夢色

集めてるもの 見たもの 書きたいものを 思いついた時に。
基本ネタバレ注意。
火月 神の気まぐれ よろずメモ。

<燃えるように生きて、貴方は生きて。 ~京都旅行2日目 その1>

2020-06-16 | Travel

昨日呑み過ぎたのもありますが、でも朝は割と何とか起きられて、むぎを一旦出した後もう一度お留守番してもらい(笑)朝ご飯を食べに食堂へ
 京都京北町の牛若納豆というのに惹かれてご飯取ってテーブルに戻ったら、このデカいスクランブルエッグプレートが到着してた
プレート付いてるなら先に言って~
お腹いっぱいになっちゃいました

今日もピーカン暑い日になりそうです  
本当は今日も自転車借りようと思ってたけど、サドルに当たるとこが打撲みたいに痛すぎて断念・・・歩ける距離なのでテクリングで頑張ることにしました
今回の目的は、まだ行ったこと無かった壬生周辺を散策することです。
まずは壬生寺に向かう前に手前のお寺から、と思っていた・・・のですが、ここで必殺☆方向音痴が発動し、思っていた道と1本違う通りを歩いてて、いつの間にか壬生寺の前に出てきた(笑)  あれ?ってきょとん(笑)

 「壬生寺」へ到着。  
 夜啼き地蔵。  中院。
 本堂と千体仏塔。  御本尊は延命地蔵さん。一度消失して、唐招提寺からお迎えしたそうです。
納経所にはたくさんの鳩さんも居ました。  この小枝が気に入ったみたいでずっと咥えて持ち歩いていた(笑)  ぺそーん。の子。
    
境内は広くて、ここで総司さん達も遊んだのかなぁって

 阿弥陀堂の中に、壬生塚があります。
拝観をお願いすると、入れます。    壬生官務家墓塔。
 「あゝ新撰組」の歌碑。  総検校 墓碑。  壬生寺歴代住職供養塔。  誠桜。 
 百度石。本当はこれより先に車の乗り入れは禁止されていたのに、新選組は気にせず馬で乗り入れてたらしい(笑)
 人丸塚。柿本人麻呂の灰塚らしい。 
  新選組慰霊塔。  新選組の顕彰碑。  裏側には局中法度が書かれていました。
 近藤勇の胸像。  近藤勇の遺髪塔。  芹沢鴨と平山五郎の墓と、隊士7名の合祀墓。  河合耆三郎の墓。
平日なのでお客さんも私だけでゆっくり見ることが出来ました。  
阿弥陀堂の中には阿弥陀さんや、壬生寺の資料などを見ることが出来ます。

 納経所の隣にある明星桜。夜間、樹下で火を焚いて眺めると花びらに火が映えて、明星のようであるというのが由来なんだって。
その名を貰った松栄堂さんの「明星桜香」が、とても華やかな香りだったので購入  
 ほかに、ドリップ珈琲と、新選組のイラスト入りの京都の地図。そしてすごく悩んだんだけど、今年復刻された歳さんの御朱印帳を頂きました。
寺社の御朱印帳とするには刀で縁が切れると困るから、まだ使わないの~
御城印帳にしようかなぁ。。。焦らずに考えます(笑)
・・・・・・歳さーーーんっ!!!(落ち着け)
あぁ・・・五稜郭に行きたい・・・会津にも・・・日野にも・・・うぅ・・・

 いつも壬生狂言が行われる舞台。   ゆっくりと出来て、良かったです
ここらあたりも町家スタイルが残っています。  


テクテク歩いて、もう一つの目的地「八木邸」へ。 
 今は一角には和菓子屋さんの「京都鶴屋」としてお店を出されています。
15代当主の八木喜久男さんが和菓子職人さんだったそうです。

店頭で見学をお願いすると中に入ることが出来ます。
  お家の中は写真NG。
そしてなんと、いつもならガイドさんが説明してくれるのですが、今はコロナで派遣されなくて、でも閉めるには忍びないということで・・・まさかの15代当主が御自ら案内してくださいました!
御年82歳
同じ話をずっとお客さんが来るたびに繰り返ししないといけないから、本当に大変そうでした
お話の内容を載せたらマズかったら消すけど、自分メモで残したいので一応書いちゃいます。
あ、耳学問だから、正確性については保証しないよ

・壬生について:
「水」が訛って壬生になった。壬生は水がとても綺麗な土地。あの(門のところに掛かっていた幕のように)浅葱色は綺麗な水の色。
あの色は壬生郷氏が何か行事の折に使う色だった。だから、死に装束の色ではない。「死に装束として、あの色を選んだ」と言った(世間に広めた)方は、ここに取材に一度も来ていない、と笑ってた。
羽織のデザインは忠臣蔵。

・新選組誕生について:
浪士組は、京都に来たは良いけどすぐに東に帰ることになって、帰って行った。最初は140人くらい居たけど、芹沢と近藤たちは帰らんいう事で、結局13人になった。
それを預かってくれということで、壬生郷氏を取りまとめていた八木の家に預けられた。えらいこっちゃな話やったけど。
残った近藤たちがどうしようかということで、会津藩のお抱えになれるようにお願いに行った。芹沢自身は水戸の天狗党、つまり武士の出身で、近藤たちは農民出身。芹沢は、自分たちのほうが身分が高いということで、会津藩の所に言いに行った。
文献には何度お願いに行ったかなど書いてないけど、多分何度も行って、ようやく念願叶ったという事だろう。それも普段着で行くわけにいかないから、行事が多くて裃などが揃っていた八木の家から貸してあげて、それを着て、芹沢と近藤、新見で行ったらしい。
何度か行って、とうとう新選組の名前を貰ったときは、そら偉い喜びようだった。八木の家のどこかにあった板戸の表を削って「会津藩お預かり 新選組」と書いて、門に立てかけて喜んだ。
それが新選組が出来た瞬間。
その後、局中法度が作られ、揃いの羽織が出来て、「誠」の旗が出来た時はそりゃまた喜んで大騒ぎやった。門の出た所で、隊士たちが喜んで旗を順繰りに何度も振ってたそう。
だから、浪士組から新選組になったとか言われるけど、それは違う。
新選組が出来たのは、芹沢たちのおかげ。

・芹沢暗殺について:
もともと芹沢は武士の出身だから、結局、局中法度も近藤のこともなめてたいう事なんやろう。あまりに好き勝手するようだと示しがつかんし、会津にもう新選組は解散だ、と言われると困るし、で、暗殺する運びになったんじゃないか。
それでも芹沢は相当な手練れだったから、島原でべろべろに酔わせて、八木家の玄関に上がれないくらいに酔ってて、それに加えて近藤側近の手練れ5人(歳さん、永倉新八、原田左之助、総司さん、山南さん)を送り込んだということは、もう万に一つも失敗したらいけない襲撃だった。
芹沢、平山五郎、平間重助、連れの女3人(うち一人はお梅)の計6人で帰って来たけど、女と平間は気付いたら居なくなってて、結局芹沢と平山とお梅が死んだ。

その夜は、3代前の大おばあさんがたまたま八木邸に来てて、そのまま遅くなったので夜泊まることとなり、芹沢の隣の部屋に寝てた。
秋口なのに梅雨みたいにジメジメムシムシして寝苦しい夜だったから、大おばあさんはなかなか寝付けなかった。
そしたら庭に人の気配がして、「あれ?芹沢たちは帰ってきてるはずなのに変だな」と思っていたけど、しばらくしたら気配が無くなったので、そのまま寝入ってしまった。
多分その時、芹沢たちが寝てるかを偵察に来ていたんだろう。
大おばあさんが寝てたら、隣の部屋で悲鳴が上がって、斬り合いになっていた。
芹沢はやっぱり手練れだから、部屋でもだいぶん斬り合った様子。天井にたくさんの血が飛び散っていた。喜久男さんのおばあさんが嫁いできた時もまだ、うっすらと血の跡が残っていたくらいに、血が染みていたらしい。
芹沢は縁側へ逃げた時に、下げてた簾が身体に巻き付いて身動き取れなくなった。その時、突きの剣の天然理心流で、だいぶと突かれたらしい。朝にはその柱のところの下の庭に簾が落ちていた。
隣の部屋(大おばあさんが寝ている部屋)に入った時に、文机がちょうど入り口にあって、それに蹴躓いて芹沢は大おばあさんの上に倒れ込んで、絶命した。大おばあさんは芹沢が降ってきた!って言ってた。

翌朝の壬生は、蜂の巣をつついたような大騒ぎ。でも内輪揉めだとばれるといけないから、薩長がやったということにした。
そして近藤が盛大なお葬式を行った。八木邸から壬生寺を通り過ぎた100m程離れたところに共同墓地があって、そこに埋葬された。
豪華なお葬式の行列にしたから、先頭が合同墓地に着いても、まだ一番後ろの隊士は八木邸に居たくらいの大掛かりな行列だった。それが近藤が芹沢を大名として送る気持ちだったのかと。
芹沢と平山が頭を突き合わせるようにして埋葬され、その頭の真上に墓石が置かれた。今は合同墓地から壬生寺の中に墓石が移されてしまったけど、あれは上の碑だけ。
朝に芹沢の遺体を動かそうとしたら、胴体と頭はもう離れていた。なのにくっついているように綺麗に首が置かれていたということは、近藤たちが芹沢を武士の最期としてやりたかったという気持ちなんじゃないか。
近藤は会津藩お抱え、旗本、というのを強く意識していたようだ。だからやっぱり芹沢の最期について武士として送りたかったんじゃないか。

・池田屋事件の日:
八木邸には芹沢たちが住んでたけど、近藤たちは旧前川邸に住んでた。
昔の八木邸は、今の2倍くらいの広さがあって、和菓子屋があるあたりまで八木邸だった。その向こうに道場みたいなのがあって、西本願寺に屯所を移すときにその道場をたたんで持っていった。だから、稽古は庭とかでもやってたんじゃないか。

池田屋事件の日は、いつもなら新選組は隊列を組んで見回りに出るのに、その日に限って朝から三々五々にチラホラちらほら隊士がバラバラに出て行くから、近所の人は「何か今日は変やなぁ」って思ってたら、その日の夜に池田屋事件があった。
それで壬生はまたしても大騒ぎ。隊士たちは死者は出なかったものの、板戸に乗せられて血みどろになって皆帰ってきた。

・油小路事件:
伊東甲子太郎を暗殺したあと、新選組ちゅうのは怖いもんやね。死体をわざと放っておいて、それを取り返しに来る仲間まで殺した。
その中には、新選組を一緒に作った藤堂平助も、最後新選組によって殺された。
喜久男さんのおばあさん?お嫁さん?がこの油小路事件の近所に住んでて、この事件の夜はあの一帯の住民はもう恐ろしゅうて仕方が無かった、と。
暗殺された日に、玄関の扉をドンドン!って叩いて、助けてくれ!って呼ぶ声が聞こえた。でも怖いから開けることが出来なかった。翌朝出てみたら、板戸に血糊が付いていた。
伊東甲子太郎が暗殺されて遺体が放置されているから、それからしばらくはもう何が起きるか戦々恐々としていたらしい。

・新選組の隊士について:
新選組は、壬生の人間に悪い事は一切しなかった、と何度も強調してた。
何か八木邸でやる時は、隊士が皆でお手伝いしてくれてたし、八木邸に出入りしていた方の別嬪な娘さんが誘拐された時は、隊士たちが高下駄を放っぽりだして走って追いかけて、取り返してきた。

まぁ、屯所が西本願寺に移った時は、八木家の御当主(源之丞)は「はぁ、すっきりした」て言うたらしい(笑)
お酒もいっぱい呑むし、むさくるしい男たちがいっぱいおったから大変やったんじゃないか。
物を貸しても壊されるし、またそれをそっと黙って置いて返されてたという!!!(笑)
だけど、壬生の人間、八木の人間に乱暴狼藉を働いたいう事は一切なかった。って繰り返し強調してはった。

家の奥が庫裏みたいな おくどさんがあって、その隣は今は八木家の皆さんの住居になってるんだけど、昔は30畳くらいの板間になってて、八木家に出入りする人たちがご飯食べたりしてた。大勢の人が出入りしていたし、自分のやることをそれぞれがやってご飯食べてたから、一家団欒という時間はなかった。
そのおくどさんの土間のところに、酒樽がいっぱい積みあがっていた。西本願寺に屯所が移った後も、隊士たちは「懐かしい懐かしい」言うてちょくちょく遊びに来てた。
というか、呑みに来て、ごっそーさんて言って帰っていってた(笑)
だから、普段の隊士は、何と言うか、田舎の方から出てきた気のいい若者らと、その若者らをしゃーないなぁという感じで見ていた八木家の人たち、というような感じだったんかもしれん。
私がそういうと、しみじみとそうかもしれんねぇと話してはりました。

・屯所を西本願寺に移した話:
屯所が西本願寺に移ったのは、屯所が手狭になったから、と言われてるけど、多分そうじゃない。
あの時代の流れで、壬生屯所の周りの情勢が危うくなってきたので、どこからでも攻撃しやすい田んぼの真ん中のこの屯所より安全な西本願寺へと移動させた。
その話は、子母澤寛の取材に応じたのが八木為三郎さん(当時は子供)だったけど、その後で為三郎さんが毎日新聞に寄稿して、その時の新聞の切り抜きがこないだ綺麗に出てきた。世の中のどこにも出してない資料。

・新選組の最期:
近藤は伏見の戦いの前に狙撃され、その後どの戦にもちゃんと参加できなかった。新選組は伏見から、大坂城、そして江戸へと戻る。その大坂を出た時点で、実質的に新選組は終わったということ。
近藤は甲府城を取りに行ったけど官軍がいて、そこで結局偽名を使ったけど捕まり処刑された。でも旗本になっていたということで、もともとの「旗本になる、武士になる」という夢があった事から、ある意味彼の本懐だったんじゃないか。
幕府側がどんどんとやられて、江戸に向かう時にはもうある程度先が見えているということで、彼としては達観していたんじゃないだろうか。
歳さんと2人一組でずっと動いていたのに、結局そこで別れたという事は、考えることがなんか違ったのか。そこの2人が別れたということは、もう。

新選組が壬生に居たのは大方3年程度。歴史の中でたったの3年という短い時間だったけど、おそらく新選組が一番輝いていた時代だったろうと思う。
優しくもの哀しい遠い眼をして、ぽつりと言われました。
私も本当にそう思う。
一番活躍して、一番憧れと恐れをもって、一番と隆々としていた時代だったと思う。
その後の結末を思うと、胸が苦しい。

・刀傷は自分が子供の頃はもっとくっきりして、木肌も白かったのに、公開が始まって皆が触るからドンドン汚れて溝が浅くなってしまった。
もともとこの周りには建物が何もない所だったから、庭から二条城がまっすぐ見えていた。
大文字焼きの時には、この縁側に寝転んで大文字焼きを眺めてた。

家の建物自体は、仮普請の状態でお金が無くなったから、そのまま残ってる。その設計図も残っているから、今となってはその時代の貴重な資料。
でも保存対象だから釘一本打つことが出来ない。修理するのも出来ないから・・・。

八木家のお葬式があった時には、芹沢が受付を手伝い、帳面に名前を書いていた。総司さんや新八さんの名前が書かれたパネルがありました。


他のお客さんが帰った後、新しい人も来ないし私一人でゆっくり観させていただき、お話させていただきました(笑)
家を継ぐこと、歴史を繋いで行く事。
壬生の郷氏として、また朝倉から繋がる八木家として誇りを持っていらっしゃるのが感じられて、こういう 家を繋ぐことへの矜持って今の時代の人はあまり思わないのかもしれないけど、でも大事なものだと思いました。
長男という事で、親には次男三男よりも大分厳しくされたけど、でもそれが家を継ぐいうこと、長男ということ。そうおっしゃってました。
だから自分も息子や孫には小さい頃からきつく躾けて来たし、人の請け判は絶対押したらいかん言うのをずっと言い聞かせてきた。多分分かっとると思うけど、って。
他所から入ってくるものや、薄まる事が悪いばかりではないけど、、、やはり責任の分散は防がないと行けないし、守るべきものを守るために、繋いで行かないといけないものってやっぱりあると思うから。
主語を広げると、日本という国土を守るために、ね。

旧前川邸の次記事にもありますが、マンションがこんなところに建つなんて。ダンプカーなど入ったらお客さんも来なくなるし、周りの空気、時代を合わせてすべてが歴史なのに。
大手の会社だから、結局はお金いう事なんかな・・・と悲しそうでした
私も悲しい・・・だから、ご興味があれば、ぜひ署名の御協力を。→詳細はこちら。


最後は一緒にお写真を撮っていただいちゃいました。
歴史を直接伝えてきたかたの重みって、大事で、これからも伝え続けて行かないといけないと思います。
いつまでもお元気で~!

 お店では、屯所餅とお抹茶を頂き、  カッコいい御朱印帳袋をゲット
浅黄色と悩んだけど、壬生寺の御朱印帳は浅葱色だし、普段の隊士の恰好は黒色だったし、黒地のほうが文字が映えるから、黒に決定


立場が違えば正義も違う。
でもあの時代は、皆が国を思い、信じるもののために戦った。
今とは全然違う。
判官贔屓があるのかもしれないけど、私はいつも、新選組にはロマンと信念と、やっぱりカッコよさを感じます。
隊士たちの凄腕の部分と、素の若者の部分と、そしてもちろん暗い部分と。
一人一人にエピソードが立ってるところも惹きつけられるんだろうなぁ。
ようやく来れた壬生。
幸せな時間を過ごしました
その2に続きます。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿