東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

東京・遠く近きを読む(62)労働と救済

2014-05-16 21:59:23 | 東京・遠く近き
「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、隅田川東岸が工業地帯となり、そこで働く工員の町へと変わっていった話。そして、厳しい労働環境と社会福祉の実現を目指した人々の話である。

「私たちの子供のころにも、あちこちにずいぶんと長屋をみかけた。表通りから奥へ、リヤカー一台分ぐらいの幅の細い道が通じていて、片側、あるいは両側に割長屋がある。間口は一間半ぐらいである。ほとんど陽のあたらない場所で、八ツ手とか歯朶のような植物の鉢植えがならべられていたことをおもいおこす。子供たちはわざわざそこを選んで、メンコやベエゴマの遊びにふけっていた。もちろん震災後の話なのだが、配置といい建て方といい、明治期の共同長屋のかたちを踏襲したものであろう。
 柳田国男の『明治大正史世相篇』を読んでいたとき、はっとおもいあたったのは、そこにひあわひという言葉があてられていることであった。ひあわひは漢字で書けぱ「廂間」である。ひさしが両方から突き出ていて、せまいところ、日光のあたらない場所である。「東京は最初から面積に合せて人が多く、又跡からも益々入り込んだ為に、横丁路地木戸どぶ板の生活が盛んであつた」と彼は書いているが、長屋の遠因をさぐれば「所謂雑然たる木小屋の集合であつた」というのである。」

 この「廂間」という言葉、木村荘八の「東京今昔帖」で私は初めて知った言葉だった。荘八は、「廂合」(しやあひ)と書いている。昔の東京では家々が建て込んでいて、廂(ひさし)が重なり合うようになっていた様子を指す言葉である。江戸以来そういった風出来ていたものだが、近代になって境界線を明確にしなければならなくなった時には、争議のタネになったという。昭和初期の震災復興期に立てられた建物でも、長屋造りというのではなくても、壁を共有して繋がった造りになっているケースはよく見掛ける。土地の限られた中で最大限に有効利用しようとすると、そういうことになっていったことは理解出来る。
 江戸市中の町というのも、表通りに面してお店があり、横手の路地から入って行くと裏店という形で長屋があったりというのが普通だった。同じ町内で、裕福な商人と長屋の職人が同居していたわけである。その辺りが、江戸という町の特異性であり、独特の文化などを生みだしていく背景であったという。
 この明治以降の隅田川東岸エリアでの長屋は、表通りのお店がない町のものであり、江戸と東京の違いの一つであるとも言えるだろう。

 「東京今昔帖」木村荘八著口絵より


「たしかに長屋はひあわひの場所にあった。当時、街にはさほど高い建物はなく、ほとんど平屋か二階建て。高くてもせいぜい三階どまりである。いまのピルの谷間のようなものはなく、街はいたって落潜きのある空間をみせていたが、それでもそこにはいるとひんやりとするのだった。子供のとき遊び伸間がいたので、よくそこヘメンコをしにいったことをおぼえている。
 落語の熊さん八っっあんの例をあげるまでもなく、長屋の人たちはいたって快活だった。ときにはだれそれが夜逃げしたなんて話もつたわってきたが、笑いとばしてあっけらかんとしているのだった。しかし失業とか病気となると深刻である。明治以後、工業地帯化した隅田川東部には(いや、東部にかぎらず都市全体の問題でもあった)、つねにそれがっきまとっていた。白河町の同潤会アバートに住む浅沼稲次郎さんは、労働争議となれぱいつも先頭に立って大声をあげていた。父のところにあつまる大人たちの会語のなかによく「浅沼が、浅沼が・・・・・・」と出てきたが、年少の私は内容もわからぬまま、それを耳にしていた。」

 関東大震災後、木造建築は二階までしか許可が下りなかった。その前の時代でも、木造三階建て以上の建物は、それ程数多くあったわけではない。そういった木造家屋が、軒を重ね合って建て込んでいる景色は東京の町場ではごく当たり前のものでもあった。とはいえ、東京旧市街地が震災で焼失してしまい、その後に再建された町はそれまでとは違う街になってしまったことを思うと、隅田川を越えた辺りの方が、最初の方に書かれていたように明治期の共同長屋を踏襲して建てられていた分、町の変化としては少なかったのではないかとも思える。
 そして、名前が上げられているのは、後に社会党の委員長となり、テロの凶刃に倒れることになる浅沼稲次郎氏である。浅沼氏の刺殺事件は私の生まれる前のことだが、彼が長命であればその後の社会党も少しは違った路線を歩み得たかもしれないとも思える。そんな浅沼氏が、彼自身の生活基盤であり、活動の地としてきたのが隅田川の東側であったわけである。それは、労働者が搾取され苦しむ世界の真っ直中であったと言うこともでもあるのだろう。そんな時代から永い歳月が経過し、再び労働者の組織は分断され、孤立し、大きな搾取の対象となる時代が来ているというのも、なんともいえない気持になる。

「労働者の働く現場を写したものに、白柳秀湖の「畜生恋」(明治三十八年)という短篇がある。舞台は本所のある有名な鉄工場で、いかめしい煉瓦づくりの地下室では、六人の職工が石炭の焔と蒸気と煙のなかで単調な作業にしたがっている。彼らは本職工とちがって、その工場でいちばんいやしめられている最下級の労働者だった。近所の木賃宿からかよっているのだが、「十二時間の単調な劇しい労働をする彼等の眼は窪んで頬は落ち、餓鬼の様に青褪めた顔色が、石炭の煙に燻つて居る所は宛然此世の人とは思はれない」と描写する。物語は、工場の監督が十六歳の気立てのやさしい女工を手なづけて、犯してしまうという話である。彼女の存在をあたかも一筋の光明のようにおもっていた職工たちは、その現場で、裏切られた茸もいから彼女に「畜生!淫売!」と罵声をなげかけるところでおわっている。
 この作では工場内の上下関係の構図をとりだしている。職工たちは地方から上京した流浪人、監督は陸軍の元軍曹である。前任者は罷職巡査だった。監督といっても技倆はなく教育もない。資本家は彼らをつかって、駁者が牛馬を鞭うつように労働者を監視させる。元軍曹は二年聞の外征から帰ってきた人である。「社会からドツともてはやされて、暫らくは酒と萬歳の中に、極めて放縦に彼の虚栄心と性慾を満足さして居たが、それも国民の狂熱がさめて、不景気の呼声が漸く高まつて来たのと共に、騒ぎはバツタリ火のきえた様に竭んで仕舞つた」とき、この工場に雇われたというのである。巡査のあとが軍人、資本家はどこまでも智慧者だと作者は書いている。白柳秀湖の社会主義思想の芽生えを描いた自伝的中篇「黄昏」に「三井、三菱といふやうな大資本家は今の世の将軍家だ」という一節があったが、日本の文明開化、産業革命のなかで、旗本から足軽人足にいたるまでの旧制度の感覚はそのままもちこまれていた。下層労働者の現実は悲惨である。」

 初期のプロレタリア文学が描き出している明治期の過酷な工場労働。描き出す側に怒りがあり、社会の不公正を糺していきたいという願いがあった。大資本が、それを支配する家という形で具体的に見えていた時代とも言える。この稿が掲載された頃には、こういった話を読んでも、明治の頃は大変な時代であったものだという、どこかよそ事の気分で、時代が進んで変わっていったことの恩恵の中に我々はいるものだと思い込んでいたような所があったわけだが、それは飛んだ勘違いに過ぎなかった。今では、政府が労働条件をより厳しい方向へ誘導したがる時代となり、企業は極限まで労働者から搾取することが当然という、戦前の状況へと逆戻りを始めたかのような有様になっている。一度は所得分配まで含めて、成果を上げていた日本の社会は、一気にその成果を打ち捨てかつての時代へと時計の針を逆に回し始めているようだ。
 戦後の経済発展の中では、一部の富裕層を優遇するよりも厚みのある中間層を育てた方が安定した消費の拡大も図れるし、社会状況も改善されやすくなるということを実践して見せてきたものだと思うのだが、今日ではそういった考え方は顧みられない。

 隅田川。両国橋より上流方向を臨んだ景色。


「江戸時代、大名の下屋敷とか、休職旗本、御家人の居住地であった本所・深川は、工場の乱立によってどんどんと変わっていった。明治三十年代、ことに日露戦役後の変貌はすさまじいかぎりである。大正大震災のあとも、隅田川右岸は商業地域、左岸は工業地域と指定されたからますますその度合を深めていった。田地はつぶされて煤煙の街となり、労働者の街はスラム化する。それは産業革命以後のロンドンやその他の都市と似ている。本所・深川がイースト・ロンドンの呼称とおなじく、イースト・トーキョウとよぱれたのは偶然ではない。」

 明治期の東京や大阪の変化を追い掛けていくと、工業化というキーワードが必ず出て来る。今日では大都市の中心部に近いエリアに工業地帯が置かれることが無くなっていることや、その大都市の宅地やオフィスビルのエリアが拡大していったことから、東京都区内で工業地域といえる場所を探すこと自体が難しくなりつつある。だが、明治維新から武士が崩壊し、その住居に当てられていた土地が大量に空き地と化したり、江戸時代の因習によって成り立っていた商業が衰退したりといった面もあったし、殖産興業を新政府が旗印に掲げたこともあって、都市の周辺部に工業地帯が最初に設けられていった。それが東京ではこの隅田川右岸であったわけである。隅田川沿いの上流に至るまで、沿岸の多くの場所が工業地として開発されていくことにもなっていく。大阪でも事情は同じで、一時の大阪は工業都市を誇るようになり、工場の煤煙によるスモッグが深刻化するほどの事態にもなっている。

「いわゆる社会文学、社会主義文学の勃興も都市化、工業化と軌を一にしたところがある。日本では自由民権運動の流れやキリスト教的人道主義をとおして、社会問題ととりくんできた。実際上の活動としては窮民救済、施療、教育などもろもろの事業があった。片山潜がアメリカから掃って、明治二十年、神田三崎町に開設したキングスレー館、明治四十年代の救世軍大学、殖民館、有隣園、またのちの小石川隣保館、方面委員制度などにあらわれている。東京の近代化のかげには切実な社会問題がかくされている。
 霊南坂教会の牧師だった留岡幸助は巣鴨や北海道の北見に「家庭学校」をひらいて年少犯罪者の教化活動に生涯をささげた人だが、「基督教と慈善事業」(明治四十三年刊『開教五十年記念講演集』)のなかで、「困つて居る者を放つて置けぱ貧困になるのみならず貧困の極犯罪人となるであらう。然るに此等の者を未だ大した貧困や罪悪に陥らざる前に当りて教育の方法或は生業扶助の手段で救済するのである。或は又貧民の子弟を教育し、又は其他の有効なる方法を以て救済を試むるのである」と書いた。これを建設的、積極的事業とよんでいる。」

 戦前の時代を賛美する風潮というものがあるが、そこで抜け落ちていることが、明治から戦前に至るまで社会の中での貧困という大きな問題を抱えてきたことだといっても良いだろう。これがあまりに大きな問題であったからこそ、そこに手を差し伸べる活動も行われてきている。その始まりが、都市化、工業化とシンクロしてきたものであることが、ここでは指摘されている。そういう意味では、我が国では近代と貧困の救済はセットになっているとも言えるだろう。最も、江戸時代でも貧民の救済は行われていたわけだが、社会形態が変化する中で今日に至る流れの端緒というべきものが始まっているわけである。
 それにしても、明治以来の貧困との闘いで、一時は我々の社会は良いところまで到達していたというのに、この20年というよりは、もっと直近の10年で一気に後退していき、こんなところから戦前の水準へと逆戻りしていきそうになっている。そして、その流れに異を唱えていく者がいないという状況は、明治から戦前よりもある意味では酷い状態になりつつあるのかもしれない。

 明治の工業化というのではないが、それ以前の江戸時代から鋳造業が行われていた跡。そして、化学肥料の始まりの記念碑が並んで立てられている。江東区北砂。


 ちょっと見たところ興味を引く、化学肥料開祖の碑。


「東京市政調査会は、大正十三年度から「後藤子爵記念市民賞」(東京都市計画にたずさわったビアード博士寄贈の塞金により設立)を創設して、真の大都市は市民が共同の善事に対して協力する都市ならざるべからず、との念願から論文を募集し、社会事業への啓蒙をおこなってきた。そこでは東京市の社会事業への批判や改善策が提言されている。
 東京帝大セツルメントが向島で発足したのは、それとほぼおなじ時期であった。大正十二年七月、学生三十八名は南洋群島の研究旅行に出かけたのだが、その帰りみち、彼らは八丈島沖で大震災の報に接した。そこで組織された「学生救護団」が、下町のセツルメント運動にひきつがれていくのである。

 セツルメントという言葉は、戦前からの福祉活動を辿るとかならず行き当たるもの。それが、この関東大震災と絡んだ時期から活動を起こしていったことが書かれている。かつて、東京都には救貧院という施設があった。これは明治維新の直後から始まった歴史を持ち、渋沢栄一の庇護の元でその歴史を積み重ねていった施設である。自己責任論というのも、明治からあったようだが、渋沢は頑としてそういった反対論に負けず、この施設を守り抜いた。この施設、板橋区大山に落ち着いて戦災を越え、GHQからの同意を受けて存続していったのだが、最終的には石原都知事の時代に廃止されてしまった。その敷地に今は、東京都健康長寿医療センターという施設が置かれている。老人医療の問題は大事な問題ではあるが、直接貧困に斃れた人を受け入れて保護する施設を持っていたということ、そして永きに渡ってその施設を守り続けた人達がいたことは忘れるべきではないと思っている。そして、その施設をあっさりと廃止してしまったことも、覚えておくべきことだと思っている。

 今は工場のより地方へと移転していき、マンションを中心とした宅地が進行している。この水路が巡っていたことが、工業化を推進する背景にあった。

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