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東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

旧川越街道~板橋、練馬、和光~その六(上板橋)

2014-08-22 18:36:34 | 板橋区
さて、旧川越街道を行く、再び旧道に入ってあるていく。ここは上板南口銀座商店街という商店街になっている。東武東上線の上板橋駅が最寄りになる。上板南口銀座商店会のサイトがあった。
「上板南口銀座商店街の商店数は約150店舗、主に生鮮3品など生活必需品中心の商店街ですが、最近は、チェーン店や飲屋が、川越街道沿いには大型店が増えています。
上板南口銀座商店街のある東上線上板橋駅は大正3年に開業した歴史ある駅です。江戸時代、周辺は川越街道の上板橋の宿場町として栄えました。川越街道は、室町時代の中ごろ太田道灌の千代田城と河越城を結ぶ街道として造られ、江戸時代に入ると宿場が整備されました。
上板南口銀座を抜けて、川越街道に出るとすぐに見えるのが、川越街道の名物5本ケヤキで、平成4年には板橋区の「活き粋いたばしまちなみ景観賞」を受賞しています。この5本ケヤキは、昭和初期の川越街道の拡幅工事の際に上板橋村村長であった飯島弥十郎氏が屋敷庭の木を残すことを条件に土地を提供したものです。 元上板橋村村長の飯島弥十郎家の屋敷林の一部が現在の川越街道の道路用地となったため、切り倒される予定でしたが、同家の強い要望でこの木を避けて工事が 行われ今に至っています。現在、道路の中央に残っている5本のケヤキは、飯島村長の屋敷庭跡になります。
現在の商店街が形成されたのは、戦後の昭和25年頃の事です。最初は上板橋駅から川越街道までの縦線の商店街と、旧川越街道の横線の商店街との2商店街に分かれていました。
55年位前の昭和33年ごろ大同団結をして、現在の形になりました。
平成元年2月に上板南口商店会から、上板南口銀座商店街振興組合になりました。商店会時代から開催している朝市は300回になりました。子育て地蔵縁日はそれよりも古く何回かははっきり分かりません。振興組合になってからは、ゴールドスタンプ事業、各種イベント、近年になってからはとれたて村事業など多岐にわたっています。近年は最初にも書きましたが、チエーン店、コンビニやスーパーなども増えてきましたが、まだまだ戦後からの古い商店が残っています。どんどん近代化され商店街の姿も変わってきておりますが、商店街の中に子育て地蔵があるように、古き良きものを残して心の暖かさを感じる商店街が、上板南口銀座商店街です。」

と書かれているが、以前書いた様に川越街道の上板橋宿は、現在の中板橋駅の最寄りの辺りになる。現在の上板橋駅周辺は下練馬宿の入口という位置関係で、下練馬宿の一部だったのではないだろうか。そもそも、川越街道は起点と終点まで含めても八宿しかない短い街道であり、宿といっても旅籠の並ぶような町ではなかったということもある。そして、戦後の高度成長期に都市化が進行していったことで、地元の商店街も発展していったのだろう。

そんな中に、昔ながらの佇まいを残すこだまや食堂があった。暖簾がでている。


街道筋の商家造りといった風情。今は、この周辺でも木造家屋は数少ない。


先へ進むと、モルタル仕上げの看板建築。今は仕舞た屋になっている。商店街が賑わった時代を想像したくなるような雰囲気。


その先、一角が玉垣で囲われて、子育地蔵尊が祀られている。
「子育て地蔵の由来
 当地に安置されている地蔵は、通称「子育て地蔵」と呼ばれ、人々に広く親しまれています。お堂の中にある二体の地蔵は、もともと栗原堰の一本橋(現在の桜川一丁目5番地)付近に建っていたものといわれていますが、それを裏付けるように、石仏の台座や本体には貞享五年(一六八八)や安永六年(一七七七)といった造立された年号や、上板橋村栗原を中心とした奉納者の名前が刻まれています。
 明治初年に、これらの地蔵は、川越街道に面した「ガッカラ坂」と呼ばれる当地に移されたといわれています。大正三年(一九一四)、川越街道と東上鉄道(現在の東上線)の上板橋駅を結ぶ道(現在の上板南口銀座)が通じたときには、両道が交差した角地に据えられていましたが、この時すでに地蔵は倒され、放置された状態であったともいわれています。また、移転した当初には三体あった地蔵も、いつしか二体となっていたといいます。
 その当時、宝田豆腐店主でああった宝田半二郎氏は、地蔵が荒れ果てた状況にあったことを憂慮し、大正十二年頃に店舗に隣接した現在の場所へと地蔵を移しました。さらに昭和十年頃になると、半二郎氏の子息である宝田源蔵氏と七軒家の木下仙太郎氏が中心となって、地蔵をお祀りする地蔵講を結成しました。講員も三百名を数えたといわれています。
 都市化が進んだ現在も、子育て地蔵は、人びとの素朴な願いを引き受ける仏様として、商店街を中心に大切に守られ、お祀りされています。また、四月から九月にかけての七のつく日には、地蔵堂の前の旧川越街道で縁日が開かれるなど、地域の活性化にも一役かっています。
 平成十九年七月七日    上板橋子育地蔵講」


栗原堰の一本橋、桜川一丁目5番地というのは、石神井川沿いで、現在は都立城北中央公園の広がる辺りである。かつては広大な農村風景の広がる長閑なところであったようだ。移設したのが、明治初年ということは、川越街道の新道建設よりも遙か以前ということになる。一時は省みる人もいなくなっていったところから、地元の人々の手で大事に祀られるようになっていった経緯が、こんな風に詳細に残されているというのも興味深い。


今は、お隣も豆腐店ではなくなっているようだ。どこか、農村風景を残した時代のこの辺りの雰囲気を感じられる様な子育て地蔵尊の話だと思う。


商店街の雰囲気はこんな感じ。昔ながらの町の商店街という感じである。過ぎてきたところには、スーパーもあって、駅周辺で生活に必要なものは買いそろえられるようになっている。


旧道を進むと商店街は終わり、国道254号線から入ってくる道と交差していく。辺りには旧家もあって、立派な蔵があったりもする。


旧街道沿い、ここも旧家という感じのお宅。板橋区議や区議会議長をされた方のお宅なようだ。


巨木が茂っている。街道の盛衰を眺めてきたのかと思うと、感慨深い。


かつての上板橋村の雰囲気が、僅かに感じられる。


更に進むと、床屋さん。木造モルタル仕上げの看板建築だけど、非常に雰囲気のあるお店。


町の人たちの生活と共に歩んできたお店なのだろう。お店の造作の雰囲気が、懐かしく思える。


その先で交差する細い道が、板橋区と練馬区の区界になる。その角には、青面金剛像が彫られた庚申塔が建てられていた。
練馬区は昭和22年に板橋区から分離してできた区で、23区では最も新しい。以前、板橋というところは土地が広大で何もないところから、東京の満州といわれていたという話を聞いたことがあるが、これは広大な練馬区を併せていた時代の話だったということになる。練馬区は比較的都市化は遅れたが、大きな街道も少なく、古くからの町も少なかったので、開発の自由度が大きかったとも言える。


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