男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

鉢の木物語の神社を訪ねる

2009年10月06日 | その他
高崎市内の住んでいながら、佐野源左衛門常世(さのげんざいもんつねよ)神社を訪れるのは初めてでした。驚くほど小さい神社でした。昔ここに佐野源左衛門常世が住んでいたわけです。感動的な話なので長文になりますが、紹介いたします。

源左衛門は能の演目『鉢木』の登場人物であるがこれは鎌倉幕府執権だった北条時頼が康元元年(1256年)に病でたおれ、出家したときに自らの地位を隠し諸国を旅したことが記されている太平記や増鏡を元にしたものだとされる。

鉢の木物語 (下記のホームページから)
http://s42masa71.ld.infoseek.co.jp/tour/furoku/hachinoki.htm

ある雪降る日の夕暮れだった。
1人の粗末な身なりの旅の僧が上州佐野(高崎市佐野町?)にやってきた。
あまりの寒さに一晩の宿を求めようとしたが、辺りは家もまばらでなかなか宿が見つからなかった。
やっと一軒のあばら家を見つけ宿を頼んだが「あいにく主人が留守なので・・・。この先に山本という宿場がありますのでそこで宿を求められては如何でしょう。」と断られてしまった。
しかたなく旅の僧はまた雪の中を疲れた足取りで山本へ向かい歩き始めた。
その後ろ姿を見送っていた婦人は宿を断ったものの気の毒に思い、主人に事を告げるため迎えに出て行った。
そのとき雪を打ち払いながら家の主人が帰ってきたので、早速婦人は主人に旅の僧のことを告げ「この時間にあの疲れきった足取りではとても日のあるうちに山本へは着きますまい。途中で凍えて倒れてしまってはあまりに気の毒です。一晩だけでもお泊めしてはどうでしょう。」というと、主人も心を動かされ僧の後を追いかけた。
しばらく行くと降り積もる雪の中で疲れ果てたたずんでいる旅の僧に出会った。
「旅の方、なにもおもてなしできないあばら家でございますが一晩お留めいたしましょう。」
主人はやっとのことで旅の僧を伴って家に帰り着いた。
「見ての通りのあばら家ですが雪風を避けることはできましょう。食べることにも事欠く始末でなにもおもてなしできませんが、ありあわせの粟粥でよければ差し上げようとおもいますが。」
僧は喜んで粟粥を食べ、腹が満たされるに従いいくらか元気になってきた。
3人は囲炉裏の周りで食事をしていたが、夜が更けるにつれ次第に火が落ちてきた。
戸の隙間から入り込む隙間風は身を切るように冷たかった。
「冷え込んで寒さが身にしみますが、あいにくと囲炉裏にくべる薪がありません。しかし、今日はせっかく旅の方が泊まることになったので、盆栽を焚いてせめてものもてなしといたしましょう。」
見ると部屋の片隅に見事な松・梅・桜の鉢植えがあった。
「お志はとてもありがたいが、そんな見事な鉢植えには滅多にお目にかかれるものではありません。せっかくですが思いとどまられるよう。」と慌てて止めようとしたが、主人は僧の言葉に耳を貸さず鉢植えの盆栽を3本とも切って囲炉裏にくべてしまった。
旅の僧は主人の厚意に感謝しつつ名前を聞いたが主人は謙遜して答えようとしなかった。
「お見受けするところ貴方は只者とも思えません。このような生活をなさっているには何か訳があるのではありませんか。」と重ねて尋ねたところ「それほどまでおっしゃるならばと主人は自分の身の上話をはじめた。
「私は佐野源左衛門常世と申し、もとは佐野とその近郷30余ヶ村の領主でしたが、一族の者どもに所領を奪われ現在では落ちぶれてこのような始末となってしまいました。しかし、このように落ちぶれてはいても私も関東武者の端くれ、具足も刀も馬も手放してはおりません。いざ鎌倉という時には傷ついた具足に身を固め、錆付いた刀を持ち、痩せ馬に打ち跨って真っ先に幕府の大事に駆けつけて敵の大軍に切り込み一番槍の手柄を立てる所存です。」
一言一言に覚悟を込めた話に、涙を浮かべながら感動の面持ちでじっと聞いていた僧は翌朝主人に暇乞いして、また旅立っていった。
やがて雪は消え春になってある日のこと、突然鎌倉より関八州の御家人は一族郎党を連れ鎌倉にすぐさま集まるよう御家人召集の沙汰が伝えられた。
佐野源左衛門常世はついに待っていた時が来たと鎌倉に駆けつけた。
やがて幕府より沙汰があり、先の執権最明寺入道時頼の御前で各地の御家人が一同に会した。
やがて話は進み各御家人が時頼の御前で親しく言葉を交わしはじめたが、やがて順番がやってくると佐野源左衛門常世も煌びやかな具足を身にまとった御家人達の前に進み、みすぼらしい出で立ちながら少しも悪びれた様子も無く御前でかしこまった。
「おお、佐野源左衛門か。いつぞやは大雪の日に大層世話になった。あの時の言葉に違わず、真っ先に鎌倉へ馳せ参じたるは感心の至りじゃ。さて、お主が一族の者どもに奪われた所領に関して、理非は明らかじゃ。よって佐野30余郷はお前に返すものとする。また、雪の日に秘蔵の鉢の木を切ってもてなした志はまことに天晴れ。なによりの馳走であった。よってその時の返礼として加賀梅田、越中桜井、上野松井田をお前に授ける。」
あの時の僧が先の執権であったことに驚き顔を上げることもできない源左衛門をそのままに、時頼は更に一同に向かって「御家人の中に訴訟のある者は遠慮なく幕府に届けよ。理非を正して公平に裁くであろう。」と言うと、一同は謹んでかしこまった。

日本家系調査会

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