東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

北区史にみる明治以降の城北エリアの変遷

2012-12-30 23:17:29 | 北区
北区王子から十条を書いていくに当たって、図書館で北区史を借りて読んでいる。区史というのも各区から出ていて、それぞれではあるのだが、この北区史は中々面白い。内容は豊富で分冊されている中で、「通史編近現代」というのを借りてきたのだが、北区、板橋区に跨って建設されていった陸軍の軍需工場の発展過程などについて、非常に詳しく分かりやすく書かれていたので、ここで板橋に変遷とまとめてみようと思う。

江戸時代、中山道第一の宿場であった板橋は、城北エリアでは最大の町であった。周辺は基本的に農村であり、岩槻街道は中山道と比べるべくもない。やはり、五街道というのは存在感が違ったようだ。明治維新が起きても、その構造は大きな変化に直結しなかったのだが、転換期の始まりは幕末ということになるのだろう。

幕末からの胎動というのは、加賀藩下屋敷内で大砲の鋳造が行われていたということが嚆矢と言うことになるだろう。このエリアが軍都と言われるほどの軍需工場地帯へと発展していった背景には、石神井川の存在を抜きにはできない。この川の水力を利用することが、幕末から明治初期に掛けての工業化には必須だった。この加賀藩下屋敷での大砲製造は、川口から鋳物師を招いて技術指導を受けたり、水車の動力で砲身の加工を行うものであった。
その一方では。幕府は滝野川の醸造試験場の辺りに大砲製造所を作るつもりだった。そのために、沢太郎左右衛門という人物が、ベルギーから買い付けてきたのが、板橋区加賀西公園に置かれている圧磨機圧輪である。これは現物が到着した時には、幕府が崩壊していたりで、その後にいた橋に設立された火薬製造所で使われることになった。沢も北海道まで幕府軍として戦った後に投降し、その後は新政府の官職につくという道筋を辿っていく。


さて、話は少し戻るのだが、明治維新で板橋の加賀藩下屋敷は新政府へ返納されていた。その跡地を火薬製造所へと言う、明治新政府の計画は明治4年には動き出している。新政府が誕生したばかりという中で、軍備を整えることもほぼ一からのスタートであった。
現在の水道橋の東京ドームの所には、元々は水戸藩邸があった。今も後楽園の庭園が残されているように、水戸徳川家の藩邸だけに工場にしてしまうのはもったいないという意見もあったそうだが、何より近代的な軍備を整えることが国家の存亡にも関わると思われていた時代のこと、神田川の水力を利用できるこの地に造兵司がおかれることになった。それに対応するように、板橋の加賀藩下屋敷跡地に、火薬製造所を設けようと言うこともかなり早い時期から検討されていたようだ。こちらも、加賀藩前田家が力を入れて造園した広大な庭園であったわけで、いったいどれほどのものであったのか、見てみたかったという気がする。これについては、以前このブログでも取り上げたので、ご参考まで。

さらに、隣接する滝野川でも用地買収を進めており、赤羽村に製造した火薬を収める火薬庫を建設するところまで、セットで構想が進んでいたという。滝野川分局辛い束しか約製造所までの火薬運搬道路、製造した火薬を赤羽火薬庫へと輸送する道路、さらに赤羽火薬庫から岩槻街道を結び、岩渕本宿から隅田川の水運で輸送するという計画が出来ていた。これらをまとめたものが下図になる。


この火薬運搬道路が建設されたのは、明治7年頃になってかららしい。中山道から板橋火薬製造所へ続く馬車道というのは、現在の板橋四丁目交差点から区立東板橋体育館の所へ繋がる道だろうと思われるが、この辺りは昭和初期に分譲地として宅地造成が行われており、大規模な区画整理も同時に行われている。その時に、様子が変わっている可能性がある。

そして、滝野川村火薬製造所という項目がある。明治5年に用地買収され、明治10年頃から建設工事が始まったとある。板橋火薬製造所の付帯設備として、硝薬製造施設として建設されたものだった。これにたいして、地元では火薬製造に不安を覚えて、東京府知事宛に工場建設の中止を嘆願している。とはいえ、これは結局、安全に留意して操業するから安堵せよという話で決着している。

板橋~滝野川間の火薬運搬道路は、明治12年頃に工事を始め、明治14年頃には開通したようだ。これは、板橋側が石神井川金沢橋辺りから、埼京線の踏切を越え(これは当時はなかった)、都立北特別支援学校の横を抜けて滝野川橋へ至るもので、一部は後年王子新道に含まれるようになる。


こうして、明治のかなり早い時期から陸軍の軍需工場が動き始めていく。その一方では、明治16年に上野~熊谷間に日本鉄道が開通する。この時に当初から設けられた駅で現在の都内は、上野、王子の二駅であったというのが、当時の状況を想像させる。そして、この鉄道開通は板橋宿に壊滅的な打撃を与えることになる。それまでは、街道を徒歩で旅するしか方法がなかったところへ、鉄道である。座っていれば、歩くのとは比較にならない速度で目的地へ運んでくれるわけで、これによって街道を行く人影も見えないと言うほどに一気に寂れてしまう。さらに、翌明治17年板橋宿は大火で壊滅的な打撃を受ける。

これによって、上宿の岩の坂から志村へ掛けては街道の両側が野原になってしまったという。このいった状況で、都心部では根本的な対策が取られないまま、スラムクリアランスが行われていった。その結果、板橋上宿が追い出された人々の受け皿となった。また、宿場家業では最早立ちゆかない時勢となったことから、遊郭でやっていこうという機運も生じたようだ。そして、もう一つの動きが、当時工業の町として勃興してきた王子へ働きに行くという選択であった。ただ、この当時は王子へ直線的に向かう道路がなく、かなり遠回りをしなければいくことが出来なかった。そこで、当時の板橋町の町長花井源兵衛が王子へ通じる道路の建設を企図し、東京府や沿道の地域にも呼びかけて、ようやく完成を見たのが王子新道である。区間としては、中山道仲宿交差点から金沢橋を経て、岩槻街道へ至るということになる。開通当時は、道の両側に桜が植えられたという。明治20年着工、翌明治21年開通のこの道は、そういった背景から見ると、板橋宿の苦境の中から生み出された道路だと言えるだろう。

その同じ頃、赤羽には陸軍工兵隊が大手町から移転してきている。明治維新から、正に都心部であった大手町や日比谷に陸軍がいたものが、次第に時代が変わってくる中で、移転していった。赤羽の現在の国立王子病院のところに近衛工兵中隊が、そして星美学園のところに第一師団工兵第一大隊が移転してきた。この赤羽の台地上には、明治24年に陸軍被服敞倉庫が設置され、大正8年に被服本敞が本所横網町から移転してくる。これによって、赤羽の台地上は軍関連施設で埋め尽くされるようになっていく。又、これらの数多い軍事施設によって、赤羽という町が発展していくようになる。

少し話を戻すが、明治18年には、日本鉄道の東北方面と官営鉄道である東海道方面とを連絡するための鉄道、山手線が開通する。この路線は赤羽から品川を結ぶものであった。この開通時には、赤羽、板橋に駅が設けられている。地形的な理由が大きかったと思われるが、板橋駅は宿場町の外れに位置しており、板橋宿は仲宿が中心地であったのだが、これによって遊郭は平尾宿を中心に営業するようになり、駅に近い方がより繁華ということになっていった。

明治18年大蔵省印刷局抄紙部に製薬課が設けられ、硫酸、苛性ソーダ、ソーダ灰、晒粉を製造したが、宮内省へ移管されたことを経て、明治28年には硫酸製造工場だけが陸軍の所管になった。この工場は、王子村大字堀ノ内(現堀船二丁目)にあった。この工場では、明治30年代に入ると、板橋火薬製造所のために硝化綿を製造していたという。その直ぐ近くの王子町大字豊島(現王子六丁目)には、貯弾場があって、この工場群をだるま電車(軽便鉄道)が結んでいたことは前回にも書いた。その位置関係などまとめた図が下記になる。


王子には、王子製紙も設立されていたし、大蔵省印刷局の工場も設立されており、それらに併せて軍の工場が出来ていったことで、工業の町として急速に発展していったことが分かる。そして、宿場町として繁栄してきた板橋が、鉄道の開通と大火で壊滅的な打撃を受け、あるものは遊郭で町の再興をはかり、あるものは王子へ仕事に通うようになりといった経過を辿っていったことも、対称的な町の栄枯盛衰のストーリーとして興味深い。

赤羽に被服敞が統合された結果、本所横網町の旧被服本敞所在地は空き地になっていた。大正12年の関東大震災の折、その地へ避難民が押し寄せていた。そこへ火焔が渦まいて襲いかかる惨事となり、大勢の方が命を落としたことは有名である。その跡は、今も横網町公園として慰霊堂が設けられている。

この多くの軍の施設は、その後の第二次世界大戦の敗戦によって、再び違った様相をみせていくことになるのだが、それについては又それぞれに地域を見ていく中で触れていこうと思う。だるま電車が東北線の上を築堤で越えて、十条工場へと繋がっていた痕跡を残す小公園にて。


これは築堤をくぐる歩行者用のトンネルのポータル。今は築堤は全て撤去されており、そこには道路橋が架けられている。これは、砲兵工敞のマーク。


東北線の世路を超える道路橋。かつては、築堤から橋を渡して、軽便鉄道が越えていた。


こちらは、十条工場側の眺め。今は道路が二層になっていて、下の道路は線路の手前側で台地の上下を結び、上の道路は線路の反対側へと延びている。

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