東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

北区十条の歴史を辿る~その二

2013-01-07 23:38:37 | 北区
 引き続いて、「北区郷土誌」の「十条の今昔」醍醐清造著をテキストにしながら、十条の町の歩みを追って行こうと思う。ここで概論をまとめておいてから、引き続き十条の町々の様子を見ていこうと思っている。その中で、それぞれの地域が時間差を持ちながら宅地化していった経緯を見ていくと、中々面白いと思う。

 前回は、江戸から明治に掛けての十条の変遷を追った。陸軍の砲兵工廠が水道橋から移転してきたことが、農村から住宅地への変化の契機となったわけで、それに連動するように鉄道の駅の開設もあり、それまでの長閑な農村から今日に至る住宅地へと変貌する端緒であった。東京の近郊エリアでは、関東大震災の後、都心部が壊滅したことや、その後の都市計画によって、人口の収容力が低下したことで、一気に人口が流出し、周辺地域の都市化が急速に進行するという事態が起きている。十条もその大波を受けた例外ではないのだが、それよりも一足先に都市化が進行し始めていたという点では、流行の先を行っていたとも言える。つまり、畑をやって農業で働くよりも、そこに家を建てて家作にすればより多くの家賃収入が得られる様になったことで、農村の都市化が行われていった訳である。

前回掲載した大正一二年の地図に載っている、橋本八百屋。上十条一丁目。


そして、これも変わらず営業を続けておられる星野酒店。上十条一丁目。


 「十条の今昔」によれば、「大正期には東京砲兵工廠と十条停車場の周辺は住宅地化したが、現・十条仲原一~四丁目、上十条三~五丁目一帯は畑であり、農家が点々とあった。」という。見方を変えれば、十条の都市化は、砲兵工廠と停車場によって進められた前半と、関東大震災によって流入した都心部からの移住者によって進められた後半に分けて考える事が出来るといえるだろう。
 震災後の十条の変遷のキーとなったのが、同潤会であった。同潤会というと、都心部に建設された鉄筋コンクリートの同潤会アパートの印象が強いのだが、それだけではなく、戸建ての住宅や長屋の建設もしているし、宅地開発の今で言うデベロッパーの役割も果たしている。そういった同潤会アパート以外の活動がこの十条近辺で行われていたというところが興味深い。

 「明治末頃までの十条の農家は、「田の字型」に居室を配置し、片側に土間を広く採る長方形の建屋で、中心に太い大黒柱をたてる萱葺き屋根であった。大正期の居住用貸家は、一棟二~四戸の名が矢形で、木造平屋が多かった。」
 この「田の字」型の居室配列を持つ農家の建てや形式は、広く板橋辺りでも一般的な様式だったようだ。板橋区の郷土資料館に移築されて保存されていた農家も、この「田の字」の家だった。

「同潤会住宅の概要
  関東大震災による市民の住宅不足対策の為、大正一三年五月二三日財団法人同潤会が設立され、賃貸住宅の建設が計画された。資金は、内外からの義援金約五九〇〇万円から支出することになった。
  総括建設計画とその予算額は、
  鉄筋アパート  一,〇〇〇戸
  木造普通住宅  七,〇〇〇戸
  合計      八,〇〇〇戸
  建設費    九,七一三千円
  敷地買収費用 一,九五〇千円
  合計    一一,六六三千円
  敷地は省電駅から徒歩一〇分位の場所を選定して、買収または借地した。木造住宅は十条の他一一カ所、鉄筋アパートは青山の他一一カ所に建設地が選定され、大正一三年一〇月から建築が始まった。」

 同潤会の成り立ちが義援金によるもので、その有効活用のために財団法人として設立されたものであることや、鉄筋アパートを含めたその活動計画をまとめてみると、これもまた一つの近代の発展というものを意識せざるを得ない。それまでは個別に宅地などは行われてきたもので、震災という天災による短期間で大量の住宅を早急に建設する必要があるという中で、同潤会が組織され、計画を立案し、実行したということは、その後の先駆けであったと言えるだろう。同潤会は、昭和一六年に住宅営団に引き継がれ、さらに戦後GHQにより解散させられるが、その後住宅公団として甦り、今では都市再生機構となっている。組織として連続性があるわけではないが、位置付けとしては同じものと言えるだろう。

「十条の同潤会住宅
  現北区にも十条と稲付に木造普通住宅の建設が決まった。尚、稲付住宅と中級サラリーマン向けの西が丘梅の木分譲住宅については、次の機会に記したいと思う。
  敷地は、旧王子町上十条字割小沢九二〇番地(十条仲原三丁目)で、一〇,四八四坪を坪地代十五銭で、高木静馬他八名の地主と同潤会理事長長岡隆一郎が、大正一三年一一月三日土地賃貸契約書を締結した。」

ここで少し触れている稲付と梅の木分譲地というのも、調べてみると中々面白くて興味深いのだが、ここでは十条ということなので、いずれ改めてそれについてはまとめて見たいと思う。この現在の十条仲原三丁目というのは、環状七号線の大通りを越えた辺りで、背後は谷間になっているところである。ここにまず、震災罹災者向けの住宅が建設されたことが、十条の町の発展を呼び込むことになっていく。この同潤会木造住宅は、同潤会以後の管理者の変遷に伴い、戦後に東京都が建物と敷地を買取り、入居者への払い下げ分譲整理を行ってきたという。だが、長屋造りで、建築後九〇年近く経過している中、借地権が輻輳していたりで、簡単に建て替えなど進められない事情もあるらしい。そのお陰で、今でも当時からの建物を見ることが出来る。これについても、この後に掲載していく町ごとの写真で詳しく掲載していきたいと思っている。

これは、現在の十条仲原三丁目にて。恐らくは同潤会住宅として建設されたものではないかと思われる。


「十条銀座商店街
  明治四三年一一月、十条停車場開設当時の駅舎、出札口は南口だけであったが、複線になると大正一四年四月駅舎、出札口が西口に出来た。駅前は土地が広く幅一米位の開溝の下水が流れていたが、人力車屋、植金料理屋・・・等が次々に開店した。
 大正一四年末に同潤会住宅に推定千世帯、三千人位が短期間に移住したから、東京市内に通勤する人達で駅に至る農道は、朝夕混雑するようになった。十条駅の乗車客は、大正元年平均一六六名が、昭和元年平均四九八六名に増え、上十条の人口増加を示している。
 農道は幅三米位で両側は畑、竹藪、茶畑であり、魚廉売所(魚鈴店)が出店した一四年頃は店の脇を農水吐けが流れていた。乾物屋、八百屋、呉服店、米屋・・・等が次々に開店した。昭和五年頃には東京郊外で屈指の商店街となり「○○銀座」の呼称第一号とも云われ、夕方は買物客で狭い道が混雑して、「スリ」の被害が出るほどであった。」

今は事業用地になっている、十条駅のかつての南口出札口のあったところ、そう思って見ているといかにも駅の出札口があったように見える。砲兵工廠へ通う人々が下りたのだろうか。


今はアーケードになっている十条銀座商店街の草分けが、この魚鈴。


 つまり、同潤会住宅が出来たことで、それ以前は畑であったところに突然三千人の人が暮らす町が生まれ、その人々の生活のための商店が並ぶようになり、それが今の十条銀座商店街の誕生と発展に繋がっている。戦中の話や戦後の転換などについては、改めて十条仲原を取り上げていく中で見ていくつもりだが、十条という町全体の農村から都市化していく過程、さらには商店街の誕生と発展のきっかけについて、ほぼこれで大まかな流れがまとめられたと思う。次回以降は、個別の町ごとにその様子など、掲載していこうと思う。


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