ブラタモリ、今回は「江戸城外堀~超拡大版」とのこと。どうも前シリーズから既放送分に継ぎ足しをして拡大版という流れがあって、なるべく新作をと思っていたのだが...。今後、どの程度拡大版が行われるのか分からない。
さて、この「江戸城外堀」は、2011年2月に放送されたものの拡大版。東京の過去に遡ることをしていると、外堀というのも外濠と書いた方がしっくり来るように思う。かつては外濠という表記がされていた。
ここで江戸時代の地図を掲載しておくが、番組中でも紹介されていたように、外濠は江戸城の周囲を取り巻くように存在していた。ブラタモリでも赤坂では溜池を取り上げていた。その中でいつも不思議に思うのが、神田川の御茶ノ水辺りを外濠の一部として認識していないかのような印象を受ける。神田の回で御茶ノ水の聖橋の上でロケをしていながら、治水の為に神田川の開削をしたという話しかしていない。御茶ノ水辺りは仙台壕と呼ばれたところで、仙台伊達藩が藩財政を傾けるほどの大工事を行った外濠の一部である。地図中、薄緑で塗り潰した範囲が惣構え。
手書きの地図で分かりにくいのだが、外濠は円環ではなく螺旋状の形状をしており、神田川が隅田川に流れ込む辺りからは隅田川にもその役割を持たせるような構成になっている。この大きな囲みの中が江戸城の惣構えと呼ばれたものになる。番組中では日本橋の町場を除いたエリアを示していたが、これも含まれるという解釈が正しいのではないだろうか。というのも、そうでなければ浅草橋御門など、説明がつかなくなってしまう。日本橋っ子のプライドには、惣構えの内ということもあったという。
これに関連していえば、壕や水路の作り方も時代と共に変遷をしていく。江戸時代初期のものは、戦国時代からの定石に従って戦を前提に水路が曲げられている。敵が直線的に攻め上がれないようにするためであり、影に迎え撃つ兵を潜ませるためでもある。これが年代が下がっていくと、平和が続き水運の効率化を重視した直線的な水路が造られるようになっていく。
市谷の亀岡八幡宮でペットの七五三という話題を取り上げていたが、両国の回向院もペットには熱心な様で、境内に幟が立っているのを見た覚えがある。次回は両国ということで、回向院も取り上げられることだろうと思う。
また、ブラタモ写真館のコーナーで五右衛門風呂の話が出ていた。私の祖父の家は、西日暮里に近い辺りにあったが、30年ちょっと前までやはり五右衛門風呂だった。祖父が薪割りをしていたのを覚えている。鉄の風呂桶で下から直火で沸かすので、木の簀の子を風呂の底に敷いて入るものだった。これが何かの拍子で浮き上がってきてしまうと、上手く乗っかって足で沈めてやらなければならない。
今は上智大学のグランドになっている真田堀、この埋め立てが瓦礫で埋められたという件、これは当時東京に残っていた多くの運河で行われていた。空襲で焼け野原になった東京の復興をする上で瓦礫の処理は当時も大きな問題になっていた。これについては、当ブログの「東京・遠く近きを読む」の次回で取り上げる予定である。
さて、そしてこの真田堀の土手といえばその正面になるのが福田屋。平成7年に現在のビルになったのだが、それ以前には木造の二階屋の高級割烹旅館、近年は高級料亭となっている。ビルになる以前には、何度か仕事で場所をお借りしたことがあったことを思い出す。さすがに名にし負う名店といった風情で、玄関先からピリッとした空気が張り詰めていた覚えがある。今は大きなビルになって、雰囲気が変わったように思う。
そして、飯田壕へと進んでくる。ここは区界の話がメインになっていたが、目下のところでは最後に埋め立てられた外濠の跡でもある。1970年代に反対運動が盛んだったにも関わらず埋め立てられ、ビルが建ってしまった。番組の冒頭に近い辺りで、壕を埋め立てれば随分長いマンションが出来る、とタモリ氏は話していたが、正にそれがこの場所で起きたことと言える。出来てしまっているものを否定的に取り上げにくいのは分かるが、残った壕と消えた壕との対比として見ていくべきものとも思う。
そして、話は甲武鉄道へと進む。牛込駅跡のところは面白かった。特に駅の写真は貴重だと思う。そして、甲武鉄道の建設の話になり、都市計画上大きな先見の明を持って外濠内を通したというのは、正にその通りでもある。それだけではなく、既存の市街地に鉄道を通すということになると、用地買収も非常に費用も掛かり交渉も大事となる。上野~東京間の開通に非常に時間を要したのも、この為であった。そういう点からいっても、外濠の中に鉄道を敷設するという計画は正に好都合であったことも忘れてはならない。
また、現在の飯田橋駅、それに今は無くなってしまった飯田町駅、そしてこの牛込駅と、この辺りの駅の変遷は複雑で面白い。牛込駅まで甲武鉄道が開通した僅か半年後に、牛込駅~飯田町間が開業した。飯田町は甲武鉄道のターミナル駅として開業した駅である。現在、跡地が再開発されホテルエドモンド、大和ハウスなどのビルが建ち並ぶ一帯となっている。平成11年に廃止になったのだが、昭和8年以降は貨物駅として存在してきた。とはいえ、都心部にある巨大な貨物ステーションだったことは記憶に残る。いつも中央線の快速や総武線の黄色い電車からこの駅を眺めた覚えがある。
飯田町駅跡の広場にはレールが埋め込まれており、かつての歴史を残している。もっとも、線路は高架線の上の高さで存在していた。
奥の方には転車台もあり、中央東線の客車列車が勾配線のために貨物機を使っており、冬場になると暖房車が連結された。昔の客車の暖房はスチームを利用したもので、電気機関車には旅客用のみ蒸気の発生装置が搭載されていた。それを持たない機関車が牽引するときには、暖房用の蒸気を発生させる専用の暖房車が連結されたものだった。この暖房車が飯田町に配置されていて、その姿を遠くから見掛けた覚えがある。
番組中で取り上げられていたドイツ製の甲武鉄道時代からの鉄橋を下から見上げる。この鉄橋は水道橋駅に近い方にある。
また、この辺りの様子の変遷については、野口冨士男著「私の中の東京」に詳しい。著者はまさに飯田橋から谷を上っていった神楽坂で生まれ育っている。大正時代からの思い出が綴られている。
番組中で三崎町の砲兵工廠へと延伸されたという話だったが、砲兵工廠は現在の東京ドームや後楽園のある旧水戸藩邸跡地なので、これは小石川区が正しい。三崎町には練兵場があったが、砲兵工廠は神田川の北側に当たる。ネットで検索してみたところ、「幻の東京赤煉瓦駅」という書籍を下敷きにしたようだ。ここでの間違いまでそのまま引用する形になっている。(2011.12.31追記)『幻の東京赤煉瓦駅」を紹介したサイト、並びにNHKの制作スタッフのミスでこういった表現になった様なので、訂正する。
四谷の旧御所トンネルの辺りで当時のままの姿を残すトンネルポータルで盛り上がっていたが、この辺りにはかつて東京でも有数のスラムであった鮫ヶ橋があった。中央線の線路の北側に当たる谷底の一帯なのだが、当時でいえば赤坂御所の直ぐ横にスラムという取り合わせの落差の激しさが何とも言えない。鉄道からも丸見えのところにこのスラムが存在したことから、政府にも目の敵にされ、対外的に見場が悪いということからスラムクリアランスが行われていった。ただ、それも根本的な対策ではなく、ただ住人を追い出していっただけのことなので、東京近郊のほかの場所へと移っていっただけのことだった。これも東京の歴史の一つには違いないし、その様相は「最暗黒の東京」などで今も読むことが出来る。
さて、番組中で解説されていた石の積み方、これはなかなか面白いし、覚えておくとあちらこちら見て回ったときに役に立つ。四角く同じサイズに揃えた石を平に積んでいくのが布積みといい西洋から入ってきた石の積み方で、斜めに石を積むのが谷積みと良い、和風の積み方。江戸時代までは谷積みであったところへ、明治維新後は布積みが入ってくる。その後、明治後半になると再び谷積みに戻っていく。明確な年代決定は難しいかもしれないが、これを頭に入れておけば、石垣一つでも見る目が違ってくるだろうと思う。
さて、次回は年明けで「江戸の盛り場~両国編」とのこと。このブログでは以前に両国橋界隈については書いたことがある。それだけに、楽しみにして新しい年を迎えたい。
さて、この「江戸城外堀」は、2011年2月に放送されたものの拡大版。東京の過去に遡ることをしていると、外堀というのも外濠と書いた方がしっくり来るように思う。かつては外濠という表記がされていた。
ここで江戸時代の地図を掲載しておくが、番組中でも紹介されていたように、外濠は江戸城の周囲を取り巻くように存在していた。ブラタモリでも赤坂では溜池を取り上げていた。その中でいつも不思議に思うのが、神田川の御茶ノ水辺りを外濠の一部として認識していないかのような印象を受ける。神田の回で御茶ノ水の聖橋の上でロケをしていながら、治水の為に神田川の開削をしたという話しかしていない。御茶ノ水辺りは仙台壕と呼ばれたところで、仙台伊達藩が藩財政を傾けるほどの大工事を行った外濠の一部である。地図中、薄緑で塗り潰した範囲が惣構え。
手書きの地図で分かりにくいのだが、外濠は円環ではなく螺旋状の形状をしており、神田川が隅田川に流れ込む辺りからは隅田川にもその役割を持たせるような構成になっている。この大きな囲みの中が江戸城の惣構えと呼ばれたものになる。番組中では日本橋の町場を除いたエリアを示していたが、これも含まれるという解釈が正しいのではないだろうか。というのも、そうでなければ浅草橋御門など、説明がつかなくなってしまう。日本橋っ子のプライドには、惣構えの内ということもあったという。
これに関連していえば、壕や水路の作り方も時代と共に変遷をしていく。江戸時代初期のものは、戦国時代からの定石に従って戦を前提に水路が曲げられている。敵が直線的に攻め上がれないようにするためであり、影に迎え撃つ兵を潜ませるためでもある。これが年代が下がっていくと、平和が続き水運の効率化を重視した直線的な水路が造られるようになっていく。
市谷の亀岡八幡宮でペットの七五三という話題を取り上げていたが、両国の回向院もペットには熱心な様で、境内に幟が立っているのを見た覚えがある。次回は両国ということで、回向院も取り上げられることだろうと思う。
また、ブラタモ写真館のコーナーで五右衛門風呂の話が出ていた。私の祖父の家は、西日暮里に近い辺りにあったが、30年ちょっと前までやはり五右衛門風呂だった。祖父が薪割りをしていたのを覚えている。鉄の風呂桶で下から直火で沸かすので、木の簀の子を風呂の底に敷いて入るものだった。これが何かの拍子で浮き上がってきてしまうと、上手く乗っかって足で沈めてやらなければならない。
今は上智大学のグランドになっている真田堀、この埋め立てが瓦礫で埋められたという件、これは当時東京に残っていた多くの運河で行われていた。空襲で焼け野原になった東京の復興をする上で瓦礫の処理は当時も大きな問題になっていた。これについては、当ブログの「東京・遠く近きを読む」の次回で取り上げる予定である。
さて、そしてこの真田堀の土手といえばその正面になるのが福田屋。平成7年に現在のビルになったのだが、それ以前には木造の二階屋の高級割烹旅館、近年は高級料亭となっている。ビルになる以前には、何度か仕事で場所をお借りしたことがあったことを思い出す。さすがに名にし負う名店といった風情で、玄関先からピリッとした空気が張り詰めていた覚えがある。今は大きなビルになって、雰囲気が変わったように思う。
そして、飯田壕へと進んでくる。ここは区界の話がメインになっていたが、目下のところでは最後に埋め立てられた外濠の跡でもある。1970年代に反対運動が盛んだったにも関わらず埋め立てられ、ビルが建ってしまった。番組の冒頭に近い辺りで、壕を埋め立てれば随分長いマンションが出来る、とタモリ氏は話していたが、正にそれがこの場所で起きたことと言える。出来てしまっているものを否定的に取り上げにくいのは分かるが、残った壕と消えた壕との対比として見ていくべきものとも思う。
そして、話は甲武鉄道へと進む。牛込駅跡のところは面白かった。特に駅の写真は貴重だと思う。そして、甲武鉄道の建設の話になり、都市計画上大きな先見の明を持って外濠内を通したというのは、正にその通りでもある。それだけではなく、既存の市街地に鉄道を通すということになると、用地買収も非常に費用も掛かり交渉も大事となる。上野~東京間の開通に非常に時間を要したのも、この為であった。そういう点からいっても、外濠の中に鉄道を敷設するという計画は正に好都合であったことも忘れてはならない。
また、現在の飯田橋駅、それに今は無くなってしまった飯田町駅、そしてこの牛込駅と、この辺りの駅の変遷は複雑で面白い。牛込駅まで甲武鉄道が開通した僅か半年後に、牛込駅~飯田町間が開業した。飯田町は甲武鉄道のターミナル駅として開業した駅である。現在、跡地が再開発されホテルエドモンド、大和ハウスなどのビルが建ち並ぶ一帯となっている。平成11年に廃止になったのだが、昭和8年以降は貨物駅として存在してきた。とはいえ、都心部にある巨大な貨物ステーションだったことは記憶に残る。いつも中央線の快速や総武線の黄色い電車からこの駅を眺めた覚えがある。
飯田町駅跡の広場にはレールが埋め込まれており、かつての歴史を残している。もっとも、線路は高架線の上の高さで存在していた。
奥の方には転車台もあり、中央東線の客車列車が勾配線のために貨物機を使っており、冬場になると暖房車が連結された。昔の客車の暖房はスチームを利用したもので、電気機関車には旅客用のみ蒸気の発生装置が搭載されていた。それを持たない機関車が牽引するときには、暖房用の蒸気を発生させる専用の暖房車が連結されたものだった。この暖房車が飯田町に配置されていて、その姿を遠くから見掛けた覚えがある。
番組中で取り上げられていたドイツ製の甲武鉄道時代からの鉄橋を下から見上げる。この鉄橋は水道橋駅に近い方にある。
また、この辺りの様子の変遷については、野口冨士男著「私の中の東京」に詳しい。著者はまさに飯田橋から谷を上っていった神楽坂で生まれ育っている。大正時代からの思い出が綴られている。
番組中で三崎町の砲兵工廠へと延伸されたという話だったが、砲兵工廠は現在の東京ドームや後楽園のある旧水戸藩邸跡地なので、これは小石川区が正しい。三崎町には練兵場があったが、砲兵工廠は神田川の北側に当たる。ネットで検索してみたところ、「幻の東京赤煉瓦駅」という書籍を下敷きにしたようだ。ここでの間違いまでそのまま引用する形になっている。(2011.12.31追記)『幻の東京赤煉瓦駅」を紹介したサイト、並びにNHKの制作スタッフのミスでこういった表現になった様なので、訂正する。
四谷の旧御所トンネルの辺りで当時のままの姿を残すトンネルポータルで盛り上がっていたが、この辺りにはかつて東京でも有数のスラムであった鮫ヶ橋があった。中央線の線路の北側に当たる谷底の一帯なのだが、当時でいえば赤坂御所の直ぐ横にスラムという取り合わせの落差の激しさが何とも言えない。鉄道からも丸見えのところにこのスラムが存在したことから、政府にも目の敵にされ、対外的に見場が悪いということからスラムクリアランスが行われていった。ただ、それも根本的な対策ではなく、ただ住人を追い出していっただけのことなので、東京近郊のほかの場所へと移っていっただけのことだった。これも東京の歴史の一つには違いないし、その様相は「最暗黒の東京」などで今も読むことが出来る。
さて、番組中で解説されていた石の積み方、これはなかなか面白いし、覚えておくとあちらこちら見て回ったときに役に立つ。四角く同じサイズに揃えた石を平に積んでいくのが布積みといい西洋から入ってきた石の積み方で、斜めに石を積むのが谷積みと良い、和風の積み方。江戸時代までは谷積みであったところへ、明治維新後は布積みが入ってくる。その後、明治後半になると再び谷積みに戻っていく。明確な年代決定は難しいかもしれないが、これを頭に入れておけば、石垣一つでも見る目が違ってくるだろうと思う。
さて、次回は年明けで「江戸の盛り場~両国編」とのこと。このブログでは以前に両国橋界隈については書いたことがある。それだけに、楽しみにして新しい年を迎えたい。
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