」寄書家の懇談会が「宮川」で催されたことを記録して「会するもの今関天彰野口雅水井上唖々久米秀治喜音家古蝶永井荷風籾山庭後宮川曼魚の八子なり」と書いている。
 宮川主人が「曼魚」という、うなぎやそのものの雅号をつかいはじめたのは、この「文明」からであった。」

 曼魚という粋人の心意気に、荷風という凝り性の変わり者が感応しているといった趣がある。それも、曼魚という人の凝りようが並々ならぬものだと言うことが分かるし、その凝りように、常人とは違った鋭い感性を持つ荷風という人の心を打っているのが良く伝わってくる。あの荷風が、これ程に絶賛しているというだけでも面白い。こちらの「親和考」は国会図書館に蔵書されており、行けば閲覧することができる様だ。これは是非見てみたいと思う。荷風を唸らせた稀覯本ということになる。
 荷風の懐古趣味は有名だが、曼魚が凝りに凝って深川の江戸以来の空気を伝えるかのように作り上げた「親和考」という本が、琴線に触れたことは間違いないだろう。
 曼魚と荷風の深川、もちろん震災前のということになるのだが、一体どんな町であったのか、こんな風にその雰囲気を知っていくとより面白く感じられる。深川の町を次に歩く事が楽しみになる。

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