東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

同潤会と北区十条、赤羽

2013-02-25 21:21:47 | 北区
最近、最後まで残されていた上野下アパートの取り壊しが決まり、同潤会の名が取り沙汰されることが増えている様だ。同潤会といえば、青山、代官山などにあった昭和初期に建てられたアパートの印象が強い。だが、同潤会というのはアパートの建設をやっただけの組織ではない。関東大震災後に寄せられた義捐金をベースに設立された団体で、仮設住宅の建設、運営、廃止に木造家屋による普通住宅の建設、賃貸経営、そして鉄筋コンクリート造りのアパート建設と賃貸経営。さらには、勤め人向けの住宅分譲、職人向けの住宅分譲も行っている。その他に、当時すら向かしていたエリアのスラムクリアランス、身障者向けに義肢の製作から、授産施設の経営まで、かなり幅広い活動を行っていた。

北区十条仲原、西が丘、そしてまだ掲載してはいないが赤羽西という町域には、それぞれ同潤会が深く関わっている。十条仲原と赤羽西には、同潤会の普通住宅が関東大震災後に建設されている。これは東京市街が震災によって壊滅的な被害を受けたことで、住宅困窮者が大量に発生したことへの対策とし作られた。大正13年から翌年に掛けて、東京八カ所、横浜四カ所の計十二カ所に三四九三戸が建設されたという。そのうちの二カ所が、十条仲原と赤羽西ということになるわけである。

同潤会が手掛けなくとも、東京市中は焼け野原と化していたので、周辺地域へ大量の人口流出が起きて、都市化が一気に進むことは必然であった。とはいえ、この十条仲原と赤羽西は、それぞれがこの台地上の農村地帯の開発としては嚆矢であり、その周辺の宅地化を促す契機にもなり、町としての発展を呼ぶ起爆剤でもあった。

また、震災復興事業としての住宅建設が一段落した後には、勤め人向けの住宅分譲が行われている。昭和8年までに一四カ所、四百五戸を分譲したという。そのうちの二つに当たるのが、西が丘である。赤羽第一と赤羽第二という二度に分けた分譲が行われている。

これらの開発が行われた結果、現在の町が出来上がっているのだが、北区では比較的近いエリアの中で、この三つの同潤会の行った事業の成果を今日でも見ることが出来る。他のところでも、同潤会時代の建物はまだ残っているかもしれないが、これほど近い所でたくさんの現存例を見ることが出来るところは他にはないのではなかろうか。

図書館で同潤会の詳し資料はないかと思い、調べてみたところ、同潤会基礎資料という全12巻に及ぶ資料が刊行されているをも見付けることが出来た。これには、同潤会の事業報告書、会報、そして同潤会の十年史と解散時に製作された十八年史が収められている。目下、その資料をチェックし始めたところなのだが、何しろ膨大な資料で、とりあえず全貌をチェックするだけでもなかなか大変な作業になっている。とはいえ、北区の町を歩く中で、この同潤会住宅は外すことの出来ない内容でもある。

今回は、大まかに同潤会の全貌と、十条、赤羽西、そして西が丘の分譲地に建設された家の図面などを見て頂いて、これからもう少し深く理解できたら、再び稿を改めて、現存している家と図面の照合など出来ればと思っている。

まず、これは同潤会普通住として建てられた家の図面。幾種類もある内の一つだが、共通した仕様でいくつもの場所に作られていた様だ。大井、十条、西荻窪、砂町第一、平塚第一と書かれている。長屋造りで、二階建てだが、上下では別世帯になっている。二軒長屋の様だが、実際は四軒に別れている。


これは商店と書かれている。六軒長屋の商店ということになる。一階が店舗で二階が住居。赤羽、大井、砂町第一、十条、平塚第一、西荻窪に建てられたらしい。十条、赤羽では現存を確認はしていない。


たまたま、同潤会の建設した住宅が今も残されているところということで、同潤会についても稿を設けているのだが、「東京・遠く近き」でも江東区立明治小学校についてのところを取り上げていて、その中で内田祥三博士の名前が出ているのだが、内田博士は東大の総長を務められた方でもあるのだが、建築が専門で同潤会の理事も務められた方で、同潤会中ノ郷アパートの設計もされている。意図したわけではないのだが、タイミングが揃って同潤会のことを取り上げることになっているのも不思議な気がする。

こちらは、西が丘の分譲地の配置図。具体的にどこに当たるのかは分からないが、そういったところも照合してみたいと思っている。先に北区西が丘二丁目で掲載した尖った屋根の洋室のある家も、同潤会によるものなのかと思っていたが、資料を見た限りでは同潤会の図面には洋室を併設した家の図面は見つからない。


木造二階家の図面。この図面で建てられた家が、今もありそうな気がする。


こちらは、木造平屋の住宅の図面。図面を手に西が丘を歩き回るのも面白そうに思う。


外構、外回りの門扉やら塀の図面。大谷石を摘んだ門柱、そこに付けられる門扉、そして板塀に勝手口の潜り戸まで図面化されている。現地では生け垣をよく見掛けたが、板塀が図面化されているのが面白い。


とりあえず、今手に入った情報を公開したいということで今回は資料を付けてみたが、少し時間を掛けてじっくり調べてみようと思う。図面と現在の姿を合わせてみせられれば、なかなか面白くなりそう。

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2 コメント

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同潤会の情報あります (本間孝夫)
2014-04-07 21:21:09
同潤会と北区十条、赤羽を読みました。私北区の歴史を学ぶ会で北区内の同潤会住宅について調査・報告しました。残念ながら十条、赤羽、西が丘共往時の住宅は残っていません。必要なら報告書をお送りしますので、アドレスを連絡願います。私のメールアドレスはt61homma@ma.kitanet.ne.jpです。
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どうもありがとうございます。 (kenmatsu)
2014-04-07 22:02:44
本間様
どうもありがとうございます。
この期に稿を改めて、その後の経過なども書いているのですが、分譲地には当時の家はありませんでした。
メール送らせて頂きますので、よろしくお願い致します。
返信する

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