東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

北王子貨物線、日本製紙北王子倉庫廃止へ

2014-03-01 21:17:54 | 北区
北区王子五丁目にある日本製紙北王子倉庫が、廃止されることになった。それに伴い、この倉庫まで引き込まれている専用線、北王子貨物線もその歴史に幕を下ろす。この貨物駅と倉庫の施設の北側に、この地の由来を示した案内が設置されている。


場所がこれで分かるだろうか。南北がほぼ逆転している、北が下の地図である。下側に隅田川が流れている。東北線の線路と隅田川の中間に赤い矢印で示されているところが、この日本製紙北王子倉庫である。


「旧王子製紙株式会社十條工場
 明治維新直後に需要が高まった西洋紙を日本国内で自給することを目的として、明治6年に抄紙会社が設立されました。
 旧王子製紙株式会社は、この会社の後身で、本社は現在のJR王子駅の前にありました。
 かつて、このあたりにあった「十條工場」は、印刷局に葉書の用紙を供給するため、明治43年に設立されたものです。この工場は、当時としては規模が壮大で充分な設備が整っており、その当時は、皇族の人々や海外使節なども見学に訪れていました。
 太平洋戦争後の財閥解体に伴い、この工場は十條製紙(現日本製紙)となり、その後、昭和51年に現在の公団住宅団地へと姿を変えました。」
ちょっと分かりにくいが、最初は官営工場として設立されたのだが、大正5年に王子製紙へと払い下げられている。専用線は、昭和2年の開業。


現在の日本製紙北王子倉庫は、この地にあった十條製紙の工場から見ればほんの一部が残されているに過ぎない。これは北とぴあの展望フロアから見た景色だが、赤で囲んであるのが日本製紙北王子倉庫。そして隣接する青で囲んだ公団住宅も全て製紙工場であった。こうして見ると、そのスケールの大きさを感じる。


前記の通り、製紙工場は昭和51年には公団住宅へと変わっており、残されているのは倉庫のみ。会社も物流部門の会社と言うことになる。


隣接する公団住宅。広い敷地に高層住宅がいくつも建てられている。広大な敷地であり、工場時代には大きな工場であったことが実感される。


この通りは、かつて隅田川から神谷堀と言われた水路が延びていた名残。遙か先の高層住宅群も、神谷堀を埋め立てた後に建てられている。神谷堀緑地など、公園にもなっていて、その跡を感じることは出来る。


北王子倉庫の入口。北王子貨物駅の反対側は広大なトラックターミナルになっている。大型トラックが小さく見える。ここで、東北の工場で生産された紙が列車からトラックに積み替えられて出荷されていく。


社名が日本製紙になってから、もう20年が経過しているのだが、かつての社名の名残があった。これより右手は社有地で、左手はJR貨物の管轄。その境界線の標識。


石巻港駅から田端駅経由で、紙を積んだコンテナ貨車がやってくる。入替扱いと言うことで、正面の赤い尾灯の片側が点灯している。そして、係員が添乗する形で、ゆっくりと近づいてくる。


倉庫に直結した荷扱い線に到着。直ぐに扉が開けられて、たくさんのフォークリフトが忙しく走り回る。


構内の一番端の線には、前の便でやって来て荷卸しを終えて空になったコンテナ貨車が待機している。そこにDE10型機関車が連結され、しばらくするとヘッドライトを灯して出発していく。構内のポイントは全て手動式。


3月14日がこの貨物線の最終日になるらしい。休日は走らないそうで、この撮影は平日だが、数人が撮影に訪れていた。この貨物線、撮影できるポイントが限られていて、周囲にはあまりゆとりがあるところではない。最終日、多くの人がやってくるような事態になると、結構大変なことになってしまうかもしれない。


JR貨物のDE10型機関車が行ってしまうと、直ぐに日通マークを付けた入替用の小さなディーゼルのスイッチャーが動き始める。踏切を締めずに、ポイントを切り替えられるところまで来て止まる。こんな小さな車体だけど、荷卸しを終えたコンテナ車を待機する一番左側の線へと移動する仕事をこなしている。


まず編成の半分を引き出すので、踏切一つは閉鎖する。これもポイントを超えるところまで引き出すと、間髪を入れずに逆方向へ押し始めていく。


ここは桜並木の美しさで有名なのだが、今年は桜の開花を待たずに貨物駅は閉められてしまうことになる。


ふと気が付くと、木製に混じって金属製の枕木があった。JR貨物が採用しているものだろうか。


左から二本目の線路に留置されている、ここで活躍してきた入替用の車両たち。一番古そうなのは、この黄色いヤツ。協三工業製のもの。車体は古びた感じでもないが、足回りはロッド式の三軸で、一気にクラシックな雰囲気になる。検査期限が2001年と書かれているので、もう10年以上動いていないのだろう。動いているところを見たかった。


DB252と書かれた車両。日本車輌の立派な製造銘板も付けられている。これも永らく動いていない様子。二軸の模型のような車両。


これは比較的最近まで、この日動いていたものと交替で動いていたらしい。体裁はこれが一番整っている印象。


そして、これが北王子貨物駅全景。


荷卸しを終えて、空になったコンテナ貨車の移動が終わると、この日の業務は終了。扉が閉められ、鍵が掛けられる。


最近の鉄道撮影の現場の混乱振りなども聞くと、最終日には近づかない方が良いだろうかとも思えてしまう。あんな狭いところで、大人数で殺気立つような状況には出くわしたくない。たまたま、2月28日と本日3月1日に撮影したのだが、とりわけ今日は怪しげな空模様だったこともあって人出も少なく、現場は長閑な雰囲気で和やかだった。そんなムードのままで、最終日を迎えて欲しいと願う。

なんといっても、明治43年に官営製紙工場として設立されて以来、この工場を中心に周辺の町が形成されてきたわけである。この辺り、北区の低地部は荒川(隅田川)の氾濫による水害が多く、湿地帯であったこともあり、田圃だったところである。農家も十条の台地上に暮らし、台地上の畑、低地部の田圃で農業を行って来たところ。そこに製紙工場が出来て、周囲に町が形成されていったのだと思う。荒川放水路が出来て、恒常的にあった水害の頻度も一気に下がり、さらには関東大震災後の郊外の都市化という影響も大きかったものと思う。それでも、この町の中心にあり続けたのは、永らく製紙工場であっただろう。王子駅前にあった王子製紙創業の工場も姿を消し、そしてこの十條工場も公団住宅へと姿を変えてきた。徐々に製紙工場の記憶が薄れていく中、その名残を伝えてきた倉庫もとうとう姿を消していく。
 北区と隅々まで歩いてみて一番面白いと感じたことが、農村から工業化の時代を迎え、更に宅地化していったという時代の変遷の痕跡が、色々な形で残されているという点にある。予備知識を持って歩けば、様々な痕跡がこの町の由来を語ってくれる。その饒舌さが北区の魅力だと思う。その要素の大きな一つだった、この北王子倉庫と北王子貨物線の廃止、残念であることはもちろんだが、しっかりと記憶に残しておきたいとも思う。

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2 コメント

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Unknown (やま)
2014-03-04 21:18:33
以前もコメントさせていただいた者です。
お変わりなく素敵な写真を掲載しておられ楽しませていただいております。
引き込み線の廃止の知らせ、神谷育ちの私にとり寂しいの一言につきます。
周囲の一帯は、都内にもかかわらずゆったりとした時間が流れるのどかな空間なのに、イオンのショッピングセンターに土地が売却されるという話があったそうですが、商店街の反対でとん挫したそうです。
その後の進展は分からないのですが、いずれにせよ桜並木の一部の伐採が余儀なくされるという話があり、何とかならないものかと心を痛めております。

東京育ちでこよなく東京を愛しているのですが、忙しくなかなか都内を散策出来ずにおります。
が、あなた様のブログで発表される懐かしい、私の記憶の中にある東京の風景に心から慰められております。
ご健康に留意され、今後も素敵なお写真をたくさんお載せになられてください。
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ありがとうございます。 (kenmatsu)
2014-03-04 23:36:08
やま様
過分なコメントを戴き、本当にどうもありがとうございます。私の拙いブログでも、少しでも楽しみにして頂けるのかと思うと、とても励みになります。

引き込み線の廃止も、かつては東北線から枝分かれしてあちらこちらへと線路が延びていたのに、この北王子貨物線が残された最後になってしまいました。倉庫が、王子の発展と深く結びついてきた製紙工場の名残であったことも含めて、大きな転換期を迎えていることを感じます。

見事に育った桜並木は、地元の方々から深く愛されていることとも思います。どんな形で再開発が行われていくのかは分かりませんが、少しでも今の形を留めておいて欲しいと願っております。
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