東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(15)戦後の明暗

2012-04-25 21:51:30 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。

今回は燈火管制の話から始まる。燈火管制で黒いカーテンをひき、電灯に覆いを付け、さらには目張りまでするということだけではなく、それを近隣の住民同士で相互監視するという状況が、息の詰まるような思いで不快な思い出であったと、近藤氏は記している。

戦後生まれの私から見ると、東京が空襲に晒されるという時点で戦局の不利は圧倒的という状態ではないかと思うのだが、敵襲に備えるということは、もっと単純に緊張感を高めるものとして始められていったようだ。

「燈火管制という言葉はいつごろから使われたのだろうか。昭和十年代からつかってきた身近な辞書をとってみると、新村出編纂の『辭苑』(昭和十年、博文館)には、「敵の航空機の夜間襲撃に備へる為、必要時間の間、都邑一切の消燈を命ずる制」と書かれている。戦後はもう死語になったとおもっていたところ、岩波の『広辞苑』にも新潮社の『新潮国語辞典』にも採られている。最近の松村明編『大辞林』(昭和六十三年、三省堂)にもあって、「夜間の空襲に備えて、灯火を消したりおおい隠したりすること」と出てくる。
 この制度は、昭和十三年四月の国家総動員法の公布とともに実施されたというが、はじめのうちはのんびりしたものだった。煙火花火を焼夷弾にみたててバケツリレーの防火演習をおこなったのとおなじように、町内会のお祭り気分で各戸がカーテンを吊ったにすぎなかった。ところが、戦局不利となるや、大人の口からやかましく言われるようになった。電燈の明りを絶対にもらしてはいけないというのだ。」
どこか、暢気に構えていた人々が戦局の切迫と共に次第に追い詰められていく様子が思い浮かぶ。隣組とか、国防婦人会といった言葉が連想される。もっとも、○○婦人会という名称は、明治の末頃にはそう名乗る団体があったようだ。燈火管制と敗戦後に街が明かりを取り戻していく様というのは、象徴的なシーンとして今もドラマなどでよく使われるのだが、それを見る人々の思いは様々であったのだろう。

「そのころ、永代橋から隅田川の河口をみると、下流沿岸からお台場方面にかけて、魚のかたちをした黒っぽいガス気球が幾十となく揚げられていた。魚を空中に泳がせて網を張っているようにみえた。いったい、なんのためにこんなことをするのだろう。子供ごころにもおかしくおもったが、帝都防衛のためのあたらしい開発施設だったらしい。」
これは阻塞気球というもので、イギリスではドイツの空襲に対して一定の効果を上げたという。ただ、急降下爆撃やV1号ロケットの攻撃に対して有効であったようで、東京のようにB29による爆撃に対しては効果的ではなかったようだ。今でも千葉県にはこの阻塞気球の基地であった格納庫が残っているという。
また、本来は高度1,500メートルくらいに揚げるものであったのだが、我が国では数百メートルという程度であったから役に立たなかったとも言う。ただ、これについては竹槍的な役立たずの精神論的兵器というわけではなかったようだ。

「燈火管制で夜の街の明りがだんだん消えていったいったことと、夜空に浮かぶ巨大な魚の異様な形がかさなってきて、在りし日の暗い、森閑とした東京の一情景がおもいおこされる。省線電車の車内の電燈にも黒い幌がかかっていた。戦争末期、東京のどこもかしこも黒い幕がかけられたようだった。」
この辺りの記憶というのも、下町育ちの近藤氏らしい記述のようだ。私の母に聞いてみても、麻布にいて疎開していたこともあって、魚の形の気球のことなどは全く知らなかった。それにしても、広い東京の街が闇に覆われ、そしてその上空に黒っぽい魚の形の気球が群れる光景というのは、想像してみても何とも言い難い、不気味さを感じる。

昭和十七年晩秋に、近藤氏は従姉に連れられて、日比谷公会堂へ音楽を聴きに行ったという。彼女は、市立第一高女を出てハルピンにいる親戚筋の軍医さんと婚約し、満州行きを控えて小学校高学年の近藤氏を連れて行ってくれたそうだ。
「演奏者や曲目はおぼえていないが、おもいおこすのは帰りがけに日比谷交差点の角のビル(朝日生命館だったかもしれない)のなかのレストランに入ったことである。そこでは窓という窓すべてに暗幕がはりめぐらされていた。ひろいホールの一隅に小さな舞台があって、四人の楽士がヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの弦をひいている。客席はほとんどうずまっていた。しかし、私語するものはなかった。美しい音楽に耳を傾けながら、静かに、そして時の流れの重圧に耐えるかのように黙々と食事をとっている。うすぐらい電燈のもと、黒いカーテンにつつまれた場所だけに、楽の音はよく冴えわたっていた。このような店に入ったのは、私にとってはじめての経験であった。いまにしておもうと、こころが洗われるような、一瞬の静謐のときであったような気がする。外に出てから馬場先門まで歩き、市電に乗ったのだが、丸の内の夜のビル街はさむざむとしてみえた。」
戦時中のクラシック音楽の演奏会の話というのは、他にも聞いたことがあるが、何ともいえず張り詰めたような、切ない思いのこもったものであることを感じる。そしてここで語られているのは、音楽が演奏されていたレストランという、なんとも大人びた、洗練された場でありながら、その場の人々の追い詰められたような、何とも言い難い空気感が想像されてしまう。おそらくはまだ十代であったであろう従姉と、近藤少年がその場にいる姿を思うと、厳しい時代に生きた人々が大人びて感じられる。
現在の日比谷交差点。右側の角にかつては朝日生命館があった。


「燈火管制がなくなって街に明るさをとりもどしたとはいうものの、つぎにやってきたのは度かさなる停電であった。一夜のうち数時間、きまって真暗になるのだ。夜だけではなく、朝から電気がつかないこともあった。これだけはどうしようもなかった。」
戦後の停電は相当に頻繁であったようだ。私の物心ついたのは、高度成長期になってからだが、その当時でも時たま停電があったことは覚えている。私の記憶にある時代では、既に電気冷蔵庫もあったのだが、戦後間もない頃には電燈とラジオくらいしか電気を使うものはなかったという。石油ランプがとぶように売れ、アセチレン、カーバイトを使う発火ランプが考案されていったそうだ。ロウソクや石油ランプから、明治時代にガス灯、そして電燈へと変わってきたのだが、昭和二十年頃には電燈が電気の用途としては一番比重が大きかったようだ。どこか先祖帰りするように、石油ランプであり、そしてその後のお祭りの夜店などが私には馴染みのあるアセチレンランプなどはこの時代に生まれてきたものなのだと知る。

「しかし絶対に停電のない場所があった。それは占領軍駐屯地であった。ことに丸の内から日比谷、内幸町にかけてのビル群は、つねにあかあかと輝いていた。
 たまたま第一生命日比谷ビル五十周年記念として刊行された永六輔氏の『思い出交差点日比谷』(平成元年一月刊)という小冊子を読んでいたら、
「五十年来、日比谷界隈を歩いてきましたが、戦争中は長野県の小諸に疎開していまして、戦後、帰ってきて東京の町が焼跡という時に、日比谷界隈だけが、緑と石の建物が残っていて、その上、駐留軍関係の建物は停電がなくて、いつも明るかったんです。」
 という一節に出あった。」
永六輔氏は、浅草区永住町今の台東区元浅草三丁目の最尊寺という寺に生まれた。我が国のテレビ放送の歴史と共に歩んできた人物でもある。放送作家であり、作詞家であり、ラジオパーソナリティであり、戦後の日本の空気の幾ばくかは間違いなく彼の紡ぎ出したものであるといえるだろう。

「たとえば七年間、G・H・Qとして接収されていた第一生命ビルのまえで、
「戦後の日比谷の思い出なら、もっと聞いておけばよかったと思う人がトニー谷さんです。
 彼は上海から復員してきたのですが、もともと銀座の若旦那ですから、自宅へ帰る前にこの日比谷を通るんです。
 で、第一生命ビルを通りかかったら英語の話せる日本人を募集している。
 日本軍の軍服のまま、そこで応募してしまうと、米軍がその服装じゃいけないとGIの服を渡される。
 トニー谷さんは日本軍の服装で第一生命ビルに入っていって、出てきた時には米軍の服装だったという・・・・・・そんなことがあったんですね。
 根がいたずら好きのトニーさんは、それで銀座の自宅へ帰って家族をビックリさせたそうです。
 帝国陸軍軍人が、出かけてアメリカのGIルックで帰ってくるなんて信じられませんからね。
 それから、アーニーパイル(今の東宝劇場)に所属、ずっと二世を演じて、いい思いをしたと言ってました。
 あの当時、GIルックで英語を使ったら楽しいことばかりでしょう(中略)
 トニーさん、本名を大谷正太郎っていうんですね。
 銀座三越の隣にあった西洋ランプ屋の若旦那だった人で、本当は着物の似合う粋な江戸っ子でした。」
 一読して、トニー谷の奇矯な行動におどろかされるが、いかにも彼のやりそうなことだ。英語まじりの放言で笑わしていたコメディアンの面目が躍如である。嘘のような本当の話なのだろう。」
トニー谷というコメディアン、今となっては彼の説明から始めなければならないのだろう。昭和25年頃から活躍したコメディアンで、昭和30年代までが全盛期であったようだ。彼をモデルにしたことで知られるのが、赤塚不二夫の漫画「おそ松くん」の登場人物イヤミである。私にとってはイヤミは実感できるが、トニー谷はリアルタイムでは知らない。子供の頃に見ていた「海底大戦争スティングレイ」という特撮ドラマのナレーションがトニー谷で、その印象が残っている。これも再放送が何度も繰り返されていた。私自身が大人になってから、伝説的な存在としてトニー谷を知った。その詳細については、Wikipediaを参照していただいた方が正確だろうと思う。
 ある意味では、彼は戦後の日本を象徴していたもかもしれないと思う。
現在の第一生命ビル。外観と中の一部は保存されているものの、超高層ビルとのハイブリッド建築になっている。既にオリジナルではない。


 戦後の日本は、G・H・Qの指令の下に急速に変革が行われていった。民主主義化、特高警察の廃止、財閥解体、戦犯の告発に裁判、軍国主義者の公職追放、農地解放、政教分離、言論・集会・結社の自由などなどあらゆる分野に渡って改革が行われていった。近藤氏は
「もし軍部専横の時代があのまま継続していたらさらにおかしくなったに違いないと考えると、日本は敗けることによって救われたのではないかとさえおもえてくる。」
とまで書いている。
右に行けば旧アーニーパイル、宝塚劇場があった現在の日比谷の劇場街。皆建て替えられてしまい、往時の面影はない。


敗戦と、その後の占領政策が、敗戦という言葉から想起されるような屈辱的で耐え難い中身のものではなく、新しい民主主義国家の建設という目標があり、さらには冷戦が始まっていくことで、占領政策事態が転換していったことに、日本は振り回されていった。明るい戦後という印象は必ずしも間違っているわけではないが、それだけであったわけではもちろんない。
「しかしその明るさのかげにはたえず暗さがつきまとっていた。たとえば、江藤淳氏の占領軍検閲制度に関する詳細な研究『閉ざされた言語空間』(平成元年、文藝春秋)を読むと、「言論の自由」といっても、いかに封殺されていたかの恐るべき実態を知らされるのである。」
占領軍は圧倒的な権力であったが、オールマイティに絶対であったのかといえば、必ずしもそうは言い切れない面もあったようだ。戦後の政治史を詳細に見ていけば、戦前に大政翼賛会と対立した政治家が公職追放になっていたり、占領軍を巻き込んでの日本人同士の権力闘争が行われていたことを伺わせることもある。戦後に起きた事件には、未だにその真相が解明されていないものがあり、そういった事件の裏に占領軍の存在が噂されているものもある。今日の状況からは想像し得ないような時代であったことも確かである。
有楽町ガード下から数寄屋橋方面を望む。1981年11月撮影。


有楽町駅前からスバル座方向を望む。1981年11月撮影。


「都心部に行くたのしみをおぼえたのは、焼けのこった劇場でつぎつぎに芝居が上演されはじめたからである。有楽座や築地の東劇がまっさきに開場して、新劇も歌舞伎もみることができた。
 新聞に予告がでると、私は前売券発売日の朝、劇場にならんで切符を買いもとめた。学校なぞ遅刻しても、教師ににらまれてもかまわなかった。学校よりも芝居のほうがおもしろかったし、多くのものを教わることができる。といっても当時のわずかなアルバイト料ではいい席が買えなかったから、きまって三等席である。それでも有楽座の二階の袖の最前列は、上手でも下手でも、体をちょっとのりだせばよくみえる、すばらしい席であった。頭が天井につきそうなところで、そこから見下ろすと劇場の熱気がひしひしと感じられた。」
戦後の話は苦労された話が多いのだが、こういった話は聞いているとどこか羨ましい様な気持ちになる。戦争中に押さえ込まれていたものが弾けるようにあふれ出てきて、それを受け止める側にもその熱が移っているようで、その楽しさ、夢中になっている気持ちの温度の高さを感じるからなのだと思う。「大正っ子シリーズ」について、このブログで紹介してきたが、その中でも演劇というのは大きな存在であったことが語られている。
演劇というものの持っている魅力は今でも変わらないのだろうが、社会と演劇の位置関係は変わってきているのだろう。
有楽町駅前。1981年11月撮影。新佃島行きの都バスの塗装が懐かしい。


時代を反映していたのか、近藤氏にとっては新劇が強い印象を残したと書かれている。築地小劇場時代のレパートリーを新しい解釈で上演していたというが、新作も掛けられていて、活気が満ちていたという。
「なかでも特に印象的だったのは、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』であり、滝沢の演じたウィリー・ローマンであった。多くのアメリカ人が日本に入ってきて、アメリカ文化なるものが身近になってきたわけだが、アメリカ人の社会、典型的な都市生活者の日常を切実に訴えるものがあった。
・・・・・(中略)・・・・・・・
それにもまして日本人はまだ商品の割賦購入方式を知らなかった。いまでこそローンという言葉は誰でも知っている。劇中では、ローマンにその全額払いおわるころには、どれもこれも使用不能になるってしかけなんだと語らせるのだが、それはやがて立ちあうことになる日本人の生活実感ではなかたろうか。」
テレビのない時代と言うことが、やはり大きかったのだろうか。演劇について書かれているところは、より筆が生き生きとしているように思える。何もかもが吸収できる少年期から青年期に掛けての時代に、敗戦という大きな節目があったなかで、演劇が熱を帯びて輝きを見せていて、その輝きに魅せられた時を過ごしたという幸福なのだろうか。戦争という時代と、戦後という時代、二つの時代のコントラスト。そして、焼け跡の町と自由を得て上演されていく芝居のコントラスト。それぞれが明暗のコントラストを際立たせるかのように、併存していた時代なのだろう。
有楽町駅前にて。1981年11月。新橋方向を望む。


「連合国最高司令部のおかれた日比谷、アメリカ人が闊歩した街、そして演劇をとおして人生を教えてくれた劇場・・・・これら私の記憶のなかには戦後の明と暗が渦まいている。」
演劇をとおして人生を教えてくれたなんて、言えること自体がどこか羨ましく思えてしまう。今の時代にはいったい何が人生を教えてくれるのだろうか。時代は変わり、巡っていくのなら、今の時代を後に振り返って何が残るのだろうか。そんなことを考えさせられてしまう。
有楽町のというよりは、東京の顔であった日劇の解体工事が行われていた1981年11月。


工事現場越しに数寄屋橋の東芝ビルが有楽町駅のあたりから見えた。これも1981年11月撮影。


マリオンになっても映画館はあるが、それ以前はこんな雰囲気だった。丸の内ピカデリー。道を走るトラックは、朝日新聞社がここにあった名残。この前年に築地に移転した。1981年11月撮影。

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