新島襄は日本の宗教家であり教育者。同志社英学校(後の同志社大学)を興した人物で福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人に数えられています。生年は1843年2月12日で歿年は1890年1月23日(満46歳没、数え年48歳になります。)配偶者は新島八重で、NHKドラマ「八重の桜」で注目されましたが、新島襄役をオダギリジョーがやっています。同じ「ジョー」なので配役が決まったのでしょうか?
もちろん生時がわからない鑑定なので不完全さは否めませんが、月柱に印綬死印綬、年柱には偏官病偏印が来る官印両全の命です。印綬は知性を表し、行動的な偏官の下には宗教性を意味する偏印があります。十二運が死、病と内面や精神世界に向く傾向も宗教家らしいです。印星が多いため考えることが多く、根本の世界である神に通じる素質を持っていたことでしょう。また、母親との心情関係も深かったと考えられます。甘党であったことは有名ですが、宗教家ゆえお酒を飲むことが無かったからでしょう。
日柱は丁巳で火は無形世界、霊的世界をも現すので宗教家らしいと言えます。ぱっと見はとっつきにくそうですが、人当りは良く、図太くも見えますが、内面は意外と神経質です。アイディアが豊かで、基本的には学者肌、研究心も旺盛です。学問・技術・芸能で成功率が高い星です。まじめで高い理想を持った人ですが、プライドも自尊心も高いです。日中の十二運が帝旺なので強い人だったと思います。丁は天徳なので、運気も強かったと思いますが、納音が沙中土なので波乱や苦労も多かったことでしょう。
大運が分離や海外を意味する比肩になった元治元年(1864年)、アメリカ合衆国への渡航を画策し、「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かいます。6月14日(7月17日)、箱館港から米船ベルリン号で出国。慶応元年(1865年)7月、ボストン着。慶応2年(1866年)12月、アンドーヴァー神学校付属教会で洗礼を受けました。慶応3年(1867年)にフィリップス・アカデミーを卒業、このときの大運は比肩、流年は劫財と比肩でともに新しい出発を意味します。
明治3年(1870年)に流年に正財が来て財官印がそろい運気は上昇します。アマースト大学を卒業(理学士)。これは日本人初の学士の学位取得。アマースト大学では、後に札幌農学校教頭となるウィリアム・スミス・クラークから化学の授業を受けていました。クラークにとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラークは来日することとなりました。当初、密入国者として渡米した襄であったが、初代の駐米公使となった森有礼によって正式な留学生として認可されました。
大運に偏印が流年には正官が出て官印がそろう、明治5年(1872年)、アメリカ訪問中の岩倉使節団と会う。襄の語学力に目をつけた木戸孝允は、4月16日から翌年1月にかけて自分付けの通訳として使節団に参加させた。襄は使節団に参加する形でニューヨークからヨーロッパへ渡り、フランス、スイス、ドイツ、ロシアを訪ねた。その後ベルリンにもどって約7カ月間滞在し、使節団の報告書ともいうべき『理事功程』を編集した。これは、明治政府の教育制度にも大きな影響を与えている。また欧米教育制度調査の委嘱を受け、文部理事官・田中不二麿に随行して欧米各国の教育制度を調査した。
大運と流年に他からの引き立て、評価表彰を意味する印綬が出てくる明治7年(1874年)、アンドーヴァー神学校を卒業。新島はアメリカン・ボードから日本での宣教に従事する意思の有無を問われると、即座にそれを受託しました。明治8年(1875年)9月、宣教師志願者の試験に合格し、ボストンで教師としての任職を受けました。新島の宣教師として身分は「日本伝道通信員」でした。同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5,000ドルの寄付の約束を得ます。同年11月、横浜に帰着。最初に故郷の上州安中に向かい、三週間滞在。滞在中に、藩校・造士館と竜昌寺を会場にキリスト教を講演。その集会で30人の求道者がでて、日曜ごとに聖書研究会が開かれました。
偏印も印綬も学問や宗教性を意味しますので、この時期は宗教家、教育者としての活躍期と思われます。この時期の明治8年(1875年)11月29日、官許同志社英学校(後の同志社大学)を開校し初代社長に就任しました。
大運に行動力や積極性の意味を持つ偏官が出る時期、明治9年(1876年)1月3日、山本覚馬の妹・八重と結婚。八重とはお互い尊敬し合い仲が良かったそうですが、後にアメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」と綴っています。夫婦というよりも同士のような関係ではなかったかと思えるのです。襄は財星が無いので家庭よりも仕事に生きた人です。明治10年(1877年)には同志社女学校(のちの同志社女子大学)を設立。明治11年(1878年)に信者30人に新島は洗礼を授け、安中教会(現、日本基督教団安中教会)を設立しました。
大運と流年に食神が出て食傷星が溢れる時期ですが、明治22年(1889年)11月28日、同志社設立運動中に心臓疾患を悪化させて群馬県の前橋で倒れ、神奈川県大磯の旅館・百足屋で静養するが、回復せず翌明治23年(1890年)1月23日午後2時20分、徳富蘇峰、小崎弘道らに10か条の遺言を託して死去。この年は流年が正財ですが、財を剋す印星が5つ以上溢れます。財は身体を意味し急性腹膜炎で死亡しました。襄らしい最期の言葉は「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」でした。
心臓が悪かったことから、火に星が多かったのではないかと考えます。短命であったことから、晩年や寿命を意味する時柱は比肩星(比肩や劫財)の可能性もあります。時柱が劫財だと火が4つ半くらいになります。密航して海外に行くくらい大胆に行動する人なので劫財かも知れません。劫財の十二運は建禄ですし、先導力があり、やり手で欲望も強くなり、大風呂敷となります。
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