東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(3)日本橋(続)

2011-12-22 20:54:47 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

日本橋川から見た日本橋。やはり水面から見た橋が一番美しいと思う。


今回は前回に引き続き、日本橋である。戦後間もない日本橋の露店が道路に並ぶ様子、アメリカ兵が町の様子を珍しそうに眺める様など描かれている。空襲で焼けたビル街も、すこしずつ立ち直っていく。
「白木屋(今の日本橋東急)のようなデパートも、売り場は一階と二階のわずかな場所であった。ほかは貸事務所であったり医院が間借りしていた。三階、四階から上はがらあきだったような気がする。」
という様が今日では考えられないと書こうと思ったところで、既に日本橋東急の説明をしないと知らない世代が出始めているのだろう。白木屋は、現在のCOREDO日本橋のところにかつてあった百貨店である。昭和初期に火災を起こし、それを契機に様相が広まったと言われていることでも知られている。江戸時代以来の歴史を持つ呉服屋からデパートへという、三越を追いかけるような存在ではあったが、ライバルというレベルかというとそこまではというところかもしれない。とはいえ、戦後に東急傘下へ入り、昭和42年に東急百貨店と名称が変わった。日本橋においては高島屋と三越に挟まれながらも、存在感はあった店である。平成11年に300年を越す伝統を持ちながらも、閉店した。

そこで戦後復興期の息吹を感じさせる、文学の新しい潮流があったという。
「二階には鎌倉文庫があった。久米正雄、川端康成、高見順、中山義秀らが役員になって創立した出版社だった。戦時下の鎌倉での文士経営になる貸本屋が発展したかたちの社だったが、そのうしろだてとなったのは大同製紙である。紙のない時代に紙があったというのは大きな強みだったにちがいない。そこから文芸雑誌「人間」が創刊されたのは、昭和二十一年一月のことであった。私はなけなしの小遣いをはたいてとびてつくようにして買ったのをおぼえている。」
と、当時中学生であった著者は書いている。戦争を知らない世代には想像しようにも追いつけないものがあるように思うのだが、表現やら文学に飢えいていたところへ夢のような豪華メンバーの執筆陣の雑誌がどれほどの光彩を放っていたかと思うと、その時代に立ち会えていることを羨ましく思えるほどだ。

「正宗白鳥、里見弴、川端康成、島木健作、林芙美子の小説のほかに、トーマス・マンの講演とか、永井荷風の谷崎潤一郎あて書簡、福原麟太郎、小宮豊隆、吉川幸次郎、宇野浩二、辰野隆、大佛次郎そのほかの諸家のエッセイがあって、堂々たる目次だった。この雑誌には日本の文学の伝統的なものと新しい時代への示唆に富むものがあって、その総合的な視点に私はずいぶん啓発された。文芸雑誌というよりは文化総合雑誌だった。」
まさに雑誌が文化を象徴していた良き時代の復活が、この時だったのだろう。戦争によって途絶えていたとはいえ、明治後半から印刷出版技術の向上は著しく、雑誌というメディアが国中隅々まで文化を伝播していくというのは、明治末頃から実現されてきたスタイルであった。

大正時代にはラジオ放送が始まり、次第に全国へと広がっていったのだが、ラジオ、新聞、雑誌というメディアにテレビが加わるのは戦後しばらくが経ってからのことになる。

敗戦後の気分を著者は
「私はそのころ、敗戦の衝撃から立ちなおることができずにいた。勤労動員の工場から学校へ戻ったが、なにもする気が起こらなかった。八月十五日まで軍国主義を熱烈に説いていて、一夜にして平和主義、民主主義をとなえはじめた教師の授業なぞ、うける気がしなかったのである。買い出しに行ったり、東京の焼け野原をあてどもなくあるくだけである。そんなときに日本橋の街角で、鎌倉文庫という出版社のあることを知ったのであった。」
と書いている。多感な中学生であればとも思うが、現代の同年代と比べると戦争という極限状況を体験していたからと言うことを考えても、成熟しているという感想を持つ。私の両親は著者よりも少し年少なので、敗戦の話を聞いてももう少し素朴に終わって嬉しかったという話しか出てこない。

戦後の闇市の時代に、食物を求めるのと同じ様に活字にも人々が飢えていたという。
「日本橋の一角から「人間」が生まれたことと闇市の雑踏とは、私の遠い記憶のなかでも等高線上の太い線でつながっている。」
という辺り、敗戦というどん底の中であっても、戦争が終わり新しい時代が始まる胎動のエネルギーを秘めた鼓動が伝わってくるように思える。今年は東日本大震災が起こり、それ以前からの不景気と相まって世相に活力を感じることが出来ない。IT化の行く末の変化も未だ全貌が見透せない不安感が強い。もはや後戻りの出来ないところまできているとしても、この先の有様が見透せないことで閉塞感が増しているのは否めない。敗戦後の困難は今の時代とは比較にならなかったはずなのに、当時の渦巻いているエネルギーの大きさが圧倒的に思えるのは何故だろうか。

鎌倉文庫は社風が派手だったという話が続くのは、世相が厳しい時代であったことでコントラストが強まっているわけである。食糧難などは、戦時中よりも戦後の方が深刻であったことなど、その時代を知らない私にとっては知っておくべきことが多い。

「鎌倉文庫は、昭和二十二年四月に茅場町の交差点の角地に新社屋を建てて移転、二十四年十月には解散となった。衰退の原因は武士の商法だったからともいわれるが、そこには「戦後」という時代のさまざまな要因がふくまれているのであろう。」
とあるが、うしろだての大同製紙が離れてしまい、紙の統制が始まったりといったことが大きな打撃になった様だ。

文化財の碑。


「本町二丁目に中学時代の友人の家があったので、私はよく日本橋をわたって行った。三越のまえの木屋刃物店の角を右にまがった先の左側にある文房具・事務用品の小問屋だった。その家の子供たちは戦争中、千葉県市川市の中山に疎開していたが、せんごすぐさまもどってきた。両親はともに秋田の出で、客好きのうえに面倒見がよかったので、そこは仲間たちの格好の溜まり場になった。終電車ぎりぎりまで遊んでいたこともあるし、泊めてもらったときも多い。」
若くして亡くなった友人の思い出と共に日本橋の町があるということに、世代の違いをやはり感じてしまう。その友人の父母が世を去ると、店が地上げ屋にかかって転居することになったという話になる。バブル期以前の段階でも既に日本橋界隈の印象としては、既に人の住む町ではなくなっていた様な気がするのだが、決定的なとどめであったことは間違いないだろう。職住分離が進化形態だから、都心部の人口空洞化は当然という意見も聞くが、それが町としての健全な形であるかといえばそうは言えないと私は思う。人口空洞化の弊害が大きいからこそ、都心の区が居住者誘致の施策を熱心に行っているのではないか。とはいっても、一旦生活環境まで破壊してしまえば、住居さえ作れば人が暮らせるのかというと、そうもいかないのが現実だろうと思う。

「町の風景も大きく変わってしまった。堂々たるビルが立ちならび、路面が整備されたかわりに、とりかえしのつかぬ愚行の痕跡の歴然としたところもある。その代表的な例が日本橋の上に交差する高速道路である。橋上に立って頭上に自動車の轟音をきくとき、それは憐れな、悲しい響きとなって全身につたわってくる。」
と著者は嘆く。これには、私も全く同感であるとしか言い様がない。


「日本橋は江戸繁栄の象徴であり、東京の中心であった。日本の道路標識の起点でもあった。南詰西側に「日本橋由来記」の碑(昭和十一年四月建立)がおかれ、北詰東側には久保田万太郎の撰文、豊道慶中の書になる「魚河岸記念碑」(昭和二十九年三月建立)があって、往時をしのぶよすがともなる。」
とあるが、魚河岸記念碑は前回掲載したが、再掲しておく。


「高度成長時代、東京オリンピックをひかえたころの醜悪な芸当について、地元の人たちはみな悲しみの気持をいただいたにちがいない。」
とのことだが、正にこのオリンピック前の所行については今日の眼から見てと言うことを考慮しても、あまりに酷いことが行われていたことを改めて知っておくべきだろうと思う。とにかくオリンピックに間に合いさえすればどんなことであろうと許されると言わんばかりであった。その最も醜悪な痕跡が日本橋と言えるのだが、それ以外にも高速道路建設のために旧江戸城の石垣を崩してそのまま放置してあったり、未だにその痕跡が残されている。


また、日本橋という町については、長谷川時雨著「旧聞日本橋」を読めば明治初期からの町の有り様、雰囲気、そこに暮らす人々の気っ風など、とてもよく分かる。長谷川時雨という人自体が、正に生きた日本橋っ子の見本のような人だったわけで、その人となりを知ることで江戸以来の日本橋気質というものを身近に感じることが出来る。また、度々このブログで引用する青蛙房刊の「大正・日本橋本町」北園孝吉著では大正時代の、震災前の日本橋の町の有様が詳細に語られている。日銀や三井のビルが商店の並んでいた町を呑み込みながら大きくなっていったことなど、その経過が分かるだけでも面白い。近藤信行氏は今日の日本橋を見て、戦前からの日本橋の喪失を嘆かれている。これはこれで私にも共感出来るし、私自身日本橋から高速道路を取り払うことが出来たらどれほど素晴らしいだろうと思う。だが、日本橋の町は既に喪失されていた町でもあった。関東大震災による火災は、日本橋を焼け野原と化した。そこで町は再建されたが、そこに暮らしていた人々は必ずしも戻っては来なかったのだ。そのことを「大正・日本橋本町」ではこのように記している。
「日本橋本町は、何度も述べたように江戸・東京とつづいた商店の町、おタナ者の町というイメージは震災で消滅した上に土着の人たちが震災で去って、ほとんど帰ってこない。
 私たちは震災で故郷を失い、他国暮らしのような、しらけた気分でいるうちに家業も衰退したのは、時世の流れというものである。
 大賞典、問屋筋が焼け跡に建てたのは、コンクリートのビル、小さな商店はモルタル二階づくりとなり、家族は郊外に住むといったふうに、環境状況がほとんど一変した
。貼り汽車、大八車、人力車が姿を消し、小型トラックやリヤカー、そして自転車が急増したことも既に記した。」
といったようなことで、既に江戸以来の日本橋は大正時代に消滅していた。だが、そこに再生された町が戦争で再び焦土と化し、さらに今度は開発という名でまるで違う形へと姿を変えていく。東京という大都市の中心部なればこそとも言えるのだが、東京という町の文化という視点で見ると、貧しいとしか良い様がない有様だと思う。今更、どんな施策をとろうとも、かつてあった町を甦らせることなど出来はしない。そうはいっても、この町の来し方を大切にしてやることで、江戸以来の町の中の町であった日本橋という土地が東京の重要なキーポイントとして生き続けていて欲しいものだと思う。


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