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文禄・慶長の役「島津義弘陣跡」


3月23日玄海原発3号機の再起動の日、ゲート前集会に出かけた。宮崎からは高速を利用してもかなり時間がかかる。玄海原発と宮崎市中心部までの距離は約230km。福島第一原発と東京の距離にほぼ等しい。福島事故で環境に放出された放射能の約8割は太平洋側に流れた。残りの約2割が陸上だ。日本が偏西風地帯にあるためだ。福島事故では東京方面へも放射能が流れた。ある核科学者は、都内で放射能を測定し「濃密な汚染」と表現していた。玄海原発で重大事故が起これば、地元佐賀県や隣接の長崎・福岡県だけでなく九州全域、あるいは西日本全域が、深刻な事態になることは想像に難くない。新規制基準に「適合」したからといって、事故が起きない保証はどこにもない。

というようなわけで出かけたのだが、その帰途、文禄・慶長の役時の「島津義弘陣跡」に立ち寄った。島津義弘の甥・島津豊久は、わが地にある佐土原城のかつての若き城主であり、共に朝鮮へ渡海しているからだ。そのため、一度は訪ねておきたかった場所だ。場所は韓国などからの観光客でにぎわう波戸岬の近く。国民宿舎近くの駐車場に車を止め、少し散策。周辺は陣跡がたくさんあり、案内板には日本語だけでなくハングルも。幾つかの陣跡を訪ね、いよいよ義弘陣跡へ。ここにも結構な駐車場があり、タイルの案内板に陣跡を示す絵があり分かりやすかった。駐車場の正面に入江。ここから船を出したのだろうかと想像。正面に馬渡島(まだらしま)が見えるところだ。佐賀県では最も大きい島だ。名護屋城の天守台跡に立てば、壱岐や遠く対馬もかすんで見えたが、こちらは両方とも長崎県だ。
しばし想いをめぐらし、入江側に降りてみた。半島の入江は千艘隠しとも呼ばれ、この入江もそのひとつなのだろう。秀吉の命とはいえ、朝鮮半島を目指した武士たちの気持ちはどうだったのだろうか。それぞれ家族があり、相手もまた家族があったはずだ。折しも朝鮮半島では、北朝鮮の核開発やミサイルをめぐり緊張が高まっていた時期だったが、武力使用は核戦争にも発展しかねい。頭を冷やし、平和への努力こそ必要だ。帰りの途中からは、再起動したばかりの玄海原発3号機が見え隠れしていた。










この日、再起動したばかりの玄海原発3号機
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