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沖田畷古戦場跡(おきたなわてこせんじょうあと)




龍造寺隆信供養塔



「沖田畷」とは、何と読むのだろうと思ったのは随分昔のこと。機会があれば訪ねてみたいと思っていた。なぜかと言えば、有馬晴信の援軍として島津家久が参戦していたからだ。家久は、かつて宮崎市にある佐土原城の城主だった。その死は謎めく。天下統一を目指す秀吉軍との戦いの最末期、突然病気で死ぬ。秀吉軍に毒をもられたとか、あるいは身内の島津軍からだとか・・・。その後城主になったのは息子・豊久だ。豊久は、伯父義弘を薩摩に帰さんとして関ヶ原の戦いで討ち死にする。その家久・豊久親子の墓は、佐土原城近くの寺跡の一角にある。私の住まいからは車で10分足らずだ。

家久が城主になる前、日向の国(現宮崎県)は伊東氏がおさめていたが、島津氏との戦いで破れ、豊後(現大分県)の大友宗麟を頼った。その後、島津氏は、1578年(天正6)大友氏と宮崎県中部の高城川の戦い(耳川の戦い)で大友氏を撃破し、九州を制覇するような勢いを持つ。そのような勢いの島津軍の中にあって、主要な役割を果たした一人が家久だ。
島津の戦法に「釣り野伏せ」というよく知られたものがあるが、その戦法にも長けていたようだ。軍を3つに分け、2隊は前もって左右に伏させておき、1軍をおとりとして敵軍と対峙させ、負けに見せかけて後退し、機を見て伏せていた2隊が挟み撃ちするという戦法だ。そのようなこともあり、家久に関心を持っていた。肖像画は、私の知る範囲では無い。

ところで、「沖田畷」とはどういうところだったのか。畷の意味は、田んぼの中の道、あぜ道だのようだ。観光ガイドでは次のように紹介してある。「当時、島原周辺は海岸線から前山の裾野にかけて広大な湿地と深田が広がっており、眉山と森岳城(現・島原城)との間にある道も幅が狭く、沖田畷とはその湿地帯を縦貫する畷であり、交通の要衝でした。」このような場所が合戦場として選ばれたのだ。攻める龍造寺軍約6万人に対し、守る有馬・島津連合軍は約1万。圧倒的兵力の不利を前に、畷に誘い込み龍造寺軍を壊滅させようと策したのは、はたして家久だった。(注:各兵力諸説有り)。

そのようなことを頭に入れて、古戦場跡に行ってみた。行ってみればそこは、周りに田んぼなど全くなかった。国道251号線に面した貨物自動車会社の一角なのだ。国道には歩道脇に「沖田畷古戦場跡」という縦看板があったが、車からは電柱に邪魔され、注意していなければ見落としてしまいそうだった。車を止めさせて頂き、ブロック塀にそって史跡へ。そこには合戦場跡の説明板と龍造寺隆信を供養する石塔が木々に囲まれ静かに立っていた。しばし、沖田畷を想像してみた。当時は胸までつかる程の泥田で、その真ん中にはたった一本の道。多くの武士が泥田の中に命を落としていったのだろうか・・・。その後合掌し、史跡を後にした。畷を思わせる風景に出会えぬままの、あっけない古戦場跡訪問だった。

帰宅後、龍造寺隆信のことを調べてみたら、お墓は佐賀市の高伝寺にあるという。「ええッ、高伝寺!」。随分と昔のことだが、ここには何回も行ったことがあった。沖田畷は想像していた風景とは全く違ったが、なんとも不思議な巡り合わせを与えてくれた。行ってみて始まる「汲めど尽きない歴史物語」となった。それにしても、何とも相変わらず世界各地で争いごとが絶えないことか・・・・。


佐土原天昌寺跡の家久の墓(左端)・豊久の墓(左から2番目)
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