東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(50)回向院への道

2013-09-21 21:42:32 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、両国回向院にまつわる話である。両国橋と回向院、江戸以来の経緯や変化について。

「猫の亡骸をミカン箱につめて、自転車で北へむかう。それは両国回向院への道であった。
 万年橋の急坂では自転車を押して登る。新大橋の電車通りをわたって、堅川の一之橋をこえると、その先の右手が回向院だ。本堂に通ずる小径をはいっていくと、右に僧房があった。父から言いつけられたとおりに、私はミカン箱に供養料の袋をそえて差し出すと、坊さんは、
「はい、ごくろうさまでした」
 と言って、丁重にそれをあつかってくれるのであった。
 こんなかたちで回向院へ出むいたのは二度である。はじめは父といっしょに歩いて行った。冷たい風の吹く夕方だった。墓地の一角に鼠小儀次郎吉の墓のあることを教えられた。そのあと国技館、吉良邸跡を通って二之橋をわたり、高橋の夜店をまわって家にかえったのをおぼえている。しかし、なぜ猫の死骸を回向院に持ってゆくのかはわからなかった。隣り近所の人々も、動物が死ぬとかならず回向院に足を運んでいた。
「猫は鼠を食べるからさ」
「じゃ、どうして犬をつれてくんかなあ」
 子供たちはこんな水掛け論を言いあっていたが、私にとっても回向院は猫と盗賊でむすびついていたのである。」

 両国の回向院には何度か足を運んだが、境内を歩いていて、ペット供養の看板か何かを見て、今風のこともするんだと感心した覚えがあったのだが、そうではなく昔からのことだったのだと、この文章のお陰で知ることが出来た。猫や犬と共に暮らす人は多いし、その歴史も長い。そして、小さな動物は人よりも大概は早くにその寿命が尽きてしまう。その悲しみ故に飼わないという人もいる様だが、与えてくれるものの大きさを思えば、悲しみがあるのはむしろ当たり前だと、私は思う。別れが悲しくないなんて、その方が余程情けないことでもあるだろう。
 そして、その猫や犬が命を終えたときにどうするのかというのは、悩むところでもあった。うちでは犬を飼い続けていたが、その死を迎えたときには、ペットの葬儀社に依頼したのを覚えている。庭が広ければそこに弔うことも出来るが、都会ではなかなかそういうわけにもいかない。そんな意味合いからみても、昔から回向院で受け付けてきたというのは、興味深いことだと思う。

回向院の現在の山門


「常時、猫のいる家に育ったのだが、家を離れてからの私は、一度も猫を飼ったことがない。飼いたいといっても妻が「絶対反対」を唱えるのである。赤ん坊にいたずらをするとか、家のなかを汚すとか、あるいは、猫は恩短らずだとかの理由を並ぺたてて、私の願いは聞きいれられない。新宿区とか世田谷区に住んでいた彼女は、むしろ犬好きで、犬を飼ったことはあった。しかし団地住まいとかマンション暮しになると、犬も猫もあきらめなければならなかった。それでも猫は、飼い方によっては飼えるとおもえた。昭和四十年ごろだったと記臆するが、ある日、鎌倉の中山義秀さんから家に電話がかかってきた。いい猫が生まれたので取りに来いという話だった。それをきいたとたんに、妻は表情をくもらせてしまった。
「どうしてそんな約束をしたの。ゼッタイ反対よ。断ってね」
 と剣もほろろのありさまである。家のなかの日常をあずかる女の立場を尊重しなければ、動物は飼えない。やむを得ず私は鎌倉まであやまりに行った。ちょっとした家庭騒動の一端を話すと、義秀さんは笑いころげていたが、どうも世の中は猫好きと犬好きにわかれるらしい。幼時体験、それも住んでいた場所とか環境によるところが大きいとみえる。」

 近藤氏も、家庭では強権的な父親というわけにはいかない様子が窺える。猫派か犬派かというのも、私も育った中でも犬と暮らしてきたことから、犬好きな事は間違いない。家の中で、犬と一緒に生活することの面白さや、喜びということについては、本当にいいものだと思っている。犬が病気をして、心細い思いをしながら、回復を願ったりと言うことも、子供心に良い経験をしてきたと思う。結局の所、猫を飼ったことがないままでいるのだが、猫好きの友人のところで猫に接したりしていると、どちらでなければとは思わない様になってきた。犬には犬の良さがあって好きだし、猫には猫の良さがあって好ましいと思うのだ。どちらも捨てがたい良さがあることは、分かる。間口を狭めてしまうことの方がつまらない様に思えてきたのだが、今は残念ながら犬も猫もいない生活になっている。
 人によって、その好き嫌いがあることに違いはないのだが、かつての時代の方が、その色分けが今よりも明確であった様に思う。そんな時代背景も、近藤氏の家庭で猫が受け入れられなかったことにはある様に思う。

両国橋。


「谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のをんな』は猫の生態をみごとにとらえている。ぐうたらで、怠げものの庄造の先妻と後妻をめぐる物語だが、猫は堂々とその劇中の役割をになっている。そのなかに「六年の間と云ふもの、庄造は芦屋の家の二階で、母親の外にはたゞ此の猫を相手にしつゝ暮らしたのである。それにつけても猫の性質を知らない者が、猫は犬より薄情であるとか、不愛想であるとか、利己主義であるとか云ふのを聞くと、いつも心に思ふのは、自分のやうに長い間猫と二人きりの生活をした経験がなくて、どうして猫の可愛らしさが分るものか、と云ふことだつた。なぜかと云つて、猫と云ふものは皆幾分か羞澁みやのところがあるので、第三者が見てゐる前では、決して主人に甘えないのみか、へんに余所々々しく振舞ふのである」という一節があった。人問に媚態をみせるところ、つんと澄ましたところ、哀れさをおぼえさせるような声、そのときどきに猫のおもしろさがあらわれる。谷崎が庄造という人物に托して、猫と「生活をした経験がなくて」というあたりは、そのとき妻に読んできかせてやりたいほどだった。」

 説得が功を奏さず、猫の魅力を分かってもらえない想いが、しみじみと伝わってくる様だ。それにしても、猫を飼う話を通すために、谷崎が引き合いに出されたら、近藤氏の家庭ではどういった事態になっていたのか、そうしたい思いを抑えた話になっている辺りから察する他はない。やはり、近藤氏も家庭では逆らえない存在があったということが伝わってくる。
 谷崎の猫好きというのも、何というのか、あまりにはまりすぎる様にも思えてしまう。東京の旧市街の下町エリアでは、長屋の間に猫がいる景色がよく似合う。裏店へ入る路地やら、犬よりも猫のほうが似合うのはその性質からいって、密集した中で生活するには吠えない猫の方が好都合であったことが大きいのかもしれない。

「回向院の参道は両国の表通り(千葉街道)の国技館の脇から入るようになっているが、私たちが近道とおもっていた一之橋側からの綱い道は、昔の本道、あるいはその脇道であったようである。大正大震災のあとの区画整理、道路整備で隅田川東岸地帯は一変している。回向院創設(明麿三年、ニハ五七)のころから考えると、もっと大きな変化があった。
 たとえば比較的あたらしい幕末の尾張屋版「本所絵図」(安政二年、一八五五)では、両国橋とむかいあうかたちで回向院が描かれている。二百年のあいだに御竹蔵や武家屋敷、町場、掘割が形成されて、回向院の入口両側は門前町でにぎわいをみせていた様子である。明治十七年の実測図(五千分の一尺)でも、回向院は両国橋とむかいあっている。江戸の原型をそのままうけついだかたちであった。
 ところが、明治三十七年、あたらしい両国橋が旧両国橋のやや上流(二十六メートルほどという)につくられてみると、両国界隈はがらりと様相をかえはじめる。明治四十二年六月、ドーム型の国技館が完成したのはその代表的な例であった。つい先日までみなれていたあの丸屋根は、戦災で鉄骨だけの残骸になったことはあったとしても、また進駐軍のメモリアルホール、日大講堂になったいきさつはあるにせよ、隅田川左岸の新風景であった。しかし、いまでは完全に姿を消してしまった。」

 この辺りの話は、私にも理解できる。馴染みのある土地というわけではないのだが、両国橋やその両岸の様子を調べていくと、この様相が大きく変わっていったことに突き当たることになる。江戸以来の賑わいを見せていた両国広小路が姿を消していったのは、時代が変わったからというだけではなく、新しい両国橋が上流側に位置を変えたことで、取付道路も変更されてしまい、かつての広小路が橋に連なる意味を失ってしまったことが大きい。この明治三十七年にかけられた両国橋が、今は南高橋になっている鉄橋である。それ以前は木橋であった。明治三十年の川開きの花火の時に、欄干の崩落事故が起き、鉄橋への架け替えが決まったという経緯がある。
 古い地図や、江戸東京博物館の両国橋のジオラマを見ると、回向院が両国橋を渡ったその向こう正面にあったことが分かる。今でも、隅田川から回向院の横手に向けての道筋は残されていて、それを頼りにかつての両国橋の位置を知ることも出来るというわけである。
 今回の話は、隅田川の東岸についての話だが、両国橋の変遷は西岸にも大きな影響を与えている。それだけ、橋というものが町に及ぼす影響は大きかった。
 そして、私の世代にとっては、日大講堂という名で最後は呼ばれていた、旧国技館は姿を消してしまったことが、やはり残念に思える。私の少年期には、国技館は蔵前の時代であったから、日大講堂というと、イベント会場としてその名を聞いたことがあるくらいで、足を運ぶ機会のないままになってしまったのは残念でならない。

かつての両国橋の辺りにある、西洋館。橋のたもとの道の広がりに合わせた角度になっている様だ。かつての橋の証人と言えるのかもしれない。


その向かい側、神田明神下の鰻の老舗神田川の支店がある。両国橋の賑わいと鰻の老舗のと利併せが面白い。


両国シティコアの中庭にある、旧国技館喉表の位置。タイル貼りになっているのだが、かつての土俵の位置が分かる様になっている。


「回向院は元来、両国橋と対になるものであった。その発想の発端ば、俗に振袖火事とよぱれた明暦三年正月の大火である。矢田挿雲は『江戸から東京へ』の本所篇でそのいきさつをつぎのようにまとめている。
「日本橋方面から、浅草へ避難しようとした伝馬町の囚人および良民の大群衆は、浅草御門をしめられて、やむなく右に折れ、大川端から水に投じて死するもの十万八千~というのはおまけで、実数二、三万としても酸鼻の極である。・・・・・・回向院はその死骸を埋めて供養するために出来た、東洋第一の無縁寺であり、これに関連する大橋架設の動機は、すくなくとも、火事の水死人を救わんとの考えから、発したのであった。」
「明治三十七年に、現在の両国橋が架る前の両国橋は、現在よりもやや下流に架せられ、橋身の延長線が、ちょうど回向院の総門に、突当たるような位置にあった。」
 振袖大火以前の大川の東岸地帯のうち、両国もまだ見渡すかぎりの卑湿の地で、葦荻のむらがるところだった。ところどころに田んぼがあるくらいで家らしい家はほとんどなかったといわれる。それがこの大事件によって無縁寺ができ、三年をかけて万治三年(ニハ六〇年)に橋が架かった。挿雲は両国橋を「一つ増した江戸名所」だというのである。」

 この振り袖火事についても、火元とされた本郷森川町にあった本妙寺は、隣接する幕府の大老であった阿部家の屋敷が火元であったのを庇うために汚名を着たという説を唱えている。その真偽はともかくとしても、江戸初期の町造りを白紙に戻して、より大規模な都市へ発展する新規まき直しの契機であった。この明暦の大火の後の江戸の都市計画は、その後の時代を通して、ほぼ江戸という町のあり方を規定したものになった。今日に至るまで、その痕跡は残されているとも言えるものでもある。
 ここでいう浅草御門というのは、浅草橋の辺りにあった門を指す。神田川が仙台堀とも呼ばれた様に、この川は江戸城外堀の一部でもあった。その外郭、浅草橋に城門が設けられており、浅草御門といったわけである。この為に、日本橋の人は自分たちの町は江戸城惣構えの内にあることを誇った。
 両国橋と回向院の位置関係について、ここでも述べられている。回向院も震災、戦災で焼けているのだが、その正面の総門の向き自体が、震災の前後で変わっているわけである。そして、両国橋架橋前の隅田川東岸は未開の土地であったこと、それが橋が架かったこと、巨大な寺院が設けられたことで、大きな変貌を遂げていくことになったことが窺える。

両国橋上より、隅田川を望む。


「無縁寺は各地にみうけるが、この回向院は大墓穴の上に建てられた伽藍として最大のものであろう。本堂にしても方丈にしてもみな白骨の上に建てられている。揮雲は「ところがいまや塚の上に国技館が建ち、土の下の骸骨踊りに負けじと、力士達の裸踊りが演ぜられ、桟敷ではまた呑ン兵衛の徒が、麦酒壜などを振りまわしながら踊っている。この三段の踊りを、縦に考えると妙な気がする」と書いて、発心供養のこころを恵れた人間の営みを皮肉っている。ときとして歴史を忘却の彼方においやりがちな人問は、いつの時代でも現世をあるがままに解釈して生きていこうとする。
 いま、回向院はきれいに装備されて、小ぢんまりとしたたたずまいをみせている。しかしビルの谷間のなかだ。墓地には「明暦大火横死者等供養塔」(延宝三年)をはじめ、その後の大火、水害、津波、海難などによる死者供養碑がある。そのほか犬や猫の供養搭があって、その名を記した率塔婆がならんでいる。
 わが家の数匹のコゾたちもここに眠っているはずだ。あの当時、率塔婆は建ててやらなかったけれど、動物慰霊の碑をみていると、少年のころにみつめていた猫の表構がおのずと浮かんでくるのであった。」

 今では、日大講堂も高層ビルに変わって、回向院は都会のビルの谷間に佇んでいる。とはいえ、その成り立ちをこうして思い起こしてみると、無神経に歩き回ることを憚る様なものがあったことを知らされる。とはいえ、歳月というものが人の記憶から生々しさを消していき、世代が変わっていくことで、より大きな距離をいつしか作り上げていくからこそ、人は気楽に生きていけるものであるのかもしれない。両国界隈を歩いてみるときには、万を数えた江戸の昔の悲惨な大火事でどんな有様であったのか、そしてその後の時代にも震災や戦災で、同じ様な有様が繰り返されていることを、時に思い出してみることは必要なことかもしれない。そして、この両国という土地に、もう一つの無縁寺というべき、東京都横網公園の震災慰霊堂があることを思うと、なんともいえない気持になる。

回向院の裏門。かつて総門があった隅田川を向いたところには、両国幼稚園がある。そちらから寺に入ることは今は出来ない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 北耕地川跡を歩く~その六 | トップ | 板橋宿高田道始点と乗蓮寺参道 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

東京・遠く近き」カテゴリの最新記事